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 <1>

 ボーメン男爵の使者が来ていると聞いてオルレアンは飛び上がらんばかりに驚いた。慌てて身なりを整えると急いで戸口まで出て行った。

 オルレアンは若い頃ボーメン家に仕えていたという。なのでその反応はしょうがないと思うものの、宮仕えなどしたことのないアズらから見ればひどく滑稽に見えた。

 するとすぐオルレアンが戻ってきた。肩を落としている。訝っているとオルレアンがアズに言った。

 「用は私ではなく君にあるそうだ」

 アズは訝しげに外に出た。すると使者はどこか疑ったようにアズを見る。想像していたのと違うといったように。

 だが彼は気を取り直してアズ本人かどうか訊いた。アズが訝しげに肯定すると使者は言った。

 「我が主人がお呼びである。このまま私と一緒に来るように」

 アズは驚いた。貴族が自分になんの用があるのか。貴族に対してはあまりいい印象を持っていない。

 故郷のアルム村を最後に出る時に受けた非道な扱いが頭にこびりついている。普段いくら平民にいい顔をしていたっていざとなれば平気で斬り捨てる。

 貴族とはそういうものかと心に刻み付けたものだ。その貴族が自分を呼んでいる?特にこの街で貴族といざこざを起こした憶えはない。

 アズは眉根を寄せてその使者に訊いた。

 「呼んでいるって、どんな用?」

 使者は表情を変えずに言った。

 「それは当館でご主人様が直接お話になる。私は何も知らない」

 ますますわからない。困惑していると促された。目の前には馬車が扉を開けて待っている。アズは使者に少し待つよう頼んで道場に引き返した。

 道場では興味津々といったアレンらが待っていた。その傍らには使者の目当てが自分ではなかったことに拗ねた表情のオルレアンもいる。

 アズは皆に事の次第を伝えて相談した。どんな用かは知らないが自分は貴族にいい印象を持っていない。

 だから断ろうか、と。するとそれを聞いたオルレアンは顔色を変えて言った。この街で貴族に逆らうのは得策じゃない。

 表向き、街は法に支配されているが実際は貴族が法なのだ。とりあえず話を聞くだけでもいいから行ったほうが良い。

 アズは気が進まなかったがオルレアンに説得されて仕方なく行くことにした。するとアレンやムックも一緒について行くという。

 サスケは自分はアズの相棒なのでついていくのは当然という顔をしている。オルレアンは歳若いアレンを従者としてつけるのはいいが他は無理だろうと言った。

 サスケは舌打ちしムックは拗ねた。アズとアレンは早速オルレアンの宮廷衣装を借りて服装を整えた。そして外に出て馬車に乗り込んだ。

 二人とも馬車に乗るのは初めての体験である。窓から見える風景も馬車からだと別の土地に来たようだ。

 そうやって乗り心地を楽しんでいるとやがて馬車は止まった。周囲の家並みはお大尽が住んでいるような立派な邸宅ばかりだ。

 そして馬車の窓から見える目的の家は公園のような前庭のある豪邸だった。庭は一面、芝生で覆われ所々に景観を意識した樹木が植えられている。

 門から玄関までの途中に噴水まであった。そしてその向こうにある建物も豪壮だった。四角く威厳があり何やら紋章らしき彫刻が各所に施されている。

 いくつもの窓と各階にあるバルコニー。まるで避暑地の別荘か小規模のホテルのようだ。その館の鉄門がゆっくり開かれると御者は馬車をその中に進ませた。

 どうやらこれがボーメン邸のようだ。その時アズはアレンがあんぐり口を開けたまま館を見ているのに気づいた。

 男爵の居館は北門から市庁舎に繋がる目抜き通り沿いにあるので市民であるアレンは見慣れているはずだ。

 なのに度肝を抜かれたような表情を浮かべている。どうやら遠くから見るのと実際その中に入ってみるのでは違うらしい。

 やがて館の少し前に着いた。馬車の扉が開けられて使者が顔を覗かせた。そして彼に促されるまま頭を下げる使用人の前を通って開けられた扉から館内に入った。

 まず吹き抜けになっている大ホールがあった。光沢のある古い床板、壁板が歴史を感じさせる。向こうに螺旋階段が上に続いていた。

 通路は左右にあり使用人に案内されて二人は右の通路に入った。並んでも五人はゆうに通れる通路を進んでいく。

 右手の窓からは庭が見えて左手には扉がいくつもあった。やがてその一つに通された。中は品のいい小広間といった感じだった。

 室内には二人の人物がいた。一人は奥で肘掛の椅子にゆったりと座っておりもう一人はかしこまった様子でその脇に立っている。

 使用人の紹介によると椅子の男がボーメンで立っているのが家宰とのことだった。アズらが黙って立っていると家宰が窘めるように二人に言った。

 「男爵様の御前です。頭を下げて名乗ってください」

 男爵自身で名乗ったのではないが使用人が彼らを紹介してくれた。ならこちらも名乗るのが筋というものだろう。

 アズは自分とアレンを紹介した。ボーメンは頷いただけで何も言わなかった。だがさっきから品定めするようにこちらをじろじろと見ているのがわかった。

 それは不快だった。すると家宰が色々と尋ねてきた。主に武術の経歴だった。アズは正直に話した。

 聞き終えると家宰は判断を仰ぐように男爵を見た。男爵がぼそぼそとその耳に何か囁いた。家宰が頷いてアズに言った。

 何かやってその強さを証明して見せろ。アズは気分を害した。俺の武術は見世物じゃねえ。そう言いたくなったがオルレアンのことが頭に浮かんで堪えた。

 するとアレンにやったほうがいいと囁かれた。アレンはアレンなりに父の元主人に気を遣っているようだ。

 それに言うことを聞けば何か良い事があると期待しているのだろう。アズは仕方なくやることにした。

 だがそこで困った。やるといっても何をやればいいのか?やるからにはこのふんぞり返った貴族を驚かせてやりたい。

 練磨された閃光拳の型を見ても素人にはわかるまい。素人目にも凄いと思わせることでないといけない。

 室内を見回した。壁際に色々な飾りの品が置いてある。その中で大きな壷に目が止まった。高さはアレンほどあり壷の首のところだけが細くなっている。

 人体のようなフォルムと大きさ。あれがいい。アズはその壷を指差して壊していいかと訊いた。すると男爵は訝りながら頷いた。

 壷は大きいだけあって重量がありそうだ。恐らく運ぶ時は大人二人はいないと難しいだろう。壷の表面を軽く叩いてみた。

 硬さもかなりのものだ。そこらにある木の棒で叩いてもびくともしないだろう。よし。やるか。アズは壷の前に立つと右手をやや斜めに上げて息を整えた。

 そしてその体勢のまま手に意識を集中した。他の者は何をやるのかと見ている。そして次の瞬間シュッという鋭い呼気と共にアズの手刀が水平に振られた。

 手刀は壷を通過したところで止まった。だが壷に何か起こった様子はない。家宰が拍子抜けしたように言った。

 「これで終わりですが?」

 アズは肩をすくめて壷の首をちょこんと押した。すると首は綺麗な断面を見せて床に落ちた。それには皆が目をむいた。

 家宰が喜色を露にして男爵を見た。男爵が何度も激しく頷く。家宰は咳払いをするとアズに言った。

 「おめでとうございます。主人はあなたを闘士として雇うことに決めました」

 アズは驚いた。

 「闘士に!?」

 アレンが顔を輝かせて言った。

 「やったね!」

 アズは狼狽して家宰に言った。

 「ちょっと待ってくれよ。俺、闘士なんかやらないよ」

 家宰が眉をひそめた。するとアレンがアズの袖を引っ張って囁いた。

 「なに言ってんだよ、アズ!貴族に闘士として雇われるってすげぇことなんだぞ。闘士地区の道場はいつか貴族に雇ってもうらおうと毎日、必死に腕を磨いているんじゃないか」

 「そんなこと俺は知らないよ」

 家宰が明らかに気分を害した様子で訊いた。

 「我が主人の闘士では不服だと。そういうことですか?」

 アズは慌てて手を横に振った。

 「ちげーよ!不服だとかそういうんじゃなくて。俺には他にやることがあんだよ。だから闘士はできない」

 アレンが焦れったそうにアズの袖を引っ張った。

 「凄いチャンスなんだぞ!」

 アズはアレンの手を振り払って家宰に言った。

 「そういう話なら断る。悪いけど」

 アズは呆然としている二人に会釈するとアレンの手を引っ張って辞去した。ボーメンはやがて我に返ると顔を怒りで紅潮させた。

 闘士雇用の誘いを断られるとは思っていなかったからである。ボーメンはグラスを卓に叩きつけて言った。

 「なんという無礼な平民だ!貴族の誘いを簡単に断るとは許せん!」

 ボーメンは家宰に目を向けて命じた。

 「副署長のエルマーを呼べ!罪はなんでもいい。あの者を即逮捕して牢獄に入れろ!」

 すると家宰には主人を宥めた。

 「お館様。お待ちください。いくら彼が闘士になりたくなくてもいずれやらざるを得なくなるでしょう」

 ボーメンが訝しげに訊いた。

 「どういうことだ?」

 「実はもうジベリが・・・」

 

 ボーメン家の家宰が主人に語ったのはこういうことだった。実はボーメンがアズを誘うより前にジベリは自分とアズの試合を既成事実にしてしまっていたのである。

 ジベリは自分とアズの試合が組まれていないにも関らず街の噂になっていることを知った。アズの師はジベリにとって憎きオルレアンである。

 だが復讐したくてもオルレアンは引退した身として試合に出てこない。困っていたところだったのだ。

 弟子を倒せば嫌でも師がその仇を討ちに試合に出てこざるを得ない。そうしなければ道場の名折れとなってオルレアンはもうこの道で飯を食っていくことはできなくなる。

 それでジベリは客分になっている道場の練習生を使って試合を既成事実として街に広めさせていたのだ。

 ジベリの意を受けた練習生はいたるところに噂を振り撒いた。広場の一角に武術談義が好きな市民が集まる場所がある。

 そこにジベリの関係者であることを隠した練習生が紛れ込んだ。練習生は何気ない様子で市民に話した。

 「今、話題のジベリだが過去オルレアンに敗れたことがある。それで雪辱したいって公言した。オルレアンはそれを聞いて自信満々に言ったそうだ。

 何度やっても同じこと。ジベリなど赤子の手を捻るがごとく片手で倒せるって」

 その市民は目を丸くして驚いた。

 「本当か!?あのオルレアンがねぇ・・・最近は寝ているのか起きているのかもわからないような御仁だが。勝ったことのある相手なんで侮っているのかねぇ」

 練習生は頷いて続けた。

 「そうかもしれない。オルレアンはこうも言ったそうだ。自分がでるまでもない。弟子のアズで充分だって」

 「随分ないいようだね。彼をよく知っているわけじゃないけど見損なったね」

 別の練習生はパブに入って噂を振り撒いた。

 「オルレアンの弟子のアズとかいう奴が無敵のジベリとやるそうだ」

 酔客がのぼせた顔で驚いた。

 「へぇ〜。とうとうジベリとオルレアンはやることになったのか。ジベリは前からオルレアンに恨みがあるって言ってたもんなぁ、ヒック」

 「違う、違う。オルレアンじゃなくてジベリとやるのはその弟子のアズ」

 酔客は首をかしげた。

 「オルレアンの弟子?知らねえな。んでもあの呑んだ暮れの弟子じゃ簡単にやられるに決まっている」

 練習生は首を横に振った。

 「ところがその弟子ってのがえらく強いらしい。なんでも秘蔵っ子とか。滅法、強いって噂だぜ」

 「どうも信じられねえな」

 「既にいくつかの道場主を倒しているって話だ。信じるしかねえだろ」

 

 その頃オルレアンは苦悩に頭を抱えていた。自分がジベリなど簡単に倒せると豪語した噂が広まっていることが原因だ。

 オルレアンはそれを聞いた時、狼狽してすぐ否定しようと思った。だが自分一人が、いやアレンらに手伝ってもらったとしても街全体の火消しなどできるわけない。

 そう気づいてがっくりと肩を落とした。噂は人から人に伝わって尾ひれがつく。オルレアンがこう言ったことになっていた。

 過去、負けたことが悔しくて遺恨を持っているそうだがジベリなど自分が出るまでもない。奴など片手で、いや小指一本で倒せる。

 だがそうしてしまったのでは面白くない。小者のジベリなど我が弟子で充分。オルレアンの現在の姿を知っている、街の人達はそれを聞いて大層、呆れたという。

 現役の時ならいざ知らず落ちぶれて日がな酒しか呑んでねぇ奴が何を偉そうに、とか本当に小指で倒せると思っているんなら実際にやってみせやがれ、という声が上がった。

 闘士地区の人間がそう嘲笑っていると伝わってきてオルレアンは道場から一歩も外に出られなくなった。

 出れば好奇の、いや侮蔑の視線にさらされ居たたまれなくなる。オルレアンの苦悩は深かった。アレンもどうしていいかわからず困った様子で父を見るだけだ。

 楽天的なサスケなどはこの機に腕を戻してジベリを噂どおりばっさり斬ってしまえばいいと無責任にアズに漏らす。

 だがアズから見て今のオルレアンでは到底ジベリに敵わない。戦場で生き抜いてきたというだけあって殺気の強さが尋常ではない。

 相当、修羅場をくぐってきた闘士でないとあの殺気には抗しきれない。いやたとえ以前の腕が戻っても所詮それは闘技場の中での、ルール有りの戦闘でしかない。

 ジベリのようにどんな卑怯な手を使ってでも生き延びるという戦場の経験には遠く及ばないのだ。といってオルレアンの代わりに自分が試合に出てジベリをやっつけてやろうとまでは思わない。

 アズはジベリに対してなんの遺恨もないのだ。ファスの手がかりを知っているのなら別だが。大言を吐いたオルレアンはジベリと闘うべきだという声が次第に高まってきた。

 そんなある日アズがいつものように出かけようとするとオルレアンに呼び止められた。オルレアンは噂に追い詰められ憔悴していた。

 哀れだとは思うものの、自分にはどうしようもない。するとオルレアンはいきなりがばっと身を伏せて嘆願した。

 「アズ君、頼む!この通りだ!ジベリと闘ってくれ!」

 アズは驚いた。

 「急にどうしたんだよ、オルレアンさん!」

 オルレアンは顔を上げて必死な様子で言った。

 「ここまで噂が広まってしまうと道場の看板を出す私としてはジベリと試合をせざるを得ない。しかし君もわかっているとおり結果は火を見るより明らかだ」

 アズは思わず頷きそうになったがなんとかこらえた。

 「闘えばあの男は絶対、私を殺すだろう。かといって試合をしなければ同業者から軽蔑され道場を畳むしかなくなる。いやこの街にさえいられなくなる」

 アズは同情した表情で頷いた。確かに試合を挑まれて受けないのは剣術道場の面子に関わる。その面子を損なえば当然この先、剣術で飯を食っていくことはできない。

 オルレアンは弱りきった様子で続けた。

 「殺されず道場を畳まずに済ます方法をこの数日間、私は必死に考えてきた。そして手を一つだけ見つけた」

 「・・・あんたの代わりに俺を闘わせるってこと?」

 「そうだ!君には悪いがジベリと闘って欲しい。そんな義理はないと言わないでくれ。確かに一宿一飯の義理しか、いや待てよ・・・随分、泊めているな。

 もう十四日以上になるのか。だが飯は世話していない。とすると十四宿零飯・・・」

 指を折って数えるオルレアンにアズは呆れて言った。

 「そんな計算は別にいいから。ちゃんと感謝しているよ」

 「とにかくここにいるのも何かの縁と思って、この通りだ!頼むぅぅぅ!」

 オルレアンがまた土下座した。そんなことしないでくれと頼んでもオルレアンは顔を上げてくれない。

 アズはさすがにまいった。その時にはもう諦めた心境になっていた。確かにこの道場との縁は深いものとなっている。

 泊めてもらうのだけではない。父の手がかりの探索にもアレンやムックは親身に協力してくれた。その親子に危機が迫っている。

 金銭で恩返しできない以上、代わりに闘ってやるのが人の道なのかもしれない。アズが溜息をついて了承の言葉を吐こうとした。その時アレンが外から飛び込んできた。

 「大変だぜ、父ちゃん!ジベリの野郎、首切りの必殺剣ってのを隠し持っていやがるみたいだ!」

 オルレアンは仰天した。

 「首切りの必殺剣!?そそそ、それはどんな技だ?」

 アレンは呆れて言った。

 「そんなの、俺が知るわけないじゃないか。とにかく次の試合でそれを使うんだってさ」

 するとオルレアンはすっきりした顔でアズに言った。

 「聞いた通りだ。気をつけてくれ、アズ君」

 試合を代わってやるつもりにはもうなっていた。だがそれはまだ口に出していない。それなのに頼む側のオルレアンはもう決まったことのように言う。

 アズはさすがに呆れて言った。

 「おい、オルレアンさん。調子、良すぎるんじゃないの?」

 だがオルレアンはもうアズの話を聞いておらず考え込んでいる。

 「はて?首切りの必殺剣?私の時はそんな技は使わなかったな。恐らくその後に会得したものだろう。さて。どうするね、アズ君?」

 <2> 

 ケルラ市の南区には商人町と職人町がある。商人町は東寄りにあり南北大通りに面していて沿道には様々な商店を見ることができる。

 街の中心近くにある商店は大店や品位のあるものが多いが南下するにつれてそのランクも下がる。

 南区の中ほどまで来ると入り組んだ路地への横道が目立つようになりそこに入ると住宅地の中でちょくちょく小さな店に出会う。

 運が良ければ掘り出し物を買えるが大抵は地元住民用のものしか置いていない。そしてそこからさらに南下すると次は職人町に入る。

 主に職人の住んでいる居住区だ。通りに面している東側には主に親方衆が住み、その裏手は職人や徒弟が住んでいる。

 そしてその裏路地のさらに奥まったところに一軒の廃業した印刷屋があった。日は既に暮れており辺りは闇に包まれている。

 さきほどまで家々からは明かりが漏れていたがそれももう消えて寝静まっていた。するとその印刷屋の戸の隙間からほんの僅かだが明かりが漏れていた。

 中に入ってみると乱雑とした様子が暗い中なんとなくわかった。中央で使われなくなって久しいと思われる印刷機のシルエットが寂しげに浮かび上がっている。

 それ以外は何もない。細々とした明かりは部屋隅から漏れているようだ。脚の長い台の上に火の点いた蝋燭が一本だけ立っていた。

 その小さな明かりがかろうじて届くところに何人かの男達がいた。街の人間ならばよく見知った顔だと言うだろう。

 仕立て屋の店員。八百屋の親父。インチキの医者・・・。そしてその中で一際、存在感を放つ若い男、靴屋のリードが口を開いた。

 「皆も知っての通り次の日曜日、闘技場で決闘試合が行われる。いつものことだ。貴族どもが出した、くだらん条例案の決着をつけるための試合だ。

 街のための条例案といいながら奴らは自分達が楽しむために大会を開催する。ほんとならそんなくだらんことはうっちゃっておきたい。

 だが市民の耳目を集めるのもまた事実だ。この大会を利用しない手はない。是非とも我らシビリアンズの考えを市民に伝えよう」

 すると男の一人が懐疑的に言った。

 「しかしどうやるんだ、リード?貼り紙を貼り付ける方法は警察が市民の目に触れる前に大方を破り捨てちまう」

 リードが頷いて言った。

 「今日はそれを相談したいんだ。今までのやり方じゃ駄目だ。市民の目につく前に警察が全部、処分してしまう。

 明後日の大会は大勢の市民が集まる絶好の機会なんだ。この機会に市民の意識を目覚めさせる呼びかけをなんとかしなければ」

 リードの言葉に男達は力強く頷いた。リードが男達を見回して訊いた。

 「どうだろう。何か新しい方法は思いつかないかな、みんな?」

 皆が腕を組んで難しげに考え込んだ。少しして若い男が言った。

 「一遍にビラを配ろうとするから目立って警察にも気づかれるんだ。なら一軒一軒やったらどうかな?」

 リードが眉をひそめた。

 「どういうことだ?」

 「つまりビラを一軒一軒に撒くんだ。そうすりゃ警察の取り締まりも追いつけない」

 別の中年男が顔をしかめて言った。

 「ケルラには数千人が住んでいるんだぞ。対して俺達は十数人だ。どうやって撒く?」

 若い男が肩を竦めて言った。

 「そりゃ分担するんだよ。担当地区を決めて一軒一軒・・・」最後まで言わさず中年男が呆れたように言った。

 「馬鹿野郎。そんなチンタラやってたらいくら警察が鈍いったっていい加減、気づくぞ。それで網を張られて終わりだ」

 皆が頷いたので若い男はしゅんとなって黙った。リードが言った。

 「他には・・・」

 言いかけてはっとなった。憂慮したように戸口を見る。男の一人が蝋燭の火を消した。少しして戸口を叩く音が聞こえた。

 やっと聞こえるかどうかの小さな音だ。そしてそれは間を置いて三回あった。男達はそれで肩の力を抜いた。

 一人が戸に近づいて開けた。すると男が息を喘がせて入ってきた。

 「みんな、大変だ!一部の過激な連中が先走りしそうなんだ。ビラなんかまどろっこしいことはやっていられないって」

 中年男が懸念したように訊いた。

 「彼らは何をするつもりなんだ?」

 「闘技場に現れた貴族を直接、狙うって」

 「なんだって!?」

 男達が騒然となる中リードだけが冷静に訊いた。

 「首謀者は誰だ?」

 男は一瞬、躊躇った後、言った。

 「あんたの弟だ。フォルだよ」

 皆が愕然とリードを見る中、彼は表情を険しくして呟いた。

 「あの馬鹿・・・」

 

 その日、闘技場には中に入りきれないほど大勢の市民が詰め掛けていた。それもそのはず今やケルラで一番、強い闘士と謳われたジベリと若年ながら闘士地区の道場をいくつも破ったと言われる新進気鋭の試合が行われるからだ。

 さらに市民の関心を煽ったのがその若者はオルレアンの秘蔵っ子であるということだ。ジベリとオルレアンには因縁がある。

 十数年前ジベリは試合でオルレアンに敗れた。そのせいでジベリは名誉も家族も何もかもを失いオルレアンに復讐することだけを生き甲斐にしてきた。

 そのオルレアンの弟子がまずジベリとやることになったのだ。人々の関心は嫌が応にも高まろうというものだ。

 オルレアンの弟子がどう闘うのか。またその実力が明らかになることによってオルレアンがジベリとどこまでやれるのかが測れる。

 市民は若年のアズがジベリに勝てるとは思っていなかった。今日の試合は前哨戦であって本番はこの次だと思っていたのである。

 そしてアズを初めて見た時、市民はこりゃ駄目だと試合はすぐに終わるものだと予想した。アズはどこにでもいるような普通の若者でとてもジベリに敵いそうにない。

 いやまったく相手になりそうにない。だが見所がまったくないわけではない。激闘がなくなっても強者のジベリがどうアズを料理するか。

 市民は毎日、仕事に追われて休日はたまにしかない。ストレスを解消できる遊びもたいしてない。そのため数少ない娯楽の決闘試合に興奮を、血を求めていたのである。

 観客の興味はその一点に絞られた。アズは早めに会場入りしてもう本戦場に出ていた。観戦したことはあってもそこで闘うのは初めてだ。

 始まる前に足場や雰囲気を確かめておきたかった。最初は市民のギラギラした視線や罵声と喊声が煩わしかった。

 圧倒的な人の気配に心が穏やかでいられなくなった。周囲を見渡せば人、人、人。頭が痛くなった。

 いけない。こんな心乱れた状態では本来の力は発揮できない。目を閉じた。心の中から声と気配を取り除いた。

 規則正しい呼吸を念じた。呼気と吸気。呼気と吸気。呼気と吸気。次第に心が鎮まっていく。闘技場は石の壁に遮られているが自分が立つ地はどこまでも続き、頭上に開けた空は無限の広がりを見せている。

 天と地は繋がっている。ならどこにいようと同じこと。煩わしい街の中にいようが静かな故郷の村にいるのと変わらない。

 天から降ってくる涼しい感じは心に清らかにしてくれる。どっしりとした地は安心と力強さを与えてくれる。

 天と地。そう。人は自然の一部なのだ。ということはどこにいても何があっても同じこと。心乱されることはない。

 やがて目を開いた。ただ周りに人がいるだけだ。声が聞こえた。意味のないものに聞こえた。そこでアズの意識は別のものに移った。

 道場で相談した時のことを思い出す。オルレアンに考えられる限りの首を切る技を演じてもらった。だがアズからするとどのやり方も通常の構えから首を斬るところにいく過程で無理があるように見えた。

 そのうち何度も色々なやり方を要求するアズにオルレアンがまいってしまった。試合前日まで技の正体や対策を考えたが結局うまくいかなかった。

 だったら自然体でその場で対処するしかない。未知の必殺剣に恐さはあった。だがすぐになるようにしかならないと開き直った。

 

 リードらシビリアンズは試合を観戦するふりをして闘技場に紛れ込んだ。そして客席で何組かに分かれるとフォルら過激派を探した。

 だがしばらくして戻ってきた面々の表情は皆、冴えないものだった。どうやら見つからなかったようだ。

 一同は客席最後列の後ろで何気ないふりをして相談した。

 「どうする、リード?」

 リードは目深に被った帽子の陰から目を光らせて周囲を見回した。凄まじい人の数だ。恐らくケルラの男達のほとんどが集まったのではないかと思われた。

 この中からたった数人を探し出すのは今の人数では難しい。

 「・・・となれば、だ」

 リードは呟いて歩き出した。そしてついてくるよう仲間に顎をしゃくる。リードの後に続きながら仲間が訊いた。

 「どこに行くんだ?」

 「あいつらの目的は貴族を殺ることだ。なら試合のどこかで必ず貴族の傍に現れる」

 仲間が納得した時、会場がわっと沸いた。本戦場を見ると南門からジベリが出てきたところだった。


 立会人が両選手を本戦場の中央まで呼んだ。付添い人をつれた両選手が中央に歩み寄る。立会人が両選手を見ながら試合規則を説明する。

 ジベリはそれを聞き流してオルレアンを見た。彼は相手選手の付添い人のためここに来ている。だがこちらが見続けても彼は視線を合わせようとはしなかった。

 ジベリはそんな彼を内心で嘲笑った。そして視線に意味を込めて送った。こいつの次は貴様だぞ、と。

 だがオルレアンはやはりジベリを見ようとはしない。いやそれどころか近くにいたくない、とばかりにさらに後ろに下がったようだ。

 ジベリは鼻を鳴らした。ふん!どうやら本物の腰抜けに成り下がってしまったようだな。腰抜けになったオルレアンを斬っても自分の積もりに積もった怨念は晴れない。

 もう十何年も経った。強かった時の奴を求めること自体、無理があるのかもしれない。師匠と弟子の二人をさっさと斬って終わりにするか。

 そこでようやく対戦相手を見た。袖のない革鎧。負傷予防のためか拳に包帯が巻いてある。どうやら噂通り本当に素手で闘うようだ。

 それもこの自分相手に。師匠はこの自分の恐ろしさを教えていないのか?いやこの街で自分の強さはかなり知れ渡っている。

 この若造だって武術に関係している以上、知らないではすまされない。知っていて素手を選んだということだ。

 その無謀さには残虐さで応えてやろう。この若さで散るのは少々気の毒な気もするが。そう思って若者の目を見た。

 彼は鋭い目でこちらの様子をじろじろと見ていた。筋肉の発達具合。鎧の強度。武器の威力。その注意力はなにものも見逃さない鋭さがあった。

 またその表情には緊張も気負いも見られなかった。普段通りといった感じだ。つまりこの男は若いにも関わらずかなりの場数を踏んでいる。

 ジベリは若者を見直す気になった。この用心深さ。そして力みのない自然体。案外かなりの強敵なのかもしれない。

 名前はなんといったか。確か・・・アズ。その時、立会人の説明が終わり両選手は元の位置にまで戻った。ジベリは薄笑いを浮かべた。

 強敵。結構なことじゃないか。師匠があのザマだ。せめて弟子ぐらいは楽しませてくれないと。

 

 試合が始まった。アズはまずジベリの剣に注目した。大抵の騎士が持つような細身の剣ではない。握りがしっかりしていて厚刃のごつい剣だ。

 恐らく戦場で使用される剣なのだろう。間違いなくジベリは甲冑ごと叩き斬る戦法を使うものと思われた。

 ならばこちらはスピードで撹乱してやるまでだ。ジベリはこれまで大言や挑発の言動を繰り返してきた。

 そのため作戦を練って闘うのではなく勢いで敵を圧倒するタイプだと思っていた。試合が始まれば飢えた野獣のごとく突進する闘士だと思っていた。

 だがそれは間違いなのではないか。そう思い始めていた。どっしりと腰を落ち着けて注意深くこちらの動きを見つめている。

 意外に慎重だ。もしかすると派手な言動は相手に自分を見くびらせるための作戦だったのかもしれない。

 アズはオルレアンに文句を言いたくなった。おいおい。聞いていたのと大分、違うぜ、オルレアンさん。

 だがオルレアンがジベリと闘ったのはもう十年も前のことでありそれもたった一回のことなのだ。一回の対戦ですべてがわかるはずもなく十年という歳月は人間を変えるのに充分な時間だと思えた。

 考えていると観客の野次が飛んできた。

 「なに、恋人同士みてぇに見つめ合っていやがる!俺達ぁ、おめえらの恥ずかしがるところを見に来たんじゃねえんだぞっ」

 確かに試合は膠着していた。互いに用心しているため動きが少ない。相手の戦力が未知数の場合どうしてもこうならざるを得ない。

 だがそういう事情がわからない観客からすればひどくつまらないものに見えるのだろう。ジベリはその時アズの戦闘能力をチェックしていた。

 そして改めてこれは油断ならない相手だと気を引き締めた。全身から炎のゆらめきのような闘気が見える。

 これをまとうのに自分はどれほど苦労したか。それこそ死ぬ思いで経験を積んできたのだ。それをこの、大人になったばかりに見える若造が身につけている。

 自分と彼の才能は大きく差が開いているせいなのか。自嘲的に思った。だがさすがに生き死にを賭けた戦場の数はこちらが勝っているはずだ。

 戦場の経験で勝つ。オルレアンはすっかり落ちぶれていた。がっかりした。あんな男を倒すことをずっと夢見ていたのかと思うと自分が情けなくなった。

 だが弟子は別だ。たとえ師匠の腕が落ちても指導力や弟子の才能は別である。思わぬ強敵ということもありうる。

 そうやって気を引き締めた。そしてその懸念は現実のもとなった。この男は強い。

 <3>

 アズはじりっと足を動かした。その瞬間、構えたジベリの剣がぴくっと動く。あの反応を見るとかなりの速い攻撃にも対応できそうだ。

 だが懐に飛び込んでしまえばこちらのものだ。アズはゆっくりと左回りに動かぬジベリの周りを回った。

 ジベリは足を止めているが目は決してアズから離さない。体の向きもアズに合わせて変える。視線が鋭かった。

 まるで目で射殺すような迫力を持っている。これはアズが発するような闘気ではない。相手の命を奪おうとする殺気だ。

 睨みあった時ジベリとの距離は五メートルあった。だが回っていくうちに距離は詰められ今は三メートルほどになっている。

 まだ駄目だ。ジベリの反応速度から測るにこの距離では駄目だ。飛び込んでも叩き斬られる。もう少し。

 後もう少し・・・。だがジベリの凄まじい、背筋の凍るような殺気の圧力でそれ以上、踏み込めない。一旦また距離を取ろうかと思った。

 だがそれは危険だとカンが告げた。ジベリの蛇のような粘着質のある目はそれを決して見逃さない。

 少しでも弱気になって退こうとすればジベリは猛然と襲い掛かってくる。退けぬのなら闘気を高めて攻撃するしかない。

 だがジベリはそれをじっと待っている気配がある。何かジベリの意表をつく必要があった。左にゆっくりと回っていてふと少し先に小石があるのに気づいた。

 サスケの顔が脳裏に浮かんだ。そうだ。あいつの技をちょっと拝借しよう。サスケは手でしか飛礫を打てないが俺は足でもそれが打てる。

 そして小石のところまで来た。左足に意念を集中する。天地自然神海呼吸法を会得してまだ間もない頃、自然の力は体内に溜めて初めて使えた。

 だがこの頃になると呼吸法で自然の力を集めなくても体内に残存したものをかき集めて使うことができた。

 その力を爪先に集めた。そして歩を進めるふりをして小石を蹴った。自然の力によって蹴力は数倍になっている。

 小石は矢のように飛んでいってジベリの脛に当たった。だがジベリもさすがだった。矢の飛び交う戦場で生き残っただけあって一瞬のうちに反応し直撃を免れた。

 小石は骨の硬いところには当たらず肉の厚い部分に当たった。だがそれでも充分に強い痛みを生じさせた。

 ジベリは顔を歪めて呻いた。ここだ!アズが猛然と突っ込んだ。ジベリがはっとなった時にはもう懐に飛び込んでいた。

 動きを最小限にして拳を胸や腹部に打ち込む。それが速い。その攻撃は閃光拳のような莫大なパワーで一気に倒すものではないが相手の革鎧を通して確実にダメージを与えていく。

 凄まじい連続した拳圧に肺の空気が口から吐き出され胃の腑がよじれて胃液が喉元まで逆流する。

 「ぐおおおおっ!」

 ジベリは後退せざるを得なかった。だがアズは距離を空けさせない。懐に飛び込んだまま前進して拳を小刻みに打ち続ける。

 このままダメージを蓄積させて動きが鈍くなったところに閃光拳だ。アズはそう考えていた。頭上で、ぐはっ!とジベリがたまらず息を吐いた。

 地面に少量だが血が撒き散らされた。いける!アズはその無尽蔵の体力でもってさらに突きの回転を上げようとした。その時、声がした。

 「こ、この!調子に乗るなよおおおっ!」

 頭上で何か冷たく重いものが迫ってくるのが感じられた。なんだ?相手の剣は上に跳ね上げられたままだ。

 アズは彼の懐にいる。近すぎて振り下ろせないはずだ。ならどんな攻撃だ?その時、立会人から試合規則を聞いた時のことが思い出された。

 この試合直前だ。アズの前にはジベリが同じように立会人の話を聞いてる。その時、彼の剣が目に入った。

 鞘に入ったままでもわかる。どっしりとした厚い刃の剣だった。以前の彼の試合でその刃が少し雲って見えた。

 それは多くの血を吸ってきたせいか。いや違う。気になったのは刃じゃない。もっと下だ。刃から柄。

 さらに下に行くと重たげな鉛の球があった。柄頭だ。そうか。頭上に迫る、この重たげな感じは柄頭を振り下ろしてきたせいか。

 そしてまさにそれがアズの頭頂に振り下ろされる瞬間、頭を引いて難を逃れた。そしてそうすることによって二人の間に剣が振るえる間ができてしまった。

 「くらえいっ!」

 ジベリは剣を振り上げて素早く一歩、踏み出して袈裟に振り下ろした。避けきれない!?左右、どちらかに飛ぼうにも剣は追ってくる。そうカンが告げていた。

 「くっ!」

 咄嗟に後方に倒れこんだ。倒れた勢いを利用し後転して立ち上がる。そして安全な距離まで下がった。

 喚声がわっと沸き立った。ふと見ろすると分厚い皮鎧が斜めに斬り裂かれて肌にうっすらと赤い線が浮いていた。それを見た北門のアレンが父に縋りつくようにして言った。

 「ヤヤヤ、ヤバい!アズの兄ちゃん、やられちまうぜ!」

 オルレアンは額に脂汗を流して首を振った。

 「かすっただけだ。まだ勝負の行方はわからん」

 

 リードはその頃、沸き起こる歓声に釣られてちょくちょく試合に目を向けていた。こんなことではいけないとすぐ目を戻す。

 だが最初そう強くはないと思っていたアズの強さに瞠目し素手で健気に闘っているアズに興味を覚えるようになっていた。

 強い。あんな、なんでもないように見えた奴が滅法、強い。ただ残念なのはその強さを決闘試合という、つまらない貴族の娯楽に使っていることだ。

 もっと他のことに、人のためにその強さに使って欲しい。リードは弟を探しながら残念に思った。ああいう前途有望な若者が目先の金やきらびやかな世界に憧れて道を踏み外していく。

 大人はそれを嗜めるべきなのだがこの殺伐とした時代がそれをさせない。だが彼はまだ若い。薄汚い貴族に関わってしまったようだがまだ人生の方向修正がきく年齢だ。

 もし彼がそれを望むのなら自分が導いてやっても良い。いや今はそんなことを考えている場合ではない。

 自分には大義がある。貴族による圧政を廃し市民による統治でケルラを健全な姿に戻すことだ。だが貴族の力は強大でまだそれは途中にある。

 だが必ずやり遂げてみせる。人々が安全に穏やかに暮らせる街に。彼にもぜひこの建設に参加してもらいたい。

 若い力は大歓迎だ。リードは周囲に走らせる目を止めて魅了されたように闘うアズを見つめた。するとその時、視界の隅に上等観覧席が目に入った。

 仕切りの壁でその姿は見えないが時折、中から喚声が聞こえてくる。貴族も市民と同じように試合に夢中なようだ。

 観覧席傍にいる護衛も試合が気になるようでちょくちょく仕事が疎かになる。それを盗み見ていてはっと気づいた。

 警護に隙が出来ている。ここだ。恐らくフォルらはこの隙を狙っているのだ。周囲に目を走らせた。いるはずだ。

 この周囲に、観客に身を紛らわせた暗殺者の影が必ずあるはずだ。リードは上等観客席から少し離れた場所で観戦を装いながら周囲をそっと見回した。

 上等観覧席の三方と天井は仕切りの壁に遮られている。唯一、壁がないのはもちろん前面だ。観戦するために一面が丸ごと空けられている。

 手すり以外、何もない。そこから襲うのは不可能だ。なぜならばそこは最前席でその下にすぐ本戦場がある。

 闘士が暗殺者にならない限り無理だ。席の後ろは壁がむき出しになっており右横に仕切りに遮られた狭い通路がある。

 そこを進むと途中で中に入れるドアがあるというわけだ。襲うとすれば人目から遮られる右の通路でだろう。

 その時また観客がわっと沸いた。リードは釣られて目を向けたが急いで目を周囲に戻した。その時、上等観覧席の近くで動く人影に気づいた。

 なぜ気になったのかというと一塊の影が同時に動いたからだ。それは何人かの人間が目的を同じにしている証拠だ。

 彼らのことをよく見た。いた!フォル達だ。フォルらは観客の背後を音もなくすり抜ける。観客は試合に熱狂してるためその不審な動きにまったく気づかない。

 フォルらは間違いなく上等観覧席に近づこうとしていた。リードも急いで彼らのもとに向かった。リードよりもフォルらのほうが上等観覧席に近かった。

 追っても間に合わないかもしれないと危ぶんだ。だがフォルらの足は鈍かった。護衛の注意を引かないよう、ちょくちょく観戦するふりをしなくてはいけなかったからだ。

 それで彼らの前に回りこむことができた。フォルらはリードを見てはっと立ち止まった。上着の陰からは早くも短剣が引き出されかけていた。

 リードは首を横に振ってみせた。フォルは頬を朱に染めて意志を曲げそうになかった。だがリードに強く腕を掴まれるとやがて力を抜いた。

 そしてその時にはリードの仲間もこの場に着いていて他の過激派を取り囲んでいた。彼らも一時、抵抗の素振りを見せたがリードに短く叱られて大人しくなった。

 その時、本戦場の両選手がぱっと離れて距離を取った。少し前まで凄まじい剣と拳の攻防があったのだ。

 護衛の一人はそれを見て残念に思った。こんな好勝負の時に主人の警護をしなければならないなんて。

 その時はっとなって周囲を見回した。僅かだが殺気のようなものを感じたからだ。だが観客の喧騒があるだけでその感じはもう感じられなかった。

 気のせいか?その時、右手で若い男が別の男に連れられて出口に向かう姿が見えた。興奮しすぎて気持ちでも悪くなったか。

 危険はないとわかるとやや警戒を緩めた。だが危ないところだった。もしさっきの殺気が本物で暗殺の対象が貴族だったら護衛の役目を果たせないところだった。

 気分を入れ替えるように頭を振った。仕事中に試合を盗み見るのはもうよそう。リードは場外に出るとほっと安堵の溜息を漏らした。

 そして仲間にフォルらを託すと闘技場を振り返った。アズ・・・か。仲間になってくれるといいな。

 

 距離を取った後てっきりジベリは追撃してくるものかと思っていた。が、案に反してそれはなかった。

 ジベリを見ると牽制するように右手の剣をアズに突き出し、左手で苦しそうに胸や腹を擦っている。どうやら威力は小さかったが何十発もの突きがきいたようだ。

 苦しげに深呼吸してダメージ回復を図っている。対してアズも斬られたショックからすぐには反撃できなかった。

 あれが戦場の剣か。まるで全身でぶつかってくるような迫力を感じた。剣が振り下ろされた時には背筋が凍った。

 肉体的には掠り傷だが殺気で魂が両断されたような気がした。あれが戦場の剣か。ジベリは肉体的なダメージを、アズは精神的なものを負って両者ともしばらくその回復に努めた。

 そしてアズが回復した頃ジベリも胸を擦るのを止めた。ジベリが北門前のオルレアンをちらっと見てアズに言った。

 「さすがだな。さすがオルレアンの弟子だ。あの落ちぶれようを見て復讐はつまらないものになるとがっかりしていた。

 だが弟子にいいのがいた。師匠の代わりに弟子に鬱憤を晴らさせてもらうことにしよう」

 確かに今のオルレアンが真剣勝負の場に出ることは難しいだろう。だが寝起きを共にしてわかった。

 彼は優しく弱者に手を差し伸べる好漢だと。アズは彼を擁護したくなった。

 「ああ見えて実は師匠はまだ強いんだぜ。あんたは前より腕を上げたようだがそれは先生も同じことだ」

 「ほう。それはいいことを聞いた。お前を倒した後その上げた腕とやらを見せてもらおう。これは楽しくなってきた」

 ジベリが残忍そうに笑うのを見てアズは余計なことを言ったかと悔やんだ。もちろん負けてオルレアンと勝負させるつもりはない。

 が、勝負に絶対はない。ちらっとオルレアンを見た。見られたオルレアンが首をかしげた。まるでこの空気がわかっていない。

 以前は命を賭けた闘士だったんだ。ジベリから殺気を向けられたのだ。少しは感じろよ、と言いたくなる。やはり落ちぶれたようだ。ジベリが口を歪めて言った。

 「たかが素手の武術。武器を持った相手になにほどのことができると侮っていた。だがどうやらそれは間違いだったようだ。

 久しぶりだよ。こんな苦しい思いをしたのは。試合を盛り上げるために宣伝の意味合いを込めて我が必殺剣を弟子に吹聴させた。

 が、実際使うまでもないと思っていた。それがまさか使うことになるとはな」

 アズは慄然となった。あれか!噂に聞いた首切りの技をいよいよ出してくる気か!ジベリの目の色が血の色の赤になったように見えた。

 いやそれは濃い殺気を受けたせいか。アズの超感覚はジベリの全身から発するドス赤い殺気が輝いて見えた。

 その殺気がアズの知らぬ間に広がってアズを包み込んだ。そのためアズの感覚がおかしくなっているのだ。

 このまま侵蝕され続けてはいけない。アズは闘気を強くして殺気を押し返そうとした。愕然となった。

 闘気が抑えこまれている!?体力とか気力の差ではない。それならアズだって負けちゃいない。恐らく命のやり取りをした経験の差。

 それがものをいっていた。ジベリはさらに気を強くしてきた。まずい。このまま影響を受け続ければ肉体と精神に変調を来たす。

 そして動きの鈍くなったところで斬られる。焦ったが既にジベリのドス赤い殺気に精神も肉体も絡め取られている。

 こうなったら対抗手段は一つだ。アズは殺気に抵抗していた気の力を不意に抜いた。途端にどっと殺気が押し寄せる。

 ジベリが訝しげな表情になった。だがすぐ人殺し特有の残忍な表情が現れた。アズが観念したと受け取ったのだろう。

 その時アズは半眼になって深く静かな呼吸を繰り返していた。それを見たサスケがあっと思った。天地自然神海呼吸法だ!

 アズがあれをやっているということはいよいよヤバくなったということか。決着をつける時が近づいている。

 サスケは息を呑んで勝負の行方を見守った。その頃アズは深い呼吸を繰り返したことにより意識が肉体を離れ大地と大空に溶け込んでいた。

 世界中の人々の想いを感じる。悲しみ。憎しみ。慈しみ。喜び。それらすべてと一体になった。その時ふと自分の近くに異物があるのに気づいた。

 殺気。自分に向けられている。大いなる意思となったアズがそれに目を向けた。赤黒い殺気の塊が胎動している。

 これはあってはならないものだ。自然の体内にできた腫瘍。取り除かねば。でもどうやって?すぐに答えが頭に浮かんだ。

 閃光拳。そう想った時アズは自分の肉体に戻っていた。ジベリはアズが目をしばたたくのを見て集中力が失われていると思った。

 自分の濃い殺気の影響で。好機!ジベリが地を蹴った。疾走しながら剣を上段に振り上げる。アズはどうしたわけか動かない。

 いや動けないのか。間合いに入った。ジベリは裂ぱくの気合を発して袈裟に振り下ろした。

 「きえええいっ!」

 アズは自然の力で恍惚になりながら訝しげに思った。これが首切り?ただの斬り下しじゃないか。アズは剣の軌道を見て下がった。

 それで避けられるはずだった。だがジベリは柄から左手だけを離して右の片手斬りでさらに距離を伸ばしてきた。

 その動きはアズにはしっかり見えていた。片手なのにその斬撃は凄まじい速度だった。ジベリの膂力がいかに凄まじいのかがわかる。

 だがどこかおかしかった。ジベリの本来の膂力はこんなものじゃないはずだ。もっとスピードが出るはず。

 アズは数センチの間を作って避けた。剣が下方に流れていく。その時だった。剣が地に着く寸前ジベリは手首を返して逆手に持ち変えた。

 そして肘を上げて斜めに斬り上げてきた。その軌道の先にはアズの首がある。アズは愕然と思った。

 これが首切りの技か!まさに至近距離からの疾風の切り返しの剣。首切りがどういうものかわかった時にはもう首と胴体は離れている。

 ジベリは固まったように見えるアズに勝利を確信した。勝った!剣が水平に振られた。その時ジベリは違和感を覚えた。

 手ごたえがない。アズの首は太いわけじゃない。だからすっぱり斬れたとしても多少の手ごたえがあってしかるべきだ。

 その時アズはジベリの前にいた。いや咄嗟に片膝ついて避けたのでジベリには忽然と消えたように見えたはずだ。

 そして避けるのと同時に閃光拳の体勢に入っていた。ふっと身を沈みこませるのと同時に跳ね返ってきた大地のエネルギーを下半身で受け取る。

 そして身を伸ばすのと同時にそれを腰から背中、肩、肘へと伝えていく。ジベリは驚いただろう。剣を振り終えた時アズが突然、目の前に現れたのだから。

 そしてアズの唇がこう動いたのを見た。センコウケン。瞬間、腹が爆発したように感じられた。足から地を踏んでいる感触が無くなり体重も喪失してしまったかのように感じられない。

 風を感じた。それでわかった。宙を飛んでいるのだ。いやアズに何かされて吹っ飛んでいる。やがて背中に強い衝撃があった。

 腹の底から何か熱い塊が逆流してくる。たまらず口からそれを吐いた。視界に本戦場隅の選手関係者控え場が入った。

 小柄な男が柵を乗り越えるのが見えた。その若者は向こうを見てアズと言っていた。アズ?今回の対戦相手じゃないか。

 そうだ。俺はそいつと闘っていたはずじゃ・・・。だがそれ以上、考えられず目の前が暗くなった。

 <4> 

 上等観覧席ではシュトライツが予想外の結果に呆然となっていた。試合前シュトライツは楽観していた。

 相手は二十歳かそこらの若造でなんと武器を使わずに闘うという。まったく狂っているとしかいいようがない。

 それに対してジベリは幾多の戦場をくぐり抜けて来た歴戦のつわもの。戦場ではどんな汚い手を使ってでも生き延びればそれでよい。

 そういう過酷な環境で生き残ってきた本物の戦士なのだ。相手の若造の命は風前の灯のはずだった。

 だが相手もこの街でいくつかの道場を破ったという。確かにそれは実績になるが破られた道場のほうに相手は若造だと油断があったのだろう。

 そこに若造がつけこんだ。そうシュトライツはたかをくくっていた。そしてそれは試合が半ばになっても変わらなかった。

 それがまさか負けてしまうとは。ジベリに油断があったのだろうか。戦場を生き抜いてきた男だ。そういうところはないと思っていたが。

 いやそうに決まっている。ジベリめ。魔が差したか。ジベリに払った大金が無駄になった。苦虫を噛み潰したような表情になっていてふと視線を感じた。

 見るとボーメンが優越感も露にこちらを横目で見ているではないか。屈辱に顔が火照った。この場は敗北感を出さず余裕の笑みを浮かべて何か気のきいた冗談でも言わなければならない。

 だが頭に血が昇った今の状態では冗談などとても言えなかった。俯き加減でかろうじて辞去の言葉をぼそぼそと言った。ボーメンは余裕の笑みを浮かべて言った。

 「おや。もうお帰りですか。この後、一献いかがと思っていたのですがね。私の奢りで」

 シュトライツはもごもごと何か呟くと逃げるように去っていった。その後姿をボーメンはニヤニヤして見送った。

 本戦場に目を戻した。勝利した若造は観客の褒め言葉と万雷の拍手に照れくさそうにしていた。やがて恥ずかしくてこの場にはいられないといった様子で帰っていった。

 それを見届けると傍らに控える家宰に言った。

 「善戦してジベリになんとか手傷でも負わせられれば御の字だと思っていたがまさか勝ってしまうとはな。嬉しい誤算だった」

 「はい。当初の計画ではジベリに手傷を負わせて、そして時を置かずまた試合を催してこちらが勝つというものでしたから」

 「あのアズとかいう男。今後も使えるな」

 家宰はかしこまって言った。

 「はっ。なんでも各地をあの武術で渡り歩いているそうです」

 「ふむ。ということはあの若さでかなりの経験を積んでいるということだな」

 「御意」

 「あの者を専属で雇えないだろうか。聞けばオルレアンのところで厄介になっているというではないか」

 

 シュトライツは帰りの馬車の中でもむっつりした表情を崩さず黙り込んでいた。こういう機嫌の悪い時は話しかけないほうがいい。

 同乗する家宰は俯いてひたすらじっとしていた。窓の外を忌々しげに見ていたシュトライツはしばらくしてふと何かを思いついた表情になった。家宰に目を向ける。

 「他にあの男に勝てる闘士はいるか?」

 家宰は首をかしげた。

 「あの男と言いますと?」

 シュトライツは癇癪を起こして言った。

 「ジベリに勝った闘士に決まっておる!」

 家宰は急いで鞄の中から書類を取り出して開いた。それは王国闘士協会に所属する闘士リストだった。

 協会員になると協会月刊誌の他このリストが毎月、届けられる。内容はどこの誰々にどの闘士が雇われたとか、いついつの決闘試合で誰が勝った負けたというものだ。

 家宰はその最新号をめくって目当てのページを探した。だが中々そのページは見つからないようだ。少ししてシュトライツが苛ついたように言った。

 「もういい。あの男に勝てる闘士は見つからないというのだな」

 家宰は額の汗を拭いて言った。

 「は。それがその・・・中々ジベリほどの水準で未契約の者がおりませんで・・・名の通った腕利きは大抵、大貴族と長期契約を結んでおりまして。

 また運良く未契約の者がいてもジベリの例でもおわかりのように多額の契約金を支払わねばならず当家にはもうその余裕はない状態でして・・・」

 家宰がちじこまって主人の顔色をうかがうとシュトライツは憮然とした表情で腕を組んでいた。

 「あの男を倒せる者はすぐには用意できんというわけだな」

 「はい・・・」

 シュトライツはしばらく考えた後、馬車の窓を開けた。馬車は騎乗した警護の者に周りを固められている。

 シュトライツは馬車のすぐ脇にいた男を呼んだ。その男は周囲の騎士らと違って警察の制服を着ていた。

 また階級はかなり高いようで襟元の立派な階級章の他、服の各所に飾りつけが見られる。その男、ケルラ警察署署長のボルグはすぐ馬を窓まで寄せた。

 そしてシュトライツとひそひそと話をする。やがて密談は終わったようでシュトライツは窓を閉めた。家宰は訊こうか訊くまいか迷ったが主人の尻拭いは家宰である自分がしなけれなならない。

 なのでボルグに何を命じたのか尋ねた。するとシュトライツは酷薄そうに笑って言った。

 「あの男を倒すのに必ずしも闘士でなくてもよい。この街は私のものだ。あの男が街にいる限り奴の命は我が手中にあるのと同じだ」

 家宰が首をかしげるとシュトライツが続けた。

 「一対一で勝てなければ集団でかかるまで、ということだ」

 「ですが一方にそんな不利な試合形式なんてありましたか?」

 「何も闘技場でやるとは言っていない」

 「どういうことでしょうか?」

 「お前はもう心配せずともよい。あの男の件はボルグに任せた」

 

 職人町の印刷屋ではまた一本の蝋燭の周りに男達が集まっていた。暗い室内でリードが確認するように男達に言った。

 「では過激派の処分は俺に一任、ということでいいんだな?」

 中年の男が頷いた。

 「あんたがリーダーだ。それにあんたはたとえ肉親だろうがえこ贔屓はしない人間だと思っている。今回のことも適切な処分をしてくれると全員、思っているさ」

 リードは重い溜息をついた。

 「みんな、すまん。彼らはまだ若い。甘いと思われるかもしれないがそれを考慮したい。若さゆえの暴走だった、と。それで処分の件だが期間を設けて街から追放しようと思う」

 中年の男が懸念したように眉をひそめた。いやそういう者は他にもいる。街にいれば親兄弟がいる。

 屋根のある寝床もある。食べ物だって贅沢を言わなければありつける。街から追放となるとそれら、すべてを失うことになるのだ。

 そうなると若い彼らは生きていけない。生きていけなければ悪い道に入ることだってある。大人達はそれを懸念したのだ。

 だがリードは彼らを信じてあえて試練に直面させようとという。皆はしばらく戸惑ったように互いの顔を見合わせていたがやがて中年の男が呟くように言った。

 「可愛い子には旅させろ、か。リード。お前さん。穏やかな顔に似合わず厳しいね」

 「フォルらは正義の心が強い。だが正義を行うのには時間がかかるし実行にはさらに注意を払わねばならん。

 俺達がついているのに危うく間違いを犯させるところだった。俺達にだって罪はある」

 すると男の一人が苦笑して言った。

 「しばらく禁酒かな」

 何人かが笑みを漏らした。リードも少し笑って続けた。

 「追放しても正義の心から彼らは簡単に悪の道に入れないと思う。そして彼らを信じて待とう。一回り大きくなって帰ってきてくれることを」

 皆が頷いた。リードが若い男に目を向けて言った。

 「何か報告があるんだったよな?」

 若い男が頷いて言った。

 「シュトライツの動きが妙なんだ。手の者をしきりに闘士地区に送っている。どうも何かを企んでいるようだ」

 皆が訝った。闘士地区になぜ?ジベリが駄目になってしまったので新しい闘士の発掘だろうか?

 リードが若い男に手下の出没する場所を詳しく訊いた。その界隈を聞いたリードは腕を組んでしばらく考えた。

 そこに何がある?難しげに考えていてふと何か思いついた顔になった。

 「闘士地区のその辺りといえばオルレアン道場があるくらいだが・・・まさか狙いは!?」

 リードの脳裏には闘技場でジベリと勇ましく闘う若者の姿があった。

 <5> 

 試合に勝ったことによりジベリの脅威はなくなった。オルレアンは安心して道場再開に向けて稽古に専念できるはずだった。

 だが大きな脅威が去って気が抜けてしまったようだ。のんびり酒を飲む日常に逆戻りしてしまった。アレンやムックが道場再建の夢を語って、やる気を出させようとした。

 だがオルレアンは生返事ばかりで何もしない。アズも控えめに稽古を促したがあまり効き目はなかった。

 アズもオルレアンにだけかまっているわけにもいかない。試合という非日常が終わったため本来の目的である父の手がかり探しをしなければならない。

 アレンと話し合い、またやる気を出させる、きっかけを見つけるまでオルレアンのことは保留となった。

 父の手がかり探しは以前より難しくなった。ジベリを倒して有名になりすぎてしまったことが原因だ以前は道場に行って話を聞いてくれればよし。

 くれなければ腕ずくで聞いてもらうという方法を取っていた。だが今はアズの名を聞いただけで道場主は震え上がり用件を話す前に裏口から逃げ出されるという始末だ。

 そういうわけでちっともはかどらなかった。その日も逃げた道場主を追って用件を打ち明けて、知らないという答えを引き出すのにそれまでの倍以上の時間がかかった。

 二人は何件もこなさない内に疲れて果ててしまった。闘士地区の東側を歩いているとアズの後に続くサスケが困った様子で言った。

 「こりゃ作戦を変えなきゃなんねえな。追いかけっこばかりしていらんねぇ」

 アズもうんざりした様子で頷いた。次の道場を探す前にやり方を変える相談をした。目的は父の消息を知ってるかどうか訊くことだ。

 そこで馬鹿正直に本名を名乗る必要はない。偽名を使っても相手に損害はない。なのでそうするか、または本名を使用しても逃げられないよう予めサスケに裏口を張っていてもらう。

 そうやっていくつかの手を考えた。するといつの間にか周囲が薄闇に包まれているのに気づいた。

 どうやら熱中しすぎて日が暮れたのがわからなかったようだ。日が暮れれば道場主の口はますます固くなる。

 帰ることにした。二人が引き返そうとした時、向こうの路地の角から職人ふうの男が出てきて言った。

 「おい、大変だ、アズさん!」

 アズが訝しげに見るとその男は南を指差して言った。

 「アレンがならず者に絡まれて危ないんだ。すぐ来てくれ!」

 二人は驚いて男の導くがままに走った。男は闘士地区を抜けて南下し貧民町のほうに走っていく。

 闘士地区も路地が入り組んでごちゃごちゃしているが貧民町はその比ではない。ところどころで鼻がひん曲がるほどの悪臭が充満して路地の中は誰のものとも知れないガラクタが山と積まれている。

 また狭い路地だというのに面した家から洗濯物の干された物干し竿が路地中央近くまで突き出されている。

 先導する男はそれらを器用に避けて角を右に左に曲がって進んだ。男があまりにもよく曲がるので二人は自分達が今どの辺にいるのかわからなくなった。

 サスケが走りながらアズに訊いた。

 「あの人、どこまで行くんだろ?」

 「さあな」

 「ってか、ここどこよ?」

 「俺が知るか」

 「じゃあ あの人に聞いてみろよ。どこまで行くんだって。知り合いなんだろ?」

 「いや知らん」

 「なに?でもあの人はおめえを知っていたじゃねえか」

 二人は頻繁に道場めぐりをしていたがオルレアン親子やムック以外に親しくなった者はいなかった。サスケが不審を露にして足を止めた。

 「変だな」

 そしてアズ越しに少し先を走る男に声をかけた。

 「おい、あんた!どこまで行くんだ?」

 だが男はちらっと二人を見ただけで足を止めなかった。いやさらに足を速めていっていつの間にかどこかに消えてしまった。

 二人は見失ったと思われる地点で足を止めると男を捜した。辺りはしーんと静まり返っていた。周囲の家並みから物音一つ聞こえない。

 生活感はあるのだが人の気配がない。いや住人の気配はかすかだが感じられる。なぜかじっと家の中で息を潜めているようだ。

 緊張した雰囲気も感じられた。カンのいい二人はもう異変に気づいていた。

 「・・・罠に嵌ったって感じだな」

 サスケが周囲を気にしながら言った。アズが頷いた。

 「誰の差し金かな?」

 「俺が知るかよ」

 「もっともだ」

 すると後方から馬蹄の音がした。振り返ると向こうの角から騎馬が現れた。もちろん偶然じゃないだろう。

 明らかに殺意を持ってやってくる。そして馬の速度は狭い路地だというのにどんどん上がっていった。

 「なんでこんなところに馬なんかで来る!」

 サスケが、いい加減にしろといわんばかりに叫んだ。アズがサスケに注意を喚起した。

 「気をつけろ!俺達を蹴殺す気だぞ!」

 「そんな死に方したくねえ!」

 騎馬があっという間に距離を詰めてきた。アズは馬の大きさを見て呻いた。大きい!前に突き出た馬の大きな頭が邪魔して襲撃者の顔がまったく見えない。

 どう対処する!?飛び蹴りをくらわすか?いや地面にごちゃごちゃとガラクタやゴミがあって足場が悪い。

 ちゃんと飛べるかどうか心もとない。逡巡している間に騎馬が襲ってきた。

 「来たぁ!?」

 二人は咄嗟に路地の壁に背をくっつけた。そのすぐ前を馬が駆け抜けていく。追おうとした。その途端、何かに躓いた。やはり足場が悪すぎる。

 「今度は前から来たぞ!」

 サスケの声に前を見た。するとさっき襲ってきた騎馬とは別のものが駆け寄ってくる。アズは緊迫した様子で周囲を見回した。

 さっき路地の壁に背をつけてかわせられたのは襲撃と同時だったからだ。次の襲撃者はその避け方を頭に入れてくるだろう。

 もうさっきの避け方は通用しない。どこか逃げられる場所はないか?どこか!だが面した家はボロながら固く戸を閉ざしている。

 まるで面倒とは関りあいたくないといわんばかりに。こうなったら戸をぶち破って中に入るか。人の迷惑より自分の命のほうが大切だ。

 もう時間がない。そうしようと拳を引いた時、近くの家の二階から物干し竿が突き出ているのが目に入った。

 アイデアが浮かんだ。あれは利用できる。サスケが背を向けて逆方向に行こうとしていた。

 「向こうにも罠があるかもしれねえがとにかく逃げよう!」

 だがアズは動かず前方から来る騎馬を待ち構える体勢を取った。それを見たサスケが顔色を変えた。

 「馬鹿!なにやってんだ!」

 サスケが怒鳴ったがアズは動かなかった。そして騎馬が怒涛のごとく迫ってきた。その、人間とは比べものにならない脚力で蹴り殺そうというのか。

 馬が前足を振り上げた。アズの後方にいたサスケはそれを見て目を背けた。だが次の瞬間、闇夜を切り裂く気合が聞こえた。

 「うりゃさぁっ!」

 アズは路地中央から右手に大きく飛んだ。そしてその家の二階から物干し竿が路地側に突き出ている。

 アズはそれ掴むと体を捻って蹴りを騎乗の男の頭にぶち込んだ。ガッと音がして男は馬の背に倒れて動かなくなった。馬はそのまま走り去っていく。

 「さすがアズだ!」

 サスケが喜んでアズのもとに行くとアズが言った。

 「喜んでいられねえぞ。今度は前後から同時に来る気だ」

 「いいーっ!?」

 サスケが慌てて前後を見ると確かに挟撃するように騎馬二頭が走り寄ってくる。

 「どどど、どうする!?」

 アズもさすがに焦った様子になった。しばらく周囲を見ていたがやがて前方を指差した。

 「少し先に十字路があるようだ。そこまで走れ!」

 二人が急いでそこまで走った。そしてそこに着くと左右を見た。だが両側からのしかかるような軒先のせいで路地の先がよく見えない。

 だが左の路地の先に開けた場所があるのが僅かな月明かりのお陰で見えた。

 「あっちに行くぞ!」

 二人はすぐに決断して左に走った。荒々しい馬蹄の音がすぐそこまで来ていた。暗い路地の中を何かに躓いたりして蹴っ飛ばしたりして駆けた。

 やがて前方の淡い光が大きくなってきて路地の中から抜け出た。二人は周囲を見回した。雑然とした家並みの中に円形の空間があった。

 どうやら広場のようだ。地面の土がむき出しの何もない空間だが昼間は人が大勢、訪れるのだろう。

 露店を開いた後のゴミ屑が隅に溜まっており地面に子供が描いた絵がまだ残っている。サスケが緊迫した様子で訊いた。

 「どうする?」

 謎の襲撃者がこのくらいで諦めてくれるとは思えない。すぐ追撃が来るだろう。だが土地勘がないのでどこに行けばいいのかわからない。

 その時、不思議なことに馬蹄の音がまったくしないのに気づいた。アズは訝しげに呟いた。

 「まさか諦めてくれたのか・・・?」

 するとサスケが左に顔を向けた。しばらく気配を探っている様子だったがやがてその表情が青ざめた。

 「諦めたわけじゃねえみたい・・・」

 アズもその方向を見ると別の路地出口から三人の男達が現れた。いや左だけじゃない。広場に通じる四つの出入り口から三人づつ現れた。

 どう見ても真っ当な人間じゃない。皆、無言の殺気を纏っている。アズが舌打ちするように言った。

 「囲まれたか。くそっ。またしても誘い込まれたってわけかよ」

 近づくにつれて男達の格好が明らかになった。黒いマントに黒いマスク。服も靴も何もかもが黒だ。アズが誰何した。

 「てめえら、どういうつもりで俺達を狙いやがるんだ!」

 男達は無言で鞘から剣を抜いた。なんと刃まで黒く塗装してあった。その時、月が雲に隠れた。闇が濃くなり黒一色の男達が一層、見えづらくなった。

 その時アズははたと気づいた。そうか。刃を黒く塗っているのは闇夜で光らなくするためか。サスケが怯えたように身を寄せてきた。

 無言の襲撃者を不気味に感じている。アズも襲撃者が組織されていて盗賊や物取りのようなケチな犯罪者とは違うと感じていた。

 二人は背中合わせになった。アズが囁くように言った。

 「あいつら、夜目がきくように訓練されているに違いない。だけど闇を完全に見通すのは無理だ。お前はなるべく身を低くして動き回れ。絶対、立ち止まるな」

 「おめえはどうする?」

 「奴らの狙いは俺のようだ。俺だけは絶対、追ってくる。ならやり合うまでさ。お前は機を見て援護してくれ」

 サスケは頷くと暗いほう暗いほうへと移動しながら言った。

 「無茶はするなよ」

 襲撃者はサスケには目もくれずアズの包囲をじりじりと狭めてくる。アズは包囲の穴を探して突こうと動くのだが襲撃者はよく訓練されていてアズを逃がさない。

 まじいな・・・。敵は狩人のごとく獲物が疲れるのを待っているように見える。アズは無闇に動くのを止めた。

 敵の数は多い。動きは最小限に留めて体力を温存せねば。それには敵の動きをよく見定めることだ。

 まだ包囲と自分との間には余裕がある。今の内に準備しておこう。アズは天地自然神海呼吸法を行った。

 たちまち自然の力が体内に流れ込み力が横溢してくる。そして自我が自然に溶け込んで一体となると脳裏に敵の姿が映し出された。

 敵はアズが動かなくなったことにさらに慎重になったようだ。手強い。こいつら一体、何者なんだ?

 アズがなおもじっとしていると右手の男がアズの後方の男に僅かな身振りで合図しているのが感じられた。

 姿は見えないが敵の発する気配でどういう身振りをしているのかがわかるのである。最初は後方からか。

 アズは気づかないふりをした。やがて後方の男が動いた。後方でいきなり殺気が膨れ上がるとそれが迫ってくる。

 アズは慌てずタイミングを計った。敵が踏み込んでくると同時にこちらも背中を見せたまま後退し後ろ蹴りを放った。

 後ろの敵は不意をついたつもりが逆につかれた格好になり、どてっ腹をぶち抜かれて吹っ飛んだ。

 後方の板壁にぶつかって呻き声を上げる。やがて動かなくなった。敵集団から動揺が伝わってくる。

 こいつは暗闇の中でも見えているのか!?といったところだろう。見えるんじゃない。感じるんだよ。

 アズは目を半眼にして敵の様子を探った。敵はしばらく相談するように目を見交わしていた。身振り手振りを交わしているところを見ると何か企んでいるのだろう。

 このまま敵の出方をうかがっているのは危険だった。何しろ敵は多勢。一遍に襲い掛かられればさばききれないかもしれない。

 近くの、攻撃しやすそうな敵を探した。その時、左手の男が突進してきた。だがアズの間合いの、一歩外で止まる。どういうつもりだ?

 はっとなった。右手から殺気。左は陽動か!身を引いて斬撃をかわした。引くと同時に回し蹴りを見舞おうとした。

 すると斜め正面から殺気。突きだ。アズからはそれが凶悪な光となって突っ込んでくるように見えた。

 なんとか身を捻ってかわした。止まっていては連携攻撃をくらう。早く動かないと。だが無闇に動くのは愚かだ。

 殺気の薄いところを探してそこに走った。敵とやや距離ができたところで止まった。僅かに息が荒くなっていた。

 次々と襲ってくるコンビーネーション。敵は集団攻撃に慣れている。一方がしくじれば他方がカバーに入り、さらに次のカバーもある。

 まさに連続連携攻撃だ。こちらが受け続ければその攻撃はこちらが倒れるまで続くように思えた。なんとかしないと。

 距離は取れたが敵の包囲から完全に脱せたわけではない。打開策を考えていると後方に僅かな殺気を感じた。

 回り込まれてはいないはずだ。埋伏者か!?急いで振り向いた。だが埋伏者は攻撃してこなかった。

 途端に後方に三つの殺気。くっ!?こいつも陽動かよ!するとアズは振り向かず埋伏者に向かって走った。

 一々、対応していたんではきりがない。倒せる相手をまず倒す。埋伏者は背を向けて逃げようとした。

 だがアズのほうが速かった。思いっきりバネをきかせて飛ぶと埋伏者の首筋に足刀を入れた。グキッという頚骨の折れる感触が伝わってきた。

 着地と同時にすぐに振り返る。直前まで迫っていた敵が慌てて足を止めた。味方を次々に倒されて動揺しているようだ。

 いいぞ。動揺してくれれば攻撃は荒くなり連携は乱れる。アズは再び殺気の薄いところを選んでそろそろと移動した。

 敵はやや遠目から攻撃の機をうかがっている。へん。闇夜には慣れた。もう簡単にはやられねえよ。

 アズが余裕を持って敵を眺めていてふと違和感を覚えた。敵にも余裕が感じられたのだ。なぜだ?

 攻撃を仕掛けて度々、失敗している。余裕などないはずだ。アズは訝しげに考えていて、はっと思いついた。

 ということは敵は奥の手を隠し持っている?その時いきなり真後ろで気配が生じた。

 「なっ!?」

 一番最初の連携攻撃の時、後ろ蹴りをぶち込んだ敵だ。完全に気を失っていたわけではなかったのか。

 敵集団はわざとここを開けてアズを誘い込んだ。またしても敵の作戦に嵌ったということなのか。あっという間にその敵に羽交い絞めされてしまった。

 蹴りをぶち込まれて重いダメージを負っているはずなのにその力は強かった。闇夜のせいで踏み込みが甘かったか。

 しかし敵も中々アズを斬ることはできない。仲間と一緒なのだ。

 「アズッ!大丈夫か!」

 少し遠くからサスケの声が聞こえた。あの馬鹿。声を出せば敵に位置を知られてしまうのに。敵集団は聞き取れぬほどの小声で言葉を交わした。

 そして何人かがサスケのほうに向かった。すると残りは剣を鞘に収めてアズの前までやってきた。アズは暴れたが背後の敵はアズを動けなくすることに専念しているらしい。

 やがて数人が目の前に立った。何をする気だ?訝っていると腹に拳を食らった。だが腹筋を引き締めたお陰でダメージは小さかった。

 間を置かず次々に拳が打ち込まれる。アズは呻き声を漏らしながら思った。こいつら、ダメージを与えておいてから斬る気か。

 「ひえ〜!?」

 サスケの悲鳴が聞こえる。どうやらなんとか捕まらずに済んでいるようだ。声の様子からサスケはまだ持ちそうだ。

 問題はこちらだ。全身の筋肉を引き締めたり殴られるところに防御力を集中させたりして今はなんとか持ち堪えている。

 だが敵は集団。ダメージを与えるまでそれこそ際限なく打っていられる。早くなんとかせねば。それには後ろの男の縛めを外さねばならない。

 背後の男はのしかかるよう体重をかけて羽交い絞めするのでまったく身動きが取れない。脱出は容易ではなかった。

 だがその時ふと気づいた。敵の頭が肩越しに後ろから随分、前に出ている。これは活用できる。

 「うりゃさぁ!」

 アズの右膝が跳ね上がり後方の男のせりだした顔面に当たった。

 「がはぁっ!?」

 男は鼻っ柱を叩き折られてのけぞった。縛めも解けた。瞬間アズは腰を落とし前の男に連打した。

 「打(ダ)!打、打、打、打!」

 アズの鍛えに鍛えた鋼鉄の拳が敵の胸骨肋骨を叩き折る。その敵はたまらず血反吐を吐いてぶっ倒れた。

 残りの敵は驚き急いで距離を取った。そして剣を抜く。鼻骨を叩き折ってやった後ろの敵は当分の間、戦闘不能だろう。

 だが敵は未だ十人はいる。ピンチなのは変わらない。それにさっき殴打されたダメージが今頃になってきいてきた。

 体が重く脇腹も痛めたようだ。敵もアズの負傷に気づいたようだ。今度は悠長にしていられなくなった。

 時が経てば負傷箇所が悪化する。その時どこをどう走ってきたのかサスケが合流した。

 「大丈夫か、サスケ?」

 「ああ。なんとかな。おめえは?」

 「ちょっとやられた」

 二人は板壁を背にして敵と向かい合った。合流して戦力は増したものの、敵の数のほうが何倍も多い。

 まともにやり合えば不利は免れない。敵は闇夜の中での戦いに慣れていてさらに集団攻撃を得意としている。

 打開策が見出せずじりじりと後方に下がった。するとその時また馬蹄の音がどこからか聞こえてきた。

 新手の敵か!?これ以上、敵が増えたら一縷の望みもなくなる。本当に不味いぞ!二人は狼狽した。

 すると敵の様子もおかしいことに気づいた。不安げに辺りを見ている。どういうことだ?味方が来て嬉しくないのか?

 訝っていると左手の路地出入り口から馬蹄の音と共にいくつもの松明の火が入ってきた。どうやら騎乗の人間が手に松明を持っているようだ。

 彼らは敵集団に近づくといきなり松明を投げた。意表を突かれた敵は怯んだ。敵側の人間じゃなかったのか!?アズらも驚いていると二頭の騎馬が近づいて手を差し出した。

 「今のうちだ!手を掴め!」

 二人は迷ったがすぐ決断した。騎馬の男達をいきなり信じろというのは無理だ。だが彼らの誘いを断っても黒覆面の男達にやられる。

 なら同じことだ。彼らに賭ける。二人はそれぞれ差し出された手を掴んだ。すぐ騎手の後ろに引き上げられた。

 二騎は二人を乗せると馬首を右手の路地出入り口に向けた。そして追いすがろうとする敵を蹴散らしてそこに飛び込んだ。

 他の騎馬も続く。敵の首領が急いで配下に命じた。

 「こちらも馬で追え!」

 敵集団は音もなく路地出入り口に駆け込む。すると首領と思しき男が一人だけ残った。その男がマスクを脱いだ。なんと警察署署長のボルグだった。

 「あれは地下組織の者か。なぜ奴らが・・・」

 <6>

 アズらを救った謎の男達はしばらく貧民町の奥へ奥へと馬を駆った。奥に進むにつれて悪臭や雑然とした感じはひどくなった。

 だが男達は慣れた様子でゴミやガラクタを避けて馬を進める。しばらくして路地から表通りに出た。するとそこは街の南門に近かった。

 少し遠くで閉ざされた門前で番をする小役人の姿が見える。かがり火の傍で所在なげに突っ立っている。

 男達はアズらに下馬するよう言って自分達もそうした。どうやら小役人の目を気にしてなるべく目立たぬようにするつもりらしい。

 集団は徒歩になると素早く馬を引っ張って通りを横切った。緊張はまだ解けなかった。どことはわからないが暗闇の中から敵の気配が濃厚に伝わってくる。

 敵は未だこちらを捜しているのだろう。南区の職人町に入った。その時サスケがアズの袖を引いた。

 見ると懸念した表情だ。男達は頭巾を被っていた。サスケは助けてくれたとはいえ彼らにこのままついていって大丈夫か、と心配しているのだ。

 アズは安心させるように頷いてみせた。少なくても彼らに敵意はない。だがそうはいっても油断はしないつもりだ。

 男達は暗い夜道を右に左に曲がった。自分達が居住区にいるくらいはわかった。だが土地勘のないアズらは現在地がわからない。

 またその頃には敵の気配もほとんど感じられなくなっていた。うまくまいたようだ。そこで思った。もういいだろう。

 正体不明の彼らやここがどこかわからいまま連れ回されるのは御免だ。足を止めようとした。するとその前に男達の足が止まった。

 そこはかなり古い一軒屋の前だった。以前、商売をしていたらしく看板があった。だが文字は風化して読めず軒下から今にも落っこちてきそうだ。

 先頭の男が戸に近づいて何か囁いた。すると戸が少しだけ開いた。体を横にしてかろうじて抜けられる程度の隙間だ。

 男達は順にそこに入っていく。二人は躊躇った。すると肩をぽんっと叩かれた。見ると最後に残っていた男が安心するように二人に頷いてみせた。

 襲撃から救出してくれた手並みは鮮やかだった。だがその男の雰囲気から荒事を好んでする輩とは思えなかった。心を決めてアズは中に入った。


 何年も使われていないのか中は埃っぽく乾燥していた。中央には用途の分らぬ機械があり男達はその奥でひっそりと肩を寄せ合っていた。

 男達は蝋燭が点けられた台を囲むようにして立っていた。二人はさっきの男に促されてそこに近づいた。

 「一体あんたらは・・・」

 さっきの男が言った。

 「わけあって顔は明かせん。知っているかどうか我々はシビリアンズという市民団体の者だ」

 「シビリアンズ・・・」

 すると別の男が冗談ぽく言った。

 「尤も市当局は我々を犯罪者集団の、地下組織とみなしているがね」

 さっきの男が続けた。

 「我々の目的を簡単に説明しよう。我々は市民による街の統治を目的としている」

 するとアズが首をかしげて言った。

 「確か街には議会ってのがあってそこで街のやり方を決めるって聞いたことがあるんだけど。やり方を決めるのは選ばれた市民らしいじゃないか。

 あんたらの言っているのはそれとは違うのかい?」

 さっきの男が頷いた。

 「確かに通常、議会は選出された市民、つまり議員のことだが、彼らが街のルールを決める。ここ以外の街ではな」

 「ここじゃ違うってのかい?」

 「そうだ。簡単に言えばここでは市民から選出された議員といってもほとんどが貴族の息がかかった者ばかりということなのだ」

 サスケが難しげに首をかしげた。

 「よくわからない。どゆこと?」

 「通常、議会は街の人々が暮らしやすくなるよう条例を制定する。だがここで作られた条例案はすべて貴族のための、貴族に都合のいいように作られたものなんだ」

 別の男が肩をすくめて言った。

 「つまり市民のため、と言いながら得をするのはいつも貴族様ってわけなのさ。もしくは貴族に金魚の糞みたいにくっついている業者のね」

 アズは顔をしかめた。

 「そりゃひでえな」

 するとサスケがあっさりと言った。

 「んでも貴族なんてそんなものだろ。平民のことなんか虫けら程度にしか思っちゃいねえんだ」

 男達が同意するように頷いた。だがさっきの男が憂慮したように首を横に振った。

 「それでは駄目なのだ。我々市民はこれまで大人しすぎたのだ。平民だって貴族と同じ人間だ。我々も権利を要求する資格がある」

 アズは少し興奮した様子の男に訊いた。

 「それであんたらはどうやってそれを実現しようとしているんだ?貴族が黙っちゃいないだろ」

 「ケルラをもう彼らの勝手にはさせない。そこで考えた。二案ある。一つは今の議会を解散させる。腐敗しきった議員を追放し街を憂える真の議員の選出。彼らによる市民議会の創建だ」

 サスケがあまり本気にしていない様子で訊いた。

 「貴族はどうする?」

 「市の象徴となってもらう。つまり名誉はあるが統治など実務には関わらせない」

 二人は半信半疑の様子で無言だった。それに気にせず男は続ける。

 「もう一つは案として考えているが実際、使うとなると躊躇われる」

 アズが興味を示して訊いた。

 「それは?」

 「王に直訴してケルラを王直轄領にしてもらうというものだ。だが直轄領だと宮廷から代官が派遣される。

 実質その代官が街を統治することになるんだ。それでは前時代とあまり変わらない。なので税と軍役を提供する代わりに市民の自治を認めてもらう」

 「いいように聞こえるがあんたはさっき躊躇いがあると言っていた。その理由は?」

 「この案は一か八かの賭けなんだ。というのは訴えを聞いた王は市民の自治を認めないばかりか現領主に取り締まりを強化するよう命じるかもしれない。

 また聞いたとしても現領主を廃して別の貴族を送ってくるということも考えられる。それじゃ訴えた意味がない。代官に統治されるのも同じことだ」

 アズは頷いた。王直轄領の案はまだ煮詰める必要があるのだろう。気を入れ替えて訊いた。

 「となると最初の案のほうだな。それは実現しそうなのかい?」

 男の一人が表情を曇らせて答えた。

 「あまり進んでいるとはいえないな。署名を集めて市民議会創建の賛同を得ようとした。だが賛同はしてくれるものの、署名までには至らない。

 貴族に逆らうのがまだ恐いんだな。ビラを配ったり貼り紙で市民の意識を目覚めさせようとした。だが広まる前に当局に取り締まられる。敵は中々、手強いよ」

 アズは彼らの運動に感心したが疑念も生じていた。

 「あんた達の運動はわかった。俺達を助けてくれたのもその運動の一環ってわけか?」

 さっきの男が首を横に振った。

 「それもあるが実は下心もあってね」

 二人が訝ると男は頭巾越しに笑みを浮かべて言った。

 「先日の闘技場での闘い。見てたよ」

 アズは一層、怪訝な表情になった。

 「思ったんだ。あんなくだらん試合なんぞにその力を浪費させるのはもったいないってね。どうだろう。その力を正義のために使ってみないか?」

 アズは唖然として言った。

 「ひょっとして俺にもその運動に参加しろってこと!?」

 「その通りだ。君は名誉や金にあまり興味がないように見える。その証拠に落ちぶれたオルレアン氏の力になってやっている。

 弱い者、つまり市民の力になっている。まさにシビリアンズの理念に適っている」

 アズは当惑してサスケを見た。サスケも困ったようにアズを見返す。

 「う〜ん。俺達、この街の人間じゃないし、やることもあるし・・・」

 男が言った。

 「答えは今すぐ欲しいってわけじゃない。考える時間が必要だろう。だがこういう運動をしている者がいるってことだけは心に留めておいてほしい」

 話が一段落したようなので二人は辞去することにした。いつまでも道場に帰らないとオルレアンらが心配するだろう。

 彼らに帰り道がわかる場所まで送ってもらった。そして最後に見送りの男が言った。もし気が変わったり我々の助けが必要な場合は貧民町、南門近くの雑貨屋に言付けしてくれ。

 そうすれば我々のほうから出向く。組織の者が音もなく闇夜に紛れていった後サスケが訝しげに呟いた。

 「どっかで聞いたことのあるような気がするんだよな。さっきの人の声」

 

 道場に帰ったのはいつもより大分、遅い時刻だった。だがオルレアンらに特に心配した様子はなかった。

 たとえ強盗がアズらを襲おうにも撃退されるのがおちだと思っているからだろう。彼らに心配をかけたくなかったので謎の集団から襲撃されたことやシビリアンズに助けられたことは黙っていた。

 そして遅い夕食を終えて皆が思い思いの時を過ごしているのを見てふと思いついた。シビリアンズが街でどのように思われているか知りたくなったのである。

 オルレアンはその質問をされると腕を組んでうなった。

 「彼らの理念も賛同できなくないが・・・貴族を廃するなど想像もできない。現実的に考えて市民の権利をもう少し上げて欲しいと穏やかに交渉するのが妥当なところではないか。

 今の暮らしに満足している市民などいないと思うが暮らそうと思えばなんとか暮らせてしまう。市民の意識を変えようと呼びかけてもよっぽどのことがない限り市民は貴族に逆らうようなことはせんのじゃなかろうか」

 アズも恐らく今の意見が一般市民の代表的な意見なのだろうと思った。確かにシビリアンズの運動は理想でしかないのかもしれない。

 だが窮屈な生活のままでいいわけはない。より良い暮らしを求めたっていいわけだ。この街の改革には何かきっかけが必要なのかもしれない。

 アズは乏しい社会経験からそう考えた。するとその時アレンが話しかけてきた。

 「そんな小難しい話なんかどうでもいいじゃないか。そんなことよりも今日、何度も来たんだぜ。ボーメン男爵の使いが」

 アズは顔をしかめた。

 「また闘士をやれってか?あれはオルレアンさんのために一度だけって約束だったじゃないか。もうやる気はないよ」

 アレンは身を乗り出して言った。

 「報酬を弾むって言ってくれてんだぜ?」

 アズは不満げに言った。

 「弾むって。散々、期待させておきながらたいしてくれなかったじゃないか」

 ジベリとの試合後、男爵からもらった報酬は新人闘士の報酬から少し色をつけたくらいのものだった。

 そのほとんどを宿代として辞退するオルレアンに渡してしまった。アレンが目を輝かせて言った。

 「それが今回は闘士の報酬分だけじゃないんだよ。うちの道場の建て直しもしてくれるってさ」

 オルレアンが興味を示したように顔を上げたがアズの不機嫌そうな表情を見てまた視線を落とした。アズが宣言するように言った。

 「とにかくもうやる気はないからな」

 

 シュトライツは居館でボルグからアズの暗殺失敗の報告を聞いて思わず持っていたグラスを彼に投げつけた。

 「この役立たずが!」

 するとワインで顔を濡らせたボルグが懇願するように言った。

 「もう一度!もう一度やらせてください!」

 シュトライツはさらに激怒して言った。

 「この愚か者!顔を隠していたとはいえ大勢の無頼漢、いや目のある者からすればすぐ折り目正しい剣術を使うとわかったはずだ。

 無頼漢がすぐ騎士だと知れる。そして大勢の騎士を擁する人間といえば貴族しかありえん。私かボーメンのところが真っ先に疑われる。

 いや一度、あの男はボーメン側に立った。だからボーメンは疑われまい。疑われるとなればこの私だ。もう危険は冒せんのだ。ええい、下がれ!下がれ!」

 ボルグは悔しさに唇を噛み締めて退出した。家宰は不機嫌な主人を恐れて部屋隅でちじこまっている。

 シュトライツは落ち着かない様子で室内を行ったり来たりした。暗殺に失敗した。今度はあの男も用心するだろう。

 となると二回目の襲撃は控えたほうがいい。失敗して騎士の一人でも捕まれば捜査の手はこちらまで伸びてくる。

 警察に手を回すことなどわけないがどこから情報が漏れるかわからない。やはり止めておいたほうがいいだろう。

 となると確実に安全にあの男を排除するのはやはり試合がいいか。結論がそこに行き着くと足を止めて家宰を見た。家宰はびくっとしたが構わず訊いた。

 「一流の闘士を雇う余裕はもうないのだな?」

 「はい。当家の諸経費を考えますとその費用を捻出するのはかなり厳しいかと。昨今の試合人気から一流闘士の報酬が高騰しておりますので・・・」

 シュトライツは、なら公金をと言いかけて口をつぐんだ。もうかなりの公金を闘士の報酬や遊行に横領している。

 市の会計係を抱き込んでいるが係はもう首を縦に振らないだろう。シュトライツは考え込んでいてふと何か思いついた顔になった。

 「マネを呼べ」

 家宰は眉を潜めて言った。

 「金貸しのマネ、でございますか?」

 気乗りしない表情から家宰は金貸しをあまり好きではないらしい。シュトライツは苛ついて言った。

 「他に誰がいる。すぐに呼べ」

 しばらくして金貸しのマネがやってきた。シュトライツはマネの挨拶が終わるのを待たず言った。

 「また闘士を雇おうと思う。マネ。用立てせい」

 マネはすぐに答えず考え込む様子をみせた。シュトライツは苛ついて言った。

 「聞こえただろう。それとも否と申すか」

 するとマネは愛想笑いして手を横に振った。

 「いえいえ。とんでもございません。伯爵様のご命令をどうしてこのマネが断れるものですか。ただ・・・」

 「ただ、なんだ?」

 「ここ数ヶ月。ご用立てばかりしております。私どもも打ち出の小槌を持っているわけではございません。

 なのでまたご用立てに見合う、何か特権なり条例なりをいただけるとこちらも少しは楽になれるのですが」

 シュトライツは家宰を見た。だが家宰は困ったように頭を横に振ってみせた。そしてこの時シュトライツらは気がつかなかったが扉の向こうに不審な影があった。

 ボルグだ。既に辞去したはずだがこんなところで何をしているのだろう?通路側から扉に耳をつけている。

 どうやら盗み聞きをしているらしい。そしてマネが用立てするのは次回ということを聞くとボルグは考える様子をみせた。

 <7> 

 マネを呼んだが結局、金の工面はつかなかった。金の都合がつかないのならば自分でなんとかするしかない。

 シュトライツがアズを排除するための方策に苦慮していると扉がノックされた。なんと、とうに帰ったと思っていたボルグだった。

 何か言い忘れたことでもあるのかと眉をひそめて見るとボルグが言った。

 「去り際に伯爵様が闘士の費用を求めておられると小耳に挟んだもので」

 シュトライツは苛ついた表情で言った。

 「だからなんだというのだ?それもそなたが役に立たんからではないか」

 ボルグはむっとしかけたがすぐ頭を下げて表情を隠した。

 「ごもっとも。実は闘士と聞いて、ある男の存在を思い出しまして」

 「ある男だと?」

 シュトライツが眉を潜めるとボルグが説明した。以前、名のあった闘士が郊外の村までやってきていることを先日、耳にした。

 その闘士は当時かなりの勝率を誇ったため決闘試合において各都市で引っ張り凧になった。だが今はその闘士も年を重ね長年の闘士稼業で体はボロボロになり動きが鈍くなった。

 そのため都市からは呼ばれなくなり小さな村の興行で僅かな金を稼ぐ日々という。この闘士を呼んではどうかというのだ。シュトライツは怪訝な表情で言った。

 「今更そんな男を呼んでどうする?もう往時の力はないのだろう」

 ボルグは薄笑いを浮かべて言った。

 「往時どころか試合の大怪我の後遺症で松葉杖をついております」

 シュトライツはますますわからなくなった。松葉杖?それで試合などできるのか。伯爵の疑念を察してボルグが言った。

 「その闘士の戦歴はたいしたものなのです。恐らく五十戦近くやって負けはほとんどないでしょう」

 「だがそれは昔の話・・・」

 「話は最後まで聞いてください。その闘士はあらゆる闘いを経験してどんな卑怯な手段でも知っているのです。

 いくら力のある闘士でも未知の、それも狡猾な技は恐いものです。そしてジベリを倒した若造。真正面からの闘いには強いようですがそういう未知の卑劣技を仕掛けられたらどうなると思われます?」

 「・・・ひとたまりもないか」

 ようやくシュトライツも興味を覚え始めたようだ。

 「あらゆる手を知っていて卑怯な手も厭わんか・・・面白そうだな。だが、となると高い報酬を要求しそうだな」

 「それはご安心を。ベテランゆえに今の自分の相場がわかっております。それに少し色をつけてやればいいのです」

 「ちょっと待て。卑怯な手といったがたとえ勝ったとしてもそんな男を雇った私に非難の目が集まるのではないか」

 ボルグは頷いて言った。

 「もちろん考えております。代理の者を立てるのです。格好としてはこうです。ある男が長いこと闘士をやっていて体もきかなくなってきた。

 もうそろそろどこかの街に落ち着きたい。そうだ。ケルラがいい。だが市民権を買う金がない。ケルラでは今、決闘試合の人気が高まっていてそれに出て名を上げれば在地領主の慈悲で市民権を与えてもらえるかもしえない。

 相手は人気がうなぎのぼりの闘士、アズがいいだろう。金はいらない。ただ市民権が欲しいだけなのだ。

 市民はこういう苦労話が好きです。それでそこに試合好きの裕福な商人が出てきます。商人はその話を聞いて闘士のために決闘大会を開いてやることにした。

 アズが勝てば報酬を、その闘士なら市民権を。慈善興業にするつもりなので集めた観戦代は施療院や教会に寄付する、と。

 それなら伯爵様の名は出ず安全にアズを排除できるというわけです」

 だがシュトライツは難しげに腕を組んで言った。

 「そんなややこしいことしてボーメンが受けるかな?いやそれよりもあの男を出すかな?」

 「これまでの試合はどちらの法案を通すかが票決で決まらない場合の決着方法でした。今回は単に金銭の賭け事にするのです。

 なに、互いに代理の者を立てるので賭けをしてもなんら問題はありません。ボーメン男爵にはこう言われればいいのです。

 賭け事になるので市民に知られては不味い。我々は表に出ないようにしよう、とでも」

 

 ボーメン宅では使いの者からの報告を受けた男爵が激怒していた。使いの男は言いにくそうに言葉を濁した。

 「何度も男爵様の使いの者だと。用件も非常に重要なものだと。そう申したのですがまったく取り合ってもらえないのです・・・」

 ボーメンは頬を朱に染めて言った。

 「おのれ、あの小僧!下手に出ていればいい気になりおって。この私が騎士にまで取り立ててやると申しておるのにあくまでも断るというのか!」

 ボーメンは憤然と拳を握った。その時、家宰が話題を変えるように言った。

 「闘士、といえばシュトライツ伯がまた妙なことを言ってこられましたな」

 「ああ。次の試合のことだろう。たまには金銭での賭けをしないかと言ってきた。アズを握っている以上、必ず勝つ。面白そうだから乗った」

 「しかし大丈夫ですかね?賭け試合はご法度です。露見したら市民が騒ぎ立てます。近頃、徒党を組んでお館様を批判するグループもいるようですし」

 「そのことよ。シュトライツもそれが心配なのかこう言ってきた。今回、我々は表に出ず代理の興行師を立てて勝負しようとな」

 「どういうおつもりなんでしょうかね?それと向こうの闘士も気になります。こちらは無敵だったジベリを倒したアズがいますからね。

 彼を倒せる闘士が用意できたということになります」

 「それは既に調査を命じた。その結果を今日エルマーから聞くことになっている。直にこの館に来るだろう」

 そしてその通り少ししてケルラ警察署、副署長のエルマーがやってきた。エルマーは手元の報告書を見ながら男爵に報告した。

 「お尋ねの件ですがまだ調査が完了しておりません。ですがわかったことをご報告申し上げます。伯爵の手配した闘士ですがもういつ引退してもおかしくない者のようです」

 それを聞いた男爵は拍子抜けした表情になった。

 「強者ではないのか?」

 「以前そうだったようです。この者、闘士歴がもう十数年にもなるらしく若い頃は強く大層人気があったとか。

 ですがある試合で卑怯な手を使われて不具になったとか。それで一線から身を退いたようです」

 男爵は首をかしげた。

 「一線から退いている?ならアズを出すまでもないか」

 エルマーが続けた。

 「その傷が原因がどうかわかりませんがその後、都市部ではまったく呼ばれなくなったようで。今は農村や小さな町の違法試合に出る程度とか」

 「う〜む。今ひとつ強いのかどうか、その報告だけでは判然とせんな」

 すると家宰が忠告するように言った。

 「いえ充分、怪しいです。怪我を負ったのに未だ闘士を続けていられる。負けたり怪我をしたら普通、引退しますからね。

 ですがその男はしていない。何か秘密があるとみるべきですね」

 男爵は頷いた。

 「確かに何かありそうだな。それにわざわざシュトライツが引っ張ってくるくらいだ。油断ならんか。賭け金も大きい」

 家宰が懸念したように言った。

 「賭け金のことですが・・・・」

 「なんだ?」

 「言いにくいことではありますが。当家は台所が逼迫しておりまして。今回のような大金の勝負に負けるのはかなりの痛手を蒙ることになるのです」

 男爵は顔をしかめた。

 「わかっておる。絶対、負けられん。やはりアズを出したほうが無難だな」

 するとエルマーが言った。

 「ですがアズは難色を示していると聞きました。どうされます?」

 男爵は難しげな顔で腕を組んだ。

 「こうなったら手段を選んではおられん。エルマー。なんとか奴を試合に引き出せないか?」

 エルマーは考え込むように顎を擦った。

 「そうですね・・・何をしてもいいならなくもないです」

 「あるか!どんな手だ?」

 するとエルマーは男爵に近づき、その耳に何か囁いた。その時ドアが僅かに開いて廊下から何者かの目が覗いた。

 エルマーは男爵の表情をうかがうように話していたがその気配に気づいてさっとドアを開けた。

 「誰だ!そこで何をしている!」

 ドアが開けられると盆にグラスをのせた女中が驚いて立っていた。

 「あ!あの・・あの・・・」

 エルマーは女中だとわかると肩の力を抜いた。

 「なんだ、女中か。運んだらさっさと出て行け」

 女中は恐縮したように頭を下げて室内の卓にグラスを置くとすぐに出て行った。そして部屋から出て振り返ったその目は女中にしてはやけに鋭かった。

 

 夜の帳が下りた。街の灯りも徐々に消えていった。最後まで点いていたのはパブ地区の灯りだがそれも街の定める営業終了時間となって消えた。

 その後もしばらく酔客の喚く声が街路に聞こえたが警官の取り締まりにあってそれも消えた。月が中天にさしかかる頃には街路に人の気配はまったくなくなった。

 街は眠ったのだ。だが闘士地区に密かに動く影があった。影は辺りを見回し人目がないのを確かめると音もなく奥の闇に溶け込んでいった。

 

 サスケは寝返りを打ってウニャムニャと呟いた。隣のアズは目を閉じて静かな呼吸を繰り返してる。だが眠ってはおらず意識ははっきりしていた。

 いつもは寝つきがいいのになぜかその夜は眠れなかった。だがイライラせず心を平静にして体を休めることに努めた。

 意識はこの日の昼間へと飛んでいた。相変わらず父の手がかりは見つからない。もう回る道場も残り少ない。

 この街にももう随分、滞在している。潮時か。そう思った。その時、月が翳ったのかふっと暗くなったような気がした。

 道場の窓を見ると窓の外に何者かが立っているように見えた。さすがに驚いて起き上がろうとした。

 するとそれを見た外の影が口に人差し指を当ててみせた。訝ってその影をじっと見つめた。闇夜に目が慣れてくると影が見たことのある頭巾を被っていることに気づいた。

 「・・・あんたらか」

 アズは肩の力を抜いた。その時にはサスケも目を覚ましていた。

 「誰だ?」

 「れいの市民団体の人達みたいだ」

 外の影が顎をしゃくった。どうやら道場の外で話があるらしい。二人は素早く身支度を整えると外に出た。

 すると道場から少し離れたところで頭巾を被った男が二人いた。

 「こんな夜分にすまんな」

 声からこの間の男だとわかった。アズが眉を潜めて訊いた。

 「なにかあったのかい?」

 少し前、市民運動への協力を求められた。だがいきなりのことだったので時間をもらった。その答えを訊きに来るには早すぎる。男はアズの疑念を察して言った。

 「ちょっとうちのメンバーが気になることを聞き込んできたもんでね」

 「俺達に関わることか?」

 男は頷いて語った。シビリアンズは貴族の横暴やそれに関わる者の汚職、不正などを調べるため彼らの近くにメンバーを潜伏させている。

 そして先日ボーメン邸にいるメンバーがアズのことを聞きこんできたらしい。

 「シュトライツがまた興行を目論んでいてボーメンはその試合に君を引っ張り出す気らしい。ところが君はどうしても首を縦に振らない。

 そこでボーメンはエルマーに相談して何か汚い手を使って君を試合に出ざるを得ない立場に持っていく気らしいのだ」

 「汚い手って?」

 「すまんがそこまではわからなかった。だがエルマーに命じたとなるとかなりひどい目に会うことを覚悟しなきゃならん。

 エルマーは命じられたことならどんなことでもする男だからな」

 そこでサスケが口を挟んだ。

 「そのエルマーって何者なんだい?」

 「ケルラ警察の副署長だ。警察内部でも派閥があって上級署員はどちらかの貴族に属している。ボルグ署長はシュトライツでエルマー副署長はボーメンというようにね。

 エルマーはボルグを追い落として署長になりたい。そのためにはボーメンがシュトライツより優勢になってもらわねば困るというわけさ」

 アズが懸念したように言った。

 「汚いって、どんなことかな?」

 「今はわからんがエルマーは警察官とは名ばかりのならず者だ。君がうんというまでどんな手でも使うだろう。もちろん非合法でだ」

 どんな手を使うのかわからないのでは手の打ちようがない。アズは表情を曇らせた。すると男が提案するように言った。

 「どうだろう。ここは姿を隠したほうがいいんじゃないか」

 「隠すって、どこへ?」

 「街の中じゃ、いずれ感ずかれる。街に一番近い村に我々の拠点があるんだ。ほとぼりが冷めるまでそこにいてはどうかな。

 なに、試合が終わるまでだ。終わってしまえば奴らは君を必要としなくなる」

 サスケがアズに言った。

 「いいんじゃね?あいつらに付きまとわれるのは御免だしな」

 どうやらサスケも一緒について行く気のようだ。アズは少し考えて男に言った。

 「わかった。まだ親父のことを調べたいしな。もう少しケルラにいる必要がある」

 次にサスケに言った。

 「お前もついてくる気のようだけどここに残って欲しいんだ」

 「なんでだよ?俺っちがいたら邪魔なのかよ」

 「俺がいなくなったらあいつら、オルレアンさん達に何をするかわからない。暴力で俺の居場所を聞き出そうとするかもしれない。彼らのことが心配なんだ」

 サスケは不満そうだったがやがて溜息をつくと了承した。男の話では出て行くのなら今すぐのほうがいいという。

 事態は予想以上に切迫しているらしい。アズはサスケに朝になったらオルレアン親子に事情を説明するよう頼むともう一人の男と闇の中に消えていった。

 

 ムックは店頭のリンゴを手にとった。そして品定めするように見ながら言った。

 「しっかしアズの兄ちゃんも急だよなぁ。一言も言わず出て行っちゃうんだもん」

 するとアレンが嗜めるように言った。

 「出て行ったのにはちゃんと理由があんの。お前も聞いたろ。それよりそのリンゴは止めろ。古いやつだ」

 サスケもそのリンゴの匂いを嗅いで言った。

 「ちげぇねぇ」

 すると店頭の向こうにいる果物屋の親父が憤然と言った。

 「なにを!おめえら、うちの商品にケチつけようってのか?」

 アレンはムックからリンゴを取り上げるとそれを胡散臭そうに見て言った。

 「大分、痛んでいるじゃないか。こんなもん食べたら腹、壊すぜ」

 「てやんでぇ、べらぼうめ。うちのリンゴで腹、壊したやつぁ、一人もいねえよ」

 「つまり文句も言いに来れないほど腹が痛くなったってわけだ」

 「このガキ!」

 親父が拳を振り上げたので三人は急いで店頭から離れた。そのやり取りを見ていた他の客が笑っている。

 そこは祝日に開かれる日曜市場だった。いつもは憩いの場の広場に露店が所狭しと並んでいる。祝日だけ開かれる市場とあって多くの市民が訪れていた。

 三人はそこに買い物に来ていた。三人は様々な店を冷やかしながらなるべく安い食材を探した。そしてその三人をやや遠くの人ごみの中から盗み見る人影があった。

 その男達はどこにでもいるような市民のいでたちだったが時折、三人を盗み見る目がやけに鋭かった。

 男の一人が店頭の商品を選ぶふりをしながら仲間に囁いた。

 「本当はアレンにしたいところだがあいつは賢い。餌には食いつかんだろう」

 「じゃあ片方のガキを嵌めるか」

 男達の悪巧みも知らず三人は無邪気に食料品店の前で品定めをしている。どうやら買う品が決まったようだ。

 アレンが早速、店主と値下げ交渉を始めた。アレンの提示する値下げ額に店主が顔をしかめて首を横に振る。

 アレンはその値下げ額が妥当であるとその根拠を詳しく述べる。サスケも傍らでそうだ、そうだと応援する。

 ムックはその間、暇そうにしていた。と、その時少し遠くでムックを呼ぶ声があった。ムックが振り返ると四軒ほど離れた果物屋の店主がムックを手招きしている。

 ムックはアレンを見た。まだ交渉に時間がかかりそうだ。なので果物屋のほうに行った。店主は丸顔の優しげな男だった。

 「ぼうや。親の代わりに買い物かい。感心だねぇ」

 「うん。おいら、いつも褒められるんだ」

 「感心な坊やだから一つリンゴを上げよう」

 ムックは喜んだ。

 「本当!?」

 店主は笑顔で店の奥にムックを連れて行った。そしてムックが店舗代わりのテントに入るといきなり背後から口を塞がれた。

 驚いてもがこうとすると商品箱陰から別の男も出てきてムックを押さえつけた。大人二人にかかられてはどうしようもない。

 たちまち猿轡を噛まされ手足を縛られた。ムックはなおも抵抗したが起き上がることすら出来ず、声はくぐもったものしか出ない。

 二人は薄笑いを浮かべると彼を奥に放り投げた。ムックはさすがに恐くなって辺りを見回した。すると積まれた商品箱の他に自分と同じように縛られた男がいた。

 ムックは知らなかったがその男はその果物屋の本当の店主だった。その頃アレンとサスケは粘りに粘ったお陰で食料品店の店主にようやく値下げを認めさせた。

 そして商品を受け取ると満足そうに振り返った。だがそこにいるはずのムックがいない。二人は訝しげに周囲を見回した。

 だが買い物客がごった返していてムックの姿は見えない。何度か大声で呼んだ。しばらくその場で待った。

 だがムックは現れなかった。長いこと待たせたので飽きて他の店に行ってしまったか先に帰ってしまったかのどちらかだろう。

 二人はそう思って深く考えることなくまた露店を見て回った。

 <8> 

 道場で男が寝そべっている。窓から差し込まれる日差しはとても暖かい。外の往来からは働く人々の活発な声が聞こえてくる。

 道場で寝そべっている人間に仕事はないのだろうか。いやその男にそんな殊勝な気はこれっぽっちも見られない。

 オルレアンは床に頭を片手で支えた格好で寝転んでいた。そして時折、暇そうに欠伸をもらす。今、道場にはオルレアン一人しかいない。

 稽古しろと口うるさいアレンらも外出している。こんな時くらいのんびりしたってバチは当たるまい。気持ち良くぼんやりとしていると近くで、ばさっと音がした。

 見ると床に便箋が落ちていた。窓近くにあるところを見ると誰かが投げ入れたか。比較的きれいな紙だ。

 読み終わった手紙を捨てたというわけでもなさそうだ。オルレアンは億劫そうに立ち上がって近づきそれを拾い上げた。

 するとアズ宛だった。オルレアンは首をかしげた。彼に手紙を送るほど親しい人間がこの街にいるのだろうか。

 便箋の中身が気になった。だが勝手に読むのは不味い。しかし暇を持て余してる。誘惑に負けそうだった。

 便箋を前に腕を組んで、うんうん唸っているとアレンらが帰ってきた。オルレアンはほっとした。良かった。

 もう少し遅ければ興味に負けてしまうところだった。するとアレンは帰ってくるなり道場を見回して訊いた。

 「ムックは帰っている?」

 オルレアンは訝しげに言った。

 「一緒じゃなかったのか?」

 アレンは市場ではぐれたことを伝えた。その時アレンはオルレアンの手にある便箋に気づいた。

 「それ、何?」

 「ああ、これな」

 オルレアンはサスケに顔を向けてこれがアズ宛であることを伝えた。サスケは顔色を変えた。先日シビリアンズからアズに危急が迫っていると伝えられたばかりである。

 そのこと以外で手紙が来るとは思えない。サスケは急いでそれを受け取って読んだ。すると彼の顔色が次第に憂いを帯びたものに変わっていくではないか。アレンが心配して訊いた。

 「どうしたの、サスケさん」

 「・・・ムックが誘拐された」

 「なんだって!?」

 サスケは愕然となったオルレアン親子に手紙を渡した。二人が食い入るように見ると簡潔にこうあった。

 (ムックは預かった。返して欲しければ次の試合に出ろ。他の者に知らせたら命の保証はない。また連絡する)

 アレンが怒って言った。

 「誰がムックをさらいやがった!」

 オルレアンは再度、文面に目を走らせた。

 「差出人の名はないようだ」

 サスケが吐き捨てるように言った。

 「決まってらぁ。アズを試合に出させたい奴といったらボーメンしかいねえじゃねえか」

 するとオルレアンが考え込むように言った。

 「そう決め付けるのはまだ早い。アズはボーメン男爵と専属契約を結んでいるわけではない。それを知ったシュトライツ伯がアズを従わせるためムックを配下にさらわせた可能性もある。

 金や地位をちらつかせてもアズが首を縦に振らないのもわかっているだろうからね」

 アレンがイライラして言った。

 「くそっ!こうなったら両方の貴族に訊いてやる!」

 アレンが飛び出そうとするのをオルレアンが慌てて止めた。

 「馬鹿な真似は止めろ!誘拐してない方を問い詰めても相手にされないだけだし、した方に行っても知らぬ存ぜぬを通されるだけだ。

 どっちにしてもお前みたいな小僧じゃ埒が明かん」

 「じゃあどうするんだよ!?何もしないでいろっていうのかよ。そんなの嫌だ。今もムックはひどい目にあわされているかもしれないんだぜ!」

 サスケは二人が揉めているのを見てふと思いついた。彼らに助けを求めるのはどうだろう。彼らは街の重職の傍に、つまり今回は貴族だがメンバーを潜伏させていると言っていた。

 ならムックの監禁場所も探り出せるかもしれない。それに少し前、聞いた彼らの話では貴族はアズを自陣営に引き込むため姦計をめぐらせた気配があったという。

 もしかするとこの誘拐がそれなのかもしれない。サスケはこの間の謎の襲撃とシビリアンズから救出されたことを二人に打ち明けた。

 そしてその助言によってアズが街を一時、出たことも。オルレアンは納得した様子で頷いた。

 「そうか。そんなことがあったのか」

 アレンは少し恨めしげに言った。

 「なんで話してくれなかったんだよ、サスケさん。水臭ぇじゃねえかよ」

 「悪ぃ。お前らには世話になっているから心配をかけたくなかったんだ」

 「それが水臭ぇってんだよ」

 サスケはオルレアンに目を向けて言った。

 「そういうわけで彼らに助けを求めてみてはどうかと思うんだ」

 オルレアンは少し考えて首を横に振った。

 「いやそれはちょっと考えよう」

 「なぜ?」

 オルレアンが窓の外を見た。

 「相手は組織的にムックを誘拐した。なら我々がどう動くかも監視していると見るべきだろう。下手に騒がれないためにね。だから今すぐ彼らに接触するというのは危険だ」

 

 ケルラから西に歩いて四日ほどの距離に鄙びた村があった。その村はどこにでもあるような山麓の農村だった。

 村民は街の人間とは違ってのんびりとしており区画された田地では穏やかな表情で農作業に勤しむ姿が見られる。

 そしてアズは今そういった農家の一つに厄介になっていた。家主は若い頃、村を出てケルラで職人になったという。

 だが十何年か経つとこの村に住む両親が年老いてきた。そのため帰郷して家を継いだのである。シビリアンズとの縁は街にいた時できたものらしい。

 メンバーが姿を隠さなくてはいけない時はここに匿われる。そういうわけでアズはその家に厄介になっている。

 だが何もすることがない。中年の家主夫妻は日が昇ればすぐ畑に出る。アズも元は農民だった。農作業を見るのはとても懐かしかった。

 それで無為に時間を過ごすのが嫌になったこともあるが畑を手伝うことにした。一陣の風が吹き抜けた。

 涼しくて柔らかいものだった。アズはその気持ちよさに草むしりの手を止めて顔を上げた。区画された田地がどこまでも続いている。

 田地は平地にあり所々にある丘が邪魔しなければ遠くまで見通せた。遠くの東に目を転じればはるか彼方に蛇行した細い線が見える。

 ケルラへと続く街道だ。振り返れば少し遠くに山並みがある。村はとても穏やかな場所にあった。ここには街の喧騒も忙しなさも争いもない。

 アズの前方では世話になっている夫婦がやはり同じように農作業をしている。朴訥としていて人の良さそうな夫婦だ。

 とても市民組織に関わるような人には見えない。アズは故郷の村を出て初めて父や武術を忘れて心穏やかに過ごしていた。

 だがそんな穏やかな状態は日中だけだった。夜になって何もすることがなくなるとケルに残してきたオルレアン一家のことが気になりだす。

 何か異変は起こっていないか。何か起これば組織の者かサスケが知らせにくることになっている。だが彼ら全員が手一杯になって知らせに来ることができなかったら?

 そう考えるともう駄目だ。じっとしていられなくなる。気を鎮めるために裏庭に出て武術の型を演じる。夜のため誰かに見られる心配もない。

 演じているうちに無心になれる。自然と一体になれる。その夜も演じている内に心のざわめきは鎮まっていった。その時、戸の開く音がして家主が裏庭までやってきた。

 「精が出るね」

 アズは手を止めて言った。

 「ああ、悪い。うるさかったかい?」

 「いや。物音がするんで何をしているのかと思ってね」

 「気になるようなら止めるけど?」

 「気を遣わんでいい。ただ夜とはいえやる時は気をつけたほうがいいな。小さな村なんでね。変わったことをすればすぐ噂になる」

 「わかったよ。気をつける」

 「あんた。街の人から詳しいことは聞いちゃおらんが闘士なのかい?」

 街の人というのは市民組織のことだろう。家主はアズが武術をやっているのを見て闘士だと思ったか。アズは少し自嘲気味に言った。

 「まぁそんなこともしたかな」

 「退屈な村だけどね。闘士なら少しは楽しめるかもしれない」

 「えっ?それはどういうこと?」

 家主は笑って言った。

 「三日後だ。まぁ楽しみに待っててくれ」

 

 そして三日が経った。だが夜になっても何も起こる様子はない。家主もそのことを忘れてしまったかのように振る舞っている。

 昼間、農作業して夜は寛いでいる。仕方なくアズは外に出た。この頃になると夜、武術の型を演じるのは日課のようになっていた。

 そして裏庭の木立に隠れるようにして武術の型を演じていると表のほうで人の通る気配を感じた。アズは眉を潜めた。

 夜間なのに随分、人が通る。これで三回目だ。夜となれば月明かり以外まったく明かりがないので村人はよっぽどのことがない限り外出しない。

 また村の掟でも夜間の外出は禁じられている。それなのにこの外出の多さはどういうことだ?何か事件でも起こったのだろうか。

 さすがに気になって表に回った。そしてそっと前の通りを覗いてみる。すると何人かの気配が西のほうに向かっていく。

 だが西の方角に民家はほとんどなく、あまり歩かない内に山の麓に到達する。どういうことだろう。西の民家で何かあったのだろうか?

 家の中に戻ると家主が居間で農具の手入れをしていた。妻は服のほつれたところを修繕している。アズは西を指差しながら家主に言った。

 「西のほうでなにかあったのかな?さっきから大勢そっちに行っているみたいなんだけど」

 すると家主は思い出したように言った。

 「そうか。今夜が開催日か」

 「開催日?」

 アズが首をかしげると家主は笑みを浮かべて言った。

 「この間、言ったろ。三日後、面白いことがあるって」

 アズが頷くと家主はよっこらせっと膝に手をついて立ち上がった。そして妻にちょっと出てくると言ってアズを促した。


 二人は僅かな月明かりのもと農道を西に歩いていった。途中、田地の中に点在する農家の傍に来たがいずれも寄らず通り過ぎた。

 このまま行けば山の中に入ってしまうんじゃないのか。アズが訝っていると家主は持ってきた松明に火をつけて本当に山麓の中に入っていった。

 入ったことのない山の中は危険が多く潜んでいる。闇夜なので悪霊が跋扈しているだろうし大きな獣だっているかもしれない。

 いや自然の脅威だってある。山の天候はすぐに荒れるし地面に大きな陥没があっても暗いからわからない。

 家主に懸念した様子はなくどんどん奥へと進んでいく。最初は山中の、道なき道を進んでいるのかと危ぶんだ。

 だが足元を見ている内に僅かだが踏み固められた跡があるのに気づいた。やがて木立の隙間から遠くに明かりがあるのに気づいた。

 さらに近づくとそれは一つではなく、いくつも集まったものであることがわかった。人の話し声も聞こえる。

 大勢だ。その頃には松明を持った村人達が円形に立ってその内側を見ているのがわかった。その時、家主が何が行われているのかようやく打ち明けてくれた。

 「びっくりしたかい?実は今夜、決闘試合が行われることになっていたんだ」

 「決闘試合!?こんな小さな村で?」

 「ああ。実はちょくちょく行われている。尤も届出していないんで役人にバレたら不味いんだが」

 興行試合が行われる場合その地を治める領主に届出しなければならない。そして主催者はその許可を得るため決められた額を領主に支払わねばならない。

 ところがこの額が馬鹿にならない。小さな町や村などはそれを逃れるため夜このような人目のつかないところで開催するわけだ。

 「へぇ。こんな小さな村でねぇ」

 アズが意外そうに言うと家主が言った。

 「意外と多いんだよ。小さな町や村で。だけど領主に許可料を払うのが大変だから皆、内緒にしているんだ」

 二人は話しながら人の輪に近づいた。すると皆、普段の穏やかな表情ではなく熱狂した様子で内側に目を向けて喊声を上げている。

 二人は人垣の隙間を探してどうにか中に入ろうとするのだが中々それは見つからない。辺りを一周してみたがどこも隙間はなかった。家主が困ったように頭を掻いた。

 「こりゃ少し遅かったかな」

 アズも辺りを見回していてやがて後方を指差した。

 「親父さん。あそこに上って見るのはどうかな?」

 アズが指差したのは近くに生えている、太い枝のある木だった。そこに上れば人垣越しに試合が見られるだろう。

 家主が同意したので二人は早速その枝に上がって観戦することにした。


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