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 <1> 閃光拳のアズ 第一の試練

 俺の名はアズ。クランク王国最南端のオットーハイム男爵領アルム村に住んでいる農民だ。一つ訊きたいんだがよちよち歩きの頃の記憶ってあるかい?

 普通ないよな。たとえあったとして断片的で曖昧なもので記憶なんて呼べるしろものじゃないはずだ。

 だけど俺にはあるんだよ。はっきりと思い出せる記憶が。それは父さんに遊んでもらっている時のものだ。

 父さんは庭の立ち木を前に構えて目にもとまらないスピードで拳を前に突き出す。幼児の俺はそれをまねて小さな拳を突き出している。

 父さんの顔は漠然としていて定かではない。ただ逆光で輪郭しか見えなかったけど大きく笑っているように感じた。

 父さんは幼児だった俺の突きや蹴りを丁寧に手直ししてくれる。家の戸口の傍では椅子に座った母さんが裁縫しながら微笑んで父子のやり取りを見ている。

 あの時が一番幸せだった。とても幸せな気分だった記憶がある。だけどそんな幸せな時はそれが最後でその後二度とやって来ることはなかった・・・。

 

 アズは十六歳になっていた。まだ幼さを残していたが母子家庭の生活の厳しさからアズの顔は引き締まりその目はいつも何かに飢えているようにギラギラと光っていた。

 十六歳とはいっても遊んではいられず必死に大人なみに働かなければ生きていけない環境だった。

 なので実年齢よりも老けてみえたかもしれない。アズの母イリアが倒れたのは三年前だった。だが病状が少しでもよくなると起き上がって働いた。

 それほど生活は苦しかったのだ。だがそれが祟ったのかそれ以降、度々病に伏せる体になってしまった。

 無理もない。アズの父ファスが突然、村から出て行ってから幼児のアズを女手一つで育ててきたのだから。

 村抜けは重罪だ。見つかったら殺される。残された家族はあれが罪人の家族だと後ろ指刺され一生、肩身の狭い生活を送らねばならない。

 アズは自分が働ける年齢になった今、今度は自分がイリアを助ける番だと思っている。アズの家は十数代も前から地主に土地を借りて耕し、上がった収穫から地代を納める小作農の家だった。

 嫁いできたイリアがファスから聞いた話によると先祖は五百年ほど前はるか遠い東の国から戦乱を逃れ海を渡ってこの国にやってき一族たという。

 小さいが一応、貴族の家柄だったらしい。尤も今ではその往時の面影はまったくないが。そしてこの国に着いて流れに流れる内に一族はバラバラになりアズの家だけがこの地に定住し現在に至っている。

 故国から持ってきた財産はすべて売り払われ今、残っているのはたった一つだ。それは古い羊の皮で出来た巻物だ。

 イリアはそれをファスの大切なものだとして今でも長持の底に隠すように大切に保管している。また先祖代々、宿願のように唱えられ続けている言葉がある。

 それは「いつかお家を再興して故国に帰る」というものだ。アズは唾を吐きたい気持ちで思う。どこにあんだよ、その故国って。

 今アズの家はファスが出て行ったせいで周囲からは蔑まれ、食うのにやっとの生活だ。故国に帰るどころか近場にさえ旅する余裕はない。

 それが海を渡って帰る?一生、いや自分の子孫がいくら頑張っても未来永劫、無理という気がする。

 ファスも同じ思いを抱き絶望して出奔してしまったのだろうか。アズが物心つくかどうかという時にふらりと家を出て行ったきり帰って来なかった。

 イリアはファスが家族を見捨てていったんじゃない、必ず戻ってくるという。だがアズにはとても信じられなかった。

 今頃どこかで野垂れ死んでいるか乞食にでもなっているか。まぁ今じゃあまり気にならない。家族を捨てていった男だ。

 死んでいたらむしろ、ざまぁねえなって思うだろう。もう親父のことはいいのだ。親子二人で生きていく。

 

 この日も親子は早朝から畑仕事に勤しんだ。そして午後をいくらか回った頃アズはまだ働くというイリアを無理に家に帰した。

 最近よく体調を崩すので心配になったのだ。少しでも体調を崩すとイリアが死ぬんじゃないかという恐怖に襲われる。

 アズはたった一人でもやっていけると口では強がってみせてもそこはまだ十六歳の少年なのだ。そんなことを想像するだけでとても心細くなった。

 イリアの崩しがちな体調は心労のせいでもある。地代は少しづつだが年々上がっているし天候不順で収穫は減っている。

 地代が上がっているのはこの地を治める馬鹿領主が中央政府の要職に就きたいと無理な献金をしていやがるせいだという。

 そのしわ寄せが領民にふりかかっている。村の有力者らは近隣の村々と協力して領主に直訴して重税を改めてもらおうという動きもあるようだが領主との間にしこりが残ることを恐れて未だ行動には移していないという。

 やがて夜の帳が降りてきたので帰ることにした。鍬を担いで家路についていると前方に数人の人影が見えた。

 嫌な予感がした。そして互いが近づいて顔がはっきりわかると嫌な予感が的中したのがわかった。彼らはアズの家が関係している地主の息子とその取り巻き達だった。

 彼らはアズが村抜けの重罪人の息子だということでしゅっちゅう暇を見つけては絡んでくる。つまりいじめようとするのだ。

 アズはあんなくだらない連中と関わる気はない。だからいつも無視する。尤も地主の息子と問題を起こせば立場が悪くなるのはこちらの家のほうだ。

 彼らはそんな立場の弱いアズが彼らを毅然として無視するのが気に入らないようだ。泣くか謝るかして欲しいのだろう。

 ところがアズときたらずっとむすっとした顔で叩かれようが面罵されようがこたえた様子はない。完全無視だ。

 面白くないのだろう。けっ。こんなくだらねぇ奴らを相手にしていられっかよ。この日も絡まれた。唾を吐きかけられ小突かれたりしたが無視した。

 そして毅然と通り過ぎようとした。ところがこの日、彼らはアズではなく別の人間のことを持ち出して攻撃した。

 地主の息子の取り巻きの一人、ソバカスの少年が言った。

 「おい。お前の親父は腕っ節が強かったんだってな。どうせ嘘だろ?」

 イリアの話では父ファスは武術の達人だったという。だがその強さを見たことがないのでアズはそれを吹聴したことはない。

 それにイリアから聞いたことをそのまま口にすれば彼らは馬鹿にするに決まっている。するとソバカスの隣の赤頬が言った。

 「こいつの親父が強かったって?農奴だろ。なんで強いんだよ?」

 他の連中もそりゃそうだ、と嘲笑する。その時もいつものように無視しようとした。だがなぜかうまくいかなかった。

 腹腔から熱い塊がこみ上げてくる。これはなんだ?不満か?いや怒りだ。猛烈な怒りが湧き起こってきた。

 でもなぜ?なんで俺はこんなに気分がムカムカするのだろう?彼らの嘲笑はまだ続いている。

 「誰かがでっちあげたのか、一回弱い奴に勝っただけで話を大きくしたのか。どっちにしろたいしたことないに決まっている」

 「そうだよ。なんたって村を逃げ出した奴だもん」

 その時、脳内で何かがぷちっと切れたような音を聞いた。通り過ぎようとして立ち止まり振り返って彼らを睨んだ。

 そのただならぬ剣幕に彼らは少し怯んだ。親父が弱かったって?ふざけんな。親父は確かに罪人かもしれないが腕っ節だけは強かった。

 母さんがそう言ったんだ。なら間違いない。そういう意味を込めて睨んでいると連中の一人が及び腰ながら言った。

 「お、お前!俺達に逆らおうっていうのか!父さん達が黙っていないぞ!」

 その一言で気持ちが萎えた。こいつら自体はつまらない連中だが親は間違いなく権力を持っている。

 そしてアズの家は彼らに土地やその他、多くのものを借りている。強くは出られない。出ればイリアに迷惑がかかる。

 アズの気が萎えたのを察したのか、やっちまえ!との掛け声とともに彼らは殴りかかってきた。避けもしなかった。

 鍛えていない貧弱な生っ白い拳。なんてことはない。ちょっと痛いだけ。そうちょっとだけ。ただ嘲られ殴られても何もできないこの弱い立場がただただ情けなく悲しかった。

 

 しばらくして彼らから解放され渋面のまま歩いて家に着いた。そして家に入る前に外の盥に水を張って顔をごしごしと洗った。

 鼻血など出ていないがさすがに殴打された痕は少し残っている。情けない姿をイリアに見られたくなかった。

 洗顔した後、俯き加減で家に入った。イリアは炊事中でもう少ししたら夕食できるからねと炊事場からアズに声をかけた。

 炊事場といっても小さなあばら家なので一間ですべてを兼ねている。食事中は顔をつき合わせるのでさすがに顔の僅かな傷痕がバレた。

 イリアは表情を曇らせて言った。

 「また地主さんところの子にいじめられたのかい?」

 アズは気にしたふうもなく食べるのに集中して言った。

 「あいつら、暇なのさ。畑仕事は小作農や使用人がやってくれて勉強も自由にさぼれる。暇だっていうから少し付き合ってやっただけだよ。本気になればあんな奴ら・・・」

 イリアはアズから不穏なものを感じたのか表情を曇らせ語気を強めて言った。

 「だめだよ!決して拳を使っちゃいけないよ。あんたの大事な拳は喧嘩のためにあるんじゃないからね」

 アズは少し悪びれて言った。

 「ああ、わかっているよ。母さん」

 イリアは溜息をついて言った。

 「いつも言っているだろ。あんたの拳は正義の拳。将来のあんたの家族を守るための拳。そして多くの人のためになるとわかって初めて使う拳」

 アズは苦笑した。アズが喧嘩しそうになるといつも同じことが言われるからだ。尤もそのお陰で簡単には手が出せなくなったが。

 「一つ抜けているぜ、母さん」

 アズが言うとイリアは少女のように小首をかしげた。

 「母さんを守るための拳でもあるんだ」

 するとイリアは微笑して言った。

 「ううん。私はいいの。私はもう充分に守ってもらったから」

 「なに言ってんだよ。これからだって母さんを守っていくよ。二人きりの家族じゃないか」

 「三人だよ。いずれあの人が帰ってくるもの」

 そう言われてアズは気分を害したように顔をしかめた。そして吐き捨てるように言った。

 「まだそんなこと言ってんのかよ。あいつは母さんを、俺達を見捨てていった男じゃないか」

 イリアが必死な表情で言った。

 「違うの!父さんには目的があって・・・」

 するとアズはイリアの言葉を途中で遮るように手を振って言った。

 「ああ。お家再興の話だろ。ガキみてぇな夢見やがって少しは現実を見ろよって言いたいね。きっとうまくいかなくて帰るに帰れなくなったに決まっている。

 現にこうして十何年も音沙汰なしじゃないか」

 イリアは懇願するように言った。

 「あの人を責めないで。便りがないのはきっと理由があるんだよ」

 「母さんはあいつに甘すぎるんだよっ」

 アズは苛突く気持ちを抑えきれず叫ぶように言って家を出た。

 

 アズの家は南の、村外れにあり森と接していた。アズは庭から村を囲む柵を飛び越えて森の中に走っていった。

 夜の帳が降りた森の中は真っ暗でとても静かだった。時折、獣の鳴き声がするがそれ以外は本当に静かなものだ。

 アズはこの誰の目にもさらされない静かな空間が好きだった。村の中にいれば絶えず人の目がつきまとう。

 蔑みの目。好奇の目。監視の目。それらうっとおしいものからすべて解放されるのだ。しかし開放感に浸りながら心のどこかで警戒心は怠らない。

 森の中には様々な野獣、魔物が住んでいる。それらは人里近くまで降りてくることはめったにないが用心してしすぎることはない。

 頭上の木々の隙間から月光が差し込んでくる。アズは慣れた足取りでその中を進んだ。そしてどのくらい歩いただろうか。

 やがて前方の木々の隙間から開けた場所が見えてきた。そこはアズ以外は村の誰も知らない。五年前、偶然見つけた場所だった。

 その日、森の入り口で栗拾いに興じる内どんどん奥深くに入り込んでしまい、ふと辺りを見回せば見知らぬ場所に一人立っていた。

 その時のアズは今よりもさらに幼かった。いじめっ子に対する負けん気は既にあったがまだ十を超えたばかりだった。

 暗闇が恐かった。一人ぼっちが心細かった。泣きそうになる気持ちを懸命にこらえながらあちこちを歩いた。

 だが森の顔は一向に変わらずアズの体力は精神的な疲れと相まってつきかけようとしていた。そんな時だ。

 あの場所を見つけたのは。暗い森の中、一箇所だけ光り輝いているように見えた。もちろん真実はそんなわけなく鬱蒼と生い茂った暗闇から急に開けた場所に出たため錯覚を起こしたわけだ。

 その時、明るい場所に出られて心底ほっとした。そこでぐったりして雑草のベッドの上で暖かい陽の光に照らされながら昼寝を取った。

 すると不思議なことに不安は感じなくなり、まぁなんとか帰れるだろうと楽観的になれた。そして日が暮れる前に起きてまた森の中を進むと本当に家に辿り付けた。

 以来そこはアズにとって験の良い私的空間となっている。また今では村の者がそこに到達するのはかなり難しいことがわかっている。

 アズの家近く以外から入ると木々の密集した場所や地面の隆起が邪魔してそれらを大きく迂回しないとそこまで到達できない。

 そこを知らなければ、いやたとえ知っていてもそんな大変な労力を使ってそこに行く意味もない。そこはただの小さく開けた場所でしかないのだから。

 そこの中心には大人一人が腕を回せるほどの古木が月光を浴びて悠然と聳え立っていた。そしてその古木のちょうど人間の胸くらいの高さに荒縄が幾重にも巻いてあった。

 アズはその古木に近寄り親しげに触って、よぉと声をかけた。そして古木を前にして腰を軽く落とすと右拳を返して腰まで引いた。

 息を整える。夜気を吸った、静かな呼吸が何度か繰り返された。そして次の瞬間アズの体が僅かに沈み込んだかと思うと体が半回転し凄まじい勢いで拳が突き出された。

 夜の森にズンッという音が木霊した。アズの拳は荒縄が巻いてある幹のところに当たって止まっていた。

 少しして無数の木の葉が舞い落ちてきた。アズはその体勢のまま静かに呼吸を繰り返しようやく拳を引いた。

 その時だった。頭上から何かが落ちてきた。黒い大きな物体。それはアズの後ろ、二メートルほど離れた場所に落ちた。

 少ししてそこから咎めるような声がした。

 「いててて。また断わりもせずいきなり俺の寝台を揺らしやがってこの野郎・・・」

 アズは笑って痛そうに頭を擦る人影を助け起こした。

 「悪ぃ。悪ぃ。また声かけるの忘れてた」

 アズが助け起こしたのはボロをまとった同年代くらいの少年だった。髪はぼうぼうに生え放題で肌の色は風呂に入っていないせいか地肌なのか浅黒かった。

 親しくしているところを見るとアズとは顔見知りのようだ。といってもアズも少年の正確な年齢はわからない。

 この少年は孤児で自分の親さえ知らないのだから。数年前にふらっと村に現れたのだが村の規則で浮浪者は受け入れないことになっていたので少年は追い出された。

 だが少年は立ち去らず森の中に入りこの木の上を住処とした。アズは前々からこの木を鍛錬場所に使っていたので最初は迷惑に感じて追い出そうとした。

 だが何回かやり合う内に妙に馬が合うことがわかって今では親友になっている。少年、サスケは伸び放題のボサボサの頭を掻いて猿のような顔をアズに向けて言った。

 「しばらく来んかったけどどうしてた?」

 「うん。畑仕事が忙しかったんだ」

 するとサスケは小首をかしげてアズを覗き込んだ。

 「今日はいつも以上に機嫌が悪そうだの。村の奴とまた何かあったか?」

 「別に」

 アズはそっけなく答えてまた古木に向き直って構えた。サスケはしつこく訊いてきた。

 「なぁ。何があったんじゃ?よければ俺っちも仕返しを手伝うぜ」

 「うるせぇな。向こうに行っていろよ」

 アズがけんもほろろに言うとサスケは肩をすくめて言った。

 「へいへい。口にチャックをして黙っていやすよ」

 サスケは古木にするすると登ると一番低い枝から逆さまにぶら下がってアズを見下ろした。アズはそんなサスケに構わず無心になって拳を古木に打ち込む。

 こうすると嫌な想いや鬱屈がいつの間にか霧散してくれるのだ。腹腔に沸き起こってくる不満と怒り。

 なぜうちだけ嘲笑されねばならないのか。なぜのけ者にされねばならないのか。なぜファスは実現不可能な夢を追って出て行ってしまったのか。

 くそっ。くそっ。くそっ。村のいじめっ子達の嘲笑する顔が浮かぶ。イリアの悲しそうな顔が浮かぶ。イリアと幼児のアズを残して旅立つファスの背中の記憶。

 幼児のアズは理由もわからずファスにただ無邪気に手を振っている。くそっ。くそっ。くそっ。心が乱れているせいかいつの間にか打ち込む姿勢が悪くなっているのに気づいた。

 このまま打ち込んでいれば体を、拳を痛めてしまう。でも暴走した心は止められなかった。

 「痛っ!」

 手首に激痛が走った。やはり崩れた姿勢だったため体を痛めたようだ。サスケが降りてきて心配そうにアズを覗き込んだ。

 「大丈夫か?」

 アズは手首と拳を擦りながら答えた。

 「ああ。骨に異常はない。すぐに治るだろ」

 サスケはアズを気遣うように言った。

 「昼間、雉を捕まえた。食うか?」

 アズの家は貧乏なので雉肉はご馳走である。口の中に唾がどっと沸いた。サスケはそんなアズの様子を見て笑うと古木を登り、すぐに雉を持って降りてきた。

 二人は焚き火を囲み、串に刺した雉肉が焼けるまで火をじっと眺めた。やがてうまそうな匂いが辺りに漂ってきた。

 サスケが肉のついた串を一本取り、アズに手渡した。アズはそれを貪り食った。サスケは笑って自分の分を食べる。

 雉肉は食欲旺盛な二人の少年の胃袋にあっという間に収まった。二人は満足の息をついて無言で焚き火を眺めた。

 やがてサスケが火を見つめたまま、ぼそっと言った。

 「俺っち。もしかしたらこの森を出て行くかもしんね」

 アズはショックを受けた様子でサスケの顔を見た。サスケは視線を落として言った。

 「この辺りに森役人がうろつくようになってきた。おめぇも知っているようにこの森は領主のもんだ。だから俺っち達のような人間に住み付いて欲しくねえんだろ」

 「そんなもん、放っておけよ。森はお前の家じゃないか。森役人ごときが追いだせっこねえよ」

 サスケはうん、と頷いてから憂いた様子で言った。

 「あいつらが二、三人の時はいいんだけれど十数人で来ることがあるんだ。俺っちはいいんだよ。住める森なんてどこにでもあんだからさ。

 でも他の、爺さん達や体の自由がきかなくなった連中は困る。爺さん達のことが気がかりでならねえんだ」

 サスケはアズのたった一人の友達だった。だから出て行って欲しくはない。でも小作人の身で領主の役人に盾突くことなど思いもよらない。

 二人は暗い雰囲気のまま無言で火を見つめた。

 2>

 クランク王国最南端の山岳地帯に領地を持つオットーハイム男爵の館はアルム村から北西六キロの山間部にあった。

 山間部とはいっても近隣領民を総動員して辺り一帯の道や土地などを均して整備したせいか馬車や人間の往来がたびたび見られる。

 知らない人からすれば城館は交通の不便な場所にあると思われがちだが土地の者からすれば領地を監督するのに絶好の位置にあるといえた。

 馬車が二台すれ違える道の先に小規模だが立派な威容の城館が山の麓に立っていた。三階建ての本館の両脇に二階建ての別棟が横に広がっている。

 館前に着くと堀や高い塀などは見当たらず低い塀が城館の周りを囲っている。門番も特に気張った様子もなく平和なものだ。

 ここ、オットーハイム領は王国最南端にあって王都ベルランから最も遠く離れており南の国境を他国と接しているが険しい山脈が両国の平和維持に役立っていた。

 と、塀の向こう側から勇ましい声が聞こえてきた。塀越しに内側を覗いてみれば城館の前庭で一人の若者が剣の型を演じていた。

 若者らしく荒削りで剣をまだ力任せに振る傾向が見られる。だが若者はそんなことはお構いなしに一心不乱に剣を振るっている。

 この若者は領主の次男セイジだった。セイジは音楽もスポーツも興味を示さず終日、剣を振るっていることが多い。

 それには理由があった。セイジは次男坊である。家を継ぐのは長男だ。そのため長男の代になれば次男のセイジは厄介者になる。

 だが家督が譲られる際、次男以下にも領地が分割して与えられるというケースもある。だがここでは領地が山岳地帯ということと親の言うことを聞かない次男を領主は煙たがっているためそれも叶いそうにない。

 残る希望は他家に養子に出されるということだがオットーハイム家は特に勢威があるわけでもないし資産も多くはない。

 なので養子の声がかかることは難しいと思われた。しかし家とは別に個人に名声があれば養子の声もかからぬものでもない。

 例えば軍隊に入隊し戦場に出て名を上げるとか他の分野、音楽などで頭角を現すとか。セイジはこの年代の男子らしく剣での出世を夢見ていた。

 そういうわけでセイジは日がな一日、剣の訓練ばかりしているのである。しかしやってみるとこれが性に合っているらしく何時間でも剣をふるっていられた。


 大広間にオットーハイム男爵夫妻とその長男が入ってきた。いずれも盛装した姿である。男爵夫人が神経質そうに夫に訊いた。

 「マインハム伯爵ご令嬢のお着きはまだかしら?」

 男爵は鷹揚に頷いて言った。

 「天気もいいしご到着はもうすぐだろう」

 次に男爵婦人は息子に目を向けた。胸を張って泰然としているように見えるが注意して見れば表情は青ざめ足元は小刻みに震えている。

 婦人は嘆息し息子に言い含めるように言った。

 「あなた。お見合いというものは緊張する場ではないのですよ。もっと気持ちを楽にしなさいな」

 長男は無理に笑って言った。

 「わ、私は緊張などしておりませんよ。ただなんというか初めてお会いする方です。粗相があってはならないと少々、気を遣っているだけですよ。ハハハ・・・」

 婦人はまた嘆息して言った。

 「まったくこの子ったら人見知りが激しくて。こんなことでお見合いがうまくいくのかしら?」

 男爵も困ったものだというように頷いて言った。

 「まったく誰に似たのやら」

 婦人がきっと細い目を逆立てて男爵を睨んだ。

 「あなたです!」

 男爵は慌てて話題を変えた。

 「そういえば我が家の次男坊はどうしておる?姿が見えないようだが」

 男爵が訝しげに後ろに控えていた初老の執事を見た。すると執事のシイプは少し目を泳がせてから「あちらに・・・」と恐縮した様子で前庭のほうを指し示した。

 男爵親子は訝しげに大広間の大きな窓から外を覗いた。すると前庭で普段着のセイジが剣をふるっている。

 シイプが急いで外に出て行こうとした。

 「すぐお呼びして参ります!」

 するとそれを男爵が醒めた表情で止めた。

 「もうよい。あやつは放っておけ。家族だから同席させようと思ったがどだいあやつにはこいう席は無理だったのだ」

 婦人も冷たく言った。

 「あの子を同席させたらむしろ目出度い席が駄目になってしまいます。呼ばなくてよい。ただおもちゃを振るのは別のところでさせなさい。目障りです」

 長男も当然だといわんばかりに頷いている。シイプは一礼して部屋を出て行った。


 サスケは太い枝の上で頭の後ろに両腕を組んで気持ちよく寝ていた。陽光は適度に届いていて風も穏やかに吹いている。

 とても気持ちが良かった。しばらくぼんやりとしていたがふと気づくと周囲が急に暗くなってきたように感じられた。

 空を見上げると黒雲がもくもくとどこからかやってきて辺りを覆うとしている。風は急に冷たくなり強くなった。

 サスケは胸騒ぎを憶えて起き上がった。なんだ?と、森の北のほうで野鳥が一斉にバサバサと慌てた様子で飛び上がっていくのが見えた。

 興味を示してじっと見ていると下のほうで騒がしい気配を感じた。見ると鹿やウサギなどが急いだ様子でサスケの枝の下を駆け抜けていく。

 まるで何かに追われているようだ。追われているとすれば北から何かが来ているということだ。枝から飛び降りて北のほうを木々の隙間から透かし見た。

 森は鬱蒼と生い茂っているので暗がりが多く何も見えなかった。動物達は何かに追われていたわけではなかったのだろうか?

 だが胸に不安な気持ちが次第に重くなっていき胸の鼓動も速くなっている。何かが潜んでいる。じっと木々の向こうを睨んでいると暗がりがこちらに動いてくるような気がした。

 錯覚?いや闇がじわじわと森を侵食して近づいてくるように見える。暗がりが大分、近づいてきた。その時サスケはぞっとなった。

 暗闇の中に二つの光点を認めたからだ。それは真っ黄色で禍々しく光っていた。また吐き気を催させる異臭も漂ってきた。

 臭い。鼻が曲がるというより内臓を吐き出してしまいそうな嘔吐感に襲われる。そしてその光点はいよいよ近づいてきた。

 サスケは恐怖心に襲われ思わずそれに向かって飛礫を放っていた。光点の周囲にぶすぶすっと飛礫が突き刺さる手応えを感じた。

 だがそれは止まらなかった。あっ!?と思った時は無意識に頭上の枝に飛び移っていた。それからすぐ黒い影が凄い勢いで走ってきてサスケの真下を駆け抜けていく。

 両手で枝を掴んでぶら下がった状態のまま振り返った。その時、少し後方で影も立ち止まりサスケを振り返って見上げた。

 ふっふっふっと荒く臭い息を吐き、濁った光点がサスケに向けられている。その光点を見た時、急に頭がクラクラし力が抜けて枝を離しそうになった。

 だがなんとかこらえ光点を直接、見ないようにした。すると何か声が聞こえたような気がした。

 「・・・フ○ス・・にく○・・・奴がにく○・・奴は○こだ・・・」

 その吐き出された声にますますぞっとなった。少しして黒い影はサスケに興味を失ったのか南のほうに駆け去っていった。

 気配が消えてもしばらく枝から降りられなかった。そしてようやく人心地つくと枝から降りた。ぶるっと身を震わせた。

 あの黒い影。野牛ほどの大きさがあった。あのままぼうっと突っ立っていれば吹っ飛ばされて命があったかどうかわからない。

 それにあの口元から伸びた刀のような牙。あれは牛のように見えるが牛じゃない。もっと禍々しいものだ。

 暗闇の中で見てしまった。黄色く濁った怒りの目。しばらく夢に出てきてうなされそうだ。それにあれが言った言葉。

 なんと言った?しばらく考え込んだ。やがて何を言っていたかわかると蒼白になった。と、いうことはアズに関係があるということなのか!?

 その時はっと気づいた。あれがこのまま南下すればアルム村に出る!黒い怪物は障害物をなんとも思ってないように突き進んでいる。

 恐らく人間を見ても恐がらないだろう。いやむしろ興奮して襲おうとするかもしれない。自分の時のように。村人が危険だ。

 「アズ!」

 サスケは急いで怪物の後を追った。


 田畑で色づいた稲穂が涼風にそよいでいた。柔らかい日差しが田畑や家屋に当たり人々は穏やかな気持ちでその日を過ごしていた。

 畑には色々な人間がいた。老人。壮年の者。若者。老人は時折、曲がった腰や膝を痛そうに擦り壮年の男は若者に仕事のやり方を指導し若者は老人、壮年両方に叱られる。

 赤子を背にした女もいた。女は草刈鎌で雑草を刈り取っては畦道に放る。日差しが強くなってきて女の首に汗がじっとりと浮いていた。

 背の赤子はその無垢な目を周囲に向けている。と、晴れ渡った空にもくもくと黒い雲が湧いてきた。

 それまで光に照らされていた場所が浸食されて暗がりがどんどん広がっていく。老人が空を見上げた。

 「一雨、来るか・・・」

 赤子は目に映るものすべてに関心があるように周囲を見回していた。と、その目が森のほうで止まった。

 何がその目を止めたのか。森をじっと見つめている。森の奥は暗かった。空が翳り始めたことでその暗がりが急速に広がってさらにこちらに迫ってくるように見えた。

 突然、赤子の頬が歪んだ。そして盛大に泣き始める。母親は背を揺すってあやすのだが赤子は中々、泣き止まない。

 「なにをこの子はそんなに泣いているのかねぇ」

 母親は苦笑するように言った。その時、赤子が森を見て怯えているのに気づいた。そしてその視線の先を追った。

 固まった。赤子の泣き声がより激しくなった。森の暗がりがにゅ〜っと村の中まで伸びてきたように見えた。

 いや目の錯覚ではない。こんもりとした闇が森から吐き出されたのだ。女が悲鳴を上げた。その声に他の村人達も異変に気づいた。

 村人の目には小山のような黒いものが稲穂の中を走っているように見えた。そして近くの村人に駆け寄ると一飲みに呑みこんだ。

 村人が驚愕に固まった。やがて老人がほとんど歯の抜けた口を大きく開いて言った。

 「ま、魔物じゃあ!」

 辺りは騒然となった。腰を抜かして逃げ出す者。急いで家族を家に入れる者。固まったまま動けない者。

 様々だったがとにかく魔物の出現はすぐさま村中に伝わった。急報を受けた村長は屋敷から飛び出だして向こうの西の畑を見た。

 畑の中を大きな黒い影が逃げ惑う人々を追っている。村長は集まった若者達に次々に指示を与えた。

 「お前は村中の男の衆に武器を持って西の畑に集まるよう呼びかけろ!それとお前は呪術師のメイ婆さんを呼んで来い!」

 若者達は緊張した面持ちで頷いてすぐに四方に散った。少しして西の畑に村中の男達が思い思いの得物を持って集まった。

 その時にはもう何人もの村人が魔物の牙にかけられていた。なんとか命を取り留めた者もいたが皆、重傷だった。

 腹をえぐられた者。足を噛み砕かれた者。背中を牙で突かれた者。皆、傷が治っても仕事に復帰できるかどうか。

 また絶叫が上がった。勇気を振るって魔物に鍬を振り下ろしたものの、まったく歯が立たず内臓を食い破られた者の断末魔だった。

 魔物は大きな体にかかわらず動きが速い。そして稲穂の海の中を縦横無尽に駆け巡っている。やがてその影を見失った。

 村長が焦った様子で畑を見回した。稲穂は丈が長くその中に紛れ込まれるとまったく姿が見えない。

 冷たい風が出てきた。そのため稲穂が揺れて魔物がどこに潜ったのかさらにわからなくなる。すると近くで悲鳴が聞こえた。

 左手を見ると村人が倒れていてその背に何か黒い大きなものがのしかかっていた。愕然となった。

 「これが・・・魔物か!」

 ずんぐりとした野牛ほどの大きさ。針鼠の針のような灰褐色のごわごわした剛毛が逆立っていた。体の先端には二周りほど小さな頭。

 目と同じくらいの大きさの鼻の穴から絶えずふっふっふっという荒く臭い息が出ていた。驚嘆すべきはその口脇から突き出た長い牙だ。

 まるで反った長刀だ。四、五十センチはあるだろう。あれで刺されたらひとたまりもない。大きな体の割には目がやけに小さかった。

 その黄色く濁った小さな目がぎょろりと村長を睨んだ。

 「ひっ!?」

 知らずに悲鳴が漏れていた。動けない。魔物がこちらに足を向けた。駄目だ。こいつの目を見てしまったら人は恐怖に縛られて動けなくなる。

 だが他の衆はどうした?大勢いるはずだろう。既に首は動かせないので周囲の状況がわからない。

 魔物が一歩、踏み出した。さらにもう一歩。どっと背中や首に冷や汗が沸いた。やめてくれ。頼む。わしを食べないでくれ。

 魔物が動いた。その時だった。不意に肩に手が置かれた。それで呪縛が解けた。急いで振り返ると汚らしい格好の婆さんが立っていた。

 何匹もの蛇が絡まりあい踊ったような紋様のついた簡素な服。髪はざんばらで目は異様に光っている。

 胸、手首にじゃらじゃらと光沢のある石の飾りをつけている。それは村の呪術師、メイ婆さんだった。

 村長は急いで状況を説明しようとした。だがその前にメイ婆さんは首を横に振った。

 「あれは間違いなく魔物じゃ。いくさ場で無念の想いで死んだ人間の怨霊や森の奥で数百年かけて育った負の想念が年老いた大猪にとりついたんじゃ。力が強すぎてわしの手では滅ぼせん」

 魔物を見ればメイ婆さんを強敵と思ったのか足を止めてこちらの様子をうかがっている。村長が懸念したように言った。

 「じゃあどうすればいいんだ?荒らされるままで耐えるしかないのか」

 「手立ては考える。じゃがこれほどの大物はわしも始めてじゃ」

 その時、後方からがちゃがちゃと金属の触れ合う音が聞こえた。ようやく助勢が来たようだ。すると魔物は形勢不利と見たのか再び稲穂の海の中に消えた。

 3>

 セイジはこの日、天気が良かったため遠乗りに出かけていた。狭く急勾配なところは注意して馬を進めねばならないが山道が一直線になると拍車を入れて一気に加速した。

 風を切る感覚が気持ちが良かった。馬をせめると爽快な気分になった。館にいると息が詰まった。家族は自分を見るといつも蔑んだ表情をするように思える。

 使用人は礼儀正しく会釈するものの、その下を向いた顔は自分を軽蔑しているように思えて仕方が無い。

 館には自分の居場所がなかった。自室にこもるのや庭で剣を振るうのに飽きてくると馬を責めに外に出かける。

 母は領主の息子が頻繁に馬を駆りに出かけるのが気に入らないらしい。だがこっちはそんなこと知ったこっちゃない。

 家を継ぐわけでもない。重要な仕事に就いているわけでもない。厄介者扱いされている。だったら好きにやらせてもらさ。

 馬も主人の気持ちを知ってか鬱屈を晴らすようによく駆けてくれた。そしてアルム村の傍まで来た時だった。

 前方から息を切らせて村人が走ってくるのが見えた。どうも表情が尋常ではない。目は釣りあがって歯をむき出している。

 まるで今から戦場に臨む兵士のようだ。その村人はセイジに気づくと馬に縋りつくようにして止めた。

 「セ!・・セイジ様!」

 「何事だっ!」

 村人はよほど急いでいたらしく息が上がってうまく喋れないようだ。そのため息が整うまで少し待たねばならなかった。

 セイジがじりじりして待っているとやがてその村人が胸を喘がせて言った。

 「まっ・・魔物が・・む、村に・・・」

 セイジは顔色を変えた。

 「魔物だと!?」

 村人は村のほうを指差して必死に何度も頷く。

 「これから・・りょ、領主様に・・・お知らせしようと・・・」

 「あいわかった。お前はこのまま知らせに行け。俺は村の様子を見てくる」

 セイジは馬に拍車を入れた。そして馬を急がせながら思った。魔物!どんな魔物か知らないが面白くなってきた。

 魔物を想定して鍛えてきた剣術ではないが魔物退治も悪くない。退治して村を救ってやればその噂は四方に広がってもしかすると町や王都まで行き思いもよらぬ良縁が飛び込んでくるかもしれない。

 何よりも暇をもてあましている。魔物。大いに結構。それがどんなものかは知らないが手強ければ手強いほど名声も上がるというものだ。

 セイジはさきほどの鬱屈もどこへやら喜び勇んでアルム村に向かった。


 アズは三つほど向こうの畑で村人が大声で何か言って回っているのに気づいた。その男は緊張した面持ちで畑仕事をする者に何か言っている。

 表情が尋常ではなかった。そこで少し興味が湧いた。大抵は何か言っていても聞き流すのだがとにかくその男の表情が尋常ではないのが気になった。

 一緒に畑仕事をしていたイリアが不安そうにアズの傍らに来てその村人を見た。

 「何かね?あの人」

 「さあね」

 肩をすくめた。大急ぎで告知しなければならない内容とはなんだろう?イナゴの飛来か、近くで火事でも起こったか。

 しかし遠くの空を眺めても別にその不吉な黒い影は見えなかったし火事の煙もどこにも見えない。あいつは何を焦っているのだろう?

 耳をそばだてた。すると・・・。

 「西の畑に魔物が出たぞ!男の衆は武器を持って撃退に当たれとの村長のお達しじゃあ!」

 アズは耳を疑った。イリアもその声が聞こえたらしく衝撃を受けた表情をしている。魔物!?妖怪や悪霊の噂はよく聞くが実際、見たことのある者はいない。

 それが村に現れた!?俄かに信じられない話だった。いやどうせ熊か狼に違いない。そういう獣を大仰に恐れた慌て者が見間違えたに決まっている。

 そこでアズは逡巡した。行くべきか留まるべきか。獣なら行く必要はない。村人が五人も集まれば撃退できる。

 だがたとえそうだとしても村長が集まるよう触れを出している。行かなければアズの家はさらに苦しい立場に追い込まれるだろう。

 顔だけでも出すか。そう決めて鍬を畦道に置いた。それを見たイリアが心配そうに言った。

 「行くのかい?」

 「見てくるだけだよ。どうせ熊か狼の類いさ」

 その時、声が聞こえた。

 「アズーっ!」

 見ると森からサスケが息を切らせて走り寄ってくる。これまた尋常でない表情をしていた。魔物のことだろうか。

 サスケは親子のもとに来るなり忙しなく喋りだした。やはり魔物のことだった。だが内容が違った。アズは血相を変えて訊きなおした。

 「本当か!?本当に魔物はそう言ったのか!」

 イリアも絶句した表情でサスケを見つめている。サスケは疑われて気分を害したのかむっとした表情で言った。

 「なんで俺っちが嘘をつかなきゃならねえんだ。本当に魔物はこう言ったんだ。「ファスはどこだ?憎い、ファスが憎い」って」

 アズが考えあぐねた表情でイリアを見た。

 「どういうことだろう?」

 イリアが青くなって首を振った。

 「わからない。でも・・・」

 その言いよどんだ先をアズは想像した。腕っ節の強い親父ならどこかで闘って遺恨を残してもおかしくない、か?

 しかし魔物がそう呟いていたというのはさすがに信じられなかった。アズは決意した表情になって西の方角を眺めた。

 「よし。行って確かめてやろうじゃないか」

 サスケが懸念したように言った。

 「危険だぞ。魔物が親父さんを恨んでいるとしたら息子のおめえを絶対、襲ってくる」

 するとアズは楽しげににやりと笑った。

 「上等じぇねえか。親父はもうここにはいねえ。親父への恨み言は息子の俺が聞いてやろうじゃねえか」

 やる気満々の様子で西のほうに歩き出すとサスケも急いでその後を追った。その時イリアに呼び止められた。

 アズが振り向くとイリアが蒼白になって自分を見ている。イリアのそんな姿を見てあんまり無茶はできないな、と思った。

 「アズ・・・。気をつけて」

 アズが安心させるように笑って言った。

 「俺はどこにも行かないよ。母さんを残して」

 イリアがはっとなった。アズは顔を前に戻して歩いた。そう。俺は親父とは違う。母さんを悲しませるようなことはしない。


 セイジはアルム村に到着した。いつもなら北にある村の入り口には交代制の番人がいるはずなのだがその姿がない。

 やはり異変があったのだ。村の中心に繋がる通りを急いで駆けた。そして両側の畑を見やった。いつもは見られる畑仕事の村人の姿が一人もなかった。

 セイジは少し不安になった。まさか皆、魔物とやらに殺られてしまったんじゃないだろうな。だがすぐに首を横に振った。

 魔物が大挙して襲ってきたのならともかくさきほど出遭った村人はそんな口ぶりではなかった。恐らく家の中に隠れて息を潜めているのだろう。

 やがて村の中心部にやってきた。そこには富裕層の屋敷が軒を連ねている。やはり戸は固く閉まったままだった。

 そして村長宅に到着するとその戸を叩いて事情を訊こうとした。その時、南のほうから微かに悲鳴が聞こえてきた。

 耳をそばだてると怒号のような声も聞こえる。魔物はこの先か!急いで乗馬してそこに向かった。居住区を抜けて村広場に出る。

 その向こうは広大な畑が広がっている。背の高い稲穂の隙間から長い得物を持った村人が数人西に向かっていくのが見えた。

 北から南に抜ける中央農道を駆っていくとやはり数人が西のほうに向かっていた。いくつもある西への畦道の一つを選んで乗り入れる。

 だがそこは道幅がとても狭く足場も悪い。馬で進むことは難しいとわかった。仕方なく下馬して走った。

 やがて大勢の村人の背が見えてきた。その向こうを見る。愕然となった。あれが魔物か!?体は大人の四、五倍の大きさはあろうか。

 正確な比較ではないが熊ほどの大きさに見える。ぱっと見は猪だ。だが口の脇に生えた、上に反る長い牙はどうしたことだ。

 あの頬まで裂けた口から吐き出す黒い息はなんだ。逆立った体毛は鋭く長い。針鼠の比ではない。

 村人らは威嚇するように喚声を上げて棒や槍で突くのだが腰が引けていて効果があるようには見えない。

 魔物はそれがわかっているのか時折、嘲笑うように近くの村人に突進してその牙にかけて、はらわたを引きずり出して貪り食う。

 さすがに唖然となって魔物を見ていると近くの村人が振り向いてセイジに気づいた。

 「セイジ様だ!」

 セイジを見るとたちまち村人達から歓声が起こった。セイジの武術好きは近隣に鳴り響いている。セイジならなんとかしてくれるかもしれない。

 期待の目が彼に集まった。セイジは頷いて一歩前に出ると腰の剣を抜いて魔物に向けた。だが魔物は一顧だにせずその小さい目はどこを向いているのかわからない。

 セイジはかっとなってさらに一歩踏み出した。

 「魔物!俺を侮るか!」

 セイジから見ると魔物は横っ腹を見せて無防備のように見える。いいだろう。俺を愚弄したければするがいい。

 黄泉の国で後悔するのは貴様のほうだ。セイジは凄まじい気合を迸らせてその背に斬り込もうとした。

 その時、村人の一人が危惧したように叫んだ。

 「いけねえっ!」

 魔物は一歩も動かなかった。ならば死ねっ!渾身の一撃がその背に振り下ろされた。やった!セイジは自分の剣が魔物を真っ二つに断ち切ったところを想像した。

 だが次の瞬間、我が目を疑った。ガキッという重い手ごたえと共に刃は魔物の背で止まっていたからだ。

 皮膚すら斬れていないようだ。こいつの体は鋼鉄か!?するとさっきの村人がまた言った。

 「セイジ様。そいつに刃物は通じないだ。おら達も何度も突いたり斬ったりしたがまったくきかなかっただ」

 「おのれら農民の剣と我が剛剣を一緒にするかっ」

 セイジに睨まれてその村人は慌てて首を横に振った。目を魔物に戻した。その目は相変わらずセイジを見ていない。

 「おのれいっ」

 剣を何度も振り上げてやたらめったらその背に振り下ろした。だがまったく痛痒を感じていないようだ。

 その時、魔物の口がくちゃくちゃ動いているのに気づいた。なんだ?よく見て吐きそうになった。魔物はさきほど襲った村人のはらわたを咀嚼しているのだ。

 こいつは食事中だから俺に見向きもしなかったのか!?やがてその口が止まるとのっそりと体の向きを変えてセイジを見た。

 その目には感情があった。怒りや憎しみといった負の感情だった。セイジは思わず笑みを浮かべた。

 「食事を邪魔されて怒ったか!」

 肉体的なダメージは与えられなかったが精神的には多少、与えられたらしい。苛つき程度だが。村人の一人が叫ぶように言った。

 「セイジ様、逃げるだ!こいつに刃物は通じねぇ」

 セイジは苛ついたように言った。

 「ならばこ奴の蹂躙を黙って見過ごせというのか!我がオットーハイム家の領地を!」

 「今、若い衆が火を用意してるだ。それで追い払うだ」

 「俺は侮辱されて黙っているほど怯懦ではない!」

 剣を逆手に取ると魔物の目に突き刺そうとした。その時、魔物が初めて動いた。切っ先が到達する前にセイジの懐に入ると牙で足をなぎ払った。

 「ぐわっ!?」

 瞬間、飛びのこうとしたが間に合わなかった。右膝上のズボンが裂けて見る見る間に血が噴出してくる。

 セイジは倒れて右足を押さえた。

 「俺の足があっ!足があっ!」

 村長が慌てて村人に命じた。

 「セ、セイジ様をお救いしろ!」

 村の衆が及び腰ながら魔物に近づこうとした。その時その足がぴたりと止まった。魔物の黄色い目が光っていた。

 その目を見た村人は活力が抜けて病人のようにへたりこんだ。魔物は目をセイジに戻した。セイジは無様な四つん這いで右足をひきづってその場から逃れようとしていた。

 もう貴族の誇りも何もあったものではなかった。とにかく恐怖に支配されていた。自分もこのままではさっきの村人のように内臓を貪り食われてしまう。

 「ああっ!?」

 突然、背中に凄まじい圧力がかかった。肺の中の空気がどっと吐き出された。背骨がミシミシ音を立てて軋んだ。

 苦痛に喘ぎながらなんとかその正体を見ようと振り返った。すると魔物が圧し掛かっているではないか。

 その大きな口が開いた。両脇の長い牙の間にギザギザの歯が無数に見える。中間にある赤黒い舌は別の醜悪な生物を思わせた。

 「た、助けてくれ!」

 恥も臆面も無く叫んだ。普段の傲然とした態度は見る影もない。だが実際に魔物と直面した人間は誰も彼を責められないだろう。

 喰われるというのはそれほどの恐怖なのだ。その口がセイジの頭をすっぽり飲み込もうとした。その時だった。

 一本の矢が飛んできて魔物の鼻っ面を叩いた。思わぬ攻撃にさすがの魔物も怯んだ。

 「セイジ様ーっ!」

 蹄の音がして振り返ればシイプが騎乗のまま弓を射ている。シイプは器用に馬を操って畦道を乗り越えて現場に着くと恐れず魔物に近寄り弓でその頭を叩いた。

 魔物が怒ってシイプのほうを向く。

 「こっちだ!化け物、こっちに来い!」

 シイプの馬が離れると魔物もその後を追って動いた。意外とすばしっこい。シイプが振り返って言った。

 「村の衆!こいつをセイジ様から引き離してくだされ」

 それまで呆然としていた村人らははっとなって魔物を追いたて始めた。シイプはそれを見てその場から離脱しセイジのもとに駆け寄った。

 急いで下馬してセイジの状態を確かめた。足に裂傷があった。だが浅手で神経も骨も大事無いようだ。

 傷口をハンカチできつく縛ってセイジの表情を見た。呆然と魔物のほうを見ている。その目にはいつもの覇気はなく慄然となったままだった。

 シイプがセイジの肩を強く揺すった。

 「しっかりなさい!」

 ようやくシイプの顔を見た。だがまだその表情は弱気に支配されていた。シイプはセイジを睨むように見て言った。

 「ごめん!」

 ぱしっと音がした。セイジははっと頬を押さえた。だがいつもの表情に戻ったように見えた。シイプが頭を深く下げて言った。

 「大変ご無礼を。お手討ちにされても仕方ありません」

 セイジはすぐにシイプの行為の意味を悟った。

 「・・・いや、いいんだ」

 シイプは振り返った。村人はうまく魔物を取り囲んで対処している。だがそれも一時的なものでぐずぐずしていればいずれ魔物は囲いを破って再び村人を襲うだろう。

 シイプはセイジに向き直って言った。

 「私はこれより事の重大さをお館様に申し上げて軍勢を差し向けていただくようお願い申し上げてきます」

 シイプはさっと騎乗すると風のように駆け去っていった。

 4>

 ようやくアズとサスケは西の畑に到着した。だがそこは稲穂が風に揺られているだけで特に異変は見当たらなかった。

 二人は訝しげに辺りを見回した。と、その時サスケがアズ!と呼んだ。見るとサスケは西の畑の端、森との境界辺りを指差している。

 注意を向けてみると確かに騒々しい気配を感じた。二人がそちらに向かって畦道を駆けていくとまず地に座った若い男の姿が目に飛び込んできた。

 誰だ?とよく見れば領主の息子セイジではないか。彼は北の方角を必死な表情で見つめている。なぜ領主の息子が?と訝る暇なく悲鳴が聞こえた。

 セイジ越しに向こうを見ると大勢の村人が何か大きなものを取り囲んでいる。あれか!二人はそこに向かった。

 最初に二人に気づいたのは呪術師のメイ婆さんだった。メイは振り返ってアズに気づくと大きく杖を振って言った。

 「おおっ!アズじゃ。アズが到着したぞ」

 村人はなぜメイがそんなに喜ぶのかわからず訝しげにアズを見たり、中には明らかに邪魔だと言わんばかりの表情をする者もいた。

 メイが居並ぶ村人に言った。

 「この場はアズに任せてわしらは退くんじゃ」

 怪異や超自然現象は呪術師メイの領分である。彼女がそう言うのなら従うしかない。釈然としないながらメイの言葉に従って村人らは少し距離を取った。

 サスケは明るいところで見る魔物の大きさと邪悪さにぎょっとなった。そして心配そうな目をアズに向ける。

 「アズ・・・」

 アズもさすがに緊張した面持ちになっていた。だが魔物から目を離さずサスケに頷いてみせた。

 「大丈夫だ。まぁ見ていてくれ」

 その時いつもアズをいじめている地主の取り巻きが吐き捨てるように言った。

 「なんのつもりか知らねえがでしゃばってきやがって。英雄のつもりか?馬鹿が。魔物に食われて糞になっちまえ」

 サスケがそいつをきっと睨もうとしたがそれより早くメイの一撃がその少年を襲った。杖に打たれた少年は痛そうに頭をさすって俯く。

 アズはそれを見てメイに頷いてみせた。親しく話したことはないがどうやらメイ婆さんは味方のようだ。

 メイは無言で杖を魔物に向けた。やっつけてやれ、と促しているようだった。アズは緊張した面持ちで頷いて魔物に目を向けた。

 魔物はアズが前方に回って来るとその小さい目を向けた。サスケには魔物の表情が僅かに動いた気がした。

 アズはじっと魔物を観察した。臭い。森の生物には慣れているはずだったが魔物から発する臭気は桁違いの臭さだった。

 鼻が曲がるどころではない。早くも胃液が喉の奥から逆流してくるようだ。アズは臭気をあえて気にせず静かな呼吸をすることで精神を統一した。

 魔物の体はまるでゴツゴツとした岩のようだった。山のような重量感、圧迫感があった。これを人間が倒せるのか?

 自然や岩に立ち向かえば砕けるのは人間のほうじゃないか・・・。不審と弱気が胸に湧いた。その時、鋭い声がした。

 「アズ!」

 見るとサスケが必死な顔してアズを見ていた。アズはその表情を見てすぐに悟った。そうか。弱気になるなってことか。

 心を鎮めて再び観察した。凄い。荒々しく黒い獣気が全身から立ち上っていた。その獣気は辺り一帯に広がっておりアズだけではなく少し離れた村人をも巻き込んでいる。

 これが人の心を萎えさせているのか。それに対抗するために必死に気を奮い立たせた。俺はこいつをやっつけられる!

 必ずやっつけられる!何度も必死に言い聞かせているとやがて落ち着いてきた。アズが改めて魔物を見た。

 さっき見た時より多少、小さくなっているように思えた。それでもかなり巨大なのだが。だがまったく敵わないとは思わなくなった。

 死ぬ気でやればなんとかなるかもしれない。アズはじりっと半歩踏み出した。その途端、黒い獣気がじわっと強くなった。

 気づけば自分の体からは強い気持ちが放射されていて魔物の獣気と中間でぶつかり合っている。

 獣気が前に押し出されてきた。少しでも気を抜けば一気に押し出されると危惧した。なにくそ!アズは全身に気合を込めて押し返した。

 村人にはその拮抗する圧力の壁は見えない。だがその場のぴりぴりした雰囲気から眼には見えない想像を絶する何かがぶつかり合っているのだけはわかった。

 にらみ合いは五分かと思われた。だがアズはそれ以上、前に進めなかった。対して魔物はまだ余裕があるらしく鼻息荒く前足で地面を盛んに引っかいている。

 これだけの体格差だ。背丈も体重も五、六倍ではきかない。その差を強い気持ちでカバーしようと思ったがそれでもまだ魔物には余裕がありありと見えた。

 だが弱気になってはいけない。自分には父から受け継いだ武術がある。父の名声が村に残っている。

 それを汚すことはできない。負けてなるものか。だが頭上からのしかかってくるような圧倒的な力の壁に抗しながらあのことを思わずにはいられなかった。

 本当にこいつは親父の名を呟いていたのだろうか?すると魔物の表情が僅かに動いた。

 (ナニ?貴様ハ、ファスノ、息子ダト、イウノカ?)

 アズは愕然となった。幻聴ではない。感情のないザラザラした声。だが奴は口を動かしていない。ということは魔物の声は直接、俺の頭に流れ込んできたということなのか!?

 アズは試しに考えたことを魔物に投げかけてみた。

 (ファスは俺の親父だ!お前は親父になんの恨みがあるっていうんだ!)

 するとたどたどしい声が頭の中に返ってきた。

 (ファス。ファス。我ガ憎キ敵。我ラハ奴ニ殺サレタ)

 (なんだと!?殺されたってどういうことだ!)

 (貴様ハ奴ノ息子。殺ス!)

 突然、拮抗していた力の壁が崩壊した。はっとなって見ると魔物が突進してくるところだった。アズは制するように手を前に出して言った。

 「待て!親父がお前を殺したってどういうことだ!」

 答えはなかった。凄まじい獣気がまずぶち当たってきた。非物理的衝撃で頭ががくんと後ろに引かれる。

 次いで視界の下に黒い大きな影が突進してくるのが見えた。

 「ちいいいいっ!」

 身を左にひねってなんとかかわした。急いで体勢を整えて振り返った。通り過ぎた魔物がこちらに向き直るところだった。

 そして頭を僅かに下げて再び突進してきた。また体当たりの前に非物理的な獣気がぶち当たってくる。

 一度やられた。だから今度は腰を落とし両腕を顔の前で交差して防御した。ぶわっ!と津波のような圧力が防御した腕にぶち当たって僅かに体が後退する。

 すぐ体当たりがくるぞ!地面を這うような黒い影の突進。その瞬間、膝を曲げてジャンプしてその突進をかわした。

 アズはまた頭の声を魔物に送った。

 (待ってくれ!親父の、ファスのことが知りたいんだ!)

 だがもう魔物から明確な答えは返ってこなかった。ただひたすら(殺ス。ファス、殺ス。息子、殺ス)という思念しか伝わってこない。

 親父の手がかりはここまでか・・・。心の底ではもし生きているのなら会いたいと思っていた。未だに父の帰郷を心待ちにしている母に朗報を届けたかった。

 だが所詮は魔物。話の通じる相手じゃない。アズは感傷を振り払うかのように頭を振った。魔物と心を通い合わせようとしたのが間違っている。

 親父は出奔した、あの日から自分の中ではもう死んだことになっている。母さんには悪いが・・・。アズは気を取り直して構えた。

 魔物を倒す!アズの中にふつふつと闘志が湧き起こってきた。どうやら親父はこいつを倒したらしい。

 なら俺もこいつを倒さなきゃならない。魔物は黄色く光る目でアズを見ていた。そして前足で地面を引っかく。

 アズがじりっと半歩足をずらせた。その場の緊張感がどんどん高まってくる。遠巻きにしている村人らも息を呑んでその勝負に見入っている。

 サスケが呟いた。

 「アズ・・・」

 魔物が動いた。唐突のダッシュだ。凄まじいダッシュだった。距離を取っていなければ対応できなかっただろう。

 だがアズも負けてはいなかった。膝を軽く曲げると魔物との距離を測っった。そして右拳を引いて迎え撃つように腰を落とす。

 サスケが悲鳴を上げるように言った。

 「バ、馬鹿!やめろ!」

 魔物が直前に迫った。臭く荒々しい鼻息がアズの顔にかかった。今だ!両者が激突すると思われた瞬間アズはさっと右足を引いて魔物の体当たりをかわした。

 魔物はかわされたと知ると急いで止まろうとする。そこに隙ができた。アズは猛然と魔物に駆け寄るとその額に拳を思いっきり突き下ろした。

 「でやらあっ!」

 脳内では細木をぶち折るシーンが蘇る。だがすぐに愕然となった。おっ折れねえっ!?当たった感触はまさに岩だった。

 拳が跳ね返され、その表面に亀裂がビキパキと入って粉々に壊れるイメージが駆け抜ける。拳があっ!?

 俺の拳があっ!だが実際の拳はびりびりと衝撃の余波で震えているだけで無事だった。それに気づいてほっとしているとサスケの声が聞こえた。

 「ボケっとするな!くるぞ!」

 はっとなって見下ろした。魔物がまた突進してきて頭を振るのがわかった。牙だ!あの長い牙で横っ腹を切り裂こうとしているのだ。

 避けろ!咄嗟に飛びのいた。だが魔物はかわされたのを察知するとすぐに頭をこちらに向けて体当たりしてきた。

 牙を振ってから体当たりまでの移行が一秒に満たないほど速かった。かっ、かわせねぇ!アズは至近距離から体当たりをくらって吹っ飛んだ。

 五メートルほど宙を吹っ飛び、やがて地に落ちて二回ほどバウンドし仰向けに倒れた。

 「アズーっ!」

 サスケの絶叫が耳を打った。だがそれどころではなかった。重い衝撃波が腹の中をぐるぐる暴れ回り凄まじい苦しみにのた打ち回った。

 「ぐえええええっ!」

 たまらず嘔吐した。何度も嘔吐した。収まらぬ苦痛にのた打ち回っているとメイの叱咤が聞こえた。

 「しっかりせんか、アズ!」

 その声にはっとなって魔物を見た。また突進してくるところだった。仰向けではかわしきれない。アズの心を恐怖が満たした。

 「うわっ!?」

 思わず手をかざして顔を背けた。その時、魔物の苦鳴が聞こえた。はっとなって見ると魔物は足を止めて痛そうに片目を瞑っている。

 「アズ!今だ、逃げろ!」

 見るとサスケが飛礫を魔物に放っていた。アズは腹を押さえてよろよろと立ち上がった。だが腹に大きく圧迫する熱感があり、とてももう敏捷な動きや力のこもった攻撃は見込めない。

 魔物はサスケの飛礫に苛ついたのか今度はサスケに向かっていった。サスケやその周囲の村人らが慌てて後方に逃げ出す。

 いいぞ。あっちに行ってくれ。アズは自分の身の安全のみを考えてしまった。だがすぐにそれが自身の矜持を傷つけることだと気づいて顔をしかめた。

 サスケ達を犠牲にして生き残りたいってか。ふざけんな、俺。やがて魔物が戻ってきた。アズは自分の獲物だといわんばかりにじっと見る。

 やはりやらなければならないか。いやてめえで始めたことだ。てめえで決着をつけなきゃならない。だがどうする、この重い体で?

 ダメージによるものか手足に力は入らず震えまで起きている。と、魔物が突っ込んできた。どうする、どうする、どうする!

 絶望に支配されかかった時、突然頭の中で声がした。

 (アズ、セン○○拳だ!)

 アズははっとなって頭をめぐらせた。誰の声だ!?いやなんといった?聞き取れなかった。セン・・・何だ?

 その時ふっと脳裏に映像が浮かんだ。幼き日、父が自分に突きのやり方を丁寧に教えている。

 (いいか。アズ。これは我が家に伝わる絶対無敵の必殺拳なんだぞ。人に決して明かしちゃいかんぞ)

 そうだ。あの時、親父は俺に教えてくれた。どっしりと腰を落とし拳を引いて自然体となり相手の目を見るのではなく体全体を視野に納めろ、と。

 途端にアズの体から力が抜けた。さきほどの強力な闘気ではない、稲穂の中を吹き抜ける涼風のような気がアズから放たれて始めた。

 それを見た魔物の足がぴたりと止まった。どこか戸惑ったようにアズを見ている。サスケは急に魔物が足を止めたのに訝った。

 魔物からしたら絶好の機会だったのになぜ?アズを見た。はっとなった。アズの表情がぼうっとしている。

 目に意思の光がない。まるで夢遊病者だ。どうしちまったんだ、アズ!その時のアズはまさに夢の中にいるようだった。

 幼子のアズは父に武術を教わっている。それを無意識のうちに忠実に再現していたのだ。魔物からどっと強い獣気が押し寄せた。

 それをアズの涼気が受け流す。自暴自棄とは違う、まったくの自然体だ。アズはどうなろうと自分の行為の結果をすべて受け入れようという気になっていた。

 心がとても穏やかだった。現実では獣気が怒涛のごとく押し寄せていたが夢の中にいるアズは心安らかだった。

 だが破綻は突然やってきた。胃の中に熱感がこみ上げてきてたまらず咳き込んだ。それで神仙の境地が破られた。

 それがわかった魔物が突進を再開した。心の平静は崩れ、また恐怖が生み出される。やべぇ!このままじゃ何も出来ないうちに殺られる。

 その時また頭の中で声がした。

 (大丈夫だ。お前はまだやれる)

 大きな包容力で優しくアズを元気付けてくれる声。アズはそれでなんとか体勢を立て直した。よし、やるぞ!

 だが夢の中で思い出された境地は現実に戻った途端に失われて体は重く究極のピンチにガチガチに緊張した。

 魔物との三度目の勝負が始まった。アズは決死の覚悟になった。やるしかない!やるしか!その時、遠くで歓声が起こった。

 「領主様の軍勢だ!領主様が来てくださったぞ!」

 北のほうから金属と金属が触れ合ったガチャガチャという騒々しい音と馬のいななきが聞こえてきた。

 それに力を得た村人が喊声を上げる。魔物は足を止めて北のほうを見た。そしてぶふ〜っと息を吐くとアズを一瞥してから森のほうに駆けていった。

 アズは呆然とその背を見送った。助かった・・・のか?そう思ってまた自己嫌悪に陥った。くそっ。軍勢が来なければ俺は確実に殺られていたってことかよ!

 森の暗闇に消えていく魔物に腹立ち紛れに叫んだ。

 「化け物め!もう一度勝負だっ。逃げるんじゃねえぞ!」

 領主の軍勢がやってきた。そして魔物が逃げたと知ると村に警備の人間を割いて森に追跡して行った。

 だがその後いくら探しても魔物の姿は杳として見つからなかった。しばらくして村に落ち着きが戻った。

 セイジは引き上げる村人の一人を捕まえ、サスケの肩を借りて帰路に着くアズを指差して訊いた。

 「あいつは誰だ?魔物と闘っていた奴だ」

 その村人は訝しげに答えた。

 「村の南に住んでいる小作農のアズです。村抜けした父親がかなり腕が立ったっていうんで闘わされたんですかね。まぁ期待はずれでしたが」

 セイジは頷いて心の中でその名を反芻した。アズというのか、あいつは。

 5>

 村長屋敷の大広間に十数人の男達が集まっていた。どの男も上質の衣服をまとい装飾品を身につけるなど身なりはいい。

 年齢は高めで中年から老人といったところか。彼らは地主や金貸しなど村の上層階級の人間達であった。

 上座には小柄で顔が皺だらけだが背をぴんっと真っ直ぐに伸ばした老人がいた。村長だ。村長はテーブルの周りの男達を見回した。

 口を引き結び腕を組むなど誰もが難しげな表情を浮かべている。その日は魔物に襲われた翌日だった。

 今度、襲われた時どう対処すべきか、という寄り合いだった。皆、重い表情で押し黙っていると中ほどの席に座った小太りの男が顔を上げて言った。

 「村長。やはり村の者だけの警備では不安だ。ここは領主様のお力に縋って警備兵を派遣していただくしかないだろう」

 すると白髪の村長が首を振った。

 「その要請はもうした。だが領主様の言われることには魔物は他の村も襲うかもしれんからこの村だけ多くの兵を割くわけにはいかんそうだ」

 さっきの男が不満そうに言った。

 「じゃあ何もしてくださらん、というのか」

 村長が首を振った。

 「そういうわけではない。領地の各所に早馬を設置して魔物が現れたらそれが領主様にお知らせに走って軍勢が動く、という形になっとるらしい」

 「それでは遅い。助けが来るまで甚大な被害が出てしまう」

 すると末席近くの、長身で痩せぎすの男が言った。

 「森に住む猟師どんに魔物退治を頼んでみてはどうだろうか」

 「それも既に訊いてみた。だがとても無理だと断られた。矢でも刀でも通用せんことは先日セイジ様と執事殿が立ち会ってみて立証済みだ。

 わしの力ではどうにもならんと言ってた。結局、我らの村は我らで守るしかないのだ・・・」

 場の空気がさらに重くなった。村の人間だけで守ると考えるとどうしても暗鬱になる。あの魔物の破壊力は相当なものだったからだ。

 ここは戦闘専門の騎士達に是が非でも守ってもらいたかった。するとさっきの小太りの男が暗くなった雰囲気を変えるように言った。

 「とりあえず無理に退治しようとしてもいたずらに犠牲が出るだけだ。守りに徹しよう。獣封じの柵を二重三重に造るのだ。

 そして昼夜を問わず警備の者が交代で村の周りを巡回する。しばらくこれで乗り切るしかあるまいて」

 皆が頷いた。その後、誰が柵を造り巡回する者は誰にするかという話を数十分した。そして皆、帰っていった。

 部屋にはもう誰も残っていないかと思われた。その時、部屋隅の陰から低い溜息が聞こえた。呪術師のメイ婆さんだった。

 呪術師は不可視の現象を読み解き、人の心を覗けるというのであからさまにではないが人々から恐れられていた。

 なのでメイは村人と接する時はいつも目立たぬようにしている。この会合の時も暗がりにいて求められなければ発言するつもりはなかった。

 メイは人気のなくなった広間で一人、嘆息した。

 「常人では倒せん。あれは数百年かけて熟成された負の怨念の集合体なのじゃ。人の手ではどうしようもない。

 だが希望があるとすればあの子だ。あの子がさらなる修練を積めば・・・」


 サスケは両腕を頭の下に組んで畦道に寝っころがっていた。草の茎を咥えて空に浮かぶ雲をぼんやりと眺めている。

 そして不思議そうに言った。

 「なぁ、アズ。あの雲はどこに行くんだろうなぁ。行き先はあるのかな?」

 すると近くから不機嫌な声が返ってきた。

 「そんなの知るか。雲の行き先なんて」

 サスケが顔を横に向けた。そこには畑の中で稲穂の状態を調べるアズの姿があった。サスケは半身を起こしてあぐらをかくとまた言った。

 「あの魔物、また来るかな?」

 「そんなの、知らねえよ」

 アズは稲穂から目を離さずそっけなく答えた。だがそう答えたものの、魔物の動向はとても気になっていた。

 魔物は父に殺されたと言っていた。ならばその復讐に村を訪れたことになる。村の呪術師の婆さんによるとあれはあちこちで負の想念やら怨念やらが寄り集まって猪に寄生し、ああいう魔物になったんではないかという。

 闘いの途中で諦めたがやはりもっと父のことを問い質してみれば良かったかと後悔がよぎる。どこで父に会ったのだ?

 どうしてお前は殺されたのだ?それから父はどこに行った?何年前の話だ?訊きたいことは山ほどあった。

 だが先日、受けた感じではいくら問い質しても恨みが強すぎてやはり詳しい話は訊き出せないだろうということもわかっていた。

 それでもまた会って話をすれば何かわかるかもしれない。だが魔物はアズをファスの息子ということで問答無用に襲ってくる可能性が高い。

 親父を殺そうとする相手。ならば自分が受けて立ってやる。心に燃え上がるものがあった。その時どこからか蹄の音が聞こえてきた。

 サスケが北のほうを見た。しばらくそちらを目を細めて見ていたと思ったら急にヤバッ!?と呟いて森のほうに駆けていった。

 何事かとちらっと北の道を見てみると遠くから馬に乗った貴族風の男が近づいてくる。よく見れば領主の息子セイジだった。

 セイジはアズの畑まで来ると馬を止めた。そしてアズに鋭い視線を向けてくる。その視線がアズの横顔に突き刺さった。

 だが声をかけてこないので敢えて無視して畑仕事を続けた。いつまでも無視するような態度に耐え切れなくなったのかやがてセイジのほうから声をかけてきた。

 「おい。お前はアズというのか?」

 アズは横柄な態度で問われてむっとなったが相手は領主の息子である。仕方なく顔を向けて不機嫌に答えた。

 「そうだ」

 その表情を見てセイジもむっとなった。

 「この前お前は化け物にもう一度勝負だって言ってたな。だがあの化け物を倒すのは俺だ。憶えとけ」

 セイジはアズの顔を睨むように見て言った。そう言われるとアズの負けん気も黙ってはいられなくなる。

 それが胸の中でむくむくっと頭をもたげるのを感じた。領主の息子だからっていきなりなんなんだ?

 魔物退治から手を引けと言いたいのか?村人から聞いたぞ。あんたは俺達が到着する前にこっぴどくやられたって。

 倒せもしないのに大言吐きやがって。手を引かせたけりゃ実力でやってみろってんだ。そう言いたかったがさすがに分別が働いて無言でセイジを睨んだ。

 「なんだ。何か言いたいことがあるのか?」

 セイジはアズの視線を真っ向から受け止める。二人の間に緊張感が走った。セイジの手がゆっくりと腰の剣にかかった。

 だらりと下げていたアズの手も徐々に上がっていく。このまま緊張感が高まっていけばどちらかが手を出さざるを得なくなる。

 二人とも相手からまったく目を離そうとしない。少し離れたところで畑仕事をする村人がただならぬ雰囲気を感じて対峙する二人に目を向けた。

 緊張感はいよいよ最高潮に近づきつつあり、もういつ破裂してもおかしくない状態になった。セイジが遂に一歩、馬の足を進めさせた。

 アズは体内に住む獣がぐっと牙を剥きかけるのを感じた。こうなるともう対決は避けられない。その時だった。

 ぷうぅぅぅという気の抜けたような音がした。そして少しして風に乗って漂ってきた臭いに二人は顔を強くしかめた。

 「なんだ、この臭いは!?」

 セイジは喚いたがアズは何が起こったのかもうわかっていた。するとすぐ近くの森の中から声がした。

 「悪ぃ。昨日くさったモン喰っちまったみたいでこんなところでコいちまった。臭ったか?」

 サスケだった。いつの間にか風上にいて枝に座って恐縮した態で頭を掻いている。セイジはイラっとした表情でサスケを見た。

 だがすぐにアズに視線を戻した。サスケの屁で毒気を抜かれたのかその顔に闘気はない。

 「いいな。あれは俺の獲物だからな」

 アズももうとりあう気にもならず視線を合わせなかった。セイジがどこか腹立たしげな様子で帰った後サスケがやってきて言った。

 「おい。ヤバかったな。おめえ無茶するなよ。相手が悪いよ、相手は領主の息子だぜ」

 「わかってんよ。わかってはいたんだけど・・・」

 最後まで言わずに呑みこんだ。魔物は親父を狙ってやってきたんだ。だったら俺の獲物じゃないか。


 数十人の村人が村の周囲に新たな柵を設けていた。元々、畑の作物を荒らす獣封じのために柵は設けてあった。

 だが相手はあの巨大な魔物である。とても一つや二つの柵で防げるとは思えない。そのため頑丈な木材を特に選んで三重の囲いとした。

 そしてさらにその柵の外側に空掘りを掘るという念の入った防備が施された。また家々の外壁には魔物出現に備えて棒や槍が常に置かれるようになった。

 そして防備が整った後は武器を携えた村人が昼夜を問わず柵の内側を巡回することになっている。

 やれるだけのことはやった。だが村人の表情は重く緊張していた。果たしてこれだけで魔物の侵入を防げるのか。

 数十人でかかっても倒せなかった魔物を撃退できるのか。村人の不安は尽きなかった。メイは忙しく防御柵を造る村の連中を醒めた目で見ていた。

 こんなことをしても無駄なのに、と。だが自分の役割も果たさねばならない。魔物退散の札を各所に貼った。

 自分や村人がどんなに努力しても魔物の侵入は防げないとわかっていたがそれを口には出すことはなかった。

 時折、溜息をつきながら村の防備を見て回った。

 「なにをしようと無駄なんじゃがな・・・。さて。あの子の家はどこじゃったかな?」

 年老いた呪術師は南のほうに目を向けた。  


 オットーハイム男爵の城館に業者風の男達数人が荷車を牽いてやってきた。その荷台には大量の木材が積まれていた。

 とするとこの男達は材木業者なのだろうか。業者の頭とおぼしき年嵩の男が館の門番に何か言うと門番は興味が無さそうに中に入れと顎をしゃくった。

 中に入ると白い砂利を敷き詰めた道が少し遠くの城館まで続いており途中に噴水があった。業者らは城館のほうには行かず門番に言われたように左手の芝生のほうに向かった。

 やがて庭の端、森との境界手前に誰か身分のありそうな若い男が立っているのが見えた。業者らはその男の前まで来ると帽子を取って尋ねた。

 「セイジ様で?」

 セイジは鷹揚に頷いて言った。

 「そうだ。注文した物は持ってきたか?」

 業者の後ろをうかがうと荷車に大量の木材が積まれているのが見えた。セイジは頷き、早速手順を説明して作業に取り掛からせた。

 業者らは木の杭を荷馬車から降ろしてそれを次々に地面に深く突き立てていく。業者が汗だくになって作業をしていく内に陽はやがて西の山の陰に沈み込もうとしていた。

 「終わりやした」

 腕を組んで作業を見守っていたセイジのもとに頭が報告しに来た。見ると芝生だったその一帯は人の背丈ほどある杭で林のようになっていた。

 業者に礼金を払って立ち去らせるとセイジは満足そうに杭の林を眺めた。そして剣を抜いて近くの一本を睨んだ。

 魔物の姿が目に浮かんでくる。そして無様にも吹っ飛ばされ悲鳴を上げ四つん這いになって魔物の牙から逃げる自分の姿も。

 屈辱に全身がかっと燃え上がった。そして一番手前の杭に向かって走った。

 「きええええっ!」

 鋭く踏み込みざま杭を斬った。杭は山で一番硬い木材を選ばせたものだ。それが半ばから紙のようにすぱっと斜めに断ち切られていた。

 セイジが満足したように剣を見た。

 「いいぞ。これならあの魔物とて・・・」

 先日、父に無心して町から取り寄せた高値の業物だった。普通に無心しても父は断ると思ったので行状を改めると父の前で誓った。

 無論それは口実で行状を改める気など更々ない。アズの顔が浮かんだ。村人の、小作農の分際で魔物を倒すと宣言した。

 後からこの自分が雪辱することを聞いて知っていたはずだ。それなのにあいつは魔物は自分が倒すと譲らない。

 あいつは気に入らない。あいつは邪魔だ。村長に言ってアズを排除することはできるだろう。だが貴族の立場を使ってアズを陥れるような卑怯な真似はしたくない。

 排除するならあくまでも対等な勝負で奴をやりこめる。だが今はあんな小物にかまっている暇はない。

 大物の退治が控えている。セイジは再び杭の林に向かって構えた。そしてまた駆け寄って剣を振るう。

 今度は立ち止まらない。一本斬った後も剣を風車のように振り回しながら駆け抜けた。セイジが駆け抜けた後、数本の杭がバタバタと倒れた。

 倒す!あの化け物は必ず俺が倒す!あいつより先に俺が倒す!その時セイジは気づいていなかったが化け物を倒すというよりアズに負けたくないという気持ちのほうが強かった。 

 

 アズは古木に拳を打ち込んでいた。その動作はとても静かで人が見たら緩慢に見えたかもしれない。

 だが一発一発に無言の気合が乗っており幹に当たるたびに空間に震動がズンッズンッと響いた。サスケはいつものようにその傍で寝っころがってアズを見ていた。

 やがて飽きたのか欠伸を一つして立ち上がるとアズの背に声をかけた。

 「おい。俺っちにもやらせろよ」

 アズは振り向いて煩そうに言った。

 「俺がいない間やればいいだろう。いない時のほうが多いんだから」

 「不思議とおめえがやっているとやりたくなるんだよ」

 アズが不機嫌に場所を空けた。サスケはへへっと笑うとアズの構えを見よう見まねでやる。

 「こう構えて、こう手を引いて・・・」

 アズは小馬鹿にしたように薄く笑って腕を組んで見守っている。特に教えてやる気はないようだ。いよいよ打つ段階に入ったところでようやくアズが声をかけた。

 「最初は軽く突いたほうがいいぞ。思いっきり突いたら拳を痛める」

 「おめえはいつも力を入れて突いているじゃないか」

 「馬鹿。俺は慣れているからだ」

 「まぁ見てなって」

 サスケが古木に向き直ると気合を発して拳を幹に繰り出した。

 「それっ!」

 次の瞬間がサスケは呻き声を発し拳を押さえて座り込んだ。

 「いてえっ!?」

 アズが苦笑して首を横に振った。

 「言わんこっちゃない」

 アズは腰の小袋から薬草を練り潰したものを取り出してサスケの拳につけてやった。サスケが悔しげに古木を見上げた。

 「荒縄が巻いてあるから大丈夫だと思ったんだけどなぁ」

 「慣れている奴だって変な突き方したら拳や手首、肩を痛める。ましてお前は初めてだ」

 「くっそぉ〜。いつか慣れてやる。この「木」め!」

 アズは笑って言った。

 「俺の修練の邪魔はするなよ」

 サスケはそれで懲りたようだ。寝ころんで口を出さなくなった。アズは改めて古木に向き直って拳で突く。

 最初は無心で突いていたがその内、魔物のことが頭に浮かんできた。親父が倒した人間の魂が恨みを持って漂っているうちに猪にとりついて魔物になった。

 そして復讐に村にやってきた。親父の闘う姿は見たことがない。だがこうして闘ったという相手が現れるとどこか嬉しさを感じた。

 俺の親父は本当に強かったんだ。母さんや俺を捨てるような奴だから性格は悪かったのかもしれないけど腕っ節は本当に強かったんだ。

 今まで親父を馬鹿にしてきた村の奴らにそう言ってやりたかった。だが魔物からそのことを聞いたと言えば頭がおかしいじゃないかと思われるのがオチだろう。

 だからそのことは一人、胸のうちにしまっておくことにした。魔物は俺が倒す。親父と闘いに来たのなら息子の俺が相手になってやる。

 サスケはそんなアズの決意も知らずいつものようにぼうっと空を眺めていた。その目がふとアズに向けられる。

 いつもと音が違う。苛ついているというかいつもより荒々しいというか打撃音が違うのだ。体を起こしてアズのほうを見やった。

 やはりいつもより力が入っている。いや傍目には狂っているとしかいいようのない突きを連続して打ち込んでいる。

 思い当たることがあった。アズの目は魔物を見ているのだろう。親父さんを狙ってやってきたという魔物を。

 俺が代わりにやっつけてやる。そう気負っていつもより激しくなっているのだろう。サスケが呆れたように声をかけた。

 「慣れている奴だって怪我するんじゃなかったのか?」

 アズは突きの連打を止めずに訊き返した。

 「あ?なんだって!邪魔すんなって言っただろ!」

 サスケが溜息をついて言った。

 「なぁ。危ないことはやめとけって。ありゃあ魔物だ。剣だって弓でだって倒せなかったじゃないか。親父さんの代わりにやっつけてやりたいってのはわかるけど相手は人間じゃねえんだ。

 無理にやるこたぁねぇと思うけどな」

 「うるせえなっ。倒すといったら倒すんだっ」

 「あの領主の息子も同じようなこと言っていたけど考えてみりゃお前ら、似てるよなぁ」

 それを聞いて手を止めた。似ている?俺とあいつが?訝しげに荒い息のままサスケに尋ねた。

 「どこが似ているんだよ?」

 「顔とかじゃないよ。なんていうか、性格だな。絶対負けたくねぇってムキになるところが」

 「ちっとも似ているものか。向こうは貴族の若殿様で俺は農民の、それも最下層の小作農だ」

 アズはすぐに関心を失って再開した。突き方がいつもと違って荒々しくなっているのは少し前からわかっていた。

 だが感情が昂ぶっているというか魔物やセイジのことを思うと止められなかった。サスケはそれを見てセイジのことを持ち出したことでアズをますます感情的にさせてしまったなぁと頭を掻いた。

 「なぁ。無駄なことはよせって。勝てると思ってんのか。そんな修練で?」

 するとアズは苦しげな表情になって答えた。

 「勝てねぇ・・・これじゃ勝てないのはわかっているけど俺は腕自慢の親父の息子だ。負けは許されねえんだ」

 言ってからはっとなった。俺は親父の息子だと?あんなに憎んでいたのに親父の息子だと自ら言うのか。

 母さんや俺をこんなに苦しめている男のことを腕っ節だけとはいえ認めるのか。俺は何を言ってんだよ。

 そこでまた新たに気づいたことがあった。突くのを止めて呆然と拳を見下ろした。親父だから魔物を倒せたのであって俺じゃあ力不足だということなのか。

 親父に習った拳。もちろん技術的にはまだまだ未熟だ。体力も不足しているかもしれない。そんな拳では親父には遠く及ばないし剣さえ通さぬあの魔物には絶対、勝てない。

 「駄目だ。これじゃあ駄目だ・・・」

 アズは失望したように呟いた。サスケは何か言って励ましたかった。だがうまい言葉が出てこない。するとその時二人の背後で声がした。

 「その通り。それではあの魔物は倒せん」

 驚いて振り返ると果たしてそこに立っていたのは呪術師の老婆だった。

 6>

 二人が驚いて絶句しているとまたメイは言った。

 「今のお前では魔物は絶対、倒せん」

 少ししてようやく呪縛から解放されたのかアズが不満そうに言った。

 「どういうことだよっ。俺が負けるともで言いたいのかよっ」

 メイは答えず古木を見上げた。そして納得したように言う。

 「なるほどな。父親がいなくなってどうしているかと思っていたらこの木を師匠としていたか」

 アズが愕然となって訊いた。

 「親父を知っているのか、婆さん!?」

 メイは面白そうにアズを見て言った。

 「ああ、知っているとも。寡黙な男だったがいい男じゃった。この婆が惚れるほどのな」

 サスケが気持ち悪そうな顔をした。メイがサスケをじろりと見た。途端にサスケがすくみ上がる。アズがまた急き込んで訊いた。

 「親父はどんな男だったんだ?強かったのか?」

 メイは眉をひそめて言った。

 「イリアから何も訊いとらんのか?」

 するとアズは表情を暗くして言った。

 「親父のことはあまり訊かないようにしてた」

 そしてぽつりと付け加えるように呟いた。

 「親父のことを憎んでいたから」

 メイは溜息をついて言った。

 「まだ恨んでおるのか、ファスのことを?」

 アズがきっと睨むようにメイを見た。

 「あったりめぇだろ!俺達を置いて行ったんだぜ!」

 メイは表情を重くして言った。

 「わしはなぜファスが村抜けしたのかは知らん。だがあの誠実な男が簡単な理由で妻子を置いて出て行くとは思えん。きっと何か重大な理由があったんじゃろう」

 アズは荒々しい感情を露にして言った。

 「もう親父のことはいい。いない奴のことをどうこう言ったってしょうがない。それより婆さん、さっきの言葉はどういうことだ?魔物は倒せんって」

 「魔物は人外のもの。人の力では倒せんということじゃ。尤も人外のことはわしの仕事じゃが」

 「じゃああんたなら倒せるっていうのか?」

 メイが首を横に振った。

 「そうだ、と言いたいところじゃがあれほどの妖気。とてもわしの手には負えん。じゃがお前なら、ファスの息子であるお前ならば・・・」

 メイは言いよどんだ。アズが眉根を寄せて訊いた。

 「どういうことだよ?さっきは無理だって言っておいて」

 「このままでは無理と言ったのじゃ。じゃがこの後わしの教える修練次第ではあ奴を倒せるかもしれん」

 アズは飛びつかんばかりにメイに近寄って訊いた。

 「なんだって!?倒せる方法があるのか、婆さん!」

 「ある。しかもお前にしかできんことが」

 それからアズはメイの言葉を必死で聞いた。そして聞き終えた時には拍子抜けしたような表情になっていた。

 「本当にそんな簡単なことで魔物を倒せるのかよ?」

 「きっと倒せる。もし倒せなかったらお前の修練の仕方に問題があったということじゃ」

 アズは顔をしかめた。だがすぐに気を取り直して言った。

 「わかったよ。やるしかねえもんな。魔物はもうそこまで来ているかもしれねえしな」

 メイは厳しい表情のまま頷き、そして用件は終わったとばかりに背を向けた。森の中に入って少し進んだ時、振り返った。

 アズは考え込む様子で古木のほうに向いている。だがその背から絶対、倒してやるんだという決意が見て取れた。

 メイはそれを見て頷いた。それでいい。その決意さえあればきっと魔物は倒せる。先日アズの動きを見て父親のファスとそっくりだと思った。

 十数年前、村外れの森の中で同じように木に向かって拳で突いていたファスと。だがアズが魔物と対峙した時、何かが足りないと感じた。

 そしてしばらく考えてようやく思いついた。それは自然の力だ。呪術師は自然の力を体内に取り込んで魔物を祓い、人の病も治す。

 ファスはその自然の力を武術に転換する術を持っていた。自然の力で突いたファスの拳の威力は凄まじいものがあった。

 実際、人を倒す場面は見たことがなかったが修練を見ればその力量は十分わかる。その縁で二人は、呪術師と武術家は森の中で親しく話すようになった。

 二人とも日常的に接する人はいたが超自然的な力を有しているが故に孤独なところがあったのだ。

 一般人には理解されない力を持つが故の孤独。二人は自然の不可思議な力という縁で同じ仲間がいることを知ったのだ。

 そしてファスが出奔する数週間前のことだ。突然、彼が人目を忍んでメイの家にやってきた。もしかしたら自分は村を出るかもしれない、と。

 理由は聞けなかった。その重い表情から余人には話せぬ深い事情があるのだと。そして頼みごとをされた。

 妻子は自分がいなくなっても生活のことはなんとかなりそうだ。気がかりなのは息子のことだ。息子は自分の影響からか武術に興味があるようだ。

 自分がいなくなっても見よう見まねで修練を続けていくだろう。だが一人稽古では自ずと限界がある。

 それに師なしでは肉体の力のみに頼って自然の力を養うことはできない。そこであなたにいつかその時が来た、と感じたらその術を息子に授けてやって欲しいのだ。

 これは同じ術者であるあなたにしか頼めない。そう言ってファスはその後、消えていった。メイはそのことを思い出しながらアズを見つめた。

 立派だった父親の後を襲え、アズよ。自然の力を身につけて魔物を倒せば今一歩、親父殿に近づけるであろう。


 セイジは考え込んだ様子で城館の前庭に立っていた。数日前まで城館前庭の右手にはまるで無数の墓標が立っているように杭が乱立していた。

 ところが今それらは切り株のような状態であちこちに無残な姿を晒していた。また地面にはその杭の先と思われる細長い棒がいくつも落ちている。

 もちろん杭はセイジが全部、斬ってしまったのである。セイジはその切り株の間を顎に手を当てて考え込む様子で歩き回っていた。

 こんな、ただ突っ立っているだけの物をいくら切り刻んだところで意味はない。魔物は巌のように大きく硬い。

 それに動きがリスのように機敏で力強く十人力くらいはある。今のうちに訓練方法を変えねば実戦の時、大変なことになる。

 その時、表門のほうで騒がしい気配がした。見れば門が開いて数騎、入ってくるところだった。所用で出かけた父とその護衛の騎士達が帰ってきたのだ。

 父はちらっとセイジを見て嫌悪の色を露にすると目を背けた。セイジはふんっと鼻を鳴らして一行が城館に向かうのを見送った。

 父に剣術の心得はなく腰の剣はただお飾りに過ぎない。しょっちゅう出かけて自分では社交術に長けていると思っているようだが付き合いのある貴族の時折、見せる侮ったような視線を見るとそれも怪しい。

 母は長男の教育だけしか興味がなくその長男は軟弱で両親に追従し人の粗探しばかりしている。こんなくだらない家族との付き合いなどこっちから願い下げだ。

 セイジはそう思いながら一行を見送っていた時、はたと思いついた。騎士。館には何十人もの騎士が常駐している。

 彼らは男爵家に仕える戦闘専門家だ。彼らならいい稽古相手になるかもしれない。いやこれはいいアイデアだ。

 彼らは任務のうちに男爵の護衛が含まれているで剣術は当然できるし体も鍛錬している。これはいい。

 セイジは早速、執事のシイプを通して騎士らに稽古相手を要請した。だが騎士達はセイジが男爵から疎まれていることを知っているので主人の子息とはいえなかなか首を縦に振らない。

 セイジの相手などすれば主人から大目玉をくらうかもしれない。だがセイジは諦めず裏で金品を与えることと男爵に見咎められない場所で相手することを条件に承諾させた。

 場所は城館裏庭だった。裏庭は山の麓に接しており鬱蒼と生い茂った木々の枝が城館まで覆いかぶさるように伸びている。

 裏窓から庭を一瞥したくらいでは森の奥にいるセイジらが何をしているかわからない。そして騎士らは稽古に真剣ではなく木剣で相手することを望んだ。

 領主に疎まれている子息とはいえ怪我をさせてしまえば悪くすると放逐されかねないと思ったのだろう。

 いくらか物足りない思いがしたがとにかく彼らの機嫌を損ねては稽古相手が見つからない。だが木剣を振ってみると意外にこれが重い。

 軽く振ってみても重さに釣られて足が少しよろける。これはいい訓練になると思った。あの巨大な魔物に対して腕力と足腰の強化は必須ではないか。

 こうなってくると騎士らに相手をしてもらう前にまず木剣に慣れなくてはならない。騎士達との稽古を少し先延ばししてまず木剣を真剣と同じように振れるよう打ち込んだ。

 すると二日目から全身の筋肉が悲鳴を上げた。翌朝、起きてみると激痛を感じてよっぽどこの日の訓練は休もうかと心が折れそうになった。

 だがたった一日、振っただけで諦めるのは矜持が許さなかった。他に何にも取り柄がない自分。剣だけが生きがいだった。

 その剣さえ放り出してしまったら自分に何が残る?自分は貴族だ。特に取り柄がなくとも平民とは違って居住食に困ることはない。

 音楽にスポーツに豪勢な食事を何の苦労もなく享受できる。だがそれでは駄目なのだ。自分は生きがいを見つけてしまった。

 もう自堕落な生き方はできない。二日目もそれ以降も休まず木剣を振るった。それを知った騎士達は意外な思いで顔を見交わした。

 彼らはセイジが三日ともたないと嘲っていたからだ。そしてとうとう木剣を真剣と同じように振れるようになった。

 騎士達はセイジが木剣をびゅんびゅん振る様子を見て尻こみをした。セイジはいつの間にか木剣の中でも最重量のものを軽々と扱えるようになっていた。

 だが金品を受け取り稽古相手を了承した手前、騎士達は相手せざるを得ない。城館裏庭でようやく本格的な稽古が始まった。

 だが何人か相手するうちに彼らがまったく相手にならないことを知った。いや激しい一人稽古のお陰で彼らの技量をとうに追い越してしまっていたのである。

 セイジは嘆息した。いつの間にか強くなっていたのは嬉しいがまだ魔物を倒すには至らない。しかし相手がいるだけでもましと考えて騎士達に相手をさせた。

 セイジの剛剣がうなりを上げて騎士に襲い掛かる。その騎士は反撃するどころではなく防戦一方になる。

 そのうち剣を吹っ飛ばされて簡単に降参してしまった。まともに相手が出来ないその騎士にセイジは激昂しそうになった。

 だがこらえて直ちに次の相手を呼んだ。だがやはり次の相手も簡単に打ち負かしてしまった。セイジは稽古が思うように進まない鬱憤を晴らすように騎士が掲げた防御の木剣の上に雨あられと剣を振り下ろす。

 そのうちその騎士の剣が折れて吹っ飛び、危うく騎士の頭を瓜のように粉砕するところだった。それを見た他の騎士は震え上がって稽古相手の辞退を願った。

 逃げるようにしてその場を去る騎士達には目もくれずセイジは木剣に目を落として呟いた。

 「駄目だ。これではあの化け物に到底、勝てない」


 剣を合わせる相手はいなくなったが木剣を振り回すのは日課になった。だが一通り剣の型をやるとその後は決まって悩んだ様子でずっと剣に見入った。

 シイプはそんなセイジの様子を館の陰からいつも見ていた。そしていつも見かねたように陰から一歩踏み出すものの、直前で頭を振って思いとどまる。

 シイプの悩みも深そうに見えた。そんなある日セイジのもとに何か重大なことを決心したように表情を引き締めたシイプがやってきた。

 いつもの穏やかな表情とは違うシイプにセイジは眉をひそめた。シイプが固い声で言った。

 「いい稽古相手をご紹介しましょう」

 セイジは訝しげな表情になった。もう館の騎士達は相手にならない。といって新たに騎士を雇い入れたという話も聞こえてこない。

 セイジが訝っているとシイプがこちらです、と裏庭のさらに奥のほうに促した。

 「この先は・・・山があるだけではないか?」

 シイプが振り返ってどこか目を暗く光らせて言った。

 「そうです。ですがこの奥に格好の相手がいるのです」

 そう言うとシイプはセイジを待たずすたすたと暗がりの奥へと歩を進めていく。セイジはなにがなんだかわからなかったがとくかくその後を追った。

 最初シイプの足取りは確かなものだったが裏庭奥に近づくにつれて次第に重くなりその額にはぷつぷつと汗がにじみ出ていた。

 急勾配を登っているわけでもないのに息は荒くなり青ざめているようにも見える。一体この先に何があるというのだ?

 やがて深い森を抜けて山の麓が見えてきた。麓から見上げればはるか彼方まで斜面にびっしりと樹木が隙間なく生えている。

 視線を元に戻した時、麓斜面の一部に不自然に樹木の生えていないところがあるのに気づいた。その周囲の木々は太く葉がこんもりとついているのにそこだけは脱毛症にでもなったかのように荒涼としている。

 さらにそこに近づくとその一角が不自然に水平に突き出ているのがわかった。それは岩塊だった。中心部の岩が最も突出しているがその周りもいくつか小さな岩が盛り上がっている。

 またさらに近づいた時セイジは驚愕に足を止めた。

 「なんだ、これは!?」

 シイプが振り返って無表情に言った。

 「これが新しい稽古相手です」

 それは巨大な「顔」に見えた。それもおどろおどろしい「顔」だ。一番突出した部分が鼻でその上に飛び出た二つの丸い突起は目だ。

 鼻の下は横に平べったい岩が鎮座している。引き結んだ唇のようだ。その顔面岩ともいうべきものがセイジを睨んでいた。

 セイジはしばらく絶句していたがようやくショックから立ち直った。だが慄然となった色は消えない。

 「これは・・・なんだ?」

 シイプが歯を食いしばるように言った。

 「これはこの館が建築される前からここにあった「悪魔の顔」でございます」

 「悪魔の顔だって!?」

 「そうです。伝え聞いたところによりますと約三百年前オットーハイム家がこの地を訪れて領地としこの場所を城館と致しました。そして森を切り開いた時にこれを見つけたのです」

 シイプはそこで言葉を切り、おぞましげに岩を見た。

 「当時のお館様はこんな不気味なものが裏庭にあるのは縁起がよくないと直ちに業者に削り取るよう命じられました。ですが不思議と作業は進まずそればかりか死人が続出したのです」

 「死人だと!?どうやって死んだ?」

 シイプは嘆いた様子で首を振って言った。

 「振り下ろしたつるはしの先が岩に当たって折れて、跳ね返った先が業者に刺さったりハンマーを振り下ろした時、砕けた岩の鋭い破片が業者の喉に刺さったり不慮の事故が多発したようです。

 それ以降この辺りの業者は館の岩だけは手を出すなと伝えられてきたようです」

 セイジは信じていない様子で言った。

 「馬鹿な。たかが岩ごときに」

 セイジが木剣を手にシイプの前に出ようとした。するとシイプがその前に手を出して制した。

 「単なる事故だと、これは悪魔の顔などではなくただの岩だと言いきれますか?実際ご覧になった後でも」

 セイジは改めてその岩を見た。瞬間ぶるっと震えが来た。岩から異様な気配が漂ってきたように感じたからだ。

 一瞬、目は赤光を放ち引き結ばれた口が笑みの形に歪み鼻から瘴気がこぼれたように見えた。急に力が失われたかのように腰が砕け手から木剣を取り落としそうになった。

 だが強く地を踏みしめて鋭く息を吐き出した。木剣を強く握る。するとそれから力が流れ込んでくるように意識がまたはっきりとしてきた。

 「・・・面白い」

 セイジが呟くのを聞いてシイプはその顔を見た。

 「悪魔の顔か。魔物を倒すのに格好の訓練相手じゃないか」

 シイプが重い息を吐いて言った。

 「ここにお連れしたことをもう後悔しております。・・・おやりになりますか?」

 セイジは答えず木剣を上げた。

 7>

 アズは古木を前にして老婆から聞いた言葉を反芻していた。

 (人間の体には本来、自然の力が宿っておる。だが長じるにつれてその自然の力、内力を使い果たし年老いて死ぬ。

 じゃが内力の消耗を防ぎ外部からその力を補う方法がある。それが天地自然神海呼吸法じゃ)

 サスケがじっとアズを見ている。その表情は心配そうであったが期待もこもっていた。老婆から教えを受けて早三日。

 言われたとおり忠実に術を行ってみた。だが未だ成功を見ていない。アズは寝食を惜しんで術を試み続けた。

 慣れない呼吸法のせいか頭はクラクラし体中が痛み喉がひりついた。それでも止めなかった。これまでは肉体の力のみに頼っていた。

 それではあの魔物は倒せない。だがこの呼吸法によって自然の力を使えるようになれば魔物は倒せるという。

 ならばこの術に賭けるしかない。喉がひりつく。水が飲みたかった。胸と腹が痛い。慣れない呼吸法を行っているからだ。

 だが何度も、それこそ何百何千回と繰り返していくうちに痛みや喉の渇きも忘れていった。アズは何度も強く想像した。

 まず天を想像した。どこまでも続く広大な空。雲ひとつない晴れ渡った気持ちの良い空。それがアズの心の上半分を占める。

 次にその下半分に地を想像した。豊かな大葉を色づかせた森の、肥沃な大地がどこまでもどこまでも続いている。

 そして深く静かな呼吸を繰り返しながら上下のイメージを重ね合わせる。

 (天地合体!神海入水!)。

 天地が重ね合わさると忽然と夜空の星星を見ているような光景に変わった。360度どこを見渡しても黒い海。

 その中に無数の光点がキラめている。アズが深く長く息を吸った。するとその星星が流星となって体の中に入っていく。

 体内に入った星星の光が一つにまとまり次第に強くなっていきアズの全身も光る。アズは必死に念じた。

 こらえろ!この光を他に逃すな!光よ、我が体内に留まれ!いつも光を体内に入れるところまでは成功した。

 だがそこからがいけない。体内に蓄積されていく光の凄まじい圧迫に耐え切れず光を手放してしまうのだ。

 だが今回は耐えに耐えた。老婆は言った。一度、耐えきると光は体内に留まりやすくなる、と。うおおおおっ!

 体のあちこちで光の小爆発が起こっているようだ。その爆発が内臓を焼き尽くす。苦しい。熱い。うずく。

 アズは全身を苦しげに抱きしめた。それは光を逃さないようにしているようにも見える。光が体内で暴れる。

 留まれ!光よ、留まって我が内力と化せ!暴れまわっていた無数の光がやがて一つになりその圧力が一段と増す。

 目から鼻から口から耳から光が噴出してしまいそうだ。こらえろ!ここが正念場だ!だが光はさらに圧力を増す。

 全身が光の熱で溶けそうだった。バラバラになりそうだった。まだだ!まだこらえられる!その圧力を無理にねじ伏せようとした。

 凄まじい光の圧力とアズのねじ伏せようとする力が押し合った。光よ、留まれ!!我が内力と化せぇぇぇぇっ!

 押し合う力が大きくなるにつれて光と圧力も一段と大きくなった。体がそれで膨張したように感じられた。

 そして限界まで我慢した瞬間、体が爆発したように感じられて意識を失った。

 

 ふと気がついて薄目を開けた。心配そうな顔が自分を覗きこんでいるのが目に入った。

 「・・・ズ!大丈夫か、アズ!」

 サスケだった。

 「どう・・かしたのか?」

 いつの間にか地に仰向けに寝かされていた。気だるげに地に手をついて上半身を起こした。そしてぼんやりと周囲を見渡す。

 古木の前。森の涼風が顔を撫ででくる。サスケがほっとした様子で言った。

 「びっくりしたぞ。目を閉じてずっと立ったままだと思ったらいきなりのけぞって叫び声を上げるんだからさ」

 アズは驚いてサスケの顔を見た。

 「俺が叫んだ!?」

 まったく記憶になかった。最後に記憶にあるのは光の圧力が耐え難いほど高まったことだ。

 「そんでその後、俺どうなった?」

 サスケは肩をすくめた。

 「そんでバタンと倒れた。俺っちは焦って駆け寄って気がつくまでおめえの肩を揺さぶっていたってわけさ」

 そこでアズははっと思い出した。

 「そうか。俺は天地自然神海呼吸法を・・・」

 サスケが慰めるように言った。

 「元気出せよ。いつかは成功するって」

 アズは頭を横に振った。いつかでは遅いのだ。魔物はそれまで待ってはくれない。また失敗か。がっかりして目を閉じた時、眩い光を感じた。

 はっとなって目を開けた。すると光は消えている。また目を閉じると眩い光が瞼の裏に間違いなく浮かんでいる。

 何度か瞬きを繰り返したが光は消えなかった。これはひょっとして!サスケは急に笑い声を上げたアズに驚いた。

 アズは何が嬉しいのか飛び上がって喜んでいる。こいつ、急にどうしちゃったんだ?サスケが恐る恐る尋ねた。

 「アズ・・・急にどうした?」

 アズが弾んだ声で言った。

 「とうとうやったんだよ!術が完成したんだ!」

 「えっ?・・・ってことは自然の力ってやつを取り込んだってこと?」

 「そうだよ!俺の体の中に今、間違いなくそれがある!」

 サスケも嬉しくなってアズに抱きついた。

 「やったじゃねえか!」

 「そうとも!やったんだよ、俺達!」

 二人は抱き合って喜んだ。


 少ししてサスケが真顔になって言った。

 「実はさ。俺っち、婆さんの話を聞いた時はまったく信じてなかった。なに言ってんだ、この婆さん。もうボケちまってんじゃねえのって内心、馬鹿にしてた」

 アズが笑って言った。

 「ところがどっこい。自然の力は俺の中で熱く存在してるぜぇ」

 「な。どんな感じなんだ?」

 アズは感じたものを正直に説明した。

 「へぇ〜。本当のことだったんだ。すっげぇなぁ。俺っちにもできっかなぁ?」

 「試してみたら?俺はかなり苦労したからお前も簡単にはいかないと思うけど」

 サスケはよし!と言って早速、呼吸法を始めた。アズは自分が会得したコツを教えながらその様子を静かに見守った。

 そしてもう自分でできるだろうと見定めると目を離して古木に向き直った。幹の手前まで近づく。そして構えた。

 静かに呼吸して下っ腹の内力を意識した。光はそこに依然としてあった。意識を向けるとぐつぐつとまるで煮だっているように動く。

 アズは静かな呼吸を繰り返しやがて右拳を繰り出した。途端に勢い余った感じで姿勢が崩れ、拳は幹には当たらず左斜め方向に流れていった。

 だがすぐに踏ん張ってこらえた。唖然となった。体が軽い。恐ろしく軽い。いつものように地面を強く踏みつけてその反動を腰に伝えようとしたところ、いつもの十倍以上の力がぐわっと生じて制御できずに体勢が崩れた。

 なんだ、これは!?これが自然の力が加わったということなのか!驚愕から醒めると今度はかなり慎重に拳を繰り出した。

 それでも拳が見えないほど速く力強くなっていた。幹に当たった時の震動が前とは違った。森の隅々にまで震動が伝わったような気がした。

 こりゃあ凄ぇ!アズは嬉しくなってまた拳を繰り出した。力を制御できていないのでかなり手加減した突きだった。

 だがそれでも以前のものとは比べものにならなかった。いいぞ。これなから魔物に対抗できるかもしれない。

 まだ力が制御できないので全力では突けないが地力は何倍、いや何十倍にも上がった。いける!

 体内の光を徐々に放出して幹を突いた。そして慣れてきたので左右の突きを連打した。下腹に蓄積された内力を筋肉に乗せて突くコツがわかるとさらに楽しくなった。

 さらに連打した。そしてどのくらい打っていただろうか。アズは訝しげな表情で打つのを止めた。打っていくうちに威力の格段の上昇は実感できたものの、何度やっても満足のいく拳が打てないのだ。

 どうしてだろう?前のほうがしっくりきたのに。もちろん威力は格段に落ちるが。しばらく考えたがわからなかった。

 頭を振った。モヤモヤした時は修練に没頭するに限る。無心で打った。その内、肩が肘が腰がズキズキと痛み始めた。

 内力を意識しすぎて体のどこかに変な力が入っているのか。だが止めなかった。止めたくなかった。

 親父ならあれしきの獣、片手で楽に倒せると思った。負けたくなかった。親父にも魔物にも。やがて痛みを通りこして拳の感覚がなくなってきた。

 だが打ち続けた。その感覚の消失は拳から肘、肩へと伝わっていった。だがアズの連打はますます激しさを帯びた。

 やがて我を忘れた。そして全身が光に包まれたように感じた。


 サスケは顔を真っ赤にして強い呼吸法を繰り返していたがいつまでたってもアズの言うような感覚が訪れなかったのでとうとう根を上げた。

 「駄目だぁ!いくらやっても自然の力はわかんねえ!」

 がっくりして両膝に手をついて息を整えた。そしてアズにボヤこうとそちらに目を向けた。いない。いや古木の裏側でいつもの突きをやっているのだと音でわかった。

 だがいつもの打撃音じゃない。空気を切り裂くような気配と大地を揺るがす打撃音。なんだ?訝しげに裏に回った。

 唖然となった。アズから繰り出される拳が残像が見えるほど速くなっている。最早、拳は空気を切り裂くほどのレベルに達しているのか打つ度にシュバシュバッという音さえした。

 「なんだ、こりゃ・・・」

 拳が光っていた。いやアズの全身が光っているように見えた。サスケは目を手のひらでごしごし擦って改めて見た。

 だがやはり光っているように見える。

 「ど、どういうこと!?」

 やがてその光が徐々に強まり直視できなくなってきた。

 「ア、アズ!どうなってんだ!」

 その時バーン、という大きな破裂音がした。続いてドスンッという重い音。手をかざしながら目を細めてアズを見た。

 すると古木が真ん中から折れて向こうに倒れていた。サスケは目を大きく見開いて驚愕した。

 「す、すげぇ!これなら勝てる!なんにだって、熊にだって勝てるぞ!」

 賞賛の思いでアズを見た。だがアズは特に喜んでいるふうではなく考え込んでいる。

 「・・・駄目だ。敵は普通の獣じゃねぇ。魔物だ。正面からじゃ致命傷は与えられねぇ」

 「何言ってんだよ。木が倒れちまったじゃねえかよ!」

 「違う。突いててわかったんだが木は寿命だったんだ。それで折れた」

 サスケは拍子抜けた表情になったがすぐに思い直した。

 「んでもおめぇ・・・」

 倒れた古木を驚嘆の眼差しで見た。木を折っちまったんだぞ。どう考えても普通じゃない。アズは視線を落として考え込んでいる。やがて視線を上げて言った。

 「なぁ、お前。狩りには詳しいはずだよな?」

 「詳しいといっても俺っちのは自己流だぜ。正式に誰かから学んだわけじゃない」

 「それでもこれまでうまくやってきた。それで聞きたいんだけれど獣を射止める時まずどこを狙う?」

 「ま、急所かな。一発で動きを止められるような」

 「猪ならどこだ?」

 「猪なら急所っていうよりまず地面に足を挟む鉄の罠を用意するな。そんで動けなくなったところで山刀を首筋に打ち込む」

 それを聞いたアズはまた考え込む様子を見せた。やがて言った。

 「罠は使いたくない。その戦法は使えないな。俺は拳一つで闘いたいんだ」

 「じゃどうする?」

 アズが腕を組んで言った。

 「魔物の体はごわごわした剛毛と分厚い筋肉の鎧で固く守られている。他に急所はないかな?」

 「刃物を使わないんなら目、足くらいだろ。後はひっくり返して内側の筋肉の薄いところを狙うとか」

 最後の言葉を冗談だというようにに笑って言うとアズはパチンと指を鳴らした。

 「それだよ!ひっくり返すんだよ!」

 8>

 倒れた古木にアズは敬虔な様子で頭を垂れた。親父がいなくなってからずっとその古木は師匠だった。

 稽古相手だった。話し相手にもなってくれた。古木はその役目を終えてどこか遠くに旅立って行ったのだ。

 そしていつかまたどこかの大地から芽を伸ばしアズと同じような境遇の子供の相手となってくれるだろう。

 アズはそう信じた。しばらく感傷的な気持ちになっていたがやがて気持ちを切り替えた。いずれこの場所には新たな木を植えて恩を返すとしよう。

 だが今はやるべきことがある。サスケに手伝ってもらって古木を魔物のサイズに切り取って短い丸太を作った。

 そしてアズは一旦、村に戻ると近所の農家から荷車を借りてきて再び森の空き地に入った。丸太を荷車に載せて二人でそれをふうふう言って近くの低い崖の上まで持っていった。

 崖の上に立つとサスケが恐ろしげに崖下を覗いた。低いとはいえ急斜面が下まで三十メートル以上、続いている。

 するとアズがサスケに頼んだ。

 「俺が麓に着いて合図したらその丸太を落としてくれ」

 サスケが驚いて言った。

 「えっ!?そんなことしたらおめえが危ないじゃないか。そんなことしてどうする?」

 「お前、さっき言ってたじゃないか。魔物を倒すにはその体をひっくり返して筋肉の薄い内側を狙うしかねえって。だから落っこちてくる丸太を魔物に見立てて跳ね上げてひっくり返す」

 「バ、馬鹿!このサイズじゃ優に百キロ以上はあるぞ!」

 「だから特訓になるんだよ。あの魔物だって三百キロ以上はあると思うぜ」

 「魔物とやる前におめえが死んじまうって!」

 「最初闘った時、領主の軍勢が来援しなかったら俺、たぶん魔物に殺られてた。だったら今ここで死んでも同じことだ」

 なにを言っても曲げそうにないアズの決意を見てサスケは諦めたように重い息を吐いた。

 「わかったよ。お前、言い出したら聞かねえもんな」

 アズは崖の裏側から降りて麓まで回り込んだ。麓に着くと崖上のサスケに手を振って合図した。サスケも手を振って応えると丸太が縦に滑って落ちるよう押した。

 丸太は最初ゆっくりと滑り落ちていったが進むうちにバウンドしながら加速して砲弾のように急斜面を下っていく。

 百キロ以上ある丸太だ。下から待ち構えていたアズはその凄まじい迫力に足が震えて逃げ出したくなった。

 ええいっ、くそっ!親父なら口笛吹いてこんな木、余裕で蹴っ飛ばせたはずだ。そして丸太がとうとう目前まで迫ってきた。

 恐い。逃げたい。だが逃げ出そうとしてももう間に合わない。ええいっ、ままよっ!丸太の断面がやけに大きく見えた。

 そして体に当たる寸前、片膝をつき下に下ろした両手を跳ね上げた。

 「でええいっ、りゃあああっ!」

 丸太の縁に手をかけて跳ね上げようとした。だがまったく動かず丸太はそのままアズのどてっ腹にぶち当たった。

 「げふぅっ!?」

 アズは凄まじい勢いで後方に吹っ飛ばされた。

 「アズーっ!!」

 サスケが急いで斜面を駆け下りてきた。そして大の字になって倒れているアズを助け起こした。

 「アズ!アズ!しっかりしろ!」

 激しく揺さぶった。すると少ししてアズは唸り声を発すると激しく咳き込んだ。サスケはしばらくアズの背中を優しく擦ってやった。

 しばらくしてようやく落ち着いてきたようだ。まだぜいぜい言っているが呼吸も次第に整ってきた。アズが悔しげに言った。

 「ち、ちくしょう。うまくいかんかった・・・」

 「んでもおめえ、よく生きていたよ。これも奇跡だぞ」

 アズが落胆したように首を振った。

 「奇跡でもなんでもねぇ。ぶち当たる瞬間、内力を腹に集めて防御した。だから丸太がぶち当たっても大丈夫なはずだったんだ。それがこのザマだ」

 サスケは呆然となった。

 「そ、そうなの?お前からしたら生きてて当然なんだ。ハハハ・・・」

 アズは勢いよく立ち上がって言った。

 「まだまだだ!さぁもう一回やるぞ!」

 二人は荷車でまた丸太を崖上まで持って行った。そして同じように落とす。アズは吹っ飛ばされても怪我がなかったことが自信に繋がったのかさっきよりも落ち着いていた。

 だが何回やっても跳ね上げるまでには至らなかった。襲い来る丸太をなんとか左右に振り払えるくらいが限界のようだ。

 だがそれではただ魔物の攻撃をかわしているのと同じことだ。以前となんら変わることが無い。そして挑戦し続けて数時間後、満身創痍で地面に横たわるアズの姿があった。

 内力で防御していたとはいえさすがにきついらしい。サスケが諭すように言った。

 「もう、よそうや。おめえはよくやったよ。おめえの親父さんだってこの努力を見たらよくやったって褒めてくれるよ」

 すると荒い息をついていたアズががばっと起き上がって吐き捨てるように言った。

 「親父ならこんなことくらいでなにやってんだって叱られちまうよ。またやるぞ!」

 「んでもよぉ・・・」

 サスケが心配そうにアズの体を見た。アズはこの時、骨折こそ免れているものの擦り傷は体中にあって両手両足に捻挫を負い腰は打撲で動けなくなる一歩手前の状態だった。

 アズが懇願するように言った。

 「後一回だ。後一回だけ付き合ってくれ。頼む!」

 サスケは躊躇った。この一回で半身不随になるかもしれないのだ。だがアズの強い表情を見ると何も言えなくなった。

 こうなったら地獄の底までつきあってやる。動けなくなったら一生、俺っちがおめえの面倒を見てやる。

 アズは薄暗くなってきた空模様の下、麓に待機した。最後の一回。これが最後だ。これだけやってできなければこの後、何回やっても無駄なような気がした。

 後一回。それが丸太との最後の勝負だ。サスケが合図をして丸太を落とした。アズは目を血走らせて集中力を極限にまで上げた。

 土埃を上げて丸太が落っこちてくる。丸太が威嚇するように唸り声を上げているように聞こえる。その時アズは丸太を凝視しながら無意識のうちに天地自然神海呼吸法を繰り返していた。

 頭の中が空っぽになり意識に黒い空が広がる。だがそこは真っ暗闇ではなく無数の星星がきらめている。

 やがて星星が集まって体内にもの凄い光が生まれた。そしてその時、現実世界では丸太がすぐそこまで迫ってきていた。

 それを見てふっとひらめいた。両手の力で跳ね上げるのは無理だ。だったら!サスケが崖上から悲痛な声を上げた。

 「もうその傷ついた体で受け止めるのは無理だ!避けろ!」

 アズは避けなかった。激突の瞬間サスケは見ていられなくて目を背けた。全身がぎゅっと強張るのを感じた。

 最後に見た光景はアズが丸太に飲み込まれたように見えた。だが次の瞬間丸太は大きく宙に跳ね上げられていた。

 サスケは呆然と垂直に上昇する丸太を見上げた。すぐにはっとなって視線を戻すとアズが起き上がるところだった。

 「やった。成功した・・・おい、アズ!お前、とうとうやりやがったな!」

 サスケが歓声を上げて急斜面を駆け下りようとした。だがアズの声がその足を止めた。

 「まだだ!これからが本番だ!」

 サスケが訝しげにアズを見ていると空高く舞い上がった丸太がやがて浮力を無くして止まり今度は猛烈な勢いでアズの頭上に落ちてきた。

 アズは逃げようとしない。いや拳を引いて待ち構えている。サスケが蒼白になって叫んだ。

 「ば、馬鹿!避けろ!」

 暮色に染まった、その空間をアズの気合が引き裂いた。

 「でやあああっ!」


 続く 第一の試練一の二へ

 


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