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 <1>

 その二人の男は南部の町ミューンから来た行商人だった。月に三回ほどオットーハイム領にある村々を回って頼まれた必需品を届ける。

 生活雑貨から日雇い人の手配までそれこそ売らないものはないといっていい。男達はくたびれた二頭の馬に牽かれた荷馬車の御者台で手綱をぼんやりと握っていた。

 山間部のため勾配が多く、また積荷もたくさんあるので荷馬車を牽く馬は激しく喘いでいる。町から山間部に深く分け入り辺りは鬱蒼と生い茂った木々に囲まれて鳥獣の鳴き声しか聞こえない。

 やがてさらに山の奥深く陽光があまり届かない一帯に入った。すると鳥獣の鳴き声が急にぴたりと止み山々がごうごうと鳴った。

 二人はこの辺りを通ったことがあったので最初は気にも留めなかった。だが辺りがいつになく暗く鳥獣の声がまったくなくなったことに不安を覚えた。

 若い男が場を明るくするように笑って傍らの年老いた仲間に話しかけた。

 「知ってるか、爺さん。なんでも数週間前この辺りで魔物が出たとか出ないとか。大騒ぎになったんだとよ」

 年寄りが眉をひそめて言った。

 「魔物?そいつはどんな顔してんだ?」

 「そらぁ、あんた。魔物様だ。恐ろしげな顔しているに決まっている」

 「山の衆は迷信深いからな。獣かなんかを見間違えたのと違うか?」

 若い男はそう言われてなるほど、その通りかもしれないと思った。奥深い山では自然を崇拝する風習がある。

 木に岩に山に神が宿っていると祈りを捧げる。そういう生活をしていれば確かに自然の何かを魔物と見間違えてもおかしくはない。

 そう思うと辺り一帯が不気味に静まり返っているのもなんでもないように思えた。

 「そだな。きっと村の衆は何かを見間違えたんだな」

 二人で笑っていると急に馬が足を止めた。若い男が訝しげに馬を見た。馬は足を止めたばかりではなく怯えたように後ずさりしたがっている。

 「どした、おめぇら?しっかりしろ」

 手綱を振るった。だが馬はイヤイヤするように首を振る。年老いた方がふと馬越しに前方を見た。山道は両側からのしかかるように枝が伸びているので薄暗くあまり見通しがきかない。

 さらに目を凝らした。すると前方の暗がりに二つ何かが光った。さらに「ぶふ〜っ、ぶふ〜っ」という荒々しい息遣いも聞こえる。

 「ま、まさか・・・」

 二人は恐怖に体を竦ませた。すると闇の中からずんぐりとした黒い影が吐き出された。幻覚ではない。

 その証拠にそれは足を動かして突進してくる。

 「出たぁ!」

 二人は御者台から転げ落ちるようにして降りて後方に駆け出した。数秒後に馬の悲鳴が聞こえた。


 セイジは手のひらを見た。血だらけだった。いつの間にかまたまめが潰れたようだ。ハンカチはさっき別のまめが潰れた時、血を拭ったのでもう使えなくなっている。

 シャツを脱いでそれで血を拭った。木剣を振る毎日。まめができては潰れてまたまめができる。そうやってまめは次第に固くなっていくと聞いている。

 だからたいして気にならなかった。岩は依然としてそこにあった。悪魔の顔と呼ばれた岩。実体なきものに対する恐怖はあった。

 だが魔物に対する強い気持ちが恐怖にうち勝った。この程度で死ぬ命ならそこまででいい。誰も悲しむものはない命だ。

 最初は警戒して打ち込んだ。やはり恐かった。木剣の先が急に折れ跳ね返ってきて自分に突き刺さるのではないか。

 急に頭上から岩が落ちてきてぺしゃんこになって死ぬのではないか。恐怖と妄想が頭の中を絶えず行き来する。

 また深山特有の雰囲気も恐怖を引き起こした。白く濃い霧がいつの間にか湧き出てきて周囲を取り巻いて見通しを悪くする。

 深い森に閉ざされているため陽光が届かず時間の感覚を狂わせる。岩を打つようになってから悪夢にさいなまれるようになった。

 食欲がなくなってげっそりと頬が欠けた。医者でも原因不明の微熱が続いた。そんな岩との対峙が続いた、ある日のことセイジは裏庭で我慢できなくなったように絶叫した。

 「駄目だ!これでは駄目だ!俺は一体、何をやっている!」

 その日から館に戻らず裏庭に天幕を張ってそこに寝泊りした。館の者はいよいよセイジの気が触れたかと噂した。

 だがセイジはそんな雑音を気にしなかった。弱気の虫にとりつかれ稽古を及び腰で何十年何百年、続けてもなんの意味もないと悟ったからだ。

 殺すなら殺せ、そういう気になった。無心で岩に木剣を打ち付けた。すると不思議とそれ以降、悪夢も妄想も微熱も無くなった。

 やはり強い気持ちで臨めば怪力乱心といえど退散するのだと自信を深めた。そしてそういう時にシイプがふらりとやってきた。

 シイプには訓練の邪魔になるのでなるべく見に来ないようにと言い渡しておいた。セイジはシイプが後方で自分を見ているのに気づいていたがあえて無視した。

 無心で岩に木剣を振り下ろす。そしてどのくらい時が流れただろうか。猛烈な打ち込みによって息は上がりまたまめが破れて手から血がしたっていた。その時、声がした。

 「セイジ様。少しお休みになられたほうが・・・」

 シイプがいたのをすっかり忘れていた。見向きもせず言った。

 「まだまだだ」

 「この数日間ほとんどお休みになっておられないではありませんか」

 「村にいつ魔物が現れるかわからん。悠長に剣を振るっていられるか。一刻も早く魔物を一撃で倒す技を完成させねば」

 「無理は禁物といいます。お体に触ります」

 ふと違和感を感じた。シイプは他の者とは違い、セイジの魔物退治に賛成してくれてこれまで協力を惜しまなかった。

 それがなぜ急に稽古を止めて欲しいという口ぶりになったのか。ふっと閃いた。そうか、あいつの差し金か。

 溜息をついて振り返りシイプをじっと見つめた。するとシイプは目をそらし、ばつが悪そうにしている。

 「ふん。今日はやけに食い下がると思ったらやはり父上の差し金か。ここなら誰にも見られないし剣をいくら振っても迷惑はかからんだろう。そう父上に申し上げてくれ」

 セイジはそうそっけなく言うと岩に向き直った。するとシイプの気配が近づいてきた。

 「下がっていろと言っただろう!」

 憤然と振り向くとシイプがセイジの手を取った。そして無言で手に包帯を巻いてくれた。セイジは逆立っていた気持ちが和らぐのを感じた。

 「もう何も申し上げません。好きなだけおやりになってください。お館様には私から申し上げておきます」

 セイジは胸に暖かいものを感じて素直に言った。

 「・・・すまんな」

 いつもシイプにはかばってもらっていた。解雇される危険を顧みずシイプは一人、セイジを擁護し続けてくれた。

 この人には恩義がある。口にこそ出さないがセイジは感謝していた。だが今は訓練に集中しよう。後もう少しなのだ。

 もう少し木剣を岩にぶちこめば何かが起きそうだった。もう何日も剣をぶち込んでいる。だがこの世で一番硬いと思えるほど岩は堅固だった。

 無言でセイジの前にたちはだかっている。ともすると手の痛みと岩の圧力で気が萎えそうになる。だがそんな時は木剣をきつく握り直した。

 なんの。たかが岩。たかが魔物。俺は王国一の剣士になる男だ。こんなところで足踏みなどしていられるか。

 最初はいい養子の口を求めるために剣を握った。だが今では王国一の剣士になるのが目的となっていた。

 「せいっ!せいっ!せいっ!」

 木剣が何度も振り下ろされる。時を忘れた。寝食を忘れた。己が何者なのかも家族が自分をどう思っているのかも忘れた。

 そしてとうとうその時がやってきた。突然ビシリッという鋭い音が聞こえた。我に返って岩を見た。僅かに亀裂が入っていた。

 ここか!セイジはぱっと下がって距離を取った。そして木剣を脇に構えて突進してその亀裂目掛けて全身全霊の力で突いた。

 「くわぁ、らああああっ!」

 するとどがっと剣の中ほどまで岩の亀裂に突き入った。すかさず剣をねじって抜いた。岩の内部で何かが砕ける固い音がした。

 セイジには岩の断末魔の叫び声のように聞こえた。喘ぎながら剣を引いて岩を凝視した。すると少しして表面に蜘蛛の巣状に無数の亀裂が入りやがて轟音を立てて山肌から岩が崩れ落ちた。

 セイジはしばらく呆然と岩の残骸を見ていた。

 「やった・・・俺はとうとう・・・やった、のか?」

 「とうとうやりおおせられましたな」

 振り返るとシイプが笑みを浮かべて立っていた。そして着替えを差し出して言った。

 「お急ぎください。魔物が現れたようです」


 空掘と三重の柵の内側でかがり火が焚かれていた。その近くを武器を持った村人がものものしい雰囲気で通り過ぎていった。

 その雰囲気に恐れたのか森の生物は村にめったに近づかなくなった。聞こえる音といったら遠くの森で野鳥の鳴き声が時折、聞こえるくらいだ。

 三日前、町の行商人から近隣の山で魔物目撃の報がもたらされた。村は騒然となった。既に備えは万全にしてあったものの、心の中では誰もが来ないでくれと願っていた。

 だが近隣に現れたとなると一番近いこの村に現れる公算は大きい。村を巡回する警備の人間を二倍に増やした。

 かがり火のもと森を見つめる村人の表情は緊張していた。警備の人間は若者と壮年の者が多かったが中には老人もいた。

 老人は彼らの緊張を少しでも和らげようとして言った。

 「おんめぇら、そんな四六時中、気ぃ張ってたらもたねぇぞ」

 壮年の男が苦笑して言った。

 「確かに爺さんの言うとおりだな」

 そして若者と老人に言った。

 「おい。おめぇ達。ここはおらが見てっから少し休んで来い」

 すると若者が危惧したように言った。

 「あんた一人ん時に魔物が現れたらどうするだ?」

 男は笑って言った。

 「女子みてぇに叫んで助けをよぶだ。まぁそう固くなるな。魔物が必ずここに来ると決まったわけじゃね」

 その時、老人が「あわわっ!?」と言って尻持ちついた。どうしたぁ?とその視線の先を追えば森の中に二つの光点が光っている。

 若者は恐怖に固まったが壮年の男はすぐに叫んで村に急を告げた。

 「出たぞぉーっ!魔物だぁー!」

 森の中でガサガサと音がした。そして森の闇は黒い大きな物体を生み出した。それは空掘を難なく飛び越え三重の柵をものともせずぶち破って中に入ってきた。

 「ぶふうぅぅぅ〜〜〜」

 魔物が鬨の声を上げるように天に向かって低い声で鳴いた。そしてその黄色く邪悪な目が慄く村人を貫いた。

 <2> 

 セイジは城館から馬を飛ばしてアルム村まで急いでいた。シイプの受けた報告では魔物が目撃された山道から最も近い村はアルム村だという。

 ならば近日中に魔物が現れるとしたらアルム村以外はない。そう聞いたセイジは食事を慌しく取って一昼夜かけて村まで急行してきたというわけだ。

 辺りはもうすっかり夜の帳が下りていた。僅かな月明かりを頼りに狭い山道を急ぐ。途中、崖や悪路があるので夜間の通行は禁止されている道だ。

 だが急いでいるので敢えて危険を冒した。月が徐々に昇っていき気づいた時には中空に浮かんでいた。

 魔物はまだ現れていないかもしれない。村に着いたはいいものの、平和に寝静まっているかもしれない。

 だがそれならそれで村長の屋敷に泊めて貰えばいい。技は完成した。後は魔物を待つだけなのだから。

 やがて山道の先に小さな灯りが見えてきた。シイプから聞いている。アルム村では今、夜間でも警戒してかがり火を焚いていることを。

 だが近づくにつれて様子がおかしいことに気づいた。微かに怒声や悲鳴が聞こえてくる。まさかもう現れたのか!?

 馬にさらに拍車を入れた。やがて村の入り口に到着した。いるはずの番人がいない。さらに中に馬を乗り入れた。

 畑を両側に、村の通りを進みながら田の中に点在する農家を見た。どこの家も固く戸を閉ざしてひっそりとしている。

 やがて道の先で棍棒を持って同じ方向に走る老人に追いついた。

 「魔物はどこだっ!」

 いきなり問いかけられた老人はびっくりしたがすぐに前方を指差した。そして喘ぎながら言う。

 「き、北から現れて・・・畑ん中を荒らしまくりましただぁ・・それから村のモンが駆けつけて遠くから矢を射たり槍で突いたりして・・・広場のほうに追い込みましただぁ」

 「広場のほうにいるのだな。あいわかった!」

 セイジはさらに馬を駆って村の裕福な階層が住む区画に来た。そこには村長宅や地主の屋敷が軒を連ねている。

 広場はその先にあった。広場が見えてくると明かりの数は一気に増えた。まるで祭りでも行われているような明るさだった。

 村のすべての男の衆が松明を手に持ってそこに集まっているような騒がしさに見えた。喊声や悲鳴も聞こえてきた。

 そこかっ!セイジは広場を囲む人垣に叫んだ。

 「どけっ!どけいっ!」

 村人はセイジが来たと知って慌てて脇にどいた。人垣がどくと状況が明らかになった。かがり火の内側で数十人の男達が槍や弓で魔物を攻撃していた。

 だが魔物を過度に恐れているせいか踏み込みが浅くまた射る軽弓も魔物の筋肉の鎧を突き破るまでには至らない。

 当たっても虚しく跳ね返るだけだった。それどころか魔物は隙をついて近くの村人に突進し確実に一人、また一人と仕留めていっている。

 魔物の口脇から伸びた牙がまた伸びたように見えた。動物学に詳しい人間がそれを見ればまるでサーベルタイガーか象の牙のようだと慄いたことだろう。

 魔物はそのちっこい黄色の目に憎悪を溜めて人間を見る。そしてその目が光った時は確実に人が死んでいた。

 村人達は魔物を囲んだはいいものの、それからの策がないらしくおろおろしているように見えた。セイジはすぐには介入せずじっくりと魔物の動きを観察した。

 槍や矢に動ぜずあまり動かず不用意に近づいた人間だけを襲っている。また防備が薄いと思ったところは怒涛のごとき寄り身で人を牙にかけている。

 奴は賢い。思った以上に頭がいい。セイジは戦慄を禁じえなかった。その時、輪の中で小柄な影が杖を振り回して村人に呼びかけているのに気づいた。

 「皆の衆!逸ってはいかん!今にアズが来る!アズは不思議な力を持った子じゃ。アズなら魔物を倒せる。それまで耐えるのじゃ」

 セイジは苦々しげに思った。アズだと?あの罪人の息子に何ができる?第一、未だに姿が見えないのはどういうことだ。

 闘うといって大見得切ったものの、実際魔物が現れたら恐くなってどこかに隠れている証拠じゃないか。

 そう嘲っていると村人達がセイジに気づいた。そして期待するようにセイジの名を口にした。

 「セイジ様だ」「セイジ様!」「セイジ様っ!」

 わかっている。もちろんやるつもりで来たんだとも。セイジは下馬すると表情を引き締めて輪の中に入った。

 そして魔物との距離を測りながら腰の剣に手をかけた。ふと感触に違和感を覚えた。ちらっと目を落としてその正体がわかった。

 長いこと重い木剣を使用していたので久しぶりの真剣に違和感を覚えたのだ。セイジは気を取り直して鞘から剣を抜いた。

 そしてゆっくりと魔物をうかがいながら左回りに行く。魔物は動かない。だがその目はセイジから片時も離していなかった。

 魔物の真後ろに回りこもうとした時だった。魔物がぴくっと動き、ゆっくりと首を曲げてセイジを見た。

 そして、ぶふふふぅぅぅ〜〜っと息を吐く。臭い。まるで腐った死骸の臭気だ。こいつ、普段何を喰っていやがるのか。

 セイジは魔物を観察した。豊かな剛毛の下がどうなっているのかわからないが凄まじい筋肉量でぱんぱんに膨れ上がっているのが想像できた。

 深夜に近づいてかなり冷え込んできたというのに魔物から発する熱量であまり寒さを感じない。セイジは懸念したように手元の剣を見下ろした。

 軽い。薄い。頼りない。今更ながら使い慣れた木剣を持ってくるのだったと悔やむ。急いでいたことや身の回りの物をシイプに任せっきりだったため木剣までは気が回らなかった。

 あの木剣は悪魔の顔を打ち砕いた、いわばセイジの破魔の剣。真剣といえど通常の剣では魔物に通じるとは思えない。

 いや弱気になっては駄目だ。心魂を傾けて完成した悪魔砕きの技。通常の剣でもやれる。セイジは左回りに回り続け、魔物は真後ろに回られないようにその動きを追って右に回る。

 いつだ?いつ技を仕掛ける?どこだ?技が最も活きる狙いどころはどこだ?そしてセイジが緊張を緩めず魔物を観察していた時だった。

 魔物がふとセイジを見るのを止めた。そのためセイジは魔物の真後ろを易々と取ることができた。セイジは訝しげに考えた。

 なぜ真後ろを取らせる?弱点の下腹部や肛門を敵に晒すとはどういうことだ?だが考えている暇はない。

 好機なのは間違いないのだ。セイジは突進した。走りながら剣を顔の横に引く。狙うは魔物の肛門だ。十歩ほどの距離を一気に詰めた。

 「くらえいっっっ!」

 強く右足を踏み込み肩を入れて全身全霊の突きを放った。その時だった。バウンッという何か爆発したような音がした。

 目の前の光景が急に黄色く濁ったように見えた。何かに目が染みた。喉が痛み、激しく咳き込んだ。そして猛烈な吐き気が襲ってくる。

 「うげげげげぇぇぇっ!?」

 セイジは身を折って苦しんだ。瞬間、殺気を感じた。顔を上げた。魔物がいつの間にかこちらに頭を向け涎を垂らしながら突っ込んでくる。

 「ちいいいいっっっ!」

 セイジは胸を押さえたまま右に横っ飛びに飛んだ。瞬間、左太ももに鋭い痛みが走った。地に着くとすぐに立ち上がろうとした。

 途端に左足の痛みに顔をしかめる。見下ろすとズボンが横に裂けて肌に血が浮いていた。村の衆から悲鳴が起こった。

 だがセイジは冷静だった。浅手だ。皮膚が切れただけだ。だがこの内臓が引っくり返ったような気持ちの悪さはなんだ?

 セイジは耐え切れず地面に胃液を何度か吐いた。そんな時も魔物は休ませてくれなかった。また突進してくる。

 セイジはよろける体でなんとかかわし、避けざまに剣で薙いだ。まるで大木に剣を打ち込んだような感触が返ってきた。

 魔物から急いで距離を取って近くの村人に訊いた。

 「俺が最初に飛び込んだ時、奴は何をした?」

 その村人は少し躊躇ってから言いづらそうに言った。

 「その・・セイジ様のお顔に・・屁を・・・」

 小声で聞き取れなかった。

 「なんだと?はっきり言え!」

 「魔物は屁をこいたんです。セイジ様のお顔に向けて」

 セイジの顔色が変わった。このオットーハイム家の高貴な血が流れる俺の顔に屁をこいただと!?屈辱で頭に血が昇った。

 魔物に怒りの目を向ければその静かな佇まいはセイジを舐めきっているようにも見える。

 「おのれ!」

 セイジは剣を顔の横に持っていって構えた。決める。一撃で決める。セイジの激怒を知ってか知らずか魔物も闘志を現すかのように頭を少し下げ前足で地面を引っかいた。

 確かに俺は我が家の厄介者かもしれん。だが化け物風情に軽侮されるほど落ちぶれてはおらん!今度は正面からやってやる。

 前からならば屁をこくような奇策はできまい。今度はセイジのほうから先に走った。魔物も僅かに遅れて走った。

 こちらから仕掛けた分、俺のほうが有利だ!彼我の距離が一気にちじまる。走りながら魔物の顔を凝視した。

 貴様の顔より悪魔の顔のほうが数百倍ごつくて醜いわ。その悪魔に劣る貴様にこの俺が後れを取るはずがない!

 この勝負、勝った!悪魔の顔に突きが入ったイメージが蘇った。くらえいっ!かがり火の光を弾いて銀光が魔物の頭に伸びた。

 剣先が皮膚と肉を貫くのを感じた。勝った!そう歓喜した時だった。ガキッという感触と共に剣が中ほどから折れたのが見えた。

 「なんだと!?」

 俺の技が、悪魔の顔を砕いた必殺剣が・・・なぜだ!?だが呆然と考えている時間はなかった。次にどてっ腹が大爆発したように感じた。

 セイジは魔物の頭突きを腹にもろにくらって宙に吹っ飛んだのだ。そして薄れる意識の中、思った。

 そうか。剣が通用しなかったのは切っ先が奴の頭蓋骨に滑って折れたからか。木剣ならば滑らず頭蓋骨を貫き通せたのに・・・。

 セイジの体は宙を飛んだ後、地に落ちて数回バウンドして滑り止まった。


 村人達はセイジが魔物に倒されるのを見て声も出なかった。魔物はセイジを吹っ飛ばした後、勝利を味わうかのようにしばらくじっとしていた。

 やがて動き始めた。そしてその足は倒れたセイジに向けられていた。魔物はセイジを吹っ飛ばしただけでは満足せずその牙にかけて食らおうというのか。

 村人の一人がそれに気づき蒼白になって周囲の村人に言った。

 「魔物はセイジ様を喰らう気だ!」

 だが村人達は何人もの人間を牙にかけた魔物に恐れて誰も助けに出ようとしない。村人が慄く中、魔物はゆっくりとセイジに近づいた。

 倒れたセイジはダメージが深いのか未だ意識は戻っていないようだった。魔物はセイジの顔の脇に来ると「ふしゅるぅぅぅ〜、ふしゅるぅぅぅ〜」と呼吸しながらセイジの匂いを嗅いでいる。

 やがてその気配に気づいたのかセイジが薄目を開けた。そしてすぐ近くにいる魔物に気づいて驚愕した。

 すると魔物の目が僅かに見開かれたように見えた。それはまるで獲物が恐怖に怯えている様子を楽しんでいるように見えた。

 魔物が口を大きく開けた。村人は見ていられなくて顔を背けた。もう駄目だ。その時、何かが夜気を切り裂いて魔物の顔に当たった。

 魔物が苦しげに唸り声を上げる。そこに大きな声が聞こえた。

 「待て待て、この野郎!」

 皆がはっとなって南のほうを見た。すると暗闇の中から二つの人影が走り寄ってくるのが見えた。メイが喜色を露にして言った。

 「おおっ!アズじゃ。ようやくアズが来おった!」

 アズの隣ではサスケが走りながら飛礫を放っていた。魔物は二人に気づくとセイジから離れた。サスケは村人の輪の中で足を止めた。

 アズは足を止めず魔物の前に進み出ていく。その位置はちょうどアズがセイジをかばって魔物の前に立ちはだかったような格好になった。

 セイジがそのことに気づいて恥辱に血を昇らせた。サスケがアズに声をかけた。

 「勝負は一回こっきりだ。しくじれば死ぬぜ」

 「ああ。わかっている」

 魔物を倒すための形はできた。だがそれを作るためにアズは満身創痍になってしまった。なので長丁場の勝負はできない。

 やるなら一発勝負だ。魔物は強敵が現れたと思ったか。動かずアズをじっと睨みつけた。アズも容易に動かずじっと魔物を見る。

 その時アズは必要以上に慎重になっていた。両者は構えたまましばらく睨みあっていたがやがてアズが魔物を挑発するように言った。

 「さぁ来い!かかってこい!」

 すると魔物は黒い鼻息を荒々しく吐き、前足で地面を引っ掻いた。そして頭を下げると突進してきた。

 「来た!」

 サスケはその速度を見て驚いた。速い。前の闘いより15倍は速くなっている。魔物はまだ力をこんなに隠し持っていたのか!?

 まるで放たれた黒い大矢だ。蒼白になってアズを見た。緊張してはいるが狼狽はしていなかった。いいぞ。

 おめえにはあの特訓がある。サスケの脳裏にありありとついさきほどまでの特訓が思い起こされた。

 猛然と急斜面を転がり落ちてくる丸太。麓でアズは額に脂汗を浮かべてそれを待ち構えている。そして激突の瞬間、丸太と一緒に後方に倒れこみながら曲げた膝で丸太を宙高くに跳ね上げた。

 アズは素早く立ち上がりやがて落ちてきた丸太のどてっ腹に満を持して拳をぶち込んだ。丸太はたまらず、中ほどから真っ二つに折れた。

 丸太の裏面。そこは魔物にしてみれば体の内側の、筋肉の鎧の最も薄い場所だ。そしてそこに急所の心の臓がある。

 アズは必ずそこに古木で鍛えた拳をぶちこむことができるはずだ。落下する魔物の重量とアズの鍛えに鍛えた拳の突き上げる力が合わさればそれは通常の倍以上の破壊力を生む。

 いかな魔物とてそれなら倒せるはずだ。いけっアズ!矢のような魔物の突進にアズはまったく臆していなかった。

 そしてそこに極限の集中力が注がれていた。アズが徐々に体を後ろに引き始めた。臆したのではない。

 いよいよその時に備えているのだ。魔物が直前にまで迫った。鼻腔から発する毒気が飛んできて顔にかかった。

 魔物のでかい顔が視界いっぱいに広がった。後は無我夢中だった。肘を軽く曲げて突き出したアズの手が魔物の両牙に触れた時、電流が全身を駆け巡った。

 瞬間、膝を丸めて身を後ろに倒す。アズの目にはそれら一連の動きがスローモーションのように思えた。

 魔物の体の下に潜り込んだ。魔物の目はアズのさきほどまでの残像を捉えたままで今の位置はまだ掴めていないようだ。

 よし、ここだぁ!


 膝を曲げて魔物の腹につけた足の裏を思いっきり跳ね上げようとした。その突進力も利用して跳ね上げればいかに重量のある魔物といえども宙高く舞い上がるはずだ。

 だが予期せぬことが起こって愕然となった。跳ね上がらない!?そればかりか真上から凄まじい重量と共に毒気が襲ってきた。

 それを少し吸ってしまい頭がくらくらした。吐き気も襲ってきた。ちきしょう!こいつ!その時、地獄の底から届いてくるような声が聞こえた。

 「グフグフ。小賢シイ人間メ。頭カラ飲ミ込コンデヤル」

 愕然となって見上げた。黄色く濁った目が自分を見下ろしていた。その時、大きな口が開いた。刀のような二つの大牙に挟まれた無数のギザギザの小牙。

 赤黒い醜悪な舌。喉の奥から地獄の生暖かい風が吹いてくるようだった。その地獄の入り口がアズめがけて迫ってくる。

 アズは必死に魔物の喉に手を当てて顔を右横にずらした。ガツンッと音がした。見ると顔のすぐ左脇に魔物の頭がある。

 今、聞こえたのは上顎と下顎が合わさった音か。魔物が顔を上げて再び口を開けて迫ってきた。今度は逆に逃げた。

 だがいつまでもこうしてかわすことはできない。どうすればいい!?

 「シブトイ小僧ダ!」

 魔物はさらに体重をかけてのしかかり逃げられないようにした。

 「うっ、うわあっ!?」

 凄まじい重量がアズの体を押し潰そうとする。背骨や肋骨がきしんだ。丸めた手足がさらに圧迫された。

 まったく動けないと思った。その時、上で苦痛の呻き声がした。見上げると魔物が片目をつぶって顔を歪めている。

 「今だーっ!今のうちに逃げろ、アズ!」

 声のほうを見るとサスケが飛礫を放ってくれたのがわかった。一瞬、魔物の押さえ込む力が緩む。

すかさず魔物をなんとか押し上げ横に転がってその体の下から逃れた。

 素早く立ち上がって距離を取る。

 「大丈夫か、アズ!」

 アズは気持ち悪げに胸を擦り、くらくらする頭を叱咤するように自分の頬を叩いた。体を丸めて防御に徹していたため大きなダメージはない。

 だが至近距離から毒気を吸い続けてしまったため、しばらく不快な状態は続くだろう。

 「貴様ハ逃ゲラレナイ。俺ニ喰ワレルノダ」

 見ると魔物がじっとアズを見つめていた。

 「喰われてたまるかよっ」

 だがあの作戦が失敗した以上、他にうつ手はなかった。宙高く跳ね上げられなければ急所を突くことはできない。

 頭から背中にかけては分厚い骨格と筋肉の鎧で完全に守られている。通常の姿勢で唯一ダメージを与えられるとすればそれは目だが魔物もそこはカバーしてくるだろう。

 どうすればいい。どうすれば・・・。

 「来ナイノナラ、コッチカラ行クゾ!」

 魔物が突進してきた。今はかわすしかない。その時、信じられないものを見た。なんと魔物はただ突進してくるだけでなく体を左右に振り小刻みに移動を繰り返しながらやってくる。

 足さばきまで使ってきやがるのか!?その動きに幻惑されて一瞬アズの動きが遅れた。それを見逃さず魔物が突っ込んできた。

 魔物の口の脇で何かが光った。牙だ。あの長く上に反った牙が伸びてくる!瞬間、身を捻った。そのすぐ脇を魔物が走り抜ける。

 「ああっ、アズ!?」

 サスケの声。何事かとサスケを見るとサスケがアズの腹の辺りを指差している。はっとなって見下ろすとシャツの腹の辺りが横に斬り裂かれていた。

 びっくりして慌ててシャツをまくった。すると細い傷が横に十pほど伸びていた。血がぷつぷつと浮いてくる。

 だが掠り傷だ。たいしたことはない。またサスケの叫び声が聞こえた。

 「ぼけっとするな、アズ!」

 はっと顔を上げると魔物がまた突進してくるところだった。魔物は軽快な足さばきを見せて小刻みに左右に移動して突っ込んでくる。

 「ちいいいいっ!」

 アズは左に避けた。だが魔物はそれに反応し避ける方向に追ってきた。右脇腹に鋭い痛みが走った。

 今度こそやられた!?はらわたをぶちまけて死ぬ想像が脳裏をよぎった。蒼白になって恐る恐る傷口に触った。

 すると出血量はたいしたことなく皮膚をまた薄く斬られただけだとわかって安心した。だがいつまでもこう避けてばかりいられない。

 魔物は徐々にアズの動きに対応し始めている。動きを読まれれば深い傷だってその内、負ってしまうだろう。

 手はないか?なにか手は!魔物は頭を下げて牙を上に上げて突進してくる。くそっ。少しは休ませろよ。

 魔物はかわされてもかわされても突撃を繰り返す。その内アズは体が重く、かわす際、少し足をもつれさせるようになってきた。

 魔物はそのちっこい目でアズの一挙手一投足をじっと観察しているように見える。その時アズははっと気づいた。

 こいつ、俺を消耗させようとしていやがるのか!?過酷な訓練の直後であるのと強い緊張を強いられているため疲労が通常よりも早く蓄積されている。

 動きが鈍ったところにゆっくりと牙をかける気か。こいつ、どこまで悪賢いんだ。だが今のところそれに対処する手はない。

 かわしざま悔し紛れに突きや蹴りを脇腹や下腹部にぶちこむものの、魔物はなんの痛痒も感じていない様子だ。

 どうすればいい。どうすれば・・・。もう何度目になるだろうか。魔物が頭を下げて突進してきた。その時、自虐的に思った。

 牙で殺られるのなら少なくともセイジのように頭から齧られるという最悪の死に方はしなくて済むな・・・。

 あの地獄の底につながっているような大口の中に入って牙でぐしゃぐしゃに噛み砕かれて死ぬのだけはごめんだった。

 その時はっとなった。口の中に入るのはごめん?そうか、口の中!!唯一、筋肉の鎧に守られていない場所がそこにあった!

 だがどうやって口を開けさせる?魔物が口を開けるとすれば自分より低い位置に獲物がいる場合だけだ。

 さっきアズは魔物を足で跳ね上げようとしてより低い位置に潜った。だから魔物は牙にかけることができず大口を空けて呑みこむ戦法をとらざるを得なかったのだ。

 また寝るか?しかし寝るということは動きが著しく制限されて逃げ場がなくなるということだ。またあれほど悪賢い魔物である。

 跳ね上げの策はもう学習されてしまっただろう。しかしこれしか手は思いつかない。一か八かの賭けになる。

 しかし立って闘っていても勝算はない。ええい、ままよっ!死中に活だ!サスケはアズが腰を落とし手をだらりと下げるのを見た。

 あれは魔物を跳ね上げる、当初の作戦の構えではないか?もうあれは通用しないとわかったはず。

 なぜ今更?だがそんなことはアズが一番よくわかっているはずだ。気が狂ったのでなければ何か策あってああしているのだろう。

 何をする気かは知らないが死ぬなよ、アズ。魔物はアズの構えを見て一瞬、首をかしげたような仕草をした。

 だがあまり危険は感じなかったらしく突っ込んできた。アズは意識して深く静かな呼吸を繰り返した。

 どこまでも青く涼しく高い空。暖かく生命に満ち溢れる豊かな緑の大地。アズは自然に包まれようとしていた。

 この世の完全な自然に。やがてアズの心に完全な自然が形成された。自然と一体になる。それこそが生命が望む究極の形。

 自然と生命は不可分。自然こそが生命。生命こそが自然。すると完全な自然の風景が暗黒の空間に変わり無数の小さな光点が現れるようになった。

 以前メイに呼吸法を習った時、夜空を想像しろと教えられたがなんのことだがわからなかった。その時は深く考えずとにかく教えられた通りやった。

 だが今ようやくその意味がわかった気がする。この夜空のように見える空間は大いなる自然なのだ。

 今アズら人間が見ている世界の小自然ではなくこれは大自然の想像なのだ。アズら世界の人間は知らなかったがそれはまさしく宇宙を想像したものだった。

 アズの中に自然の力が満ちていく。そうとも。すべてが自然で生命は別個のものじゃない。自然に戻れば何も恐れるものはない。

 自然そのものになるのだから。魔物だって自然だ。アズの体から余分な力が抜けていき表情も柔らかくなった。

 不可視のものが見えるメイにはアズの内部の変化がよくわかった。そうだ、アズ。それが悟りだ。今お前は完全に自然と一体になったのだ。

 魔物が迫ってきた。アズは逆らわず身を後ろに倒した。魔物はやはり予想していたらしくアズにつられず踏みとどまった。サスケがそれを見て悲鳴を上げた。

 「さっきと全然、変わってねえじゃねえかよ、アズ!」

 魔物が口を開けてその真っ赤な口腔を見せた。ずらりと並んだ牙の列が鈍く光っていた。その奥の醜悪な舌が別の生物のようにもぞもぞと蠢いていた。

 魔物は勝利を確信したかのように天に向かって大きく口を開けた。そしてその後、口をアズ目掛けて急降下させてきた。

 ここだぁ!その時アズはがばっと半身を起こして引いた拳を魔物の口腔にぶち込んだ。

 「フガッ!?」

 内力が充分に乗った拳は小さな牙をふっ飛ばしながら捻りこまれ、また魔物が加速をつけて上からのしかかったためカウンターとなりその威力は倍増した。

 拳は喉の粘膜、舌を引きちぎりさらにその奥の組織、骨を突き破った。だがアズはそこで止めなかった。

 勢いに乗って拳をさらに内側にねじ込み、今度は逆に拳を捻って拳をアッパー状に突き上げた。そこは内側の柔らかい組織しかない部位である。

 たまらず魔物の脳はアズの拳によって破壊された。アズの全身全霊を込めた拳の衝撃はその三百キロを超える魔物の体を数センチだが宙に浮かせた。

 村人らが驚愕に目を見張る中、魔物はアズによりかかるようにしていたがよく見ればぴくぴくと痙攣し断末魔の叫びを上げている。

 やがてぐったりと力を失ってその足が地に垂れた。しばらくその場はシーンと静まり返っていた。そして真っ先に叫んだのはサスケだった。

 「いやったぁ〜〜〜〜!アズがとうとうやったぁ〜〜〜っ!」

 村人らはそれを聞いて呆然と互いを見た。そして夢から醒めたようにはっとなると抱き合って喜んだ。

 アズは尻餅をついていた。そして呆然と村人らが喜ぶさまを見た。と、肩を叩かれた。目を向けるとサスケとメイが微笑んでいた。

 「アズ!」

 サスケがアズに抱きついた。アズはまだ呆然としていた。するとメイが苦笑して言った。

 「もうその腕を抜いてもよかろう」

 右腕を見た。その腕は深く魔物の口から体内に入ったままだった。アズは急に恐くなったように腕を必死になって抜いた。

 精根尽きた様子で立ち上がると村人らが歓声を上げて駆け寄ってきてアズを称賛した。アズはそれに戸惑った。

 魔物を倒したのはなにも村のためじゃない。親父を狙ってやってきたから自分が代わりに相手をしてやっただけだ。

 単純に親父が倒した相手を倒したかった。それだけだ。だが彼らはアズが村のために魔物を倒してくれたと感謝していた。

 そこにはもう村抜けの重罪人の倅という蔑みの目ではなく魔物から村を救った英雄としての畏敬の念があった。

 今までアズを蔑んでいた村人が心の底からアズに感謝しているように見えた。そんな態度にいつしか村人に対するアズのこれまでの頑なな態度も和んでいった。

 <3>

 精神的なダメージは深かったが外傷は少なく浅手だった。迎えに来た館の使用人は馬車を勧めたがセイジは断固として騎乗で帰ると言ってきかなかった。

 二度も惨めに敗北した上に五体満足だった。それなのに馬車で連れて行かれるのはセイジの矜持が許さなかったのだ。

 見送りは村長など一部の村人数人しかいなかった。いつもなら村人総出のはずなのに。その時、他の大多数の村人は祭りをしているかのようにはしゃいでアズを祝福していた。

 それをちらっと見ると恥辱に胸が震えた。村に少しでも長くいるのが辛くなって馬に拍車をくれて走り出した。

 館の使用人はセイジの気持ちがわからずなぜそんなに急ぐのか訝った。情けない。自分が情けなかった。

 普段から周囲に王国一の剣士になると言って回り魔物を倒すために奇行ととられるほど裏庭で訓練した。

 それがこのザマだ。自信満々で魔物退治に出たことが恥ずかしくてたまらなかった。館に帰りたくなかった。

 折り合いの悪い家族はそれみたことかとここぞとばかりに自分を責め立て嘲るに決まっている。だがここで帰らなければますます恥の上塗りになる。

 セイジは無残に負けて家に帰れなくなり出奔した。そう噂が広まるのが目に浮かぶ。ここは恥に耐え忍ぶしかない。

 館に帰って家族に会うと想像した通りの反応が返ってきた。彼らは労いも心配の言葉もなくただいつもの冷たい目をセイジに向けただけだった。

 唯一の救いといえばシイプが気をきかせて自分を一人にしておいてくれたことくらいだろう。セイジは自室で頭を抱えた。

 魔物を倒すと勇躍して出て行ったはいいものの、前回と同じでまったくいいところなく死にそうになった。

 そこに現れたのがあのアズだ。アズにその気はなかったのだろうが助けられた格好となった。村の中でも最下層の、それも村抜けの重罪人の倅に助けられた格好になったのだ。

 貴族の面目丸つぶれだった。父の深い溜息。家名を汚されたと嘆いているのだろう。母の冷たい目。

 セイジのやることなすこと理解を示したことは一度もない。兄の意地の悪い笑み。敗北してざまあみろと思っているに違いない。

 家族の目はどれも冷淡だった。いっそのこと大怪我でも負ってくれればまだ家の面目は保てたのにと言っているようだった。

 今にも嘲笑の声がここまで聞こえてきそうだった。おい、セイジ。自慢の剣術はどうした?いつもあんな大威張りなのに。

 セイジは苦悩した。頭を掻き毟るほどの苦悩に絶叫したくなった。そして最後に浮かんだのはアズの顔だった。

 あいつのせいだ。あいつのせいで俺はこんな惨めな目に会っているんだ。あいつさえいなければ魔物は倒されず三度目だが雪辱の機会は回ってきたはずだ。

 だがその魔物はあいつに倒されてしまった。ではもう名誉挽回の機会はないのか?一生、日陰で暮らさねばならないのか?

 いや・・・。アズがいる。魔物を倒した英雄のアズ。そのアズを倒せば自分は名誉を回復できる。そうだ。

 皆の前でアズをこてんぱんに倒して周囲に自分の強さを再確認させるんだ。そうでなければ俺はこの先ここで生きていけない・・・。


 魔物退治から数日、過ぎた。魔物を退治してからアズは村人から畏敬の念で見られるようになった。

 それまでアズをいじめていた地主の息子やその取り巻き連中はアズに手を出さなくなった。それどころか道端でばったり会うときまりが悪そうに回れ右して逃げ出すようになった。

 罪人の息子ということでどこか敬遠がちだった近所の大人達もアズに声をかけてくれるようになった。

 アズは嬉しかった。自分が英雄視されることが、ではない。母イリアの負担が減ったことがだ。イリアはアズを育てるために今まで相当、無理をしてきた。

 それがアズの立場が良くなったことでぐっと生活がしやすくなったのだ。もちろん生活が楽になったわけではない。

 だが少なくとも村で日陰者として暮らさなくてもよくなったのだ。イリアの体調は未だに良くない。アズが魔物をやっつけると聞いて心労で体調をまた悪化させてしまった。

 病気がちの体だったというのに。アズは自責の念にかられた。だがこれからは違う。精一杯、働いてイリアのこれからの人生は楽して暮らしてもらうのだ。

 日課だった修練もたまにするだけでいい。むしゃくしゃすることは大分なくなったのだから。アズはその日も朝早く起きて畑仕事に出かけた。

 アズの隣近所の男が家から眠そうに出てきて大きく伸びをした。するとそこに鍬を担いだ顔見知りの村人が通りかかった。

 二人はのんびりと挨拶をかわす。すると近所の男が向こうの畑に出ているアズに気づいた。男はアズに親しげに手を振って声をかけようとした。

 英雄のアズと親しく近所付き合いしていることはその男の自慢になる。すると顔見知りの男がそれを止めさせた。

 近所の男が訝しげに顔見知りを見るとは顔見知りは辺りを気にしたように言った。

 「やめとけ。アズに関わるのは」

 男は眉をひそめた。これまでの罪人の倅という立場ならともかく今やアズは魔物を退治した英雄だ。

 なんでそんなことを言う?男の表情はそう言っていた。するとその疑念を察した顔見知りが声を潜めるようにして言った。

 「セイジ様がなぁ。えらくご立腹なんだってよ」

 「セイジ様が?なんで」

 「セイジ様は魔物をやっつけてやるって鼻息荒かっただろ?それが実際には手も足も出なくて醜態をさらしちまった。

 一回やられていたからな。今度こそはって意気込んでいた。それなのに雪辱はできず重罪人の倅のアズに先を越されちまった。

 面目丸つぶれなわけよ。セイジ様は領主様の仕事のお手伝いもせず剣ばかり振り回していた。なのに肝心な時に役に立たない。そりゃ悪評も立つわけよ」

 男は納得したように頷いた。

 「獲物をかっさらったアズが気に入らないからやっつけてやるってか」

 顔見知りがその通りだというように頷いた。近所の男は気の毒そうに向こうの畑のアズを見た。

 「親の不名誉からようやく解放されたと思ったら今度はセイジ様か。あいつ、つくづく運のねえ奴だなぁ」


 帰宅するとすぐイリアの寝所を覗いた。イリアはアズの帰宅した音を聞いて半身を起こしてこちらを見た。

 いつもやつれた顔をしているがこの日は幾分、血色が良かった。

 「母さん。今帰ったよ」

 イリアは微笑んで急いで夕飯の用意をすると言った。だがアズは首を振って用意は自分がすると答えた。

 イリアの病にこれといった病名はなかった。以前、起き上がれなくなった時心配したアズは一度だけ蓄えてきた僅かな金をはたいて村医者に診せたことがある。

 だが原因も病名もわからなかった。村医者は経験豊かな男だったが首をかしげて言った。あえてつけるとすればこれまでの無理がたたった結果の風邪が病名だと。

 アズはそれ以来、医者を信じなくなった。アズの家からすれば大金を払ったのに医者はなにもできなかった。

 ならば診せないで精のつくものをイリアに食べさせたほうがましじゃないか。この日も少し前に村長に魔物退治をした褒美だといってもらった高価な薬用の根を煎じてイリアに飲ませた。

 イリアによるととても苦いという。もう何日も続けて飲ませているが効果があるかどうかはまだわからない。

 だが精がつくのなら不味くても飲ませたほうがいい。そして二人で質素な食事をしていると戸を叩く音がした。

 こんな夕餉の時間に誰か?訝しげに戸を開けてみると外に立っていたのは領主の使用人だった。アズは貴族に対してあまりいい印象を持っていない。

 アズ達のような小作農を人と思わない言動をするからだ。どんな用があるのか知らないがこの、母との静かなひとときを邪魔されたくなかった。

 一瞬、追い返してやろうかと思ったがそんなことをすれば折角、良くなった家の立場がまた悪くなり母を悲しませる。

 仕方なく家に招きいれた。イリアはかしこまって彼に挨拶した。使用人は鷹揚に頷いてどこかふんぞり返るようにして言った。

 「私はセイジ様の使者だ。セイジ様よりご伝言がある。一週間後の正午過ぎ村広場でアルム村住人アズに決闘を申し込む。良いか。確かに伝えたぞ」

 使用人はそっけなく言うとさっさと立ち去って行った。二人は驚愕してしばらく声も出なかった。アズは呆然と考えた。

 領主の息子セイジとは何回か面識がある。確かに貴族に対するものとはいえない、無愛想な態度をとってしまった。

 それに魔物退治に関してセイジはアズにどこか競争意識のようなものを持っていたのは感じた。でもそれらのことを総合してもいきなり決闘!?

 最初は呆然となっていたが落ち着くと次第にムカついてきた。いきなりなんだっていうんだ。気に入らないから決闘してやっつけてやるってか。

 ふざけやがって。やるってんならやってやろうじゃないか。そう鼻息荒く考えているとイリアに必死になって止められた。

 さすがに息子の考えていることはわかったようだ。領主様のご子息に傷を負わせたらもうこの村に、いやご領地のどこにも住むことはできない。

 住む家を持たない浮浪人は生き地獄を味わうことになる。浮浪人はどこに行っても石を投げつけられ、ここ以上に蔑まれて生きることになる。

 なんとかセイジ様に頭を下げて決闘を取りやめてもらって。アズもそういう状況になった時の悲惨さは充分、想像できた。

 だがなんの非もない、こちらがひたすら頭を下げると考えると持ち前の反骨心がむくむくと頭をもたげてきた。

 ここ数年なかったことだが久しぶりにイリアに反抗した。

 「真面目に仕事してきて、この間魔物を退治した。なんにんも悪いことしてねぇ。いや逆に感謝された。なのに頭、下げろっていうのかよ。俺ぁ、ごめんだぜ」

 腕を組んでそっぽを向いた。イリアは必死にアズの腕を掴んで言った。

 「さっき言っただろ。相手は貴族だよ。逆らっちゃいけない人種なんだよ。平民は嵐が過ぎ去るのをじっと待つだけさ。

 あんたになんの落ち度はない。それは私が一番よくわかっているよ。でもね。理屈に合わなくても貴族には逆らっちゃいけないもんなんだよ」

 アズは我慢できなくなったように言った。

 「俺には!俺にはそんな卑屈な生き方はできねぇ!」

 「アズ!」

 アズは激情にかられたように家を飛び出した。

 <4>

 どこをどう走ってきたのか憶えていなかった。ふと気づくと森のいつもの空き地に来ていた。だがそこにもう古木はない。

 いや古木の名残の根元が無残にそのギザギザの傷口を天に向けている。急に寂しさがこみ上げててきた。

 以前ならこういうやりきれない想いの時は思いっきり古木に拳を打ち込んでその大自然の懐に抱かれて心の傷を癒した。だが今やその古木はない。

 「俺が折っちまったんだよなぁ・・・」

 修練を激しくしすぎて慣れ親しんだ古木を折ってしまった自分。魔物を倒してセイジからいらぬ恨みを買ってしまったのも自分。

 そう。自分に係わり合いのあることはすべて自分が起因しているのだ。ならば自分ですべて決着をつけねばならない。

 だけど今回ばかりは意を曲げて頭を下げて詫びるしかないのか。闘ってもわざと負けるしかないのか・・・。

 悩んだ様子でぽつんと座っていると下生えを踏みしめて何者かが近づいてくる足音が聞こえた。目を向けないでも誰かわかっている。

 足音はアズのところまで来るとからかうように言った。

 「よぉ、どうしたぁ。英雄がしょんぼりして」

 もちろんサスケだ。古木は無くなったがサスケだけはいつも傍らにいてくれる。そう思うといくらか気が楽になった。そこでアズも溜息混じりに言った。

 「どうもこうもあるかよ」

 するとサスケはアズの前に回ってきて複雑な表情で言った。

 「村の連中が噂しているのを聞いたぜ。おめえ、領主の息子から決闘を申し込まれたんだってな」

 「何がなんだかさっぱりわからねえよ。俺が何したっていうんだよ」

 「やっぱりあれのことだろ。魔物をやっつけたからだろ」

 「やっぱり魔物のことしかねえよなぁ」

 アズが溜息をつくとサスケが同情したように言った。

 「貴族ってのは面目とか体面が傷つくのをひどく嫌がるからな。あの息子は剣術自慢とかで有名だった。

 剣を持たせりゃ熊もやっつけられるってね。ところがどうだ。魔物にまったく歯が立たなかった。そこで面目が潰れたわけだ。

 んでも相手は魔物だ。敵わなくても仕方ない。雪辱の機会だってある。そこにきなりおめえが登場してやっつけちまった。

 最下層の平民のおめえがね。その結果あいつの立場は一気に悪くなった。何が剣術自慢だ。何が貴族だって窮地に追い込まれちまった。

 当然そういう状況のもとを作ったおめえに怒りの矛先が向くわな」

 「俺だって親父を狙ってきたんじゃなければ闘おうなんて気は起こさなかったさ。だけど親父目当てでやって来て村を荒らされたんじゃ息子の俺の目覚めが悪い。

 だから相手になったんだ。まぁ親父の闘った相手という関心があったのは確かだけど。だけど俺だって死に物狂いだったんだ。

 そんなこと言うんなら最初にてめえがやっつけとけよって話だ」

 サスケはそれを聞いて肩をすくめた。

 「人は勝手な生物なんだよ。やたら責任を転嫁したがる。で、なんでそんなに悩んでいる?おめえらしくないな。いつもならやるんならやってやろうじゃねえかって威勢がいいのに」

 アズはまた溜息をついた。

 「俺も最初はぶっとばしてやろうかと思ってたさ。でも母さんがな」

 サスケはすぐにアズの家の事情を察してまた複雑な表情になりかけた。だが溜息ばかりつくアズをからかいたくなったようだ。

 「お袋さんのことはともかく土地に縛られている人間はつらいねぇ。俺っち達なんか住みづらくなったらさっさとオサラバするだけなのにさ」

 「お前は自由でいいよ」


 セイジは裏庭のいつもの場所で来るべき勝負の日に備えて剣の型を演じていた。アズと勝負して勝つ。

 これは名誉回復の最後のチャンスだ。勝つしかない。それしか生き残る道はない。そう自分を追い込もうとした。

 だがどうにも身が入らず心に迷いがあるように型を止めては溜息を漏らす。なぜだ?なぜこうも身が入らない?

 木剣をじっと見ていてふっと先日アズが魔物を倒した場面を思い出した。アズは皆の期待を一身に背負って闘っている。

 自分は一人、蚊帳の外に置かれたようにそれを見ている。もう魔物に敗れてしまったせいか誰も自分を気にしていない。

 そしてアズは大方の予想に反して勝利をもぎとった。アズが皆から称賛されるのをやはり一人寂しく見ていた。

 セイジは傷を負っているというのに誰も介抱してくれない。ただただ悔しかった。自分に情けなく腹立たしい想いが起こった。

 やりきれない想いが起こった。あれほど特訓したのにまったく結果が出せなかったからだ。やがて不満はアズへと向けられた。

 あいつさえいなければ。あいつさえ・・・。その時、声がしてはっと我に返った。

 「身が入っておられませんね」

 執事のシイプだった。

 「決闘の日まであまり時間がないというのにその体たらくはなんですか」

 セイジは痛いところを突かれて顔を背けた。

 「ほっといてくれ。ちょっと休憩していただけだ」

 「余裕ですね。休憩しつつ稽古しても彼に勝てると。あの強大な魔物さえ倒した彼に」

 そのどこか皮肉めいた言い方にセイジはむっとした。そしてシイプを睨んだ。

 「何がいいたい?」

 シイプはセイジをじっと見て言った。

 「彼を憎んでおられるのですか?」

 セイジは少し動揺した。だがすぐにむきになったように強がって言った。

 「それのどこがいけない」

 そう。あいつさえいなければまた魔物に挑戦して恥をすすげたのだ。そう。あいつさえいなければ・・・。

 「なぜ彼が憎いのです?」

 シイプの言葉にセイジは眉をひそめた。

 「知れたこと。奴が俺の獲物を横からかっさらっていったからだ」

 するとシイプは嘆くように首を横に振った。

 「そうではないでしょう。セイジ様がもう一度、魔物に挑んでも勝てたとは到底思えません。それにあの時、彼が現れなければセイジ様は確実に命を失っておりました」

 セイジはかっとなり拳を振り上げて抗弁しようとした。だが拳は僅かに振り上げられただけで何も言い返せずやがて力なく下ろされた。

 シイプは痛ましげにセイジを見て言った。

 「彼に対する感情は憎しみではありません。それは嫉妬というものです」

 「嫉妬だと!?」

 「そうです。強さへの嫉妬です。武術は専門外ながら私が感じたことを申し上げます。彼とセイジ様の腕は恐らくそう変わりますまい。では何が違うのか?」

 一息止めてシイプはセイジをうかがった。セイジは必死になって答えを探し求めている。

 「・・私が見るに違いは恐らく必死さにあるのだと思います」

 セイジは少し拍子抜けしたように言った。

 「必死さだと?それが奴のほうが上回っていたというのか?」

 「そうです。失礼ながらあなた様は訓練がうまくいかれたので油断がおありのように見えました。対してあの時、全身に傷を負って現れた彼を見てこれは凄い特訓をしてきたのだなと思いました。

 そしてその表情は引き締まり死をも覚悟しているように見えました。覚悟があると人間、違うものです。

 どんな窮地に陥ろうとも決して勝負を諦めない。そしてまさしくその通りになりました」

 シイプは言葉を止めてセイジを見た。セイジは今の言葉を考えている。

 「いかがです?」

 やがてセイジは顔を歪めて言いづらそうに言った。

 「確かに。俺に油断があったかもしれない。侮っていたかもしれない。魔物といえども悪魔の顔さえ砕いた技だ。何者にも負けぬとたかをくくっていたかもしれない・・・」

 「歴戦のつわものに聞いたことがあります。勝負は時の運。実力差があっても戦場ではなにが起こるかわからない、と。

 思い返してごらんなさい。油断しなければ、勝負を諦めず恐怖と向き合っていたらあの時どうなっていたか」

 セイジは思い出したくはない、あの場面を思い出した。持っていたのは宮廷儀礼用の薄刃の剣。あのぶ厚い筋肉の鎧で覆われた体に玩具みたいな剣を突き刺さねばならないのだ。

 当然そんなものが役に立つはずがない。なのに深く考えもせずそれで勝負に臨んでしまった。対してアズはどうだったか。

 奴はうまくいかなかったようだが用意してきた秘策があったようだ。前もって必殺の対策を考えて、なおかつ覚悟を決めて勝負に挑んだアズ。

 対策は考えたものの、それに満足してしまい不充分な武器で闘いに挑んだ自分。歴戦のつわものなら結果は見なくてもわかるだろう。

 セイジは激しく後悔したように頭を抱えた。

 「ああ!俺が愚かだったのだ!」

 苦悩するセイジにシイプはそっと近寄ってその肩に触れた。

 「自分の愚かさと向き合うのはとても苦しいことです。ですがセイジ様はそれをなさっておいでです。あなた様は今、着実に成長されておられるのです」

 セイジははっとなって言った。

 「成長している?こんなに心が苦しいのにか?」

 「そうです。あなた様はご自分と向き合うことを学ばれたのです。少しづつですがお強くなられております」

 「そうか・・・」

 セイジは弱弱しく微笑んだ。

 「それでこれからどうしたらいいと思う?」

 「彼を憎むのではなく彼の強さ、人格を尊重し敬意を払って闘いを挑むのです。そこに負の感情を差し挟んではいけません。純粋に闘って、ただ彼に勝ちたい、と」

 セイジは俯いてしばらく考えているようだった。やがて顔を上げて言った。

 「わかった。奴を憎むのはよそう。すべての原因は俺にある」

 「そうです。自分に起こった事はすべて自分が蒔いた種と考えるのです。そうすれば人を憎むことなどなくなりましょう。

 ただ答えが中々出ない時はお一人だけで抱え込まないでください。微力ながらこのシイプもお傍についております」

 セイジは笑って言った。

 「お前が頼りにならないなどと思ったことは一度も無いよ。礼を言う。お前の言葉で気が楽になった」

 シイプは恐縮した様子で頭を下げた。セイジは裏庭に顔を戻して剣の型を再開した。シイプはその背に一礼してそっとその場を後にした。

 しばらく歩いていって館の角まで来た時ふと立ち止まり後方をうかがった。そこには修行に打ち込むセイジの姿があった。その表情にはもう迷いはなかった。

 その姿を見てシイプが憂いた表情で呟いた。

 「対等の勝負とはいっても貴族と平民。彼が受けてくれるかどうか・・・」

 

 森の空き地で一人、拳を繰り出しているとどこからともなくまたサスケがひょっこり現れた。だがアズは鬱屈した表情で彼に見向きもせず動きも止めない。

 サスケがぴょんぴょんアズの周囲を跳ね回りやがてその顔の脇に来て言った。

 「冴えねぇ面だなぁ。まだ悩んでいるのか?」

 セイジから決闘の申し込みは来たが承諾の返事は返さなかった。いや向こうは貴族。返事など必要なく強制ということなのかもしれない。

 決闘の期日は着々と近づいてきている。イリアの言うように断るのなら早いほうが良い。だが断るのは恐れたからと思われるのがしゃくでずるずるとここまで引き延ばしてしまった。

 心労からかまたイリアの病状も悪くなってきている。断るならもう領主の館に今すぐ駆けて行って直接、言う他ない。

 だがアズの内なる獣がどうしてもそうさせてくれない。今も獣が暴れている。闘わせろ。人の肉を喰わせろ。

 血を見せろ。猛々しいものが体内を暴れまわる。すると心の内面を覗くようにアズの表情をじっと見ていたサスケが言った。

 「・・・断らなきゃいけない気持ちと断りたくない気持ちがせめぎあっているようだな」

 アズは無言で拳を打ち出しながら思った。そう。俺の中には二つの気持ちがある。最初は闘いたいという気持ちが強かった。

 だがイリアの病状が悪化してくると断らなきゃという気持ちも強くなってきて今では二つの気持ちの強さは同じくらいになっていた。

 サスケが向こうの空を見ながら考えるように言った。

 「闘いたい。決闘を断ったら逃げたと思われる。もう侮られたくない。では闘うとどうなるか?お袋さんの病気は心労でさらに悪くなる。

 またあいつを倒しちまったら村にはいられなくなる。おめえはいいけどお袋さんが困る・・・さてどうする?」

 アズはそこでようやく拳を止めてサスケに激しい口調で言った。

 「うるせえな!そんなことわかってらぁ!俺だってどうしていいかわからねえからこうして困っているんだろ!」

 サスケは頷いて言った。

 「なるほど。どうしていいかわからねえから武術の修練をしているのか。でもそれで解決するのか?」

 「そんなのわかんねえよ!」

 アズは苛立たしげにサスケに背を向けた。勝負を挑まれた。どうして普通に闘ってはいけないのか。

 どうして他の人と同じように生きられないのか。表情を暗くして考えているとサスケが言った。

 「よし!雉を捕りにいこう。絶好のポイントを知っているんだ。焼いて食うとうまいぞぉ。お袋さんにも持っていけよ。雉を食べさせて早く病気を治してもらおうぜ」


 絶好のポイントとかなんとか自慢げに言ったわりには雉は中々その場所に現れなかった。そして長いこと待って現れたのは夕方も終わろうとしていた時だった。

 湿原に数匹現れたのに気を良くした二人は全匹捕まえてやろうと機会をうかがって飛び出した。だがすぐに気づかれてしまった。

 そしてなんとか捕まえられたのはたった一匹だった。しかも発育の悪い小さめの雉だ。サスケは面目なさそうに頭を掻いて謝り、それを一人で持っていっていいと言った。

 サスケはアズの家のことを心配してくれ雉捕りに長い時間、付き合ってくれた。彼に食べさせないのは悪いと思い夕食に誘った。

 サスケは天涯孤独の身である。なので食事はいつも一人だ。誘われたサスケはとても喜んだ。イリアもサスケがたまに顔を見せると喜ぶ。

 彼女は同じ辛い境遇にある彼に同情を覚えていたのかもしれない。二人は夜の帳が完全に下りてしまったので急いで家路に着いた。

 暗くなった森の中を駆けていくとやがて村の灯りが見えてきた。と、前を走るサスケが急に足を止めた。

 「サスケ?」

 アズが訝しげにサスケを見るとサスケは無言で前方を指差した。アズがその指先の先を見るとアズの家の前に人影が数人、見えた。

 なんだ、あいつら?盗人や強盗の類いではないだろう。村は貧しいというほどでもないが豊かでもない。

 村の統治機構がしっかりしているので犯罪人が出ることも稀だ。また近くに山賊が出たという話も聞こえない。

 訝しげに村の柵を乗り越えて近づくと人影の一人がアズに気づいて駆け寄ってきた。近所の中年男だった。

 その人は近所であることと出奔した父と面識があったのでちょくちょく面倒を見てくれる親切な人だった。

 アズとサスケはばつが悪そうに後ろに雉を隠した。森は領主のものである。そこで勝手に狩りをすることは許されない。

 猟果が少なければおめこぼしはあったがやはり気まずかった。男はそんな二人の気も知らず気の毒そうに言った。

 「アズ。お母さんがな。お母さんが・・・」

 男の暗い表情にはっとなった。愕然と視線を家に向けた。アズの手から雉が落ちた。

 「母さんが?まさか・・・!」

 アズが家に向かって駆け出した。

 「おい。どうしたんだよ、アズ?アズ!」

 サスケはそのアズの急な行動が理解できなかったがとにかくその後を追った。

 <5>

 家に駆け込むと狭い室内に大勢の村人がひしめいていた。

 「どけっ。どいてくれ!」

 村人はアズに気づくと素直に道を空けてくれた。人垣が割れるとその先に寝台に横たわったイリアの姿が見えた。

 頬は土気色で目は閉じており胸の辺りで手が組み合わされている。アズは震える声で言った。

 「嘘だろ・・・なんで急に・・・」

 村人達が呆然となったアズから痛ましそうに視線を背けた。アズがゆっくりと寝台に近づいた。足取りはおぼつかなく雲の上を歩いているようだった。

 ようやくイリアの脇に着いた。ふと気づくと彼女の頭のすぐ脇のところに村の神父の姿があった。急にかっとなった。

 「なんであんたがここにいるんだよっ!祝福を受ける時でもねえし死人もいねえっ。すぐに出て行ってくれ!」

 神父は諭すように言った。

 「アズ。気持ちをしっかり持つのだ。お母さんは神のもとに召されたのだ。それは決して悲しむべきことではない」

 「嘘だ!俺は母さんと今朝もちゃんと話をした。それがなんで死ぬんだよ!」

 神父は溜息をついて言った。

 「人は死すべき運命を背負わされている。だがそれで終わりというわけではない。人は善行によりヘブンに転生しそこで永遠に幸せに暮らすのだ。お母さんも今きっとそこでお前の幸せを願っている」

 「そんなもん、信じられるかよっ」

 アズは震える手でイリアを揺すった。

 「なぁ。母さん。冗談だろ?さぁ目を開けてくれよ。もういいよ」

 アズは泣き笑いのような表情でイリアの肩を揺すった。いつまでも揺すっているアズにサスケが涙を浮かべ後ろから抱きとめて止めさせた。

 「もういい。アズ。もういいんだ」

 アズの目から大粒の涙がこぼれた。

 「ははは・・・マジかよ。親父の次は母さんかよ。なんでみんな俺を置いて行くんだよ。そんなに俺が可愛くねえのかよ」

 神父がそっとアズを母だったものから引き剥がそうとした。

 「さぁアズ。一緒に祈ろう。お母さんが無事ヘブンにたどり着けるように」

 アズはしばらく俯いて震えていた。そして急に立ち上がると村人達に叫んだ。

 「出て行ってくれ!二人っきりにしてくれ!」

 アズはサスケを含む全員を家から追い出した。サスケは最後に家から出される時アズに何か言おうとした。

 だがそれよりも早くすべてを拒絶するかのように戸がばたんと閉められた。


 サスケは気になって翌朝もアズの家を訪ねた。だが戸を何回ノックしても大声で呼びかけても反応はなかった。

 まだ悲しみに打ちひしがれているのだろうか。諦めて帰ろうとした。だがふと家の煙突から煙が出ていないのに気づいた。

 村は山間の盆地にある。竈に火を入れていないと寒くて凍えてしまう。不吉な予感がして戸口に戻った。

 「アズ!」

 戸を激しく叩いた。

 「いるなら返事くらいしろ!」

 その時、激しく叩かれた戸が内側に少し開いた。どうやらかんぬきはかかっていなかったようだ。飛び込むようにして中に入った。

 室内は鎧戸が閉まったままなので暗かった。すぐに窓を開けて光を入れた。だがそこにはアズも冷たくなったイリアの姿もなかった。

 サスケは呆然と立ち尽くした。

 「あいつ・・・どこに行きやがったんだ?」

 家の外に出た。重い表情で思案していてふっと閃いた。アズが心休まる場所。森の空き地!サスケは森の中に入って飛ぶように駆けて行った。

 やがて空き地に着いた。だがそこに期待した彼の姿はなかった。空き地の中に入って大声でアズの名を呼んだ。

 だが声は反響するだけで応えはない。サスケが呆然と立ち尽くしていてふと折れた古木の傍に盛り土があるのに気づいた。

 急いで駆け寄ってみると盛り土の上に短い板が突き刺さっておりイリアの名が彫られてあった。それは間違いなくアズが打ち立てたイリアの墓標と思われた。

 サスケは盛り土の前で片膝をつき両手を組んで瞑目した。

 「小母さん・・・どうかアズを守ってやってください」


 用件を済ませると一礼して執務室から出て行こうとした。するとオットーハイム男爵が言った。

 「セイジがまたおかしなことをするそうじゃないか」

 シイプは一瞬、男爵が何を言っているのかわからず首をかしげた。

 「は?」

 「アルム村での決闘騒ぎのことだ。息子とはいえ我が領地で妙なことをされては困る。お前はあれの監督をちゃんとしておるのか」

 シイプは恐縮した態を装っていたがいい機会だと思った。あれから色々と考えたがやはりどう考えても決闘は両者に対してなんら益するところがない。

 セイジはもちろん真剣を使用しアズは恐らく素手で闘うつもりだろう。アズは素手といっても魔物退治でその拳が生物の生命を奪えることを証明した。

 どちらも危険であることに変わりないのだ。もちろん気持ちはセイジ側にあるがどちらが亡くなっても男爵家の不利益になると考えている。

 自分が諌めてもセイジは考えを改めないだろう。であれば男爵から窘めてもらうしかないと考えていたところだったのだ。

 「そのことなんですが・・・」

 「なんだ?」

 「監督を任せられた私が申し上げるのもなんなのですがセイジ様は最早、私の申し上げることをお聞きになりません。

 そこで大変、お手数なのですがお館様からセイジ様に決闘を取りやめるようおっしゃっていただけないでしょうか」

 男爵はそれを聞いて少し怯んだように見えた。

 「馬鹿を言え。教育はお前や他の教師達に任せている。なんで今更、私が口を差し挟まねばならんのだ」

 「私どもが申し上げるよりもお父上であるお館様のお言葉のほうが効果があると考えます。どうかご一考を」

 「話にならん。職務怠慢じゃないか。自分で正しいと思ったことをセイジに教えるのだ。よいな」

 どこか逃げるように男爵は話を打ち切った。仕方なくシイプは一礼して退出した。そして通路に出て思った。

 やはりお館様はセイジ様を敬遠されているのだ。何か口出ししようものなら剣を抜きかねないと恐れておられる。

 ご自分の息子を恐れる。ああ、なんということだろう。最早こうなったら誰もセイジ様をお諌めできないだろう。

 後、自分にできることといえば事後、両者が大怪我をしていないことを祈るだけだ。シイプは憂いた表情で窓から曇り空を見上げた。


 アズを探しに森の中を歩き回って瞬く間に数日が過ぎた。幾度アズの名を呼んだかわからない。だがアズは見つからなかった。

 この森に住み着いて十年近くになる。ほぼ自分の知らない場所はないといっていい。だがどういうわけかアズの影も形も見つからない。

 サスケは心配した様子で森の中をとぼとぼ歩きながら思った。まさかオットーハイム領から出て行ってしまったんじゃないだろうな。

 これまでアズは村人から重罪人の息子と後ろ指指されてきた。次に領主の息子からは勝ってはいけない決闘を申し込まれた。

 そして挙句の果てには仲良く暮らしていた母が死んでしまった。もうあの村にいても仕方ないと思っても無理はない。

 だけど・・・。サスケは胸の中を乾いた風が吹き抜けるのを感じた。でも親友の俺っちがいるじゃないか。

 その俺っちに一言もなく旅立っていくなんてあまりにも薄情すぎやしないか、アズよ。どこかやりきれぬ想いを抱いて南に向かって歩いていくといつもの空き地が見えてきた。

 サスケはその空き地をぼうっと眺めた。少し前まであの中心には古木がありその周りでアズと自分が・・・。

 そう考えていた時、急に目を見張った。あの墓標の前に人影を認めたからだ。まさか!?サスケは期待を胸にそこまで全力で走った。

 人影の容貌が段々と明らかになっていく。人影が気配に気づいて振り返った。サスケは涙が出そうになったがなんとか堪えて叫ぶように言った。

 「この馬鹿野郎!どこ行っていやがった!」

 言葉とは反対にアズに抱きついていた。アズは戸惑った様子でサスケを見下ろした。

 「俺っちはな。俺っちはな・・・」

 後は言葉にならなかった。アズはサスケの想いをすぐに察して言った。

 「すまねえ。しばらく一人になりたかったんだ・・・」

 サスケははっとなってすぐに身を離した。

 「そ、そうだよな。あんなことがあったんだもんな」

 アズが墓標を見た。紫の小さな花が供えてあった。

 「この花、お前が供えてくれたのか?」

 「ああ。小母さん、この花が好きだったろ」

 二人は思い出に耽るようにしばらく墓標を見下ろした。やがてサスケはアズが薄茶色の巻物を持っているのに気づいた。

 「アズ、それなんだ?」

 アズがそれを開いて見せた。そこには簡単な人の絵が描かれており文字も多く書かれていた。サスケはそれが何を意味するのかすぐにわかった。

 「この絵。お前がいつもやっている武術の動きと一緒だ」

 するとアズが目を光らせて頷いた。

 「そうだ。これは閃光拳の絵だ」

 「せんこうけん?」

 アズは説明した。これは羊皮紙といって字を書くための羊の皮で父ファスが唯一残していったものだという。

 イリアはこれをファスの代わりのように大事に保管していた。アズは小さい頃から父恋しさにちょくちょくそれを盗み見ていた。

 そして長じるうちに絵や文章の内容が次第に理解できるようになっていった。アズが遠くを見るようにして言った。

 「父さんは腕自慢だった。たぶんこれは闘い方の内容が書かれたものなんだと思う」

 サスケは物珍しそうに羊皮紙を見た。

 「これ、字だろ。俺っちには読めねえや。んでもこれ、ところどころ剥がれて薄くなっちまっていてもう読めないところも結構あるな」

 「かまわないさ。大体わかれば」

 その時サスケははっとなってアズの顔を見た。

 「おめえ。まさかあいつとやるつもりになったんじゃ」

 アズは決意を込めた顔で頷いた。

 「もう母さんはいない。だからなんら気兼ねする必要もなくなった。母さんは喜ばないかもしれないけどこれは俺が挑まれた闘いだ。だから好きにする」

 アズの決心が揺るぎないものだと感じてサスケも表情を引き締めて頷いた。そしてふっと笑うといきなりアズの肩を強く叩いた。

 「いてっ。なにするんだよ」

 「なにが貴族だ、俺っち達を舐めやがって。貴族はなにをしてもいいと思っていやがる。一丁かましてやれ、アズ。俺っち達だってやる時ぁ、やるんだってな」

 アズは勇気付けられたように笑顔で頷いた。

 

 村広場には多くの村人が集まっていた。広場の中心には周囲とそこを隔絶するように円形に柵が設けられている。

 村人達はその外でガヤガヤと騒いでいた。柵の中には二人の男がいた。セイジとシイプだった。セイジは腕を組んで仁王立ちしていた。

 傲然としているがやはり少し緊張の色が見られた。シイプは少し憂いを帯びた表情でその傍らに立っている。

 少ししてセイジは柵の外の、一番近くにいる中年男性に声をかけた。

 「アズはまだか?」

 中年男性は恰幅がよく村で相応の地位のある者に見えた。男が少しおろおろして周囲を見回してから言った。

 「はっ。未だ到着していないようです」

 シイプが注意するようにセイジに言った。

 「イライラしてはいけません。大きな気持ちで待つのです。心の乱れた状態で決闘に臨むのは危険です」

 「わかっている」

 セイジは苛つきを見せて言った。シイプが諭すように言った。

 「セイジ様は手痛い敗北を経験されて成長なさったのではありませんか。どんな相手でも心を落ち着けて全力で立ち向かうことができるよう、この日まで準備は充分になさったのではなかったのですか」

 そう言われてセイジの心はいくらか落ち着きを取り戻した。そう。この日まで念入りに準備してきた。負ける要素は完全に排除できたはずだ。

 同じ轍は二度と踏むまい。セイジの脳裏に昨日までのアズ対策が思い起こされた。恐らくアズは素手で立ち向かってくるだろう。

 対して自分は剣。細身の剣だが圧倒的有利なのは間違いない。ただ残念なのは木剣や戦時用の厚刃の剣ではないことだ。

 昨日、父に釘を刺された。決闘をするのはお前の自由だが正式な決闘で練習用の木剣や戦時用の広刃の剣を使うのはいかがなものか。

 木剣で闘うなど前例がないし厚刃の剣では農民を恐れていると他の貴族に嘲笑されかねぬ。農民相手なら平時用の細身の剣で充分。

 そう言われて仕方なく細身の剣にしたのだ。まぁいい。奴の体は魔物並みに頑丈なわけではない。

 注意すべきはその素早い動きと攻撃だ。聞けば森や山を普段から駆け巡っていたという。その急勾配をものともしない足腰の強さは脅威だ。

 しかしこっちだって負けちゃいない。自分も足腰は充分に鍛えてきた。負ける要素は何一つないはずだ。

 何一つ・・・。その時、村人の鋭い声に我に返った。

 「アズが来たぞ!」

 はっとなって見ると人垣の割れた向こうから二つの人影がこちらに向かって歩み寄ってくるのがわかった。

 前を歩くのは間違いなくアズだ。後ろに続く少年はどうでもいい。セイジは血が猛るのを感じた。いよいよこの時が来たのだ。

 魔物を退治してこの地方から名を上げようという目論見はあっけなく頓挫してしまった。だがここにはまだアズがいた。

 アズは魔物を倒した英雄だ。あいつを倒せば魔物を倒したのと同じくらい名を馳せられる。セイジは組んでいた腕を解いて向かってくるアズに鋭い視線を投げかけた。

 アズの顔も緊張のためか強張っていた。やがて二人は五メートルほど距離を置いて向かい合った。

 シイプは二人の中間に立つと双方の顔を見て言った。

 「決闘はオットーハイム領で行われるため立会人はこのオットーハイム男爵家執事シイプが取り仕切る。双方とも異存はないな?」

 二人は互いを見合ったまま頷いた。シイプが続ける。

 「決闘は私闘ではない。家と己の名誉を賭けた、尊い闘いである。互いに敬意を払い、名誉を汚すような卑怯な振る舞いは慎むように。

 立会人は勝負が決したと判断した時、止めに入る場合がある。両者、遺恨を残さぬよう全力で闘うように。では始め!」

 対峙する二人からシイプとサスケが離れた。

 <6>

 シイプの手が上がるや否やアズがセイジ目掛けて突っ込んだ。相手はただの武術好きの若殿だ。本物じゃねえ。

 一気に勝負をつけてやるぜ!アズは間合い近くまで走り寄ると大きくジャンプした。そして宙でセイジの胸元目掛けて右足刀を伸ばす。

 セイジは愕然となった。不意を食らった様子で動けないようだ。だがその時、鋭い声がセイジの体を貫いた。

 「セイジ様、しっかりなさい!」

 それでセイジは動けるようになった。そして大きく舌打ちして後ろに下がった。だが逃げる分、足刀も伸びてくる。村人の一人が失望ともとれる声を漏らした。

 「あ〜。もう終わりかな?」

 その時セイジの胸に負けん気が強く沸き起こった。負ける?ふざけんな!だが足刀は容赦なく喉元に伸びて来る。

 当たる!?セイジが体を強張らせた時だった。不意に後退していた足が何かを踏んづけた。小石だ。こんな時になんてことだ!

 「ああっ!?」

 避けようともがいていたこともあって簡単に倒れてしまった。だがそれがセイジの命運を救った。倒れた後一瞬の間を置いてアズの体がその上を飛び越えていく。

 助かった!セイジは信じられぬ思いで上半身を起こした。一方アズも驚愕の思いで着地した。こいつ、あの崩れた体勢でよくかわしやがったな!?

 だがアズは間を置かなかった。体をくるりと回転させてセイジに向き直ると再び距離を詰めた。セイジは予想外の幸運で難を逃れたものの、まだ迎撃する体勢が取れていなかった。

 アズは猛獣さながらの形相で「うおおおおっ!!」と咆哮しながら腰を地面につけて呆然となっているセイジに向かって突進した。

 そこにまたシイプの叱咤が飛んだ。

 「しっかりなさい!」

 セイジがはっとなった。アズは苦々しく思った。このおっさん、立会人とかいってやっぱりセイジの味方かよ。

 アズは構わずセイジに迫った。セイジは動転から完全に抜け出してはいなかったが急いで立ち上がって腰の鞘から剣を抜いた。

 アズはそれを見て急ブレーキをかけて立ち止まる。セイジは激怒して言った。

 「この卑怯者め!」

 アズは眉をひそめた。

 「卑怯者?どこが」

 「決闘の手順を無視していきなり仕掛けてきただろう!」

 アズはさらに戸惑った表情になった。

 「手順?手順って、なんだ?」

 「この田舎者め!そんなことも知らんのか」

 「田舎者で何が悪い。第一ここは田舎だ。それにあんただってこの地方に住んでいるんだから田舎者じゃねえか」

 セイジはうっと詰まったが気を取り直して言った。

 「決闘の手順とはな。最初に礼をして互いに様子を見て、そして軽く剣を触れ合わせてから本番が始まる。それを完全無視しやがって!」

 「ケッ。そんなの知るけぇ。こっちは貴族様じゃねえ。平民の、しかも最下層の人間だ。第一、剣さえ持ってねえ。どうやって剣を触れ合わせるんだ」

 そのやり取りをサスケがはらはらして見守る。

 「ああ、そんなこと言っちゃ駄目だって。相手は貴族なんだぞ」

 今度はセイジが動いた。いきなり間合いに入るや剣を上段に振りかぶった。

 「せりゃっ!」

 鋭い銀光が弧を描いて斬りかかる。そのあまりにも速い剣速にアズは驚愕し慌てて飛びのいた。はっ、はえええっ!?

 セイジは振り終えた後も素早くまた間合いに入って剣を振り上げる。

 「わわわっ!?」

 アズは真っ直ぐ下がるのは危険と見て急いで右横に飛んだ。

 「逃がすかっ」

 セイジはすかさず剣を左水平に振る。アズは思いっきり後方に飛んで切っ先を避けた。それからもセイジの猛攻は続いた。

 袈裟斬り。水平斬り、跳ね上げ斬り。速い剣さばきもさることながら気迫も凄かった。アズは冷や汗をかきながら白刃の下をかいくぐって思った。

 俺、こいつにこれほど怒らせるようなことしたか!?その時サスケの声がした。

 「何やってんだ、アズ!反撃しろよ、反撃!」

 その時のアズには答える余裕すらなかった。凄まじい気迫と速い剣さばきにはやや慣れてきたものの、反撃するにはまだ問題があった。

 それは間合いである。相手の攻撃が届く距離とこちらの距離は全然、違う。セイジは剣という得物のお陰で遠間からこちらを攻撃できるのだ。

 対してアズが攻撃するにはそこからさらに二歩も三歩も踏む込まなければならない。逃げるアズにセイジは調子に乗ったのかスタミナを考えず剣を振り回してくる。

 いやセイジはまだ若い。それに何時間でも剣を振り回せるよう訓練してきた。後一時間は楽に剣を振っていられるだろう。

 そして調子が出てきたセイジの剣がアズの体を掠めるようになってきた。それを見た村人らが息を呑む。サスケが蒼白になって言った。

 「アズ!逃げろ!距離を取れ!」

 アズは白刃を避けながら思った。さっきは攻撃しろと言ったくせにもう逃げろ、かよ。コロコロ考えが変わる奴だ。

 だが今のところアズには逃げる他に戦法はなかった。セイジは優勢になって気分を良くし、このまま攻撃を続ければいずれアズを捉えられると思っていた。

 だが剣を振り続けているうちにどうも違和感を感じるようになった。まず握った剣の柄がしっくりせず剣の重量が軽すぎるように思えるのだ。

 訓練には頑丈なオークの木で作った木剣を使っていた。そして柄が太くしっかり握れる。また重量も通常の剣より随分、重い。

 いつの間にか体がそれに慣れてしまっていた。そのためこの細身の剣がしっくりこないのである。もちろん決闘に木剣を持っていこうかどうか思案した。

 だが貴族が決闘に木剣を使用するなど前代未聞だ、家の恥だと父から横槍が入った。そのため断念せざるを得なかったのだ。

 アズを捉えた!と思うことが何度かあった。だが強く振ると剣が手からすっぽり抜けてしまうような感覚がして狙ったところから僅かにズレてしまう。

 真剣勝負にこれではいけない。少し剣速を落として注意深く狙うことにした。アズは白刃を相手にしているため全身を感覚器官のようにして闘っている。

 なのでセイジのそんな微妙な変化にすぐに気づいた。剣速が遅くなったと気づくや相手が振り上げた時を狙って思い切ってその懐に飛び込んだ。

 「ぬっ!?」

 驚愕するセイジの顔面に右上段突きが入った。だが白刃を恐れているためか踏み込みが甘く当たりは浅かった。

 セイジは頬を押さえて二三歩、後方によろめいた。だがすぐに凄まじい怒りの目をアズに向けた。

 「おのれぇ〜。オットーハイム家の陶器のごとき貴き肌に道端の土や糞尿で汚れた手で触れおってぇ〜〜!」

 それを聞いたアズは一瞬、呆然となった。

 「なんだって・・・道端の土で汚れたクソまみれの手だって・・・ふざけんのもたいがいにしろよな!貴族と農民のどこが違うっていうんだよ!

 同じ人間じゃねえかっ!それに決闘に身分なんて関係あるかよっ!その場に立てば殺るか殺られるかだ!寝言、言ってんじゃねえよっ!」

 サスケが顔を手で覆った。

 「あっちゃあ〜。貴族の息子に寝言とか言っちゃった・・・」

 セイジも憤然となって言い返した。

 「貴族は選ばれし民なのだ。我々は生まれた時から貴様ら平民を支配する義務を負い、生殺与奪の権を握っておるのだ!

 貴様のように自由に生きている農民などには義務の重さなど想像もできまい!」

 「農民が苦労していないっていうのか!?その義務とやらより楽しているっていうのか!?ふざけんじゃねえよっ!」

 アズの凄まじい怒りにセイジは気おされた。そしてアズは怒りに任せて突っ込んでくる。セイジは一瞬、逡巡した。

 こいつ、斬られるつもりか!?なら望み通りにしてやろう!アズは頭に血が昇っているように見えた。

 その時だった。サスケの叱咤する声が聞こえた。

 「馬鹿野郎!お前が死んだら小母さんが悲しむだろう!頭を冷やせ!」

 はっとなって足を止めた。だがその時にはもう上段からうなりを上げて剣が振り下ろされてきた。

 「くっ、くそ!」

 咄嗟に左に身を倒した。

 「痛っ!?」

 右肩に鋭い痛みが走った。だがこらえて距離を取る。右肩の辺りからシャツ越しにじわじわと赤い染みが浮かんでくる。サスケが動転したように言った。

 「アアア、アズ!おい、大丈夫か!」

 アズは左袖を歯で引きちぎりそれを右肩に巻きつけた。

 「心配ない。掠り傷だ」

 確かに出血はすぐに止まったものの、斬られたという心理的ショックでそれからのアズの動きは著しく鈍くなった。村人らはそれを見て暗然と言った。

 「ありゃあ時間の問題だな」

 「元々、俺達が貴族様に逆らっちゃいけなかったのさ」

 「アズは罪人の子だ。それを教えてくれる親父がいなかった」

 「運が悪かったな」

 そうこうしている間にアズは柵まで追い詰められていた。それを見たセイジの目が強く光った。後方にはもう逃げ場はない。

 左右にも目を配って牽制し逃げると斬ると威嚇した。もうアズに逃げ場はどこにもないはずだった。大きく踏み込んで上段から振り下ろした。

 勝った!アズを真っ二つにできるほどの剛剣だと思った。アズも退路を絶たれたためこの時は竦みあがった。

 やっ、やべぇ!?だがその時、予想外のことが起こった。動揺したアズは思わず足をよろめかせて柵に背を打ちつけた。

 剣は凄まじい勢いでもって頭上に降りてくる。アズは目を瞑った。観衆の中から悲鳴が聞こえた。ガッと音がした。

 アズの筋肉がこれ以上ないくらい強張った。斬られた!?アズの脳裏に両親の記憶がよぎった。親父、母さん、ごめん。

 俺、そっちに行きそうだわ。力がなくてごめん。腕自慢の親父の息子がこのザマだよ。言うことを聞かなくてごめん、母さん。

 言うことを聞いていればもっと長生きできたかもな・・・。アズの全身からゆっくりと力が抜けていった。その時サスケの声が耳に入った。

 「何やってんだ、アズ!チャンスだ!今だ、やれ!やっちまえ!」

 チャンス?どういうことだ?訝しげに目を開いた。するとすぐ近くでセイジが必死に何かやっている。

 なんだ?俺は死ぬんじゃなかったのか?訝しげにセイジをよく見た。すると柵の最上段に剣が深く食い込んでいてそれをセイジが必死に外そうとしている。

 転んで崩れ落ちたため剣が柵に当たって斬られるのを防いでくれたのだ。またサスケの焦れた声が聞こえた。

 「早くやれっての!俺っちの声が聞こえないのか!」

 アズはセイジの状態を見た。全身がら空きじゃないか。だが顔面を狙おうとすればさすがに気づかれて防御されるだろう。

 ならば尻餅をついたこの状態から打てる攻撃で狙える箇所といえば・・・ここだ!目の前に出されたセイジの右膝に不十分な体勢ながら左下段回し蹴りをぶち込んだ。

 「ぐわっ!?」

 不意をつかれたセイジは堪らず膝を押さえて後ろに倒れる。下がった勢いで剣も一緒に柵から抜けた。サスケが歓声を上げた。

 「やった!でももっとだっ。もっとやっちまえ!」

 アズはバネ仕掛けのように立ち上がって猛然と襲い掛かろうとした。だがセイジは左手で体を支え右手の剣で向かってきたアズを水平に薙いだ。

 アズは慌てて飛びのいた。その隙にセイジがなんとか立ち上がる。そのギリギリの攻防に観衆から緊張の吐息が漏れた。

 再び両者は少し距離をとって睨みあいとなった。


 シイプは息がつまるような両者の緊張感ある攻防を近くで見ていた。セイジが有利になると心の中で声援を送りピンチになると自分のことのように冷や汗をかいた。

 闘いは随分と長引いていた。もう三十分は経っただろうか。だが両者ともいい表情をしている。二人は先日までなにもかもが気に入らないような鬱屈した表情をしていた。

 だが今では充実した緊張感のあるいい表情になっている。気持ちはセイジのほうにあるがアズだって男爵領の領民だ。

 決して亡くなっていい命ではない。仕事は真面目にやっているし腕も立つ前途有望な少年だ。それがこんなことになろうとは。

 シイプは勝負を見守りながらも必死に考えた。闘いは白熱してきた。両者とも手傷を負っている。このままではどちらかの生命が失われてしまう。

 なんとかこれ以上、傷口を広げずに終わらせることはできないだろうか。

 <7> 

 村人達は最初はアズの残虐な処刑になるしかないと恐々と見守っていた。貴族と農民の決闘である。

 通常ならありえない。だがそれが行われるとなると勝負なんてものにはならず決闘という名を借りたアズの残酷な公開処刑になると思っていた。

 だが蓋を開けてみればセイジは特に卑怯な振る舞いはせず正々堂々と闘っている。またアズも身分の差に萎縮した様子も見せず奮闘している。

 両者の闘いを見た村人達はそのうち公平に両者に声援を送れるようになった。ある村人が隣の村人に言った。

 「アズが最初に手傷を負った時ぁ、やっぱ駄目かなと思ったけんど徐々に持ち直してきたな」

 「ああ。でもさっきのはヤバかったべ。柵まで追い詰められた時だあ。もう駄目かとおらぁ、目を瞑っちまった」

 「今度はアズの番だべ。アズの野郎、随分頑張っているっぺ」

 「セイジ様ももう打つ手がないって感じになってきたな」

 すると彼らの後ろから声がした。

 「いや。勝負はまだわからんぞ」

 振り向くといつの間にか騎士のいでたちをした男が腕を組んで勝負の行方を観戦していた。騎士は堂々たる偉丈夫で風格があった。

 腰に刷いた剣の拵えも立派で名のある騎士なのかもしれない。村人達は恐れ入った様子で尋ねた。

 「あの。まだわからねえってのはどういうことで?」

 男は観戦したまま言った。

 「あの剣士はお前達の目から見れば技を出し尽くしたかのように見えるだろう。だが私の目にはそうは映らん。

 何か最後の手を残している。私のカンがそう告げているのだ」

 村人らは顔を見合わせたが互いにわからず首をかしげた。アズは気迫で攻め立てていた。相手の攻撃を注意深く警戒しつつ鋭い上段突きと下段への素早い蹴りでセイジを追い詰めていく。

 今度はセイジを柵に追い詰めてやろうと思った。だがいつも後一歩というところで反撃を許し最後の一手までいくことができない。

 アズは少し焦りを感じ始めていた。序盤で受けた右肩の傷が悪化してきたのだ。痺れが肩全体に徐々に広がっており指先の感覚もなくなってきている。

 このまま時間が経てば右からの攻撃が不能になる可能性がある。左からの攻撃ももちろん充分に鍛えてきたつもりだがそこは利き腕ではないので不安が残る。

 早く勝負をつけなければ。アズはそう焦っていた。一方セイジのうほうは攻撃が単発になっていた。

 さきほどまで多彩な技を頻繁に繰り出していたが今ではピンチの時以外はほとんど手が出せなくなっている。

 観衆は疑問に感じているだろう。実は追い込まれて手が出なくなったわけではなかった。さきほど柵のところで受けた右膝への攻撃が効いてきたのだ。

 あの時アズは下からセイジの右膝に回し蹴りをくれた。その時は衝撃を感じただけでさほど痛みはなかった。

 だが時間が経つにつれて段々と痛みは増し今ではズキズキと強く痛むようになっていた。これでは強く踏みこめない。

 すなわち腰の入った攻撃が望めない。それで致命傷を与えられない。いや腕力だけでも首、喉、手首、目など急所を狙えば充分、逆転は可能だ。

 だがそこは急所だけに相手も充分、警戒しているだろう。簡単に決まるとは思えない。もしこれ以上、踏ん張りが利かなくなったら勝負は負けだ。

 足が利くうちに早く決着をつけないといけなくなった。だがセイジには奥の手がまだ残してあった。勝負の決め所で出そうと温存していた必殺技だ。

 だがその技も足が利かなければ宝の持ち腐れとなる。そこでセイジはある賭けに出た。アズはセイジが急に左手の平をこちらに向けたのに眉をひそめた。

 攻撃ではない。明らかに待て、と言っているように思えた。アズは馬鹿正直に足を止めた。するとセイジが言った。

 「これまで互いに健闘してきた。が、少々泥仕合の様相を呈してきた。このままでは互いに浅手を負うばかりで埒が明かん。そこでどうだ?一発勝負で勝敗を決しないか?」

 「一発勝負?」

 「そうだ。互いに全身全霊を込めた一撃で勝負を決しようというのだ。だが必ずしもその通りでなくともよい。

 相手の一撃を避けてから攻撃するもよし。俺の申し出を断ってもよし。さぁどうする?」

 シイプはその言葉を聞いて悟った。今やセイジの形勢は明らかに不利だ。だからあの必殺の一撃にすべてを賭けて形勢逆転を図るつもりなのだ。

 あの必殺の一撃で。アズはその申し出を考えた。右肩の感覚が失われようとしている。セイジがどんなつもりか知らないがこちらとしては好都合だ。

 承知しようとした。その時サスケの声が飛んだ。

 「アズ、受けるな!何かの罠に決まってらぁ!」

 罠。それは考えていなかった。これまでセイジは正々堂々と闘ってきた。だがここにきて罠に頼ろうというのか。

 いやセイジの真っ直ぐな性分からしてそれは考えにくい。ならば罠ではなく奥の手があるということなのか。

 面白い。アズは微笑して言った。

 「その勝負。受けたぜ!」

 「アズ!」

 サスケの咎めるような叫びにもう耳を貸さなかった。勝負しているのは自分。決めるのは自分なのだ。

 セイジが額に汗を浮かべたまま微笑した。

 「いい覚悟だ。敵の申し出なのに思い切りがいい・・・」

 「ふん。殺るか殺られるか、だ」

 セイジが左足と左手を前に出して腰を沈めた。そして剣を持った右腕を後ろに引く。それを見てアズは慄然となった。

 セイジは何か必殺の一撃を隠し持っている!セイジの表情は死への覚悟を決めたように静かになった。

 だが全身から噴出する気迫は怒涛のようにアズを押しつぶそうとする。

 「アズ!」

 サスケの顔をちらっと見た。必死な表情で何か訴えかけている。アズは頷いてみせた。考えは同じだ。

 あれをやる時がきたのだ。二人は同時に想った。閃光拳。シイプは手に汗握ってぶるぶる震えていた。

 あれだ。セイジ様はあれをやろうとしている。城館、裏庭の巨岩をぶち砕いた、あの必殺の突きを。前回、魔物との対決では技は決まらなかった。

 だがそれからさらに訓練して精度と速度、貫通力を磨いた。前回よりも数段、殺傷力は増している。

 あれをくらえば死は免れない。確実に、だ。人体など岩の硬度に比べたら薄絹に等しい。やはりあの少年は、アズは死ぬしかないのか。その時、観衆から訝しげな声が漏れた。

 「あれ?」

 「ああ。二人とも同じ構えをしているように見えるな」

 観衆の見て取った通り二人は偶然にも同じ構えを取っていた。左手を前に出して右手を後ろに引いた構え。

 二人の間にぴりぴりとした強い緊張感が流れていた。観衆の目にも二人の間に流れる気迫がまるで帯電してパチパチと火花が散っているように見えた。

 二人は極限まで集中力を高め、「その時」を待った。それまでざわついていた観衆の口もいつの間にかぴたりと閉じていた。

 誰かがごくりと唾を飲み込んだ。サスケはアズと一緒になって闘っているような気持ちになり口の中がからからに乾いた。

 アズと同じセイジの構え。あれはどう見ても尋常じゃない。アズと同じでどう見てもの必殺の威力を秘めていそうだ。

 まさに殺るか殺られるか二つに一つだ。当然、武器を持っているほうが有利だ。そう考えるとセイジの勝つ可能性が高いんじゃ・・・。

 サスケはその考えを頭を振って追い払った。不吉なことを考えるのは止めろ。今はアズを信じて見守るしかない。

 アズよ、いけっ!二人はまだ動かない。そしてどのくらいそうしていただろうか。ずっと変わらない様に見えたが実は二人の集中力は今にも破裂しそうはほど高まっていた。

 と、そこにカラスがやってきて上空を旋回した。そして下に滑空してきて柵に止まった。その赤い目が対峙した二人を映した。

 カァと啼いた。それが二人の緊張を破った。互いに猛然と走った。身を低くして疾走するさまはまるで放たれた矢のようだ。

 先にセイジが足を止めた。当然、剣を持つセイジのほうが間合いは広い。途端に痛めた右足に激痛が走った。

 だがそれに構わずアズ目掛けて必殺の悪魔砕きの突きを見舞った。それは空気を切り裂いてまっすぐアズの顔面に向かっていく。

 アズはその時セイジが足を止めたのを気に留めていなかった。ただひたすら自分の間合いに体を突っ込ませようとしていた。

 その時、前方でキラッと何かが光ったのに気づいた。なんだろう?小さな光だった。夜空にきらめく星星のように思えたがそれは明らかに殺意を持っていた。

 頭の中で悲鳴が起こった。誰の悲鳴?村人?サスケ?いや・・・母さんのだ!はっとなった。小さな光が急激に大きくなって目前に伸びてくる。

 それは魔物の目に勝るとも劣らない禍々しい光を宿していた。

 「くうううっ!?」

 僅かに顔を振った。頬に鋭い痛みが走った。その時ようやく自分の間合いに到達した。そう感じた時、足が地面を思いっきり踏みしめた。

 踏みしめた瞬間、大地のエネルギーが跳ね返ってきた。それは足の裏から体に入って螺旋上昇していく。

 すぐにそれは腰に伝達され、さらに背中を通って肩から肘に回される。そして拳に到達した!その時、拳の皮膚に何か柔らかいものに当たった。

 瞬間、拳から圧縮されていた膨大なエネルギーが放出されて爆発する。その時、意識の片隅でまた悲鳴のような声がした。

 いけない!その人の命を奪ってはいけない!アズは瞬間、拳を緩めた。そのため爆発のエネルギーが四方に拡散される。

 アズの前で何かが吹っ飛んでいくのが見えた。激しいエネルギーの放出で突き出した拳がビリビリ震えていた。

 爆発させたエネルギーが空気中に拡散されて次第に薄まっていく。やりきった。そう思った。全力を出し尽くした。

 これで勝てないのなら負けても仕方ない。そう感じた。そしてどのくらいその構えのままでいただろうか。

 ぼんやりとしていた目の前の光景が次第にはっきりとしてきた。数メートル先で誰かが倒れている。誰だろう?

 上質な衣服。村人の着るようなものじゃない。貴族か?なんで貴族が倒れている?ぼんやりと考えていてはっとなった。

 そうだ。俺は決闘をしていたんだ。でもなんでこんなに静かなんだ?訝しげに周囲に目を向けた。柵の外の観衆は皆、大きく目と口を見開いてこっちを見ていた。

 その時、目の片隅で誰かが動いた。シイプだ。シイプはよろよろと歩き出し、やがて駆け出してセイジのもとに行った。

 「セイジ様!」

 他人事のようにぼんやりとその様子を見ていると急に後ろから誰かに抱きつかれた。

 「やったな、おい!」

 見るとサスケが今にも泣き出さんばかりの表情で喜びを露にしていた。

 「俺は一体・・・どうしたんだ?」

 サスケは訝しげな表情でアズを見た後、言った。

 「何って、練習したろ。ずばっと決まったんだよ。閃光拳が!」

 「せん・・・閃光拳が!?本当かよ!」

 練習では何百回と試みた閃光拳だったが一回も成功したと感じたことはなかった。サスケがアズの背中をしたたかに叩いて笑った。

 「成功したからあいつはお寝んねしているんじゃないか」

 目をやるとまだセイジは倒れたままだった。急に不安になった。

 「まさか死んじまったんじゃあ・・・」

 「なにを心配してんだ?命のやりとりをしたんだぜ。死んじまってもおめえに非はない」

 あの時、心の中で聞こえた声ははっきりとセイジの命を奪うなと言った。ならば助かって欲しい。その時セイジを介抱していた人だかりから、おおっ!?という声が聞こえた。

 近づいて覗くとセイジが薄目を開けてシイプの問いに答えていた。よかった。まだ生きている。セイジの目がアズを捉えた。

 アズはなぜか後ろめたくなって目をそらそうとした。だがセイジの目には怒りや憎しみという負の感情はなく穏やかな色が浮かんでいた。

 セイジが弱弱しくアズを手招きした。アズは少し躊躇ったが意を決して近づいた。片膝をついてかがむとセイジが弱弱しい声で言った。

 「きいたよ。お前の拳。俺の負けだ・・・」

 「セイジさん・・・」

 あれほど気位の高かったセイジが素直に負けを認めた。アズの胸にすがすがしいものが吹き抜けていった。

 それを見たシイプが頷いて立ち上がった。そして観衆を見回して宣言するように声を張り上げた。

 「この決闘の勝者はアルム村のアズだ!」

 観衆がわっと湧いた。村人らが歓声を上げる中、騎士風の男もその輪の中で笑みを浮かべて呟いた。

 「いい勝負だった。本当にいい勝負だった。だが・・・」

 男の目が厳しい光を放って森に向けられた。

 

 セイジとアズが健闘を称えあっていると突然、馬の高いいななきが聞こえた。そちらに目を向けると激しい馬蹄の音と共に森の中から十頭ほどの騎馬が走ってくる。

 二人を囲んでいた村人らは驚き恐れて蜘蛛の子散らすように四散した。セイジが駆け寄ってくる馬上の人間を見て驚いた。

 「父上!?それに兄上も。一体どうして・・・」

 セイジはシイプに肩を貸されてようやく起き上がった。オットーハイム男爵は二人のもとにくると馬を止めて言った。

 「愚か者が。よもや敗北はあるまいと思っていたが心配して来てみればこの有様か。我が家の恥さらしめ」

 次に領主の後ろから長男が口汚く罵った。

 「剣術しか取り柄のない穀潰しが得意のはずの剣術でなんてザマだ。恥を知れ!恥を!」

 セイジは悔しげに唇を噛み締めた。するとシイプがセイジをかばうように言った。

 「お館様。セイジ様は力の限り闘われたのです。身分の差をのり越えて男と男が正々堂々と闘ったのです。二人は賞賛されてしかるべきです」

 男爵は怒気を浮かべて言った。

 「黙れ!執事の分際でこの私に意見するか!」

 シイプは恐縮したように頭を垂れて黙った。男爵は眉根を寄せて言った。

 「お前にやりたいようにさせておいたのは間違いだった。もうこれ以上自由にさせておくわけにはいかん。

 我がオットーハイム家の恥さらしとなる。館に軟禁して再教育するかどこぞの親類の家に預けるか・・・」

 セイジが愕然となった。男爵は一時、考え込んだがすぐに頭を振って言った。

 「・・・まぁそれはおいおい考えるとしよう。さしあたってなすべきことはお前の処遇だ」

 男爵がアズに目を向けた。アズは見下すように見る男爵にむっとした表情を浮かべた。男爵はふんと鼻を鳴らして言った。

 「やはり領主に対して反抗的なようだ。元々、貴族と決闘するような輩だ。そうだろうとは思っていたがな」

 シイプが躊躇いがちに言った。

 「お館様。決闘はセイジ様が望まれたことで彼はただ受けただけです。どうかお気になさらず」

 「何を言うか。貴族が望んだからといって農民がそれを受けるか?ただただ恐縮して平伏し許しを請うのが普通だ。

 それをこ奴はセイジを殴り倒しよった。それなりの罰が、いや極刑が必要だ」

 「お館様!」

 男爵がうるさそうに手を振った。

 「ええいっ。うるさい奴め。お前は引っ込んでおれ!」

 男爵が控えている騎士らに顎をしゃくった。すると騎士達が馬を駆ってアズとサスケをとり囲んだ。男爵が言った。

 「今ここで手討ちにしてくれる」

 セイジが必死に男爵に訴えた。

 「父上!お待ちください!」

 「もう待てぬわ。これまでお前の尻拭いをどれだけやってやったと思っている。それももうこれで終わりだ」

 アズが必死な面持ちでサスケを指して男爵に言った。

 「こいつは関係ねぇ。見逃してやってくれ!」

 サスケはとり囲む騎士達に怯えた様子だった。だがアズの言葉を聞いてびっくりした様子でアズに言った。

 「おい、アズ!」

 男爵が首を振った。

 「駄目だ。そいつは森に勝手に住み着いているというガキだろう。もう何度も警告したはずだぞ。それなのにまだ森にいる。見逃すわけにはいかんな」

 セイジがきかぬ体で騎士らの輪の中に入ろうとした。だがシイプに止められた。男爵はそれを横目で見て鼻を鳴らすと騎士らに命じた。

 「やれ!」

 アズの正面の騎士が剣を抜いて斬りかかった。アズの頭上を騎馬の影が覆った。大きい!初めて騎馬から襲われたがその馬の大きさ、高さに驚いた。

 だが驚いている暇なく銀光が頭上を襲う。

 「うわっ!?」

 アズをさっと身をかがめて斬撃をかわした。すかさず反撃しようとして愕然となった。間合いが遠すぎるのだ。

 ただでさえ高い馬上にいる人間を特に背が高いわけではないアズが攻撃するのはかなり困難だった。

 それにダメージがいよいよ深刻化してきたのか右腕にもう力が入らない。多勢に無勢。また闘いなれていない騎馬に対して利き腕もきかない。

 対して騎士らは当然だが馬を軽やかに扱って騎乗での攻撃に慣れている。あまりにも不利すぎる。

 アズは絶望感に囚われそうになるのを必死で耐えた。何か手はあるはずだ。何か・・・。焦って考えていた時、右手の騎士が突撃をしかけてきた。

 まずい!右手が利かない。その時、騎士が突然うっと顔を押さえて馬から転がり落ちた。何が起こったんだ!?するとサスケが得意げに言った。

 「見たか!サスケ様の飛礫の威力を!」

 そうか。サスケが飛礫を打ったのか。大きな獣でも急所に当たれば一撃で倒せる飛礫だ。それを人が顔面にくらえばひとたまりもない。

 すると領主の傍にいたリーダー格らしき騎士が言った。

 「森のガキは飛礫を使うぞ。守りを固めろ!」

 騎士達は体の中心に剣を立てて体の正中線を守った。サスケは負けずに近くの騎士に飛礫を打った。

 だが警戒されてしまうと飛礫は剣で叩き落された。アズは飛び蹴りで向かってくる騎士を撃退しようとした。

 だがセイジとの闘いで思ったより疲労が蓄積したようだ。体がやたら重く感じる。右腕も依然としてきかない。

 そんな状態でのジャンプはバランスが悪く、ともすると逆に斬りおとされかねない。二人は徐々に追い詰められていった。サスケが悔しそうに周りの騎士に言った。

 「てめえら汚ぇぞ!二人に対して八人かよ!」

 近くの騎士が冷徹に言った。

 「お館様のご命令だ。悪く思うな」

 騎士らは二人の周囲を幻惑するように回った。これではどこから攻撃が来るかわからない。二人は背中合わせになって目を配ったが騎士がこちらの届かない間合いから不意に斬撃を送ればたぶん避けきれないだろう。

 アズは歯軋りして悔しがった。決闘でなんとか生き残ったっていうのにもう終わりなのかよっ。なんとかならねえのかよっ。

 その時アズの左手にいた騎士が斬撃を送ってきた。アズはその時、右手の騎士を見ていた。はっとなった時にはもう遅い。

 必殺の一撃がアズの脳天に送り込まれようとしていた。アズは迫り来る剣を見て全身が痺れたような感覚を憶えた。

 も、もう駄目だ!その時ひゅっという風を斬る音が聞こえた。次いで「痛っ!?」と襲ってきた騎士が手を押さえた。

 何かアクシデントが起こったようだ。そのため振り下ろされた剣の軌道は途中で反れて事なきを得た。

 アズは急いで周囲を見回して事態を把握しようとした。なんだ?何が起こったんだ?すると声がした。

 「汚いな。自分の息子が負けたからって否応なしに処刑か」

 見ると柵を乗り越えて一人の騎士風の男が近寄ってきた。見慣れない顔だ。旅人だろうか。男は手に小石を持って弄んでいる。

 ということはさっき小石を投げてアズの命を救ってくれたのはこの男ということか。でもなぜ?男と面識はない。

 飛礫の技はサスケと互角かそれ以上の腕のように見えた。アズは関心を示して男を見ていると男爵が男に不快げに言った。

 「どこの何者かは知らぬが手出しは無用に願いたい」

 「尋常な決闘だったら私も手を出さなかったかもしれない。でも彼らの闘いぶりは見事だった。それなのに彼を農民というくだらん理由で殺すのに見て入られなくなってね」

 「では我らの敵ということになる」

 「あまり揉め事に首を突っ込みたくないんだがやもえんな」

 男爵は唇を歪めると騎士らに顎をしゃくった。すると騎士らはアズ達の包囲を解いて男を囲おうと向かった。

 だが男はそれをのんびり待ってはいなかった。包囲される前に近くの騎士に駆け寄って鞘で騎士を突いて馬から落とした。

 そして空馬の手綱を引いてすかさず馬上の人となる。騎乗になった男は動揺する他の騎士に向かって馬に拍車を入れた。

 男の手綱と剣さばきは見事という他なかった。包囲する前の、陣形が整っていない騎士達に襲い掛かると一対一の状況を作り出して次々に突き落とす。

 腕が違うのは一目瞭然だった。動きに無駄がなかった。動きに躊躇いがなかった。男はあらかた騎士達を馬から突き落とすとアズらに目を向けて言った。

 「お前達、馬に乗れるか?」

 二人は最下層の貧しい身分である。馬など乗ったことがない。急いで首を横に振ると男が言った。

 「とにかく空いている馬に乗れ。後は私が誘導する」

 アズが周囲を見ると落馬した騎士らがなんとか立ち上がってきたところだった。鞘で突き落とされただけなので見た目ほどダメージを受けていない。

 二人は急いで近くの空馬に飛びついた。それを見た男は他の空馬を蹴散らして遠くに逃げさせた。

 そして二人の乗った馬の手綱を取ると馬に拍車をかけた。三頭の騎馬が村から出て行く。それを見て男爵が呆然と佇む騎士らに怒声を浴びせた。

 「何をやっておるか!このままあ奴らを逃せばオットーハイム家の名折れになる。早く追わんか!」

 だが騎士らの乗ってきた馬は既に遠く逃げてしまっている。すぐに追跡はできそうになかった。

 <8>

 三頭の騎馬が急いだ様子で山道を駆け抜けていく。山道は急峻な上、道幅は馬が三頭並べば一頭が崖から落ちてしまうほどの狭さだった。

 いやよく見れば三頭が別々に駆けているのではない。真ん中の騎馬が左右の二頭の手綱を引っ張っている。

 真ん中の騎手の手綱さばきは見事なものだった。通常、二騎の手綱を持って駆けることなど出来ない。

 そして手綱を任せた二人の騎手は馬にしがみ付いているだけというお粗末さで今にも鞍から落ちそうだった。

 三騎は馬に拍車をくれ急勾配を、悪路をただひたすら疾走した。そしてどのくらい走っただろうか。

 いくつかの山を休みなしで越させたためさすがに馬の息が上がってきた。それに気づいた真ん中の騎手は徐々に速度を緩めてゆき、そして後方を振り返った。

 追跡の気配はまったく感じられない。それに北に向かうと見せかけて西へ進路を取ったことも功を奏したのだろう。

 距離は稼げたようだ。山道、右側の緩い傾斜の先に小川が見えた。

 「少し休憩するか」

 男が後方の少年二人に声をかけた。だが返事がない。訝しげに振り返ると二人は馬上で目を回してへばっていた。

 男は苦笑して馬を小川に向けさせた。岸辺に着いた。二人に馬から下りるよう声をかけると二人は喘ぎながら馬から下りて川の水を貪るように飲んだ。

 男は少しも疲れた様子は見せず、さっと下馬して自分も一すくい水を飲んだ。そして馬の状態を確かめに行った。

 少しして男は戻ってきた。そしてへたり込む二人に言った。

 「もう大丈夫だろう。彼らは我々が男爵領を出るために北に向かうと考えるだろう。だがここは男爵領の中で最も西だ。

 樵もあまり来ないような難所だ。まさか我々がここにいるとは思うまい」

 アズは居住まいを正して男に頭を下げた。サスケもへとへとながらアズにならう。

 「助けてくれてありがとう。でもなんで俺達を?」

 男は頷いて腕を組んだ。

 「私は頭の固い男でね。ああいう、形だけは立派に騎士でございとふんぞり返っていて実際は卑怯な振る舞いをする輩が大嫌いなんだ。

 あの場でも言ったが旅の途中で揉め事は起こしたくなかった。だから最初は見て見ぬふりをするつもりだった。

 だが君達の闘いぶりが実に見事なものだったのでつい手を出してしまった、というわけさ」

 アズは褒められたとわかって照れたように頬を掻いた。サスケはそんなアズをからかうように肘でつつく。すると男が懸念したように言った。

 「危険だったので衝動的に連れて来てしまったが困ったことになった。恐らく君達の親類に迷惑が及ぶことになるだろう」

 二人は顔を見合わせた。そしてぷっと吹き出した。男は眉をひそめて訊いた。

 「私は何かおかしなことを言ったかな?」

 アズはすぐに笑いを引っ込めて言った。

 「ごめんなさい。実は俺達、家族はいないんだ。だからあいつら、罰しようにも誰もいないんで悔しがっているんじゃないかと思って」

 「そうか。そういうことだったのか」

 男は頷いて言った。

 「これからどうするね?もう男爵領には住めないだろう。助けたついでだ。もし私に任せてくれるのなら違う土地につれていくこともできるが?」

 二人は顔を見合わせた。サスケはこの広大な山岳地帯全体が庭のようなものだ。いくら森役人が探しにきても簡単には見つかりっこない。

 なのですぐに旅立つ必要はなかった。だがアズには住み慣れた家がある。サスケがアズに目を向けた。

 「おめえはどうしたいんだ?」

 アズは考え込む様子で空を見上げた。

 「俺は・・・実はやりたいことがある」

 「何がしたいんだ?よければ手伝うぞ」

 アズはいくらか躊躇ってから言った。

 「親父を探したいんだ」

 「親父さんを?確か十年以上前に出ていっちまったんだろ?」

 「ああ。母さんに必ず戻ってくるなんて言っておきながらとうとう母さんが生きているうちに戻ってこなかった。

 だから親父に一言でもいいから文句言ってやらないと気持ちが収まらないんだ。なにやってんだ、親父!母さんはずっとあんたを信じて待っていたんだぞ!ってね」

 サスケは少し考えてから言った。

 「そうか。じゃあ村から出て行く気なんだな?」

 「少ないけど持って行きたい荷物がある。それを取りに行ってからだ」

 サスケは大きく頷いて言った。

 「よっしゃ!じゃあ早速、荷物を取りに行こうぜ」

 アズは少し驚いたようにサスケを見た。

 「行こうって、まさかお前も一緒に行く気じゃないだろうな?」

 するとサスケはアズの肩を叩こうとしたが右肩の傷に気づいて止めた。代わりに拳で軽く胸を突いた。

 「なに行ってんだ。友達だろ?それに俺っちに家はない。いやあるとすればこの広大なクランク王国全土だ!」

 サスケが両手を広げて盛大に言った。アズがいたずらっぽく笑って言った。

 「いつからお前はこの国の王様になったんだ?」

 「ふん。気づくのが遅ぇんだよ。俺っちはサスケ一世様だ」

 二人はおかしそうに笑った。男も笑って言った。

 「そういうことなら私の出る幕はないな」

 二人は男に神妙に頭を下げて言った。

 「助けてもらって本当に助かりました。ありがとう」

 「なに。これも縁。ここを出るならどこかでまた会うこともあるかもしれん。私の名はヒョーゴ。トゥールのヒョーゴだ」

 二人も名乗った。ヒョーゴは笑って馬に飛び乗るとどこかに走り去っていった。 


 第一の試練終わり


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