リンク 下へ 

 <1>

 人垣の内側にはかがり火がいくつも焚かれていた。そのかがり火が闘いの場と客席を分ける柵の役割をしているようだ。

 観客は興奮していたがかがり火の内側には決して入らないように観戦している。家主が言うことには観戦料の他に賭けも行われているとのこと。

 アズがいたずらっぽく自分達の観戦料は払わなくていいのかと訊くと家主は苦笑して、そういうわけにはいかないと答えた。

 試合は既に始まっていて二人の男が中央で睨み合っていた。一人は筋骨隆々の強面だ。盾と鉄の棘がついた棍棒でしきりに相手を威嚇している。

 中々、強そうだ。そしてもう一方の男を見た時、唖然となった。なんと両脇に松葉杖をついている。体格は常人よりは筋肉質という程度で顔つきは穏やかでとても闘士をやるような人間には見えなかった。

 身なりも帽子にシャツとズボン。普通の村民となんら変わりはない。またその男を後方のかがり火近くではまだ幼い子供がしきりに父ちゃん、頑張れ!と声を張り上げていた。

 アズは驚いて枝の隣に座る家主に言った。

 「あんなんでまともに闘えるのかな?」

 すると家主は笑みを浮かべて言った。

 「まぁ見ていなよ。彼はチャンといってね。何度かこの村に来たことがあるから皆、彼のことを知っている」

 アズはまだ信じられない様子で会場に目を戻した。筋骨隆々が雄叫びを上げて猛然と襲い掛かった。

 重たげな棍棒が松葉杖のチャンに振り下ろされる。アズは一瞬、無残な光景を思い浮かべた。だが次の瞬間それは驚きに変わった。

 なんとチャンは器用に杖を使って移動してかわしたのである。それには筋骨隆々も呆然となった。棒立ちになった筋骨隆々を観衆が囃し立てた。

 「よぉよぉ!チャンの妙技に魂まで抜かれちまったかい!」

 「チャンを追ってみなよ。捉まえられるもんならな!」

 その嘲りに筋骨隆々の頬が朱に染まった。

 「野郎!」

 筋骨隆々が再びチャンに襲い掛かる。するとチャンは観衆の言葉通り妙技を披露した。時には一本の杖で回転してかわし、またある時にはまるで両足のごとくそれを使って移動する。

 アズの口は驚きに開いたままになった。

 「すげぇ・・・」

 すると家主はアズが驚くのを喜ぶかのように言った。

 「まだまだ。彼はあんなもんじゃないよ」

 何度やっても棍棒が当たらないせいか筋骨隆々に焦れた様子が見えてきた。チャンの表情は変わらない。

 アズはそれを見て思った。チャンは場慣れしている。かなりの戦歴があるのかもしれない。その時、会場がわっと沸いた。

 筋骨隆々は不意に棍棒の攻撃を止めると盾を体の前に持ってきて突進した。盾ごと体当たりする気だ!

 それも棍棒の攻撃で距離を詰めてからのものなのでチャンは不意をつかれた格好になっている。避けられるのか!?

 いやこれは受け止めるしかない。だがチャンは踏んばれない。彼の身を支えるのはあの貧弱な二つの杖しかないからだ。

 するとまたしてもアズの目が大きく見開かれた。なんとチャンは棒高跳び選手のように杖を使って筋骨隆々の頭上を飛び越えた。

 その妙技に観客は歓声を上げた。既に何度か出場して観衆と顔馴染みのせいかもしれないがいくつもの妙技に観客は完全にチャンを応援するようになった。

 筋骨隆々は客の雰囲気に狼狽し冷静さを失った。怒ってさらに攻撃が雑になった。その様子を見ていてアズは首をかしげた。

 チャンは確かに避けるのがうまい。だが攻撃はどうする?アズが見てから一回も攻撃していない。杖で突くか叩くのか。

 しかし相手は大きな盾を持っている。あれを排除するのは骨だ。このまま避け続けるばかりでは観客が失望するかもしれない。

 観客に飽きられれば次の興行に呼んでもらえない。そうなったら闘士としてやっていけない。チャンの妙技に場は盛り上がっている。

 観衆の心を掴むにはここで攻撃して勝負を決めたいところだ。そして筋骨隆々の棍棒が水平に振られた時だった。

 アズはそれを見て不審を憶えた。二人の距離がやけに近かったのである。アズにはチャンが相手に自分の懐に飛び込ませて攻撃させた感じを受けた。

 そしてチャンの次の行動を見てあっと思った。チャンは身を低くしてかわした後、杖を捨てて筋骨隆々の頭を両手で掴んだ。

 そして間髪入れず腕の力だけで垂直に大きくジャンプする。チャンの行動が予想外のものだったのか筋骨隆々は驚愕したまま動けない。

 そして次の瞬間、落下してきたチャンは思いっきり筋骨隆々に頭突きした。会場がおおっ!?とどよめいた。

 凄まじい頭突きだった。顔面に頭部がめり込んだようだった。しばらくしてチャンが顔を離した。すると筋骨隆々の顔は血で真っ赤に染まっていた。

 チャンはしゃがんで杖を拾うと距離を取った。だが筋骨隆々に反撃の力はもう残っていなかった。その巨体がぐらぐらしたかと思うと後ろにゆっくり倒れた。

 そしてそのまま二度と立ち上がることはなかった。村の立会人が筋骨隆々の表情を覗いてチャンの勝利を宣言した。観衆がわっと沸いた。


 試合が終わっても観衆の興奮は冷めないようで口々にチャンの妙技と大技を称えた。だが興行関係者に促されて三々五々に帰っていった。

 枝の上で観戦していたアズらも帰ることにした。その帰り道、家主が訊いた。

 「どうだい?面白かっただろう?」

 アズは試合を思い出しながら言った。

 「確かに勉強になった。ああいう闘い方もあるんだな」

 そしてその頃、山中の会場では興行関係者が後片付けして帰ろうとしていた。だが闘いの場では筋骨隆々が未だ倒れたままになっていた。

 敗北の身は無残なものである。誰も助け起こす者はいない。関係者もいずれ目を覚ますだろうと冷淡だ。

 だが中々、起き上がってこない。それに痺れを切らした関係者の一人が近寄って筋骨隆々の肩を揺すった。

 「おい。いい加減、起きろよ。朝になっちまうぞ」

 関係者がふと筋骨隆々の首筋に手を当てた。途端に驚いて身を引いた。他の関係者がそれを見て訊いた。

 「どうした?」

 「・・・死んでいる」

 

 荒事など無縁にしか見えない、のどかな村で決闘試合が行われていたのには驚いた。あの夜の試合はアズの心に大きな衝撃を与えた。

 そして村人の切り替えは早かった。夜が明けるとそんなことなどなかったように畑に出て鍬を振るっている。

 アズも畑に出たが昨夜の試合が思い出されて度々、手が止まった。そして午後になると家主に使いを頼まれた。

 村の南端に住む知り合いのところに借りていた農具と荷車を返してきて欲しいとのこと。それらは重いのとそこまで行くのに距離があるので中年の家主では骨なのだそうだ。

 アズは快く引き受けた。家主は荷物の重さと行き帰りの距離を考えて帰宅は暗くなる頃だろうと言っていた。

 だがアズの鍛えられた足腰は同年代の若者より数倍、強力である。陽が落ちる大分前に家近くまで帰ってきた。

 旅慣れたアズの足は急いでなくても速い。田園地帯を左に見ながら村の端の農道を歩いていた時だった。

 前方で数人に囲まれた子供の姿が見えた。何をしているのかとさらに近づくとどうやら子供は絡まれているようだ。

 絡んでいるのは大人に仲間入りしたばかりの若者といった感じだ。彼らは子供の肩を小突いたり頭に触ったりしている。

 そしてその子供を見てあっと思った。昨晩、見たチャンという闘士の息子だったからだ。近くの畑で農作業をする村人がいた。

 だが関わりたくないといわんばかりに気づかないふりをしている。アズも一応、匿われている身なので面倒事に関わるべきではない。

 迂回して帰ろうかと思った。だが数人にとり囲まれているにもかかわらず昂然と顔を上げて若者らを睨む少年を見て気が変わった。

 まるで過去の自分を見ているような気がしたのだ。アズも村抜けをした父のせいでいつもいじめられていた。

 だが決して謝ったり泣いたりしなかった。相手を無視して、されるがままになっていた。恐かったわけじゃない。

 怯んだわけでもない。ただ相手にするほどの人間ではないと腹の中で軽蔑していたのだ。そんな頃の記憶を思い出した。

 そして何気ない様子で近づいていくと彼らの声が聞こえた。

 「おい。昨夜の試合。ありゃあ八百長じゃねえのか?」

 別の若者が言った。

 「そうそう。なんで松葉杖をついたおっさんが若い闘士に勝てるんだよ?」

 「おめえの親父は相手にいくら渡したんだ?」

 すると少年は馬鹿にしたように言った。

 「八百長?ふん!お前らの目は節穴か?相手は顔から血を出してぶっ倒れたじゃないか。それのがどこが八百長だっていうんだよ」

 若者の一人が負けずに言った。

 「血なんか簡単に偽装できるさ。負けたほうは予め鶏の血袋を髪の毛の中に仕込んでおいたんだろう」

 仲間が同調する。

 「そうだ、そうだ。きっと何か仕掛けがあったんだ」

 少年は呆れて言った。

 「わかった。わかった。勝手に八百長って言ってろよ。尤も誰も相手にしてくれねえだろうけどな」

 「この野郎!」

 若者の一人が拳を振り上げた。少年は虚勢を張っていたようだ。それを見て身を強張らせた。だがいつまで経っても拳は襲ってこない。

 恐る恐る見るとその腕は何者かによってそこで止められていた。若者が振り返って怒鳴った。

 「何だ、てめえ?」

 アズは若者の手を離して穏やかに言った。

 「まぁ落ち着きなよ。相手はまだ子供じゃないか」

 すると少年が怒って言った。

 「もう子供じゃねえ!俺は十三だ!」

 アズは苦笑して言った。

 「世間じゃそれはまだ子供なんだけどな」

 若者らがアズに言った。

 「見かけねえ面だな。お前。こいつの仲間か?」

 「いや。そうじゃないけど」

 「じゃあ引っ込んでろ」

 若者らは少年に向き直ってまた殴りかかろうとした。その時アズは素早く若者と少年の間に体を滑り込ませた。そして宥めるように両手を少し前に出して言う。

 「まぁまぁ。待てよ。相手はまだ子供じゃないか」

 「大人に対する口のきき方を今から教えてやろうってんだ。邪魔するな」

 「暴力はいけない。暴力は」

 「ごちゃごちゃうるせえ奴だ」

 若者の一人がアズを突き飛ばそうとした。だがアズは身を開いてそれをかわした。若者は勢い余って前に転んだ。それを見た他の若者達がいきり立った。

 「あ!?やったな!」

 「こいつも一緒にやっちまえ!」

 若者達がアズにつっかかってきた。だがアズからすれば訓練していない彼らの動きなどスローモーションと一緒である。

 四方からかかられたが指一本、触れさせなかった。若者らは体力にものを言わせてしばらく殴りかかった。

 だが空振りの連続にやがて体力が尽きて動けなくなった。アズはそれを見ると少年の腕を引いてその場から離れた。

 「話はもうないみたいだな。さいなら」

 

 アズはしばらく無言で少年の腕を引っ張って村の中を歩いた。少年は最初は抵抗する素振りをみせた。

 だがすぐに腕力ではとても敵わないとわかりなすがままになっている。そして若者の姿が見えなくなるとアズはようやく掴んだ腕の力を緩めた。

 「いい加減、放せよ」

 それを感じとった少年はすぐアズの腕を振り払った。少年は腕を擦りながら気負ったように言った。

 「余計なことしやがって」

 「何が余計なんだ?」

 「別にあいつらを止めてもらわなくったって良かったんだ。俺一人でも十分、対処できた」

 「へぇ。そりゃ悪いことしたな。で、どう対処したんだ?」

 「もちろん」

 少年が拳をびゅっと突き出してみせた。それなりに鋭い突きだったが如何せんまだ子供である。威力も迫力もない。少年は不敵に言った。

 「この腕でやっつけてやるんだよ」

 アズは侮ったように言った。

 「とてもそうは見えないけどな」

 少年がきっとアズを睨んだ。

 「なんだと!?俺が弱いっていうのかよ!」

 「そんな細い腕じゃ、とてもあいつらを相手にできないだろ」

 「ふん!俺のことを全然、知らないくせに」

 「知っているよ。今、突きを見せてくれたじゃないか」

 「他にも色々、技は持っている!」

 「へぇ。そりゃ興味深い。ぜひ見せてくれよ」

 アズはこの際この少年の鼻っ柱を叩き折ってやろうと思った。でないとこの先、喧嘩が絶えない。それはこの少年にとって良くない。

 無謀な喧嘩は悪ければ命を失ってしまう。闘士を父に持つ身ならなおさらだ。挑発される身であるのなら用心深くなくては生きていけない。アズはわざと馬鹿にしたように手招きした。

 「ほら。かかってこいよ。やれるんだろ?」

 「ちきしょう!舐めやがって!」

 少年は殴りかかった。まだ闘士の父から手ほどきを受けていないことはさきほどの動きからわかっている。

 アズは少年にさんざん攻撃させた。もちろん彼の攻撃をさばくなどわけはない。やがて少年は疲れて手が出なくなってきた。

 だがその度に挑発して攻撃させた。そして少年はその体力のほとんどを使い果たして地面に大の字になって息を喘がせるだけとなった。

 アズは少年の息が戻るまでしばらく待ってやった。しばらくして少年は上体を起こし疲れた顔でアズを見上げた。

 その目にはもう攻撃的な色はすっかり消えていた。

 「あんた・・・強いな。避けていただけど俺にはわかる。色々な闘士を見てきたから」

 「俺は強くないよ。ただお前が弱いだけだと思うがな」

 少年は屈辱の表情で俯いた。やがて上げた顔には負けん気が戻っていた。

 「・・・弱いか。違ぇねぇ。でもな。いつか強くなってやるさ。いつかな」

 アズがからかうように言った。

 「俺よりも強くなれるのか?そんな調子で」

 「ああ。なってやるとも!確かにあんたは強いよ。でも父ちゃんの次だけどな」

 アズは苦笑した。

 <2> 

 アズは少年の気持ちが鎮まったところで世話になっている農家に連れて行った。そこで乳牛の乳を搾って少年に与えた。

 少年は喉が乾いていたらしくごくごくと飲んだ。強がっているとはいえまだ子供である。簡単にあしらわれたことと牛乳を与えられたことでアズに気を許すようになった。

 二人は寛いだ様子で裏庭の木立の根元に座った。そしてどこまでも広がる田園風景を眺めた。向こうの丘から吹き降りてくるやや冷たい風が心地よかった。アズが少年に目を向けて訊いた。

 「俺はアズっていって、ちょっと事情があってこの家に厄介になっているんだ。お前の名は?」

 「俺はダイジ。父ちゃんは闘士をやってんだ。すげぇ強いんだぞ」

 「昨日の試合を見たよ。親父さんの闘い方を見てびっくりした」

 「確かに父ちゃんの姿を初めて見た奴は本当にやれんのかよって思うだろう。でもそれは最初だけだ。あんたも見たように父ちゃんは強いんだ」

 「ほんと、あれでよくやっていられるなぁってびっくりしたよ。お前は父ちゃんについて全国の街とか村を回っているのか?」

 するとダイジは表情を暗くして言った。

 「今は小さな村だけだ。昔は有名な興行師に呼ばれて大きな街にも行っていたようだけどああなってからは村のちっぽけな試合にしか呼ばれない。父ちゃんの強さを知らないからだ」

 「父ちゃんの試合を見てて辛くなる時はないか?」

 「そりゃあ負けそうになったら見ていられなくなる時だってあるよ。でも父ちゃんから言われてんだ。いくら強い闘士でもいつかは負ける。

 お前には俺の生き様を見ていて欲しい。だからどんな時も目を逸らさないでくれって」

 アズは重い息を吐いた。

 「どんな時も、か。親父さん、強いな。腕だけじゃなく人間としても」

 ダイジは褒められたのが嬉しかったのか胸を張って言った。

 「そうとも。俺の父ちゃんは強いんだ。でもあんたもいい線いっているぜ。なんなら父ちゃんに弟子入りするか?

 俺が口きいてやるよ。尤も俺が一番弟子だからあんたは二番弟子になるけどな」

 アズは苦笑した。するとダイジは急に思いついたように言った。

 「そうだ。父ちゃんに会っていかねえ?あんた、見た目はなんだけど腕っ節は強いもん。きっと父ちゃんから学べるものがあると思うぜ」

 「いや遠慮しとくよ」

 だがダイジは聞かずアズの腕を引っ張ってダイジの父、チャンの逗留する裕福な農家の別棟に連れて行った。

 チャンは息子の話を聞くと見ず知らずのアズに礼儀正しく礼を述べた。アズはいい大人に頭を下げられて返って恐縮した。

 ダイジが父にアズは中々、腕が立つと話すとチャンは目を細めてアズを見た。アズはその目が一瞬、鋭く光ったような気がして身を強張らせた。

 だが見直してみると柔和な表情のままだ。首を傾げたがダイジが話しかけてきたのでその疑問はすぐ忘れてしまった。

 しばらく他愛のない話をした。そして窓から外を見るともう夕暮れ時になっていた。帰りが遅いと家主夫妻が心配する。

 辞去することにした。アズは帰り道、父子の仲のいい様子を思い浮かべた。

 「父ちゃん・・・か」

 

 農家での生活はそれからも続いた。その後のオルレアン達は何事もないだろうか。貴族はもう自分を諦めて代役を立てただろうか。

 心配になって家主に街の状況を知る方法はないか尋ねた。すると何かあれば市民組織の連絡員がやってきて教えてくれるとのこと。

 また何もなくても向こうがアズの様子を知りたくて来る場合もある。少し前に来た連絡員の話では貴族の配下と思しき者がオルレアン道場周辺を嗅ぎまわっていたのでまだ危険は去っていないだろうとのことだった。

 それを聞いたアズは居てもたってもいられなくなり街に戻ると主張した。だが家主は首を横に振った。

 また賊の襲撃があるかもしれないし貴族はどんな卑劣な手を使ってでもアズを自陣営に引き込むつもりのようだ。

 つまり戻ればオルレアンやその他の人達を巻き込む可能性が非常に高い。君が街にいては事態は悪くなるばかりだと説得された。

 アズは家主の話が正しいと認めざるを得なかった。そこで仕方なくもう少し待ってみることにした。

 昼は農作業に、夜は武術に没頭することで心配する気持ちを紛らわした。

 

 そんなある日ダイジがひょっこり農家に現れた。遊びにでも来たかと思いきやその表情は友好的なものではなく強い憤りで朱に染まっていた。

 その時アズは農作業をしていたのだがダイジは構わず近くの畦道まで入ってきて咎めるように言った。

 「俺を騙していたな!」

 アズは当惑して言った。

 「いきなりなんだよ。なんのことだ?」

 「子供だと思って舐めやがって。あんた、闘士だってこと黙っていやがっただろう!」

 アズは眉をひそめた。一回だけだがケルラの決闘試合に出たことがある。この村に来た理由は身を隠すためなのでもちろんそのことは秘密にしている。

 唯一、知る立場にあるのは市民組織と繋がっている家主だが彼が他言するとは思えない。とするとケルラでアズの試合を見たことのある誰かがこの村に来て偶然アズを見かけて喋ったのだろうか?

 訝って考えているとダイジが我慢しきれない様子で言った。

 「やい、こんちきしょうめ!お前は父ちゃんとやる気でここに来たのか?」

 アズはとんでもないというように手を横に振って言った。

 「やらない、やらない。俺は闘うためにこの村に来たんじゃない」

 それを聞いたダイジの表情が当惑に変わった。

 「えっ?試合をしに来たんじゃ・・・ないの?」

 アズは畑から出て畦道まで上った。ダイジが不審そうに訊いた。

 「じゃあ何しに来たんだよ、この村に?」

 「まぁ色々と事情があるんだよ。誰から聞いたのか知らないが俺は職業闘士じゃないんだ。頼まれてどうしようもなく一回だけ出場した。

 もうそんなことはないだろう。だからお前の父さんとも闘うことはないよ」

 ダイジはようやく納得したようで表情を和らげた。

 「なんだ。父ちゃんとやりに来たんじゃないのか・・・」

 その時、家主がアズに声をかけた。彼は二人からそう離れていないところにいたので二人のやり取りを聞いていたはずだ。

 「ちょっと休憩しよう。君もどうだ?」

 躊躇う様子のダイジをアズが無理に背中を押して裏庭まで連れていった。手ぬぐいで汗を拭っていると家主の妻がやってきて卓の上に人数分のお茶を置いた。

 ダイジにはまた牛乳がふるまわれた。するとダイジはさきほどの憤りを早くも忘れて無心に牛乳を飲む。

 家主とアズは微笑んでその様子を見ていた。少しして家の中から声がした。それを聞いた家主が席を外す。ダイジはその背を見送るとアズに訊いた。

 「闘士じゃないんならあんたはなんの仕事をしているんだ?農民には見えないけど」

 アズは苦笑して言った。

 「これでも前は農民だったんだ。今は特に決まった仕事はしていない。ちょっと事情があって旅をしていてね。

 それで金がなくなったらその地で仕事を探す。人夫だったり隊商の警護だったり色々さ」

 するとダイジが心配した様子で言った。

 「それは感心できないなぁ。まだ若いから定職に就かなくていいと思っているのかもしれないけど若い時だけだぜ、雇ってもらえるのは。

 早いとこどこかの親方に入門しないと今にえらいことになるぜ」

 大人びた口調でそう言われてアズは目を白黒させた。

 「そ、そうか・・・」

 ダイジが偉そうに腕を組んで言った。

 「俺の父ちゃんも昔はあんたみたいな生活を送っていたんだって。なんとかなるだろうって。でも闘士をやって気づいてみれば三十に届く歳になっていて。その歳になったら新しく他の仕事に就くことはできない。

 仕方なく闘士を続けていたら思わぬ怪我をして不具になっちまった。それでますます潰しがきかなくなった。

 昔は都市で華々しく闘っていたっていうけど今じゃこんな鄙びた村でしか呼んでもらえない。しかも報酬は雀の涙とくる。

 体がボロボロになっても生きるために闘うしかない。もう足を洗いたくても洗えなくなっちまったんだよ・・・死ぬ以外にね」

 そう喋りながらダイジは自分達の行く末を悲観したのか表情が暗くなった。そんなダイジをアズは気の毒に思った。そして元気付けようとして言った。

 「でもお父さんにはお前という立派な子供がいるじゃないか。ああいう人にとって子は宝だ。生活の希望だぜ」

 ダイジは褒められたと思ったのか少し照れくさげに鼻を掻いた。

 「そうなんだ。俺は十三歳でもう働ける歳だ。闘士を志すんならもう訓練くらい始めていないと。そんで早く金を稼いで父ちゃんを楽にしてあげたい」

 アズは驚いて訊いた。

 「お前も闘士になるのか!?」

 「ああ。手っ取り早く金を稼ぐにはそれが一番だ。父ちゃんを闘士に持っているしね。ただ続けるにしても二十ぐらいまでだ。

 多少、溜まったら闘士を辞めてどこかの親方につくよ。真っ当な職人になるんだ」

 ダイジはそう語ってにっこり笑った。アズは夢を語るダイジに少し羨ましさを憶えた。だがそれを表情に出さず明るく言った。

 「早くそうなるといいな」

 「もちろん絶対そうなるさ」

 

 アレンとサスケが道場戸口で振り返った。

 「じゃあ行ってくるぜ」

 見送りに来たオルレアンは心配した様子で二人に言った。

 「気をつけてな。店の主人と話はつけておいた。落ち着いてな」

 二人も少し緊張した面持ちで頷き道場を出た。そして北に真っ直ぐ歩いて闘士地区を抜けた。大通りを出るとそこを横切る。

 その時サスケがアレンに頷いてみせた。周囲の人間がまったく気づかない、とても小さなものである。

 見張られているかもしれない。そう告げられなければ気づかなかったかもしれない。だが意識して探ってみると確かに感じるのである。

 そこかしこで二人に向けられる謎の視線が。サスケは何気ない様子で周囲を眺めた。だがよほど巧妙に隠れているようでその姿は確認できなかった。

 広場の日曜市場に入った。いつものように盛況で客でごった返している。二人は商品を物色するふりをしながら人ごみの中を歩いた。

 やがてある店の前に立った。店は金具屋で店頭に精巧な錠前などの金具が多く並んでいる。店頭の向こうには店番と思しき少年が暇そうに座っていた。

 二人は金具を手に取って買おうか買うまいか相談した。だが結論が出なかったのか店番の少年に話しかけた。

 少年は二人の話を聞いて頷き、店の奥に二人を促した。三人は天幕の仕切りの向こうに行ったため姿が見えなくなった。

 店番の少年は外から見えなくなると急いで服を脱ぎ始めた。するとサスケもそうしている。やがて二人は互いの服を交換するように着替えた。少年が二人に訊いた。

 「貧民区の雑貨屋に行くんだよね。どうやって行くつもり?」

 アレンが答えた。

 「この人一人で行くことになっている。見張られているんだ。このまま表通りをまっすぐ進むんじゃ連絡の雑貨屋がバレちまう。だから南区に迂回して行く予定だ」

 すると少年は首を横に振った。

 「南区は駄目だよ。最近、商人職人町が怪しいってんで警察が住人を何人も犬に仕立て上げたらしいんだ。

 いつものように脅したりしてね。そんなところを通ったらすぐにチクられちまうよ」

 「じゃあどの経路なら安全なんだ?」

 すると少年は笑って言った。

 「コソコソするから怪しまれるのさ。服を交換したんだし堂々と行けばいいんだよ」

 そしてその頃、金具屋の前では不審な男達が何度もその前を行ったり来たりしていた。もちろん商品を物色しながらだがその目は時折、仕切られた店の奥に注がれた。

 するとアレンともう一人が店奥から出てきた。二人は路地に背を向け店頭でまた話し込んでいる。もちろんもう一方はサスケの服を着た店番の少年である。

 謎の男達はやや遠くから二人を盗み見ていた。だがサスケと少年は背格好が同じで顔も背けているので入れ替わったことに気づかれない。

 その時、店の裏から少年の服を着たサスケが帽子を目深に被り辺りを気にして出てきた。そして監視がないのを確認すると人ごみの中に紛れた。

  

 単調な村での暮らしに変化が起こった。なんとサスケが訪ねてきたのである。アズは友の来訪に嬉しさを露にしたが反面、心配にもなった。

 街で何も起こらなければ彼がここに来ることはない。何が起こったのか。二人が抱擁して無事を喜びあった後サスケが表情を重くして言った。

 「実はおめえが旅立った後すぐムックが誘拐されたんだ」

 アズは驚愕した。何か悪巧みが考えられているとは思ったがまさか幼いムックがターゲットになったとは。

 アズは急いでその後の状況を尋ねた。誘拐犯はムックの身と引き換えにアズに決闘試合に出ろと要求してきた。

 そしてその試合日を知らせる二回目の手紙が先日、届けられたのだという。試合は一週間後だった。

 アズはそこで一緒に話を聞いていた家主にすぐに街に戻ることを告げた。だが家主は厳しい表情で首を横に振った。

 そしてその理由を語った。サスケの話ではこの村に来る前シビリアンズにムック救出の助力を頼んであるという。

 ならば捜索は街に詳しい組織の者に任せたほうがいい。アズが街に戻って奔走しても見つかるとは思えないし返って事態は悪くなるかもしれない。

 ここはシビリアンズに任せよう。まだ期日まで少し時間はある。それまでに救出されればよし。間に合わないようなら試合に出れば良い。

 アズとサスケは家主の話を検討し、それに従うことにした。

 

 どこの街角にもその貼り紙は貼られていた。だがそれはよく見かける地下市民団体の貼り紙ではなかった。

 市当局公認印の入った貼り紙で決闘試合の開催を告げるものだった。試合の宣伝は大々的に行われているようだ。

 貼り紙は広場、パブ、闘技場の壁など所構わず貼られていた。市民は足を止めてそれを興味深げに見ている。貼り紙にはこうあった。

 (金融、建設組合主催。ケルラ市限定特別試合。アズvs謎のベテラン闘士 ○◇月○△日十四時 ケルラ市公営闘技場にて開催)

 また貼り紙には絵師に描かせた闘士の似顔絵まで入っていた。職人風の二人連れが立ち止まって面白げに貼り紙を見た。

 「おおっ!?アズがまた出るらしいな。ジベリをぶっ倒した時は凄かったもんなぁ」

 すると傍らの男が首をかしげて言った。

 「アズはいいが相手がわかんねえな。謎のベテラン闘士って誰のことだ?」

 「さぁ?この絵じゃさっぱりわかんねえな」

 アズの似顔絵は本人によく似せて描かれていたが対戦相手は影の輪郭しかない。最初の男が言った。

 「まぁ相手なんぞ誰でもいいじゃねえか。またあいつの闘いぶりが観られるんだから。それにベテランなら強いだろ」

 するとまた連れの男が首をかしげた。

 「おや?今回は貴族主催じゃねえんだな」

 最初の男もそれに気づいて首をかしげた。ケルラでは決闘試合が行われる場合、貴族の主催が当たり前のようになっていて他者がやることなど記憶にないことである。

 二人は訝しげに顔を見合わせた。

 <3> 

 エルマーの報告を聞いたボーメンは苛立ちを露にした。

 「まだ見つからんのか。一体アズはどこに行ってしまったのだ!」

 家宰とエルマーはボーメンの強い苛立ちに首をすくめた。

 「は、はぁ・・・街にいれば必ず居場所を突き止められるはずなのですが。どこに行ったのやら。もしかすると街から出て行ってしまったのかもしれません」

 ボーメンが顔をしかめて言った。

 「アズの連れが街にいるのだろう?なら奴も街にいる」

 ボーメンの苛立ちは中々、収まらなかった。しばらくしてエルマーに目を向けた。

 「なぜ警察署副署長のそなたが見つけられんのだ?いつも街の隅々にまで目を光らせて犯罪予防に努めていると申したではないか」

 エルマーは額の汗を拭いて言った。

 「道場など立ち回りそうなところはすべて当たったのですが・・・」

 ボーメンがふと思いついたように言った。

 「まさかシュトライツにもう始末されてしまったのではないだろうな」

 するとエルマーは今度ははっきりと首を横に振った。

 「いえ。ボルグ署長にそんな気配は感じられませんでした。もし暗殺に成功していれば彼の機嫌はいいはずです。そんな様子はここしばらくありません」

 ボーメンは気が晴れない様子で机を指でこんこん叩いていたがやがて言った。

 「監禁した子供はどうしてる?」

 家宰が言った。

 「意気消沈したままです」

 「大切な人質だ。きちんと食事は与えているのか?」

 「もちろんです。ただあまり食欲がないようですが」

 「今は大事にしてやろう。だがこのままアズが現れなかったら指を何本かは切り落としてくれる」

 

 村の入り口にアズとサスケの姿があった。二人はジリジリした様子で街道の東のほうに目を向けていた。

 家主によるとその日、組織の連絡員が来ることになっていた。ムック捜索の進捗や貴族の動向をアズに伝えるためである。

 何時、到着するかわからなかったので二人はその日の早朝からその場にいた。そこは王国の最西端にある田舎の村だ。

 人の往来はほとんどなかった。やがて陽は中空にさしかかり昼になったことを告げた。相変わらず街道の東、つまりケルラのほうからこちらに向かってくる人影はない。

 二人は少し肩の力を抜いて交代で昼食を取ることにした。まずサスケが農家に行った。アズは一人、街道に目を向けながらムックのことを心配せずにはいられなかった。

 誘拐犯が誰かはわからないが裏で糸を引いているのは貴族に決まっている。貴族は平民の命にこれっぽっちも重きを置いていない。

 利用価値がなくなればムックなどすぐ殺されてしまうだろう。自分も今すぐ戻って捜索したかった。だが街を知悉しているシビリアンズでさえ発見できない監禁場所だ。

 戻っても彼らの足手間といになるだけだろう。いや戻れば誘拐犯の思う壺なのだ。今はシビリアンズに頼るしかない。アズは祈るような気持ちで街道を眺め続けた。


 じっと東を眺めていると後ろから声をかけられた。振り向くと旅装のチャン親子がいた。二人はどこか機嫌が良さそうに見えた。アズがダイジに訊いた。

 「出ていくのか?まだ村で試合が残っていたんじゃなかったのか」

 「へへへ。それは解約したんだ。実はこの間ある街からいい話が転がり込んできたんだ。それに比べたらこんな小さな村の試合なんてやっていられないよ」

 チャンが苦笑して息子を嗜めた。ダイジは一時、悪びれた顔になったがすぐ笑顔でアズに言った。

 「すごくいい話なんだ。それがうまくいけばこのドサ回りみたいな生活ともおさらばできるかもしれないんだよ」

 アズは内容が知りたくなった。だがあまり私的な事情に立ち入るのもなんだと思って止めた。

 「ほう。そりゃ良かったな。で、今からそこに行くわけか」

 「そう。俺達、今度こそ絶対、幸運を掴んでやるんだ」

 アズは微笑んで言った。

 「きっとうまくいくよ」

 ダイジも微笑んだ。

 「信じて待っていればあんたにだって幸運が舞い込んでくるよ」

 親子は街道を東に向かって去っていった。やがてサスケが戻ってきたのでアズも昼食に行った。そして戻ってきて待つ内に日がとうとう暮れてしまった。

 夜間の外出は禁じられている。それでも月明かりを頼りに道端に立っていれば不審者と見間違えられかねない。

 仕方なく農家に戻った。この日はもう来ないのかもしれない。二人は落胆したが家主はのんびりと二、三日中には来るさ、と言った。


 連絡員が来たのは夜も大分、更けて村民がもうベッドに入ろうかという時だった。モルという若い連絡員は疲れた様子で家主の妻から出された水をごくごく飲んだ。

 そしてアズらに遅れたことを詫びてその理由を語った。昨日この村に向かっていた途中で反対方向からなにやら行商人が焦った様子で向かってくる。

 不審を感じたのでそのわけを聞いた。すると西に十キロほどのところで追い剥ぎ集団が出没していたという。

 そのためその行商人は急いで引き返してきたのだ。距離的に考えてモルがそこを通るのはどうしても夕方以降になり、そんな時間帯に通れば追い剥ぎの絶好の獲物になる。

 自分は行商人のように引き返せない。村に行かねばならぬ任務がある。そして他に道はない。街道でどうしたものかと思案していると向こうから親子連れがやってきた。

 どうやらこの親子は襲われなかったようだ。追い剥ぎのことを訊いた。すると子供のほうが自慢げに父がやっつけたという。

 しかし子供の父は松葉杖をついている。モルは信じなかったがとにかく追い剥ぎに出くわさなかったのならもう立ち去ってしまったのかもしれない。

 だが警戒して向かったところどこにも賊の気配はなかった。そうして遅れを取り戻すべく急いで来たのである。

 アズはそれを聞いて思った。それはチャン親子だ。チャンがきっと追い剥ぎを撃退したのだ。チャンの松葉杖姿は賊を油断させ、そこに杖か何かで打ち倒してしまったに違いない。

 さすがだなと感心した。一方モルの伝えた街の状況は思わしいものではなかった。八方、手を尽くして捜索しているがムックの行方は杳として掴めないという。

 アズは落胆を隠せなかった。その様子を見てモルの良心は痛んだ。実はムックの監禁場所の当たりはもうついていた。

 モルの脳裏に組織の会合が思い出された。場所はいつものようにあの廃業した印刷屋だ。皆が囲んだ台の上に街の地図が広げられている。

 幹部が言った。ムックの監禁場所がようやく特定できそうだ。場所はここだ。ライツ家の旧邸宅。ここは所有権を巡って貴族が争ったが例によって決闘試合で決着がつけられ今はボーメンのものとなっている。

 そして今現在なぜか警備の人間が多くなっているとのことだ。間違いなく誰かを監禁している証拠だ。

 警備は二十四時間態勢。見張りは所々に配備してあってとても忍び込めない。だがこのまま手をこまねいているわけにもいかない。

 アズはムックを人質にされて闘士としていいように利用されるだろう。人を集めて夜間に突入することも検討した。

 だが無理に踏み込めば多大な犠牲が出る。我々はこれからも少数精鋭で貴族と戦っていかねばならない。

 なのでそんな危険は冒せない。だがムックは孤児とはいえ間違いなくこの街の市民だ。絶対、助け出さねばならない。

 チャンスは次の決闘試合だ。その日も当然、警備はいるだろうが決闘試合はこの街の一大イベントだ。

 警備の人間も見に行きたくてうずうずしているはず。そこにいつもとは違う気の緩みが出る。踏み込むのは試合当日。

 アズには悪いが試合に出場してもらうしかない。それとモル。このことをアズには知らせてはいけない。

 まだ捜索中と言うんだ。もし教えれば血相を変えて一人で先に飛び込んでしまうかもしれない。それではムックの身が危険だ・・・。

 モルがそう回想しているとサスケの声に我に返った。

 「アズ。期日までもうギリギリだ。今日、出なければ試合に間に合わない」

 アズは頷いて家主に今夜このまま村を出ることを告げた。

 

 二人は村を出てから若い体力にものをいわせて休憩らしき休憩もせずひたすらケルラを目指した。

 そしてその甲斐があって大人の足で四日かかるところを一昼夜で踏破した。二人は街に入る前、念のため簡単な変装をした。

 誘拐犯の目がどこで光っているかわからないからだ。帽子を目深に被り町人の子弟が着るような、こざっぱりとしたシャツにズボンを穿いた。

 そしてケルラの市門をくぐると久しぶりに見る街の様子を観察した。少ししてアズは首をかしげた。

 「なんかそわそわしているっていうか街が浮ついている感じがするな」

 サスケが顎をしゃくって言った。

 「あれのせいだろ」

 アズが向けた視線の先には決闘試合を派手に宣伝する貼り紙があった。アズは近づいてそれを見た。

 「人にことわりもせず勝手に出場を決めやがって」

 「だけど依然としてムックは捕まったままだ。出るしかねえよ」

 二人は道場に急いだ。そして道場に着くとオルレアン親子に慌しくムック捜索の進捗を訊いた。

 すると親子は表情を暗くして首を横に振った。アズは溜息をつくように言った。

 「やはり出るしかなさそうだな」

 気を取り直してアレンに訊いた。

 「それで相手はどんな奴だ?」

 するとアレンは困ったように言った。

 「それがわからないんだよ。謎のベテラン闘士としか」

 「貼り紙にもそう書いてあったな」

 オルレアンに目を向けた。

 「オルレアンさんはどんな相手だかわかる?」

 オルレアンは考え込みながら言った。

 「ベテランの闘士ということはあらゆる闘いに通じているといっていいかもしれんな。剣術はもちろん棒術、組み技、拳闘・・・。まぁ、やる前から力が入っても仕方がないんだが」

 アズは頷いた。

 「確かに。あまり出たとこ勝負ってのはしたくないけど今回は仕方ない」

 試合日が来る前にムックが発見されることに淡い期待を抱いた。だがやはりそんなに都合よくいくはずがない。とうとう試合前日になった。

 

 試合当日。久しぶりの試合とあってか闘技場は盛況だった。いやそれどころか客席は押すな押すなのぎゅうぎゅう詰めで立ち見客が通路にまで溢れている。

 混乱はそこだけではない。闘技場に入りきれない多くの市民が外で不満の声を上げている。上等観覧席では貴族がゆったりと肘掛け椅子に座っていたが一般客席から聞こえてくる混乱振りに眉を潜めた。

 ボーメンは向こうに見える大看板を見て首をかしげた。一般客席の最後列上に取り付けられた木製のそれには街の貼り紙と同じような内容が描かれている。家宰に訊いた。

 「主催の建設組合理事というのは誰のことなんだ?お前が手配した者のことなんだろう」

 「はい。理事というのはコンラッド親方の棟梁仲間でして。事が露見してもこちらまで影響が及ばないよう他の街の親方に主催を頼んだとのことです」

 「うむ。それならばよい」

 その頃シュトライツも同じような質問を家宰に発していた。

 「看板にある主催者だがあれはあからさますぎやしないか?私と金融業者のマネが懇意にしていることは街の人間ならば周知の事実だ。

 ボーメンも大工の親方コンラッドと仲が良い。その繋がりから裏にいるのが我らであろうことはすぐにわかってしまう」

 家宰は困った様子で大看板を見た。

 「はぁ。確かにカンのいい者ならわかってしまいそうですね」

 「カンが良くなくったってわかりそうなものだ。もういい。今更、代えられん」

 

 アズらが闘技場内の選手控え室に行くと既にそこには何人かの男達がいた。闘士風ではない。が、いずれもがっちりとした体つきの男達である。

 その中の一際大柄な男がアズを見て横柄に言った。

 「遅かったな」

 そして品定めするようにアズの体つきを見る。

 「意外に細いな。そんな体で勝てるのか?」

 アズがこの男は誰だ?という顔で見ていると場違いなチンピラが出てきた。そして大柄を指差して言った。

 「おい、お前!親方に挨拶しろっ。このお方はな。主催者のナベア様だぞ」

 するとそれを聞いたアレンが血相を変えてナベアに詰め寄った。

 「てめえが黒幕か!?ムックはどこだ!」

 ナベアが首をかしげた。

 「ムック?誰のことを言っている」

 アレンが激昂して言った。

 「とぼけるな!てめえがさらったんだろう!」

 ナベアがやや困ったように言った。

 「何を言っているのかわからんな」

 アレンはなおも詰問しようとしたがオルレアンに止められた。そしてナベアに穏やかに訊く。

 「ちょっと訊きたいんだが。あんたはどういう経緯で今回の大会を主催をすることになったんだね?」

 ナベアは眉をひそめて言った。

 「なぜ闘士の付き添いがそんなことを訊く?」

 「知りたいんだ。教えてくれないだろうか」

 オルレアンが下出に出るように言った。

 「いいだろう。ある仲介人の男を知っておってな。その男から今回の主催を持ちかけられた。その男が言うにはまだそんなに名の売れていない闘士がいるんだが滅法、強くてそいつを後援すればいい金になると言われてな。それで乗る気になったのだ」

 オルレアンが頷いて訊いた。

 「その仲介人の名は?」

 ナベアが答えた。だがオルレアンの知らない男だった。オルレアンは続けて質問した。

 「その人は今どこに?」

 ナベアの言った場所はケルラから北に数十キロ離れた街の名だった。馬で飛ばしても最低で一週間はかかる距離だ。

 アズらは落胆した。そんな遠くにいては簡単に締め上げることはできない。オルレアンがアズらに囁いた。

 「恐らくこの男も遠くにいる仲介人も何も知らんのだろう。黒幕は自分に辿りつけないように、まず遠くにいる仲介人に依頼して主催を頼めるような男を探させた。

 この主催者は裏の事情を知らずただ金のために引き受けたというわけだ」

 アズは悔しげに呟いた。

 「くそっ。やるしかないってことかよ」

 

 試合開始近くになるとアズが本戦場の北門から姿を現した。その表情はひどく憮然としていた。アズの胸の内を知らない観客はその姿を見ただけで一斉に歓声を上げた。

 「今日も頼むぞぉ、アズゥ!」

 「おらぁ、おめぇに大金、賭けてんだぁ!負けたら承知しねえぞぉ!」

 次に観客の興味はアズの対戦相手に向けられた。謎のベールに包まれたベテラン闘士とは一体、何者なのか。

 アズもやや緊張して南門を見つめた。やがて南門通路の奥から二つの影がこちらに向かってくるのが見えた。

 程なくしてその影は通路を出て陽光のもとにさらされた。その男を見た観衆は呆気に取られた。アズも驚愕して言葉も出ない。

 それは対戦相手も同じだった。チャンとダイジの父子はアズを見て固まった。アズが呆然と言った、

 「なんてこった。謎のベテランって、チャンさんのことだったのか・・・」

 ダイジもパニックを起こしたようにチャンを見上げて何か訴えている。だがチャンは迷いを断ち切るように顔を横に振ってダイジに下がるよう促した。アズはまた呆然と呟いた。

 「チャンさんが相手かよ・・・」

 ダイジがチャンの袖を引っ張って言った。

 「父ちゃん。アズが相手だよ。どうするんだよ」

 チャンは一時、表情を暗くしたがすぐに頭を横に振って言った。

 「どうするもこうするも。やるしかあるまい。私は闘士なのだ。誰が相手でも闘う」

 「でもあのアズが相手なんだぜ!前の村で仲良くした奴だ」

 チャンは狼狽するダイジの両肩に手を置いてその目をじっと見た。

 「ダイジよ。人生とは過酷なものだ。こうしたい、こうありたいと願っても中々うまくいかん。父ちゃんだって昔は闘士として名を挙げて王都を守る騎士になりたいって願っていた。

 十数年前、己の拳一つで名をなした、あのファスという伝説の男のように。でも気がつけば怪我をしてこの有様だ。

 そして旅の途中で知り合った心の暖かい人間と闘うはめになる。本当に人生とは過酷なものなのだ。

 しかしな、ダイジ。だからといって人生を放り投げたり諦めてしまうのはもっと良くない。辛抱強く信念を持って生きていけばいいことだって必ずある。

 彼には気の毒だがこれも人生と思って闘ってもらおう」

 ダイジはしばらく向こうのアズを感情のこもった目で見ていた。するとその表情が突然、歪んだ。

 「あいつ・・・。絶対父ちゃんとは闘わないって言ってたのに嘘つきやがって」

 チャンが諭すように言った。

 「彼にも私達のようにどうしようもない理由があったのかもしれん。彼を憎んではいけない」

 「でもこの間あいつは父ちゃんとは絶対、闘わないって俺に約束したんだぜ!ちきしょう。ガキだと思って嘘つきやがって」

 「もういい。私は運命に従って闘うだけだ」

 チャンの脳裏に数日前、村で影の依頼主から提示された条件のことが思い出された。その男は頭巾を被って顔を隠していた。

 だがチャンの嗅覚はその男が警察関係者の臭いを持っていると感じた。その男は自分が依頼主のように振舞っているが男の後ろに本当の依頼主がいる。

 男は感情の篭らない声で言った。勝てば金の袋を一つ。それはこの不景気の時代に、しかも不具の闘士に対して破格の報酬といえた。

 男は手足の骨を二、三本折って二度と闘えないようにしろ、とも言った。チャンはそれを聞いてほっとした。

 こういう後ろ暗い依頼主は相手を必ず殺せと言う。殺さなくていいのならいくらか気が楽になる。だが次の瞬間、依頼主は考えを変えた。

 彼は呟くように言った。・・・いやそれでは私の気が収まらんな。あの御方はそうするだけでいいと言ったがそれでは私が収まらん。

 奴のせいで部下が何人も駄目になっている。男はチャンに向き直って言った。依頼内容を少し修正する。

 手足の骨を折るのは止めだ。命を奪え。それも最も苦痛を感じるやり方で。チャンは愕然となった。

 それに最も苦痛を与えるやり方など闘士の流儀ではない。常軌を逸している。断ろうかと考えた。すると男はチャンの迷いを察したのか言った。

 さらに銀の小袋二つ付けてやる。それならどうだ?金の袋一つに銀の小袋二つ。チャンの迷いは消えた。

 金の袋一つに銀の小袋2つ。それだけあれば市民権が買える。いやそれだけじゃない。少し金を借り足すことになるが街に道場を建てることもできる。

 道場経営がうまくいけばダイジを学校に入れて教育を受けさせることもできる。そうすることができるなら私は悪魔にだって魂を売ろう。

 チャンは暗い目で向こうに立ちつくすアズを見た。

 <4> 

 サスケはふとアズの横顔を見た。ひどく思いつめたような表情をしている。その目はじっと相手の闘士に注がれていた。

 「どうかしたのか?」

 「いや。あの闘士・・・」

 サスケはアズが対戦相手が松葉杖をついていることを懸念しているのか思った。だがどうやらそうではないらしい。

 「一体どうしたぁ?相手が気の毒だっていうんなら早く倒して勝負をつけちまえばいいじゃねえか」

 するとアズは首を横に振った。

 「そうじゃない。そうじゃないんだ・・・」

 サスケが訝しげにアズを見ると彼は苦しげに言った。

 「あの親子・・・実は知り合いなんだ」

 サスケは驚愕した。

 「なんだって!?どこで知り合ったんだ?」

 「この間の村でだ。親父は片輪なのに息子を育てるため今も無理して闘士を続けている。息子は、ダイジというんだがそんな親父を心配して早く引退させるために闘士になろうとしている。

 でも親父を見てきたから闘士が闘えなくなったら終わりだって知っている。だから続けても二十歳までだって決めていてさ。

 その歳になったら親方探して普通の職人になるのが夢だって俺に語ってくれたんだ。相手はそのダイジの父親なんだ。

 そんな人を倒せるか?それにあの体だ。いくら手加減して倒しても体に大きな負担がかかる。闘士ができなくなったらあの親子の生活はどうなる?それを考えるととても闘えねえよ・・・」

 アズは表情を重くして俯いた。サスケはそれを見て痛ましげな表情になった。だが表情を厳しくしてアズの肩を強く揺さぶった。

 「しっかりしろ、アズ!ここに上がるってことはもう生きて戻れねえかもしれない、大怪我するかもしれないって覚悟をしてきたはずだろ!

 あの闘士だってお前が心配しなくてもきっとそうしてきたはずだ。それにあの人はベテランの闘士なんだろ。

 闘士としての矜持があるはずだ。そんな人にお前、加減して闘うのか?真の闘士に対して失礼だとは思わねえのか!」

 傍で聞いていたオルレアンも静かに言った。

 「人は皆、長ずると自分や人に対して責任を持つようになる。それは覚悟を持って生きるということだ。

 そうやって生活の不安に打ち勝っていくものなんだよ。さきほどサスケ君は相手もその覚悟を持って来ているはずだと言った。

 確かにこれから彼と闘う君が彼の身を案ずるというのは野暮ってもんだよ」

 アレンが申し訳無さそうに言った。

 「あんたと相手がわけありってのはわかったよ。でもそれでもやって欲しいんだ。本当なら俺がなんとかしなきゃならないんだけど俺じゃどうにもならない。

 ムックの命がかかっているんだよ・・・」

 アズはそれを聞くとはっとなった。

 

 シルクハットに燕尾服を着た小太りの男がステッキを持って本戦場の真ん中に出てきた。帽子を取って四方の観客に一礼する。そして小男の割にはよく通る声で言った。

 「紳士織女の皆様!本日はお忙しい中お集まりいただきまして本当にありがとうございます!」

 観衆の中から野次が飛んだ。

 「俺達のどこが紳士淑女だって言うんだ、このアンポンタン!」

 すると別の野次も聞こえた。

 「まったくだ。おめえらときたら肥溜めの家に住む便所掃除人だろう!」

 「うるせぇ!そういうてめえは男娼か!」

 「なにをっ!」

 客席の一角で騒動が起こる。小男がステッキを振って言った。

 「あ~。ご静粛に、ご静粛にお願いします。これより本日のメインイベントを行います!え~。北門前に立つはケルラから彗星のごとく現れた新鋭、どんな強敵にも武器は使わない。

 無敵の拳を持つ男。神も悪魔も恐れない最強の十九歳。アァァァ~、ズゥゥゥ~!」

 観衆がわっと沸き立った。すると客席の一角から驚愕の声が聞こえた。

 「あいつ、まだ十九歳だったのか」

 「童顔なだけかと思っていたら本当にまだ未成年だったんだ」

 歓声が収まると小男は次にステッキをチャンに向けた。

 「続きまして南門前に立つは歴戦の勇士。百戦百勝。あまりにも強いので猛獣を相手にさせられた不遇の戦士。

 彼に傷を負わせたのは人間ではなく人食いの獣だ!ご存知、さすらいの闘士チャァァァ、ン~ッ!」

 観客席からは散発的に拍手が起こっただけだった。観客の呟きが聞こえる。

 「どこがご存知なんだよ?あいつを誰も知らねえぞ」

 「人食いの獣って。本当に闘士が退治したのかよ?」

 「あいつ、大丈夫か。松葉杖ついて。病人が闘えるのかよ?」

 小男がアズらとチャンらを中央まで手招きした。二人の闘士が来ると小男は真面目な顔つきで言った。

 「いいか。規則に従って公正に闘うんだぞ・・・とはいってもここだけの話だが盛り上がるようなら多少、汚い手も見逃す。

 観客が盛り上がるんなら、だぞ?観客が怒るようなら止めとけよ」

 アズは呆れて自分の胸までしかない小男を見下ろした。試合前、大会運営関係者に規則を口頭で教えられた。

 細かい条項が多くて閉口した。その時はそんなの、一度に憶えられねえよと思った。だが試合が盛り上がれば規則なぞ関係ないという。

 いい加減なものだ。アズは憂いを帯びた顔でチャンを見た。

 「チャンさん・・・」

 するとチャンはニコッと笑って言った。

 「こうなってはもうどうしようもない。お互い全力で闘おうじゃないか」

 すると小男が拳を振り上げて怒った。

 「こら!お前ら仲良くするな!これから闘おうってんだぞ!にらみ合え!口汚く罵り合え!」

 その時チャンの傍でこちらを睨んでいるダイジが目に入った。ダイジは腹の底から声を絞り出すように言った。

 「嘘つきめ・・・あんた、俺に言ったよな。父ちゃんとは闘わないって。街の人間は二枚舌っていうけどあんたは違うと思ってた。騙しやがって」

 アズはそれは違うんだ、と言おうとした。だがダイジはアズを拒絶するようにすぐに背を向けた。アズはその背に手を伸ばしかけたがすぐに引っ込めた。

 サスケが心配したようにアズの横顔を見た。

 「大丈夫か。アズ?」

 「ああ。わかってもらえるはずないよな。こんなところで」

 

 北門前まで戻ると上着を脱いでサスケに渡した。シャツとズボン姿という身軽な格好になってチェックするように体を入念に動かす。

 しばらくして異常がないとわかると振り返った。チャンはアズより早く準備が終わったらしく既に中央で待っていた。

 その姿はいつもと変わらず両脇に松葉杖をついている。観客のざわめきが聞こえる。あれでまともに闘えるのかと訝っているのだろう。

 アズも先日の闘いを見ていなければそう首をかしげたことだろう。だが二つの杖で器用に移動して時にはそれを武器にして闘えることを知っている。

 これまで見たことも聞いた事もない闘い方をする相手だ。油断は禁物だった。アズは意を決して中央まで歩いていった。

 小男が高らかに試合開始を告げた。観客がわっと沸いた。チャンとの距離は十メートルほど。アズはまだ苦渋の表情を浮かべていたがチャンはすべての迷いを断ち切ったように穏やかな表情をしていた。

 やがてアズが意を決したように動き出した。左に回るとチャンもアズに合わせて体の正面を向ける。

 チャンの松葉杖による歩行は健常者に比べるとややぎこちないものの、バランスは良かった。以前、見たチャンの闘いぶりはまさに信じられないものだった。

 杖を手足のように使って相手の攻撃を受けてかわし突き殴って倒した。それはとても力強く敏捷な動きだった。

 ダイジのことがある。傷つけずに勝つにはどうしたらいいのか。戦力分析するようにチャンの全身を見た。

 少しして思った。やはり杖か。チャンの攻防の要となっているのは杖だ。あれを奪ってしまえばチャンは何もできない。

 チャンを人前で辱めることになるが怪我を負わせるよりもいいだろう。アズはそうと決めると足を止めてチャンを見た。

 チャンも同じようにアズを見る。だらりと両脇に垂らした腕を僅かに上げて構える。いくぜ、チャンさん。

 アズは猛然と走って距離を詰めた。観客がわっと沸く。チャンに動きはない。なぜ迎え撃とうとしないんだ、チャンさん?

 それは後三、四歩で間合いに入るという時だった。地面についていた二つの松葉杖が不意に跳ね上がった。

 だが杖はまだアズに届かない。何をやっている?いや届いたものがあった。杖の先端が地面の砂を跳ね上げてそれがアズの顔面を襲ったのだ。

 「うっ!?」

 両腕を上げてなんとか防御した。砂が腕に当たるのと同時に視界を塞いでいた腕を下げた。

 「なっ!?」

 愕然となった。チャンが猛然と疾走していた。距離が一気に詰められる。速い。不具の人間の動きではない。

 チャンは間合いに入るや左杖を振り上げた。来る!上段からの振り下ろし。鋭い。まるで剣の斬り下ろしのようだ。

 その左杖を右腕で弾いた。右手首がやや痺れた。だがこれならすぐ回復する。チャンは左腕を車輪のように回転させて杖を連打してくる。

 「くっ!?」

 アズは手首を擦りながら速い足さばきで後退した。チャンは地面についた右杖を器用に動かして追撃してくる。

 杖は丈夫な材木で作られていて振り下ろされる速度は本職の剣士なみに速くて鋭い。だがそれを弾いた時の衝撃は軽く充分さばけると思った。

 連打をかわしていてふと胸に疑念が湧いた。いくら鄙びた村の闘士を相手にしてきたといっても中にはとんでもない強豪が隠れていたりする。

 こんなんでよく闘ってこられたなと思う。杖の軽い打撃は筋肉の厚い相手なら通用しなかっただろう。

 また動きの速い闘士なら易々とかわされている。本当に実力はこの程度なのか?ようやく手首の痺れがとれてきた。

 よし。試してみるか。足を止めた。襲ってくる杖を払って左拳を軽く飛ばした。するとチャンは即座に狼狽して、わわっ!?と後ずさった。

 始まってまだ間もないというのに汗をびっしょりかいている。もう体力が切れてきたのか?手足も震えているように見える。

 強い緊張を感じている証拠だ。なんなんだ、この人は。これでまだ闘えるのか?疑念に首をかしげながらもう一度、軽く突こうと前に出た。

 その時だった。怯んだように見えていたチャンの目がきらりと光った。そしてアズの前進と同時に後方に引いていた右杖を鋭く水平に振ってきた。

 これまでの攻撃とは次元の違う、刃のような鋭さに目を見張った。だが杖の攻撃は軽い。叩き払ってやろう。

 だがその時、頭の中に警報が鳴った。全身に緊張が走る。なんだ!?なんかヤバい!左横に振られてきた右杖を右手に飛んでかわした。

 間一髪だった。全身からどっと冷や汗が吹き出る。チャンはアズに避けられて、よろよろと体を泳がせる。

 なぜこんな攻撃に危険を感じたんだ?この人は満足に杖さえ振れないじゃないか。アズは気を取り直して今度は様子見の右下段蹴りを放ってみることにした。

 下段への蹴りなら一番遠い間合いからだから突きのように最接近する危険はない。様子見だったため当たりは浅かった。

 だがチャンは狼狽した。そのため下段蹴りを続けた。するとくらったことのない攻撃だったのかチャンは狼狽して後退する。

 観客やサスケらはアズが優勢だと思って歓声を上げた。だが攻撃しているにも関らずアズの顔色は冴えない。

 蹴りが直撃しないのだ。意図的なのかどうかチャンのよろよろとした後退は蹴りを狙いづらくしている。

 チャンは両方の杖を使って必死に移動していたがやはり前進より後退のほうが苦手のようだ。その時、蹴りが右の杖をかすった。

 チャンはそれでバランスを崩しそうになる。それを見たサスケらは歓声を上げた。

 「やった!今だ!やっちまえ、アズ!」

 だがアズは追撃せずそれどころか呆然となっている。サスケらはそれを見て訝った。

 「どうしたんだ、アズの奴?」

 その時アズの爪先はじーんと痺れていた。チャンの杖を蹴った足だ。痺れたのは硬く重い物を蹴った証拠。

 チャンの右の杖には鉛が仕込まれている!?恐らく左の軽い杖の攻撃で相手になんでもないように思わせて油断したところに鉛入りの右の杖で相手を粉砕する作戦だったのだ。

 アズが愕然と杖を見ているとチャンが静かに言った。

 「どうやらバレてしまったようだね」

 アズがチャンの顔を見るとチャンは苦しげな表情をしていた。

 「でもわかってくれないか。私だってこんな卑劣な手は使いたくはない。でもこの体だ。こうでもしなきゃ勝てないんだ。ダイジを養っていけないんだ」

 アズは思わずチャンの肩越しにその後方のダイジを見てしまった。必死な表情でチャンの背を見ている。

 俺がこの人を倒したらダイジはどうなる・・・。その時オルレアンの厳しい声がした。

 「相手に集中しろ、アズ!余計なことは考えるな!」

 はっとなった。その時チャンが襲い掛かってきた。

 「頼む!ダイジのためだ!ダイジの将来のために私に勝ちを譲ってくれ!」

 杖を振り回してくる。これは軽い左の杖。右の杖は体の後ろに隠している。それはいつ襲ってくるのかわからない。

 「私だって辛いんだ。君と闘うのが。でも仕方がないんだ。ダイジの将来のことを考えたら!」

 ダイジの将来。チャンは予想以上に手強い。怪我をさせずに勝つのは無理だ。だがチャンが新たに怪我をすれば闘士を廃業するしかなくなる。

 それは親子を路頭に迷わせる結果になる。

 「ボケっとしてんじゃねーっ!」

 サスケの声。はっと顔を上げて愕然となった。右の杖。いつの間に!?早く避けろ!いや駄目だ、間に合わない!咄嗟に後方に倒れるように飛んだ。

 「痛っ!?」

 右腕に鈍痛。水平に振られた杖が体の前を通過していく。アズはすぐに立ち上がって次の攻撃に備えた。

 だがその時、右腕にズキンという激痛が走った。かわしきれず右腕に僅かだが当たったようだ。顔を歪めて痛みに耐えていると冷徹な声が聞こえた。

 「その様子じゃ、もう閃光拳とやらは打てないね」

 閃光拳を知っているのか!?アズは愕然とチャンを見た。

 <5>

 チャンは作戦を変えてきたようだ。左杖からの攻撃は同じだが狙いを胸部や腹部から殴打に最も弱い頭部に変えた。

 いくら左の杖が軽くても頑丈な材質でできている。頭にまともに入れば少なくないダメージを負う。そしてそこに満を持してとどめの右の杖が振り下ろされるのは火を見るより明らかだ。

 チャンは執拗に左の杖を振り回して側頭部、頭頂、目、喉を狙う。杖は軽いだけに速くて鋭い。目や喉をかするように通過していった時はひやっとした。そして次第に痛みが増す右腕。

 「どうした、どうした!防御だけでは私には勝てないぞ!」

 チャンが挑発する。痛む腕で襲ってくる杖を叩き落した。途端に腕がずきん、と痛む。

 「ううう・・・」

 「君がこんなに弱い男だとは思わなかった。ダイジは君を買いかぶりすぎていたようだ」

 チャンがいかにも落胆した様子で言う。それを聞いたアズの表情に怒気が浮かんだ。

 「舐めるなっ!」

 振られてきた左杖を前に出した左手で下に払い落とすとすかさず前に出た。そして引いておいた右拳で中段突きを見舞おうとした。その時オルレアンの叫び声が聞こえた。

 「いけないっ!」

 それを聞いて突きに躊躇いが生じた。なんだ!?なぜ止める?その疑念は一瞬で解けた。アズの突撃と同時に右の杖が水平に振られてきたからだ。

 躊躇いが生じたお陰でそれをなんとかかわすことができた。チャンは一瞬、悔しげな表情をみせたがすぐ笑みを浮かべて言った。

 「オルレアン殿か。いい参謀をつけたね」

 閃光拳のことだけではない。オルレアンさんのことまで知っている。チャンは闘いが決まってすぐアズのことを詳細に調べたようだ。

 右の仕込み杖といい、こちらの武術や陣営を知っていたことといい、やはりチャンは一筋縄ではいかない相手のようだ。

 アズはチャンを見直した。手強い上に対策を立てて来ている。ベテランとなるとこうも用心深くなるものなのか。

 いや足を失ったチャンだからこそなのか。ダイジのことはひとまず置いておこう。でないとこちらがやられてしまう。

 まずは右の仕込み杖をなんとかしなくては。アズは息を整えてチャンを見据えた。それを見たチャンの表情が変わった。

 これまでどこか消極的だったアズの全身からどっと闘気が満ち始めたからだ。まずいと思った。閃光拳のことやオルレアンのことを明かしたのはまずかったようだ。

 相手が好感を持つ見知った相手のせいかつい口を滑らせてしまった。だがここは冷徹にならなければならない。

 この試合には自分達親子の未来がかかっているのだ。チャンは再び左の杖でアズの頭部を狙った。

 アズが嫌がり杖を払う。だがチャンは執拗に狙った。突く。振る。振る。振る。突く。その時アズが体勢を崩した。

 一瞬、不自然な崩れ方だと頭をよぎった。だが心が急いて後方に引いた右杖を振った。するとそれを見たアズが一瞬で体勢を立て直した。

 そして体勢を低くして突っ込んでくる。振った杖よりさらに低い。咄嗟に杖を軌道修正した。だがそのため勢いが弱くなった。

 容易くアズに腕で跳ね上げられてしまった。右の杖が宙に吹っ飛んだ。アズはさらに踏み込んでくる。

 まずい!咄嗟に杖を失った右手で拳を作りそれでアズの頬を殴った。アズは不意をつかれたようで数歩、後ろに下がった。

 アズの口脇から血が一筋、垂れた。アズはそれを拭って言った。

 「なんだ。結構、強い打撃ができるんだな、チャンさん」

 チャンは体勢を立て直して言った。

 「偶然だよ。今のは危なかった」

 ちらっと後方を見た。仕込み杖は随分、遠くに落ちている。取りに行かせてはくれないだろう。アズはチャンが左の杖一本だけで身を支えるのを見てかなり優勢になったと思った。

 もう杖の攻撃はないだろう。左の杖は身を支えるのに絶対、地から離せないからだ。となると右側の突きや蹴りだがこれまでの闘いからそれほど警戒する必要はなさそうだ。

 だが本能が未だ危険を感じていた。なんだろう?何が気になっているんだ?とりあえず様子を見るようにチャンの周囲を回った。

 その時ふとチャンの肩越しにダイジの顔が見えた。ダイジは緊張した面持ちだがどこか余裕が感じられる。

 なぜだ?チャンは必殺の仕込み杖を失って大ピンチだというのに。だがすぐぴんと来た。ということはチャンはまだ何かを隠し持っているということだ。

 アズは警戒のあまり中々、踏み込めなかった。チャンはじっと目でアズの動きを追っている。やがてその展開に焦れたのか観客から野次が飛んだ。

 「てめえら、なにチンタラやっているんだ!」

 「男同士で見合っているんじゃねえぞ!」

 それを聞いた小男があたふたと二人に近寄ってきて言った。

 「おい!お前ら、早く闘わないか!」

 だが二人は見合ったまま互いに近づこうとはしない。いやこの場合チャンは足がきかないのでアズのほうから仕掛けるべきなのか。

 アズはチャンの全身を目でチェックしていった。なんだ?何を隠している?だがいくら考えてもわからなかった。

 いや考えれば考えるほど色々な可能性が浮かんで迷ってしまう。

 「ええいっ。ままよ!」

 アズが迷いを振り切るように突っ込んだ。右腕は痛むが我慢すればなんとか打てる。身を低くして突っ込んだ。

 その時、気づいた。チャンはいつの間にか左杖を体の後ろに隠している。どういうつもりだ?いつでも受け止められるように構えながら走った。

 その時ちょうどチャンの背を見る角度にいたサスケは見た。チャンの後ろに回された左杖の先端が鞘のように抜かれ細い抜き身が現れたのを。サスケは蒼白になって叫んだ。

 「アズっ!危ない!」

 だがその時アズは既にチャンの間合いの中に入ってしまっていた。

 「もらった!」

 縦に弧を描いた杖がアズの頭上に振り下ろされた。その時アズは頭上から銀光が落ちてくるのを見た。

 なんだ、あの光は?それはまるで蛇蝎のような凶悪な光だった。あれに喰らいつかれたら命が危ない!

 いつもなら拳で迎撃していただろう。だがこの時は右腕に激痛があり満足に腕を伸ばせない状態だった。

 それがアズの命を救った。天辺から落ちてくる銀光を両手で挟み込んで受けるとすかさず左に捻って落とした。

 チャンはそれに巻き込まれて回転し背中から地に落ちた。それを見て会場がわっと湧いた。チャンは呆然と天を見つめている。

 アズも一時、呆然となったが両手に挟まれたままになっている杖を見てはっとなった。杖の先端十五センチほどがいつの間にか抜き身に変わっている。

 左の杖も仕込みだったのか!危ないところだった。だがもう武器はないはず。チャンを見ようとした。

 途端に顔面に風圧を感じた。なんだ!?だが鍛え抜かれた体が先に反応した。左手でそれを内側に払った。

 右拳を払われたチャンがたたらを踏む。だがすぐにチャンは両拳を顔の横に置いて構える。アズはそれを見て驚いた。チャンさんが自分の両足で立っている!?

 「チャンさん、歩けるのか!」

 チャンは油断なく構えながらアズの周囲を回った。杖はついていない。

 「私ほど体がボロボロだと相手を欺かなくてはやっていけないのだ。汚い、卑怯者と罵ってくれても構わん」

 チャンは上体を揺らしながら頭から突っ込んできた。その動きは無駄がなくシャープだった。アズは慄然と思った。

 チャンさんは拳闘を使う。しかも達者だ。すぐさま両腕で顔面を防御した。チャンは右拳で顔面を打つと見せかけて左拳でアズの腹部を突き上げた。

 当たる瞬間、腹筋を引き締めたものの、強烈な衝撃が襲ってきた。

 「くそっ!」

 アズが左拳で突いた。だが難なくかわされた。

 「君は右腕を痛めている。だから右からの攻撃はあっても遅い。気をつけるべきは左からの攻撃だ」

 チャンは再びアズの懐に潜り込むと電光石火で左右の拳をアズの腹部に叩き込んだ。アズが呻き声を漏らした。

 腹部も鍛えてあるので今はなんとか耐えられる。だがこのままくらい続ければダメージは蓄積する。早くなんとかしないとジリ貧になって動けなくなる。

 アズは懐からチャンを突き放すべく左拳を小刻みにチャンに打ち込んだ。動作が小さいので威力もたいしたことはない。

 だがアズの拳は鋼鉄のように硬い。その拳がチャンの防御した腕に立て続けに打ち込まれるとチャンは苦痛に顔を歪ませて後退した。

 チャンは距離を取ってから自分の両腕を痛そうにチェックした。

 「なんという硬さなのだ、君の拳は。まるで岩のようだ。だが・・・」

 チャンが再び拳闘の形になった。

 「それも計算の内に入れれば脅威ではなくなる!」 

 その時アズは躊躇いを感じていた。チャンさんは俺の武術を正しく理解していない。俺の武術を拳を鍛えただけの拳闘だと思っている。

 だがそうじゃない。そうじゃないんだよ、チャンさん。俺には拳闘にはない技がいくつもある。だがそれを使うとチャンさんは本当に不具になってしまうかもしれない。

 そうなったらダイジは・・・。チャンは顔面を防御してるが拳を作らず接近してきた。拳を作るとどうしても腕に力が入る。

 力が入ればアズの速い左拳をさばくのは難しい。だから掌のままなのだ。アズは痛ましい表情でそれを見た。

 あんたは俺の左にばかり気を取られているが俺の武器は拳だけじゃないんだよ・・・。アズの語りかけるような表情にチャンは気づかなかった。

 ひたすら相手の攻撃を避けるのに意識を集中している。チャンは思った。拳の起こりを見れば必ずかわせる。

 彼は左拳しか使えないがこちらは両方とも揃っている。左をかわしさえすればめった打ちにできる。

 そしてアズの左拳が来た。見える!やはり集中していれば避けられる!その拳をかいくぐった。拳が引き戻される前に懐に潜る。

 勝った!そう思った。その時だった。左膝に凄まじい衝撃を感じた。がくんと身が沈んで立っていられなくなった。なんだ!?何が起こった!


 ダイジが涙目を浮かべて叫んだ。

 「父ちゃん!」

 チャンはダイジを見た。ああ、大丈夫だとも。試合に勝って市民権を手に入れて街に道場を建てればこんな苦しい生活をせずにすむ。

 お前を学校に入れて教育を受けさせて、それで・・・。はっと気づいた。いつの間にか自分は両膝を地についている。

 見上げれば痛ましげなアズの目とぶつかった。相手とこんな近い距離にいる。危ない。急いで立ち上がろうとした。

 だが左足が動かない。なぜだ!?その時アズが悲しげに言った。

 「なぜ倒れたかわからないんだろ。俺があんたの足を蹴ったんだよ」

 蹴った?蹴るといってもチャンの想像する蹴り技は相手を倒すものではなく相手のバランスを崩したり突き放すくらいのものである。

 それが戦闘不能にさせるほどの蹴りを放てるというのか。

 「あんたは知らないだろうが俺の蹴りは相手を昏倒させることができる。打ちどころが悪ければ死ぬかもしれない。そういう蹴りなんだよ」

 それでは拳並の殺傷力があるということではないか!?

 「父ちゃん!」

 ダイジの、案じる声がまた聞こえた。そうだ。ダイジのために稼がねばならならい。負けるわけにはいかないのだ。

 「ぬうううっ!」

 チャンは力の入らない左膝をかばって立ち上がろうとした。だがうまくバランスが取れず転んだ。そして何度か転んだ後ようやく立ち上がれた。アズが痛ましげにチャンを見つめている。

 「チャンさん・・・」

 チャンは左膝の激痛に歪む顔を無理に笑わせて言った。

 「これは天罰かな。不具のふりをして対戦相手を騙してきた。そして最後に本当に歩けなくなった。やはり天罰かな」

 チャンが右手を差し出した。

 「さすがにこれは私の負けだな。もう闘えない。だが最後の相手が君で良かった」

 「チャンさん・・・」

 「君のような強敵に負けたんだ。ダイジもきっと私を許してくれるだろう」

 アズが差し出されたチャンの右手を握った。その時だった。いきなりその手が強く引かれアズはチャンの懐に引き寄せられた。

 「なっ!?なにをする!」

 頭上で声が聞こえた。

 「度々すまんがさっきの降参は嘘だ。この勝負。私はダイジのために絶対、負けられんのだ」

 「何を言っているんだ!?その足で何ができる!」

 アズが体を離そうとした。だがチャンにのしかかるようにして抱きすくめられているので離せなかった。

 足まで絡めている。ここまで密着されると突き放すのは難しい。こうなったらチャンが動くのを待つしかない。

 その時スペースを見つけてすかさず突き放す。それまで無駄なあがきは止めた。チャンが静かに言った。

 「これだけ接近していれば突くことも蹴ることも出来ない。だが攻撃出来ないのは私も同じこと。そう思っているね?」

 アズはチャンの落ち着き払った声に訝った。彼は降参しないと言った。ということはまだこちらを攻略できる何かを残しているということだ。何があるんだ?

 「・・・先日あの村で私の闘いぶりを君に見られてしまった。だから君との試合が決まった時、不安になった。

 だが君はこうしてなんの警戒もなく私の放った網の中にいる。油断したね」

 チャンさんは何を言っているんだ?訝った時、足をかけられて倒された。地に背中をしたたかに打ち付けて顔をしかめた。

 そして見上げるとチャンが馬乗りになってこちらを見下ろしていた。

 「あの村の試合で私はどうやって勝ったか憶えているかね?」

 はっとなった。チャンが最後に使った技。それは・・・。その時チャンがのけぞった。アズは慄然となった。

 やっぱり!あの技が来る!のけぞった後チャンは凄い勢いで上体をアズめがけて振り下ろした。

 「うわっ!?」

 咄嗟にアズは頭を横にずらした。そのお陰でなんとかその打撃を免れた。頭のすぐ隣でボコッという破壊音が聞こえた。

 恐らく衝撃で地面が陥没したのだろう。それは強烈な頭突きだった。チャンの、村での対戦相手はこの頭突きで倒されたのだ。

 これが奥の手というわけか。アズは逃れようとした。だがチャンの両手がアズの両肩をがっちりと上から押さえつけていて動けない。

 「既に君は私の奥の手を見ていた。それなのに容易に掴まった。最後の最後で君はしくじったのだよ」

 チャンがのけぞった。また頭突きが来る!今度は逆に避けた。頭を上げたチャンが少し苛立ったように言った。

 「しぶといな。もう観念しなさい」

 アズは強い危機感の中で思った。こうなったらこっちも頭で受けてやるか!?頭突きなら俺だって多少の自信はある。

 故郷のムッチ村で古木相手に頭突きの訓練をしたことが思い起こされる。だがその時、直感が走った。

 駄目だ。何かヤバい。だがなぜだ?鍛えた頭同士だ。そんなに差はないはずだ。そう考えているとまた頭突きが来た。

 今度は狙いすました避けづらいものだった。アズは必死にのけぞり、もがいた。そのお陰でその時もなんとか直撃を免れた。

 だが頭突きが右肩の端に当たり激痛で息が止まった。

 「むううう・・・」

 痛みの中でさっきの疑念が解けた。直感が告げていたのはこれだったんだ。アズはチャンの帽子を見上げた。

 当てられてわかった。あの中にも鉛が仕込まれている。鉛入りの頭突きだったのだ。チャンが憐れんだ顔で言った。

 「小刻みに頭突きして動けなくさせておいて、それからとどめを刺すこともできる。だがそれじゃあ可哀想だ。

 君はダイジによくしてくれた。痛みが一回で終わるようにしたい。どうかもう抵抗しないでくれ」

 くそっ。勝手なこと言いやがって。だがどうする?この体勢になった以上ジリ貧だ。チャンがのけぞった。

 来る!そしてチャンの頭が振り下ろされた。アズは愕然と思った。凄い勢いだ。これをくらったら鉛の硬さもあって確実に死ぬ。

 その時ふと思った。凄い勢い?それだっ。アズは足を畳むと足の裏をチャンの腹に当てた。そしてチャンがのしかかってきた力を利用して足を跳ね上げた。

 「うおっ!?」

 チャンは前方に吹っ飛んだ。そして受身を取りきれず地面に頭から突っ込んで転がっていった。この時、帽子も取れてチャンから離れた。

 アズは安堵の息をついて立ち上がった。馬乗りの体勢から逃れてしまえば一安心だ。チャンを見ると彼もちょうど立ち上がるところだった。

 そしてその右手には抜き身の杖が握られていた。吹っ飛んだところにちょうど杖があったか。チャンは左足を引きずりながらこちらにやってくる。

 帽子の取れた頭から血が滴っている。必死な表情で目だけがギラギラと輝いていた。痛々しかった。

 その余裕のなくなった表情から察するにもう隠し持っているものはない。だが闘志だけは衰えていなかった。

 アズは思った。希望がなくても絶対、諦めない。見事という他なかった。ならばこちらも最大の敬意を払うべきだ。アズの表情が変わるのを見てチャンの足も止まった。

 「私の右足も叩き折る気かね?だがそうするより前にこの仕込み杖が君の足を斬る」

 アズが静かに言った。

 「チャンさん。こんな時にこんなことを言うのはなんだけど本当に俺はあんたを敬服しているんだ。相手を舐めちゃいけない。

 油断しちゃいけない。得意技を軽々しく相手に教えちゃいけない。あんたには色々、教わった気がする」

 チャンは訝しげな表情になった。

 「もう蹴りなんか打たない。次の攻撃はあんたに対する俺の最大の敬意だ」

 アズは腰を落として両拳を引き、静かに呼吸を始めた。チャンはそれを見てぴんと来た。あの決意に満ちた表情。

 最大の敬意といった彼の言葉。恐らく閃光拳とやらを打つ気なのだろう。だが彼の利き腕は負傷している。

 満足な攻撃はできないはずだ。負傷した腕で無理に全力を出せば傷が悪化する恐れがある。二度と全力の攻撃は打てなくなるかもしれないのだ。

 それでも彼は打つというのか。チャンはアズに感服の念を抱いた。見事な決意という他ない。ならばこちらも全力で応えるべきだろう。

 もう小細工は無しだ。チャンはこの試合で初めて闘志を露にし抜き身の杖を正眼に構えた。二人が構えたまま動かなくなるとそれまでひどく騒いでいた客席がしーんと静まり返った。

 二人のただならぬ雰囲気に何か凄いことが起こりそうだと察したのだ。チャンの背中を見るダイジの表情には信頼があった。

 大丈夫。父ちゃんならやってくれる。いかにあいつが強くても父ちゃんが負けるはずがない。約束したんだ。

 二人で街に道場を建てるって。北門傍で見ていたサスケもアズが閃光拳を放つ気だとわかった。チャンのことはたいした相手じゃないと思った。

 だがそれはとんでもない間違いだとすぐ気づかされた。長年、闘士をやっている。隠し持っていた技は多かった。

 それにやられてもやられても闘志はまったく衰えない。これが信念を持ち家族を背負っている男の強さなのか。

 だがアズよ。おめえだって負けていねえぜ。お袋さんの愛。俺っちとの友情。そして親父さんへの複雑な想い。

 おめえだって色々なものを背負っているじゃねえか。相手にちっとも負けてねぇ。その想いを抱いて行けっ、アズよ。

 チャンは用心してアズをチェックした。引いた右腕に僅かな震え。やはり利き腕のダメージは深い。

 勝てる!チャンはアズ目掛けて走った。左足をかばった足運びだがなんとか走れる。走りながら杖の切っ先をアズに向けて引いた。

 アズはそれを見て思った。突いてくる気だ!チャンさんはこちらの届かない、自分の最も遠い間合いから突く気のようだ。

 武器を持つチャンと持たない自分では間合いは不利。さらにこちらの右腕は満足に伸ばせない。だけど・・・。

 チャンは猛然と距離を詰めてきた。アズは動かない。それを見てチャンは訝った。こちらの意図に気づいたはずなのに。

 まさかこのままやられるつもりか?いや彼は最後まで勝負を諦めない。ならなぜ動かない?疑念が頭を掠めた。

 だが体はもう突っ走ってしまっている。ここで迷って動きを止めるのはむしろ危険。このまま行くぞ!

 そしてとうとう間合いに入った。一番遠い間合い。彼が同時に攻撃を繰り出してもそれは届かない。

 チャンは前の右足を強く踏みしめて抜き身を突き出した。途端に後ろ足に激痛が走って腰が砕けそうになる。

 なんとかこらえた。行けーっ!切っ先がアズのみぞおちに向かって走る。みぞおちは面積が大きいので避けるのには大きな動きが必要だ。

 だがそれももう間に合わない。勝った!そう思った。その時アズの身が開き半身になった。そして間髪いれず左拳がぐんっと急速に伸びてきた。

 なにっ!?閃光拳とやらは左拳でも打てるのか!抜き身はそのままアズの胸前を駆け抜ける。そして入れ替わるようにしてアズの左拳が顔面に迫ってきた。

 拳は光っているように見えた。急速に光が拡大し眩しさに目を開けていられなくなる。そうか。このせいで閃光拳というのか。

 光がぱっと弾けるのと同時に顔面が何か凄い衝撃が走った。ふと気づくと体が宙に浮いていた。青空が見えた。

 このままどこかに飛んで行きたいと思った。もちろんダイジと一緒に。少しして背中に固い衝撃が走った。

 どうやら地面に落ちたようだ。もう体に何も感じない。あれほど喧しかった場内の音も聞こえない。ただ目には青い空が映っているだけだ。

 ああ、疲れた。もう長いこと闘っている。疲れたよ。いつまでもこうしていたい・・・。急に視界が翳った。

 ダイジが泣きそうな顔で覗き込んでいた。お前はなんでそんなに悲しそうな顔をしているんだ?私が傍にいるのに。そうとも。これからもずっと・・・。

 <6>

 アズは痛む右腕を押さえてチャンの傍に膝をついた。そしてチャンにすがり付いて号泣するダイジをどかして脈を確かめた。

 ほっとした。弱いがちゃんとあった。振り向いて向こうにいるオルレアンに言った。

 「医者を呼んでくれ!」

 オルレアンは頷いて会場の外に出て行った。アズが号泣するダイジに優しく言った。

 「大丈夫だ。死にはしない」

 ダイジは、えっ?と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。アズはまた優しく言った。

 「それに足も折れていない。加減して蹴ったからな。尤も試合の最中はチャンさんにさも折ったように言ったけど。

 でもそれくらいの嘘、言ってもいいだろ?俺だって散々、騙されたんだからな」

 アズはいらずらっぽく笑って言った。ダイジは信じられないといった表情でアズを見、それから父を見下ろした。

 「じゃ、じゃあ・・・」

 「ああ。また闘技場に立てる」

 その時オルレアンに伴われて医者がやってきた。そして慌しくチャンを診察する。アズも心配そうに見ていると誰かが腕を取った。

 見ると小男だった。小男はアズを本戦場中央まで引っ張って行くと宣言するように言った。

 「勝者。アズーーーっ!」

 会場がわっと沸いた。サスケが近寄ってきた。

 「腕の状態はどうだ、アズ?」

 「ああ。痛いけど大事には至らないと思う」

 アズがチャンらのほうを振り返った。サスケも隣に並んでそちらを見る。

 「・・・強敵だったな」

 「ああ。あの人は間違いなく強敵だった」

 少ししてサスケがアズの肩を抱いて帰ろうとした。その背にダイジの声が飛んだ。

 「やい、待て!アズ!」

 振り返るとダイジがこちらに指を刺して言った。

 「よくも父ちゃんをやっつけたな!憶えとけよ。父ちゃんの代わりにいつか俺がやっつけてやるからな!」

 アズは一瞬、表情を暗くしたがすぐ微笑んだ。言葉とは裏腹にダイジの表情は晴れやかなものだったからだ。

 「ああ。早く一人前になれ。そしたら相手になってやる」

 ダイジが笑って親指を立てた。アズも笑ってそれを返した。アズら一行は引き返して向こうの北門に入った。

 するとオルレアンだけがその手前で立ち止まり振り返った。その視線の先にはチャンがいた。北門内に入りかけたアレンがそれを気づいて声をかけた。

 「どうしたの、父ちゃん?」

 オルレアンがぼそっと呟いた。だがアレンにそれは聞こえなかったらしく彼は訝しげに父を見て帰ろうと促した。

 オルレアンはそれでも動かなかったがやがて頭を振ってアレンの元に足を向けた。歩きながらオルレアンはさっき呟いたことと同じ呟きを漏らした。

 「あの男は子供を抱えながらあの歳になってもまだ闘っている。それに引き換え私ときたら。たった一度の敗北で絶望し酒に溺れた。

 剣士としての矜持はどこに行った?今の私は亡き妻に向ける顔はあるか?そしてアレンに対しては・・・」

 

 上等観覧席ではシュトライツが苦虫を噛み潰した表情で腕を組んでいた。その隣のブースではボーメンがこれ以上ないくらい頬を緩めている。

 その後ろでは彼の家宰も同じ表情をしていた。家宰がシュトライツを見てそっと主人に囁いた。

 「大勝利おめでとうございます。お館様」

 「これ、これ。こんなところで何を言う。控えないか」

 そう言ったボーメンだが頬の緩みは隠しきれない。家宰がまた囁いた。

 「これで当家の台所もかなり楽になります。シュトライツ様様でございます」

 「うむ。最初はヒヤヒヤしたが大金を賭けたのは正解であった。これでシュトライツの家運も・・・くくく」

 その時シュトライツが立ち上がってバルコニーに出た。そして振り返って観衆に言った。

 「これはイカサマだ!闘士の力量に差がありすぎるのがおかしい!」

 観衆は何事だとシュトライツを見た。ボーメンは蒼白になってシュトライツに言った。

 「ば、馬鹿者!何を乱心しておるか!」

 シュトライツは観衆に訴えるように両手を広げて言った。

 「考えてもみろ!松葉杖の、もう引退していてもおかしくない老いぼれ闘士と若く力が溢れる現役闘士の試合が組まれること自体がおかしい。

 これは茶番だとは思わんか、皆の衆!」

 するとシュトライツを当惑して見ていた市民の一人が呆れたように言った。

 「杖をついているったって、チャンの野郎は本当は歩けるってわかったじゃねえか」

 ボーメンはシュトライツの乱心におろおろするばかりでなにもできない。

 「シュ、シュトライツ。そなた、何を言っているのだ」

 ボーメンの家宰が主人の袖を引っ張って囁いた。

 「お気をつけなされませ!きっとシュトライツ伯はこの試合をなかったものにする気です」

 「なに!?すると賭け金は・・・」

 「当然、お支払いになる気はございません。無効試合にするおつもりなんですから」

 愕然となったボーメンは色をなしてシュトライツに言った。

 「こら!汚いぞ、シュトライツ!」

 シュトライツはちらっとボーメンを見たが相手にせずしきりに観衆に訴えている。ボーメンは金きり声で護衛の騎士に命じた。

 「あれを止めろ!」

 ボーメン側の騎士が大挙して隣のブースに向かった。一方シュトライツ側の騎士は当然ながら主人を守る行動に出た。

 二つの上等観覧席の周囲で乱闘が始まった。近くの市民はまたかと顔をしかめてその場から離れた。

 もう彼らに関わるのはうんざりだという表情をしている。その時アズらは既に闘技場内の通路を歩いていたが騒動の気配に気づき引き返した。

 そして上等観覧席周囲の乱闘を見て唖然となる。またその時そことは別の観客席からいくつもの人影が最前席の手すりを乗り越えて本戦場に入った。

 驚いたことに彼らは皆、覆面をしている。アズは覆面集団を見てあっと驚いた。

 「あれは彼らだ!でも何をする気だ?」

 貴族の争いに気を取られていた観衆もやがて本戦場中央に踊り出た覆面集団に気づいた。そして集団の中から偉丈夫が一人、進み出てきて声を張り上げた。

 「ケルラの市民諸君!我々は市民団体シビリアンズの者だ!」

 観客のざわめきが大きくなった。その頃ようやく覆面集団に気づいて貴族も争いを止めた。偉丈夫が言った。

 「我々はあなた達に言いたいことがあって出てきた。だがそれはこれまでビラや張り紙で散々、訴えてきたことだ。

 あなた達も一度ならず眼にしたことがあるだろう。だが重ねて言いたい。市民諸君!自分達の街を守るため立ち上がってくれないか!」

 すると観客から戸惑いの声が飛んだ。

 「俺達だってよ。自分の街をよくしたいって思っているよ。でもよ。方法がわからないんだ」

 偉丈夫は頷いて言った。

 「簡単なことだよ。街の寄生虫を・・・」

 偉丈夫の指が二人の貴族に順に向けられた。

 「・・・二匹の寄生虫を駆除すればいいだけのことだ」

 それを聞いた貴族の取り巻きが色めきたった。

 「きっさまぁ~!どこの誰だか知らんが卑しい身分の分際で貴き者を侮辱するとは許せん!」

 偉丈夫が胸を張って言い返した。

 「貴き者なら下々の生活を考えるのが責務だろう。それが逆のことをしている。我々の血税を横領し我々を奴隷のように使役する。それのどこが貴き者のすることか!」

 すると落ち着きを取り戻したボーメンが傲然と言った。

 「下々の者にはわからんのだ。教養と品格を身につければいつかわかるようになる。我々の偉大な所業がな」

 偉丈夫が馬鹿にしたように言った。

 「ほう。いつかわかる、か。じゃあこの記録の意味を教えてくれ」

 偉丈夫が仲間に頷いてみせた。すると仲間が観客席に向かって大量のビラを撒いた。観客はまたかという顔をしたが何人かが拾って読んだ。すると顔色を変えた。

 「こっ、こりゃあ!?」

 隣の男が訊いた。

 「なんだ。どうした?」

 最初の男がビラを指差して言った。

 「ここには公金の横領記録が記載されている。使途不明金の行方もあるぞ!」

 「なに!?」

 観客は争って床に落ちたビラや風に舞うものを取って読んだ。すると所々から憤然とした声が上がった。

 「本当だ!公金は闘士を雇う金や遊興費に使われている!」

 「自分達の邸宅の修繕や増築にも使っていやがる!」

 観客の怒りの目が一斉に貴族に向けられた。両貴族はその視線に怯んだがすぐ言った。

 「そんなもの、でっち上げだ。嘘に決まっている。第一、本物だという証拠はあるのか!」

 すると偉丈夫が覆面越しににやりと笑うのが見えた。

 「そう言うと思っていたよ。もちろん証拠、いや証人を用意してある」

 覆面集団の中から後ろ手に縛られた男が前に出された。観客の中から声が聞こえた。

 「あれは市会計局の局長じゃないか」

 観客がざわめく中で偉丈夫が局長の背を突いた。局長はちらっと貴族のほうに目を向けたがすぐに反らした。

 口を固く引き結んでいる。偉丈夫が諭すように局長に言った。

 「貴族をかばうことはない。第一このまま隠匿し続けても財政が破綻すればすべてわかることだ。

 そして貴族は知らぬ存ぜぬで責任はすべてあんたが被ることになる。それでいいのか?」

 局長は苦渋の表情でいたがやがて顔を上げて観衆に言った。

 「それはすべて本当のことだ。私が・・・私が貴族に命じられて仕方なく、公金を・・・公金を流した」

 シュトライツが激怒して局長に言った。

 「貴様ぁ!」

 ボーメンが慌てた様子で観衆に言った。

 「局長はきっとあの犯罪者達に強制されてああ言ったのだ。皆の者、騙されてはいかんぞ!」

 すると偉丈夫が局長の縛めを解いて言った。

 「さぁ。これであんたは自由だ。強制できない」

 局長は貴族を見てすぐ偉丈夫に助けを求めるように言った。

 「本当のことを言った。だから私は狙われる!」

 偉丈夫は頷いて観衆に向き直った。

 「これで彼が本当のことを言ったのがわかったろ。本当のことを言ったから貴族に狙われる。だが彼には正当な裁判を受けさせるまで我々が守る」

 観衆はまた貴族に怒りの目を向けた。護衛らは主人を守ろうとするのだが彼らを取り囲んだ観客の数は圧倒的だ。

 たちまちその凄まじい怒気に怯んだ。観衆の怒りは頂点に達しているように見えた。今まで散々いじめられてきた。

 税金は毎年上がり特権は富裕層か貴族の気に入った業者にしか与えられない。そのため物価も常に不安定で必要物資も不足しがちだ。

 表にこそ出ていなかったが市民は彼らの統治にもう我慢の限界だったのだ。偉丈夫はそれを見て民衆は後一手で爆発すると見て取った。

 再び仲間に頷いてみせる。すると今度は観客席のほうから覆面の男達によって本戦場内に何人かが連れてこられた。

 観客は新たに連れてこられた人間を見て眉を潜めた。

 「あれは・・・」

 彼らは貴族と結託して甘い汁を吸っていると噂される有力商人達であった。偉丈夫が商人らに言った。

 「さぁあんた達が今まで貴族と何をしてきたのか洗いざらい喋ってもらおうか」

 彼らは民衆の怒りが一斉に自分達に注がれたのを感じて竦みあがった。闘技場を見回すと街の大半の人間が集まっていると思われた。

 すると一人の商人ががばっと伏せて言った。

 「許してくれ!確かに私は価格を不当に吊り上げたり売り惜しみして値を上げたりした。だがそれは貴族に命じられてやったことだ。私は嫌だったんだ。それはわかってくれ」

 その後、貴族が目を吊り上げるのも関わらず商人らは最初の商人にならって自分は悪くない、貴族に命じられてやったことだと訴えた。

 中には泣いて身の潔白を訴える者までいた。商人らは街の誰もが知る大店の主ばかりであった。そんな街を代表するような人間が不正や汚職をしていたと告白したのである。

 人々の怒りはさらに大きくなった。偉丈夫はそんな空気を敏感に読み取り、いよいよ最後の一手を打つ時が来たと思った。

 仲間に頷いてみせる。そして最後に引き出されたのはまだ幼い子供と縛られた中年の男だった。それを見たボーメンがあっと呟いた。

 同時に北門前にいたアレンも声を上げた。中年男のことは大抵の人は知っていた。警察署のエルマー副署長だ。

 エルマーがなぜ?と皆が訝っていると偉丈夫が民衆に言った。

 「まずこの子から紹介しよう。この子はオルレアン氏の家に居候するムック君だ。ムック君は貴族の手により今まで監禁されていた。

 なぜか?それは彼と関わりのある闘士のアズを自分達の決闘試合に出場させるためだ。つまりこの子は人質だったのだ。

 彼を監禁していたのがエルマー副署長だった、というわけさ。そしてこのエルマーが誰に繋がっているのか。言わなくてもこの街の人間ならばわかるよな?」

 民衆の怒りの目がまたしてもボーメンに注がれた。ボーメンは冷や汗を流して言った。

 「知らん!私はそんなことは知らんぞ!もちろんエルマー君のことは知っているがそれはあくまでも彼が警官だからという理由でだ。それ以外の付き合いはない!」

 それを聞いたエルマーの表情が歪んだ。偉丈夫がエルマーに諭すように言った。

 「どうだろう。ボーメン男爵に命じられてやったことだと自白してくれないか」

 エルマーは表情を強張らせて黙ったままだった。偉丈夫が穏やかに続ける。

 「男爵はどう見てもあんたを切り捨てるつもりだ。そしてあんたが投獄された後も男爵はのうのうと暮らしていく。

 そんなの、割りに合わんじゃないか。男爵の力を当てにしたって駄目だ。民衆から強く憎まれたんだ。たとえ貴族といえど今後ここでは生きてはいけない」

 民衆は固唾を呑んでそのやりとりを見守っている。やがてエルマーはがっくりと肩を落として言った。

 「・・・男爵に命じられてやったことだ」

 その時、民衆の中から声が上がった。

 「出て行け!この街から貴族は出て行け!」

 するとその周囲にいた市民も拳を突き上げて同じことを連呼した。そしてその連呼はあっという間に会場全体に広がりやがて街全体を揺るがすほどの大合唱になった。

 アズらが偉丈夫のところまでやってきた。

 「これでこの街から本当に貴族はいなくなるのかい?追い出しても他の貴族仲間に応援を頼んでまたやってくるということはないのかい?」

 偉丈夫は笑みを浮かべて言った。

 「実は宮廷に直訴した。この街を王直轄領にして欲しい、と」

 するとオルレアンが懸念したように言った。

 「だがそれが聞き入れられるには多額の献金が必要だと聞いたが?」

 オルレアンの表情は財政が疲弊したこの街のどこにそんな金がある?と言っていた。偉丈夫がこれ以上ないくらい笑みを大きくして言った。

 「それが調達できたんだよ。思わぬところで」

 オルレアンらが訝っていると偉丈夫はその謎を明かした。ムックの監禁場所はライツ家の旧居宅だとわかっていたのだが警備が厳重で救出できなかった。

 だが試合当日、警備関係者はそれが気になって警備に隙が出来る。覆面集団は見張りがそわそわして集中力を失っていたため倒すことが出来た。

 そして中に踏み込んでムックを捜索していたところ思わぬものを発見した。地下室の隠し部屋に大量の金塊があったのだ。話を聞いていた市民の目が大きく見開いた。

 「じゃあ本当に・・本当に・・・市民の統治する街に」

 市民の数人がビラを空高く舞い上げた。

 「やったぁ!」

 <7>

 市民らが見守る中、貴族とその取り巻きらは闘技場から市庁舎へと引き立てられて行った。とりあえずそこの一室で軟禁することになるという。

 市民の一人が一行を見送っていてふと危惧した顔になった。

 「まさか貴族をこのまま縛り首にする気じゃないだろうな」

 別の市民も恐れたように言った。

 「これまでのことがあるからな。ありえる」

 すると偉丈夫が安心させるように言った。

 「大丈夫だ。実は民衆はコントロールされている。あの中に私らの仲間が何人も混じっているんだよ」

 それを聞いた市民らは感心した目で偉丈夫を見た。市民の一人がいたずらっぽく笑って偉丈夫に言った。

 「もう貴族の目を恐れることはないんだろ?ならいい加減その大仰な覆面を取ったら?」

 偉丈夫も笑い、そして仲間に言った。

 「そうだな。みんな、取るか」

 彼らが覆面を取った。するとその下から現れた顔を見て市民らは呆気に取られた表情になった。

 「おっ、おめぇ!靴屋のリードじゃねえか」

 他にも見知った顔ばかりだったようで市民らは呆然となっている。リードが頷いて言った。

 「当局の追及が厳しかったんで覆面を被って活動せざるをえなかった。だけど顔を隠していたって目的は街をよくすることなんだ。

 となると覆面の下の正体だって当然、市民だよ」

 市民はそれを聞いて自分達の力で貴族を追い出したという実感が湧いたようだ。笑みが広がった。

 その時、近くで緊急の声が上がった。振り返ると南門に何人かの男達が駆け込むのが見えた。リードが仲間に鋭く訊いた。

 「何があった!」

 すると男達を追って南門に入ろうとしていた仲間の一人が振り返って言った。

 「エルマー達が逃げた!」

 その仲間は言うや否や門に駆け込む。その時、南門の傍で体を休めていたチャンがそっとダイジに囁いた。

 「逃げた奴を追えるか?」

 「もちろんだよ、父ちゃん。でもどうして?」

 「悪い予感がするんだ。無理はしなくていい。さぁ行け」

 ダイジは混乱する門付近の市民の中に素早く紛れ込んだ。

 

 貴族は財産を没収された上で街から追放された。財産といっても主人の放蕩が響いて財貨はほとんど残っていなかった。

 あるのは不動産など大きなものだけだった。そしてそれも借金を重ねた挙句、金融業者に担保として押さえられていた。

 だが長いこと街を統治していたので抵当に入っていない所有物件は街のあちこちにあった。それらを売却して市の財政に当てれば多少、赤字が減る。

 またライツ家の隠し金も王への献金にすべて使ってしまったわけではない。まだ残っていたのでそれも財政に当てられることになった。

 貴族の意のままになって形骸化していた市評議会は解散した。そして議員を市民の中から新たに選ぶにあたって選挙も計画された。

 貴族の息のかかった元議員は改心を要求され、それに応じない者は二度と市政に関われないことになった。

 街は生まれ変わろうとしていた。そんな明るい話題の中で市民を不安にさせるニュースももたらされた。

 投獄されていた前警察署長のボルグとその元署員数名が牢から逃げ出したというのだ。それも自力ではなく明らかに外から支援を受けた形跡があった。

 市民の中には今更、彼らに何が出来ると楽観的なものがいたがリードら元市民組織の者はそう楽観的にはなれず市民と元警察署員で新しく結成された自警組織でボルグらの行方を追った。

 そんな中アズとサスケの滞在もいよいよ終わりを告げようとしていた。あれからもファスの手がかりを探していたがとうとう見つからなかったのである。

 リードやオルレアンなど親しい人達は新しい街造りに参加しないかと誘ってくれた。だが自分には目的があるのだ。

 申し訳無さそうに断ってその理由を打ち明けると彼らは納得してくれた。アズには街を去る際、一つだけ心残りなことがあった。

 それはオルレアンのことだ。アレンのためになんとかオルレアンが立ち直れるよう努力してきたつもりだがそれも叶いそうにない。

 だがファスの手がかりがない以上いつまでも街にいるわけにはいかない。アレンに対して申し訳ない気持ちがあった。そしてとうとう旅立ちの日がやってきた。

 

 街の北門には二人を見送る人間の姿が見られた。オルレアン親子とムックはもちろん道場の近場に住んでいたため仲良くなった人達である。

 また街の再建計画の仕事で忙しいはずのリードもその合間を縫ってやってきてくれた。リードがアズの包帯の巻かれた右腕を見て言った。

 「怪我の具合はどうだい?」

 「もうへっちゃらさ」

 アズは左手で右腕をぽんっと叩いた。すると途端に顔をしかめた。リードが苦笑して言った。

 「無理はするなよな。大事な体だ」

 アズが面目無さそうに頭を掻いた。次にアレンが残念そうに言った。

 「いつかまた手合わせしてもらいたいと思ってたんだけどなぁ。その腕じゃ無理だし」

 するとオルレアンがその頭に軽く拳骨を落とした。

 「こら。お前はたいして稽古していないくせに」

 アレンが口を尖らせて父に言った。

 「ちゃんとやっているよ。みんなが見ていないところで」

 「じゃあ後でその成果を見てやる」

 アレンが顔をしかめると皆が笑った。アズがリードに訊いた。

 「その後チャンさん達はやっぱり見つからないのかい?」

 あの試合後チャン親子は忽然と姿を消してしまった。チャンは試合の依頼を受けただけなのだ。なので特に姿を消す理由が見つからない。

 アズとしては最後に二言三言、言葉を交わしたいと思っていたのだが。リードが首をかしげた。

 「ああ。忽然と消えちまった。もちろん貴族を追い払ってドタバタしているから入念な捜索が出来たわけじゃないんだが」

 サスケが空を見上げた。それまで雲ひとつなかった空に黒雲が近づいている。早く出立しないと雨で足止めをくらうかもしれない。

 サスケはそのことをアズに伝えた。アズはそれに頷いて皆に言った。

 「みんな。世話になった。元気で」

 リードが言った。

 「もし近くを通ることがあったら必ず立ち寄ってくれ。新しい街をぜひ君に見てもらいたい」

 「必ず立ち寄るよ」

 二人は笑顔で手を振って旅立っていった。名残惜しそうに手を振っていたアレンは二人の姿が街道の向こうに消えると寂しげに父に言った。

 「行っちゃったね・・・」

 「ああ。彼らにはやることがある。そして私達にも」

 「そうだね」

 見送りの人間が街に戻ろうとした。その時アズらが去った街道の脇道からふっと湧いて出てきた男がいた。

 オルレアンは訝しげにその男を見ていると男は前方を見てから脇道の奥に合図をするように手を小さく振ってみせた。

 そしてアズらを追うように同じ方向に歩き出す。その時、戻ろうとしていたアレンが訝しげに振り返った。

 「父ちゃん?」

 オルレアンは答えずじっと街道の先を見ている。すると少しして脇道の奥のほうから数人の男達が街道に出てきて北のほうに歩いていく。

 さきほど現れた男といい、後から出てきた男達といい、いかにも挙動が怪しい。アレンがまた父を呼んだ。オルレアンはアレンのほうを見て言った。

 「ちょっと用事ができた。お前は先に戻っていてくれ」

 「なんだよ、どんな用事だよ?」

 アレンが不審な表情で食い下がってきた。オルレアンは仕方ないといった様子で顎をしゃくった。

 

 しばらく歩いて街が見えなくなっても二人は街での思い出に浸っていた。アレン、オルレアン、ムック、リード、貴族達。

 様々な人達がいて様々な生き様を見せてくれた。その思い出は一生アズの胸の中で生きていくだろう。

 またオルレアンをはじめ闘いの経験も色々とさせてもらった。それはアズにとって財産だ。いつか役立ってくれる時がくるだろう。

 アズがそれらの思い出に浸っていると不意にサスケが残念そうに言った。

 「結局、親父さんの手がかりはなかったなぁ」

 アズはたいして気にしたふうもなく言った。

 「まあな。でもいいじゃないか」

 サスケが訝しげに聞き返す。

 「いいって、何が?」

 「素晴らしい人達に出会えたってことさ」

 サスケの脳裏にオルレアン親子やその界隈の人々、街で起こった出来事などが思い起こされた。確かに彼らはいい人ばかりだった。

 起こった出来事も不愉快に思ったこともあったが終わってみればスリル満点の冒険だったともいえる。

 思い出に浸っている内にその表情は次第に微笑んでいった。そんなサスケの表情を見てアズも微笑を浮かべた。サスケがまた訊いた。

 「で、どうする?」

 「何が?」

 「これからのことさ。親父さんの手がかりがなくなっちまった」

 アズは周囲の風景を楽しみながら言った。

 「まぁ、この先の街や村でのんびり訊いてみるさ。すぐ見つかるってもんじゃないだろうからな」

 アズの、旅を楽しんでいる様子にサスケも肩の力が抜けた。そうだった。ファスが姿を消したのは十数年も前のことなのだ。

 それがすぐ見つかるはずがない。それに当人がいいと言っているのだ。ならのんびりいくか。風景は草原に変わっていた。

 そのどこまでも続く草原を街道が縦断している。風はやや強く時折、土埃と共に二人の髪を舞い上げる。

 街道の前後に人影はない。さっきまで旅人や隊商の姿がちらほらあったのだが二人の足は速いのでいつの間にか引き離してしまったようだ。

 二人がのんびりと歩を進めていると三十メートルほど離れた左前方の小さな丘の陰から数人の人影が躍り出てきた。

 どうやら追い剥ぎのようだ。彼らは剣を抜いており二人にとって好ましからざる客のように見えた。しかし小汚い服装の二人を襲うというのは解せない。

 金を持っていそうには見えないからだ。とすると何か怨恨あってのことだろうか。その時サスケの声がした。

 「アズ。後ろからも来たぜ」

 振り返るとやはり剣を抜いた数人の男達が駆け寄ってくる。これは待ち伏せなのか!?アズが鋭く声をかけた。

 「サスケ!」

 「合点だ!」

 サスケは地面を見て素早く手ごろな小石を拾い上げた。アズはサスケを促して後退した。敵の数は多い。

 囲まれたら不利になる。立ち止まってはいけない。前後の敵を見て街道から外れた。草原のほうが足場は悪いがこの場合、二人にとって有利に働く。

 敵は合流すると半円形の陣形でアズらに迫ってくる。交戦までまだ遠い。そう見て取ったサスケが飛礫を放った。

 「ぐわっ!?」

 「いてっ!?」

 「こいつ!」

 敵の数名が倒れたり体を痛そうに押さえる。アズは近づいてきた敵の面々を見て驚いた。

 「ボルグ!?エルマーも!」

 敵集団はアズらから二十歩ほどのところで足を止めた。アズが訝しげに呟いた。

 「こいつら、なんで俺達を・・・」

 するとエルマーが憎憎しげに言った。

 「なんで、だと!?ふざけるな!貴様らのせいだろうがっ!貴様らが街に来たせいで我らの主人の運命がおかしくなったのだ!」

 アズが首をかしげた。

 「俺らが何をしたって言うんだよ?」

 「貴様が来る前までは街は平穏を保っていた。我が主人とシュトライツ伯は反目し合っていたが本気でやり合うことはなかった。

 武力も財力も拮抗していて反目しているといってもそれは遊びのようなものだった。それを貴様が滅茶苦茶にした!」

 「全然わかんねえよ。俺が何したって言うんだよ」

 「まだしらばっくれるか!貴様が闘士になったお陰で均衡が崩れ、お二方は不幸になってしまわれたと言っておるのだ!」

 「そんな身勝手な理由、知らねえよ!第一、俺が闘士をやることになった理由だってやむにやまれず・・・」

 「ええいっ、見苦しい言い訳はもうたくさんだ!このまま街を出ても良かった。だが貴様だけは許しておけん。このボルグ署長も同じ意見よ」

 ボルグも言った。

 「貴様には部下が大勢やられている。そしてこのエルマーの言うとおり両貴族を破滅させた原因を造ったのも貴様だ。我が主人の復讐をさせてもらう」

 敵が剣を構えてじりじりと距離を詰めてきた。その目はアズだけでなくサスケにも油断なく配られている。

 飛礫を警戒してか半円形の陣形はさらに広げられている。これでは飛礫で一、二人の足止めしている間に他の敵に襲い掛かられてしまう。

 アズの右腕はまだ完治しておらず自由に動かせない。このままでは危ない。そう危惧しているとどこからか穏やかな声が聞こえた。

 「おやおや。見てみなさい。喧嘩かな?」

 「違うよ、父ちゃん。いっぱいいるほうは武器を持って、少ないほうは素手だ。善良な人達が追い剥ぎに襲われているんだよ」

 「そうか。ここで出会ったのも何かの縁だ。少ないほうの味方をしようかねぇ」

 声のほうを見て驚いた。なんといつの間にか街から消えたチャン親子だったのである。敵もこれには驚いたようだ。アズが呆然と訊いた。

 「どうしてここに?」

 チャンがいたずらっぽく笑って言った。

 「実はあの試合後この人達が逃げ出したのを見て絶対、君に復讐すると思ってね。彼らの後をダイジにつけさせたのだ。

 そしたら案の定、襲撃の機会をうかがっていた。君には私もダイジも恩がある。君を助けたいと思った」

 アズは首をかしげた。

 「ダイジのことはわかるけどチャンさんには何もしていないぜ?」

 「ダイジから聞いた。君は試合で手心を加えてくれたそうじゃないか。お陰で私の足は折れずに済んだ」

 アズは納得した表情になった。するとそれを聞いていたボルグがチャンに怒った。

 「貴様、裏切る気か!」

 チャンは面白そうに言った。

 「おやおや。その声は私にアズ君との試合を依頼した人のものではないか。頭巾をして顔はわからなかったがそちらはやはりあの時の人なのかな?」

 ボルグはうっと詰まったがさらに怒って言った。

 「ええいっ、何を今更!この役立たずめ!貴様が仕事をやり遂げていさえすればこうはならなかったのだ!」

 チャンは芝居がかった動きで体を折った。

 「これは申し訳ないことをした。お許しを」

 「心にもないことを!」

 チャンは会話しながらアズのところまで身を寄せた。そして囁いた。

 「敵は多勢だ。まともにやってはいけない。右斜め後方に小さな森がある。ひとまずそこに逃げ込もう」

 アズは頷いてサスケに同じことを伝えた。一行は機を見て森まで走った。チャンは相変わらず松葉杖をついていたが走る時はそれを抱えていた。

 どうやら足の怪我はもういいようだ。一行は走りながら簡単な打ち合わせをして森の中に入ると二手に分かれた。

 <8> 

 森は人の手が入ったことはないようで木々や下生えが所狭しと生い茂っており進むのでさえ困難だった。

 だがそれはアズらにとっては好都合だ。一度に大勢に襲われずにすむ。アズらに十秒ほど遅れてエルマーらも森の中に入った。

 そしてその見通しの悪さに困惑した。だがすぐ手下に捜索を命じた。すると手下は脅えたように顔を見合わせた。

 アズとチャンは腕利きである。そんな彼らの潜む暗がりに入りたくはない。エルマーとボルグは怯む手下を叱咤した。

 だが手下は姿の見えない二人をひどく恐れている。仕方なくボルグらは手下に脅すように剣を突きつけて捜索を命じた。

 十数人の手下がいくつかのグループに分かれて森の中を探す。木の根が地中から大きくせり出し、枝が水平に伸び、大きく膨らんだ下生えが通行の邪魔をする。

 手下らはそれらに辟易しながら進んだ。そして手下の二人ががさがさと枝葉をかきわけて進んでいた時だった。

 前方に人影が見えた。さらに近づくと木の根元にダイジがニコニコして立っている。手下は急いで近づきながら訊いた。

 「他の奴はどこに行った?」

 ダイジは答えない。

 「答えろ!」

 ダイジの胸ぐらを掴もうとした時だった。いきなり頭に重い衝撃を感じて意識を失った。ダイジが倒れた二人の男を見て恐々と言った。

 「うわあっ。いったそ~」

 すると頭上の蔦からサスケがするすると下りてきて言った。

 「加減して石を落としたからたぶん死なないだろう」

 別の場所では三人組みの手下が横一列に距離を置いて進んでいた。年嵩が仲間に言った、

 「いいか。見つけたら一人で対処しようとはせず仲間を呼べよ」

 すると早くも一人が前方を見て、あっと言った。他の二人も見るとチャンが松葉杖を使って苦労して逃げようとしている。年嵩が訝しげに言った。

 「おかしいな。奴は松葉杖がなくても歩けるはずだが?」

 仲間が年嵩に言った。

 「そんなことはいいから早く追おう!」

 「そうだな」

 三人は集まってチャンを追った。そして五メートルほどまで近づいた時だった。いきなり右手から長い枝が水平に振られてきて三人の顔を同時に打った。

 三人は顔を強打されて意識を失った。チャンが振り返った。三人とも気絶している。横を向いて言った。

 「うまくいったね」

 すると横手の茂みからアズが現れた。

 「長いこと枝を引っ張って待ってた甲斐があったよ」

 そうやってエルマーらの手下は一人、また一人と倒されていった。森の奥から聞こえてくる手下の悲鳴にエルマーらは狼狽した。

 やがて分散の愚を悟ったのか急ぎ集合の笛を吹いた。戻ってきた手下は十人未満になっていた。ボルグが危惧した様子でエルマーに言った。

 「森の中は危険だ。どうする?」

 エルマーは少し考えて言った。

 「火を点けてあぶりだしてくれよう」

 手下は仰天したがエルマーは平然と言った。

 「何を恐れる?確かにケルラの法で放火は重罪だがここはケルラではない。捕吏もおらん。さぁやれ!」

 エルマーらは一旦、森の外に出た。そして手下が手分けして外から森に火をつけて回った。

 

 サスケとダイジは木陰に潜んで敵の襲来を待ち構えていた。と、サスケが鼻を上に向けてくんくんさせた。傍らに潜むダイジが訝しげにサスケを見上げる。

 「どうしたんだ、サスケの兄ちゃん?」

 サスケは訝しげに周囲を見回して言った。

 「なんか焦げ臭くないか?」

 ダイジも周囲を見回した。そして空を見上げた時、驚きの声を上げた。

 「ににに、兄ちゃん!あちこちで煙が上がっているよ!」

 二人は仰天して近くの、立ち上る煙に向かった。やがて森の縁まで来た。木々の隙間から向こうを見ると敵が木や下生えに火をつけている。

 「あいつら、なんてことしやがる!」

 ダイジがサスケの袖を引っ張った。

 「早く父ちゃん達に知らせないと!」

 「そうだった」

 二人は急いで引き返した。

 

 アズらはサスケらと合流すると一番、監視の薄い一角から森の外に飛び出した。エルマーは目敏くそれに気づいて急いで手下をそこに集結させた。

 エルマーが手下の隊長格に言った。

 「また飛礫を打たれてはかなわん。二人、割いて飛礫の男を押さえさせろ。チャンのガキは放っておいても構わん。残りは二手に分かれてアズとチャンに当たれ!」

 アズとチャンはそれぞれ四人を相手にすることになった。アズは危機感を覚えた。右腕の回復がまだ充分ではない。

 尤も右肩から腕にかけて包帯が厚く巻かれているためあまり動かない。またそのせいで体のバランスも悪くなっている。

 武器を持った手練の四人と闘うのは不安だった。一方のチャンも足の怪我はかなり回復したが走るとまだ痛みが生じた。

 そのため不利な戦いはまだ避けたいと思っていた。だがこうなってしまっては仕方ない。二人が弱気になっているのを察した手下は元気付いて襲い掛かった。

 アズは最初の袈裟斬りを身を引いてかわすとすかさず右回し蹴りを手下の腹部にぶちこもうとした。

 だが身をよじった瞬間、右腕に痛みが走り充分な威力の蹴りはぶちこめなかった。その手下は腹を押さえて後ずさったが倒れはしなかった。

 痛みに舌打ちする暇なく新たに後方から剣が突き出された。急いで横っ飛びにかわした。その手下はすぐ身を翻してまた剣をアズに向ける。

 やがてさっきの手下も腹のダメージが回復したのかアズに向き直った。また後方から残りの二人、エルマーと手下も走り寄ってくる。

 やがて囲まれた。額から落ちてきた脂汗を左手で拭って呟いた。

 「マジでまずいな、これは・・・」

 

 その頃オルレアン親子は北に向かって街道を急いでいた。アレンはまだ父から街道を急ぐ理由を明かしてもらっていない。そのため不満そうな表情を浮かべていた。

 「ねぇ父ちゃん。アズ達に関係あることなんだろ?どういうことか教えてくれよ」

 するとオルレアンは憂慮した表情で前方を見ながら言った。

 「私にもまだよくわからんのだ。だがさっき門のところで見たんだ。アズを追うように横道から現れた男達。穏やかでないものを感じた」

 「穏やかでないって何?追い剥ぎってこと?」

 「わからん。だが直にわかるだろう」

 親子は小走りで街道を急いだ。そして飛ぶように道程を消化していく内に違和感を感じた。おかしい。

 アズらがいくら早く歩いてもこちらは小走りだ。もうそろそろ追いついていい頃なのに。だがその姿はどこにも見えない。

 どこかで追い抜いてしまったのか?例えば街道脇の草原で昼寝していたとか。もしそうなら怪しい男達もアズらを追い抜いて行ってしまったことになる。

 アズ達が襲われる懸念もないということだ。オルレアンは足を止めて後方を振り返った。引き返すか、このまま進むか。逡巡しているとアレンが空を見て訝しげに言った。

 「あの煙はなんだろう?」

 オルレアンも見ると北東の空に何条もの煙が上がっている。おかしい。あの辺りは草原の真っ只中のはずだ。

 燃えるものなどない。煙のほうに行ってみることにした。街道から外れるとアップダウンのある草原がどこまでも続いていた。

 そこをやや急いで行くとやがて遠くに燃える家が見えてきた。草原の只中に民家が一軒だけある?

 不審を感じた。さらに近づくと違和感を覚えた。火事の規模が思ったより大きい。家一軒が燃えただけではあんな大きな煙は出ない。その時アレンがびっくりしたように言った。

 「と、父ちゃん!森が燃えている!」

 さっきは距離があったためわからなかったが燃えていたのは家じゃなく小規模だが間違いなく森だった。近くに民家も森もないので延焼の心配はない。だが放ってもおけない。

 「一体、誰が・・・」

 するとアレンがあっと言った。アレンの指差す方向を見ると森から少し離れた場所で争闘する集団が見えた。

 まさか。いや目を凝らしてみればやはり襲われているのはアズらだった。なぜかチャン親子もいる。アレンが危惧したように父に言った。

 「助けなきゃ!」

 だがオルレアンの足はそこから一歩も動けなかった。震えている。足が、指が恐怖で震えている。剣士としての自分はあの時の敗北でとうに死んでしまっている。

 再び争闘の場に立つのはひどく恐かった。アレンが焦れったそうに父を揺さぶった。

 「どうしたんだよ、父ちゃん!早く行かないとみんな殺されちまうよ!」

 確かにアズの動きは鈍かった。まだ右腕が完治していないせいだろう。チャンも押されている。足は動いているが本調子とまではいかないようだ。

 アレンは父の固まった表情を見てまたアズらを見た。そして、くそっと吐き捨てるように言うと一人で駆け出していった。

 オルレアンは驚いて制止の声を上げた。だがアレンは聞かず行ってしまった。アレンは短剣をいつもは持ち歩いているがそれは護身用のためだ。

 それで荒事に慣れている剣士を相手にできるとは到底、思えない。それに多勢だ。アレンが危ない。

 アレンが殺されてしまう。アレン無しの人生なんて考えられない。かけがえのない息子だ。これまで希望を失っても生きてこられたのはアレンがいたからだ。

 あれは根性もあるし機転もきく。本人は父の後を継いで剣士になるといっているが知り合いの親方からは器用だし愛想もいいので徒弟にどうかという打診も受けている。

 あの子の未来はこれからなのだ。それをこの自分が剣士だったせいで奪ってしまうのか。そんなことはとても耐えられない。

 アレンを殺すのなら代わりにこの私を殺してくれ。この落ちぶれて今や社会のなんの役にも立っていないこの私を。

 その時、駆け寄るアレンに剣士の一人が気づいた。オルレアンの背中に冷たい汗が流れた。駄目だ。

 止めてくれ。その子は関係ない。頼む。男が剣をアレンに向けた。それを見たオルレアンは全身が灼熱したように感じた。

 腹腔から何かもの凄く熱い塊が生じて胸に昇ってきた。知らずに口から獣のような叫び声を発していた。

 争闘の場にいる全員がぎょっとしてオルレアンを見た。アレンもはっとなって振り返った。

 「父ちゃん?」

 そこからは何も憶えていなかった。おぼろげながら憶えているのは灼熱の獣と化した自分が大勢の剣士を斬り殺しているところだった。

 それをまるで他人事のように思えた。この獣のように咆哮して人を斬っているのは私か?私がやっていることなのか。

 腑抜けと化したこの私か。そしてどのくらい経ったのだろうか。やがて時間は元に戻った。

 「・・・ちゃん!父ちゃん!」

 ふと気づくとアレンが抱きついて自分を揺さぶっていた。オルレアンは半覚醒のような状態でなんとか声を出した。

 「どう・・・した?」

 「もういいんだよ。もうあいつら全員やっつけたから!」

 「やっつけた・・・誰が?」

 アレンが涙を浮かべた顔でオルレアンを見上げた。

 「誰がって。父ちゃんがみんなやっつけちゃったんじゃないか」

 「私が!?」

 訝しげに周囲を見回した。愕然となった。一刀の元に斬られた屍がそこかしこにあった。

 「これは・・・これは私がやったことなのか!?」

 アレンは少し身を離し父の顔を見上げた。

 「今はいつもの父ちゃんだけど。さっきの父ちゃんは凄く恐かった」

 「ああ。なんということだ・・・」

 自分の中の獣。敗北した時に死んだと思っていた。だが死んではいなかった。死んだふりをして傷を舐めて復活する時を虎視眈々と狙っていたのだ。

 この獣は今度こそ眠らさねばならない。オルレアンがぽつりとアレンに言った。

 「・・・父ちゃんな」

 「うん?」

 「今度こそ本当に辞めようと思うんだ。道場を」

 アレンは驚いて何か言おうとした。だが父のどこか悟ったような穏やかな表情を見て黙って父の背中に腕を回した。

 

 街道の道端で今度こそ本当の別れが告げられようとしていた。アズらは北に、オルレアンとチャンの親子はケルラに戻るのだ。

 驚いたことにチャンはケルラに道場を建てられるのだという。ダイジが嬉しげに言った。

 「街のお偉いさんがあの試合を観て感心してくれて。それで後援してくれるんだって。市民権も建物のことも」

 アズも嬉しくなって言った。

 「そりゃ良かったな」

 その時オルレアンが何か逡巡する様子なのに気づいた。訝しげに見るとやがて口を開いた。

 「実は・・・私のほうは道場を畳もうと思っている」

 アズが驚いてオルレアンを見た。すると彼は疲れたように笑った。

 「もう闘うのはこりごりなんだ」

 アレンを見ると頷いた。どうやら彼も納得しているようだ。チャンがアズに言った。

 「君に伝えたいことがあるんだ」

 訝しげに見るとチャンが言った。

 「街で聞いた。君はファスという男を探しているそうだね?」

 アズが顔色を変えて訊いた。

 「何か知っているのか!?」

 「十数年前にその名を聞いたことがある。己の拳一つで戦場を渡り歩いた、と。血気に逸っていた当時、私はぜひ手合わせしたいと強く思ったものだ」

 アズは食い入るようにチャンを見ている。

 「その後また噂を聞いた。怪我をしてホギュンという街で養生していると」

 アズは胸に刻み込むように繰り返した。

 「ホギュン・・・」

 「ホギュンはここから六十キロほど北にある街だ。そこは王位継承戦争の最前線にあった城郭都市でね。

 今は落ち着いているが当時は凄まじい戦闘が行われた。だが十数年前の噂だ。役に立つかどうか・・・」

 アズは笑顔で言った。

 「いや。手がかりがあるのとないのでは大分、違う。ありがとう」

 アズは憂いを帯びた表情で北を見た。

 「ホギュン、か・・・」

 終わり 第五の試練へ





inserted by FC2 system