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 <1> 

 アズらが立ち去った後、少しして物陰から老人が出てきた。そしてニードルらとアズらの去った方向を順に見て呟いた。

 「・・・私の弟子だったエメリッヒとあの男の息子がホギュンにいる。これは運命なのか。それとも・・・」

 老人は懸念したように星星がきらめく夜空を見上げた。

 

 常連の中に飲むと必ず取っ組み合いの喧嘩になる客がいた。絶対といっていいほどの二人なのでアズもベックも絶対その二人から目を離さない。

 二人は歓談し酒もおおいに進んで大ジョッキは七、八杯は消化されただろうか。二人の酩酊具合も程よく、やがてろれつが回らなくなり上体をふらふらさせ始めた。

 二人はそれでも相手に向かって喋っているのだがそれはもう会話とはいえない。聞いているのを確認もせず勝手に喋っているからだ。すると片方がいきなり激昂した。

 「なに!?おめえ、俺のかあちゃんが浮気しているってのか!」

 胸倉を掴んだ。相手の男はそんなことは一言も言っていない。すると掴まれたほうも激昂した。

 「てめえ!俺を馬鹿にしてんのか?十引く二は五に決まっているじゃねえか!」

 どっから引き算の話が出てきたのか知らないがとにかく酔っているのである。二人は恒例の取っ組み合いになった。

 二人の周りの客も慣れたものである。落ち着いてテーブルを移動して避難した。その時、他の客の相手をしていたベックがアズに目配せした。

 お前がやれ、ということだ。アズは溜息をつくと二人に近づいた。そして背中の急所を軽く指で突いた。

 力を込めれば人事不省に陥ったり悪くすれば命を失うが軽くならば一瞬だけ動きを止められる。アズは固まった二人を抱きかかえるようにして店の外に出た。

 そして一旦、店に戻り水を持って出てくると二人に渡して言った。

 「酔いが醒めるまで店に入ってきちゃ駄目だよ」

 二人はコップを持ったまままだ呆然となっている。アズが店内に戻ろうとした時その背に声をかける者があった。

 「見事な手並みだな、若いの」

 振り返って驚いた。最果て小路で軽くあしらわれた老人がそこに立っていた。アズは思わず身構えて言った。

 「決着をつけに来たか!」

 すると老人は宥めるように手を上げて言った。

 「若い者は気がせっていかん。わしは二度とお前さんとやる気はないよ。あの時だって頼まれて仕方なくやったんだ」

 アズは構えを解かず訝しげに言った。

 「・・・ならなにしに来た?」

 「一つ忠告しにやってきたのだ」

 「忠告?」

 「そうだ。あいつとはやらないほうがいい」

 アズはなんのことだがわからず首をかしげた。

 「あいつって、誰だよ?」

 「この間。女の子を助けるために闘おうとした男だ」

 あいつか!アズの全身に戦慄が走った。あの時は闘いの予感に高揚していたため相手を恐れることはなかった。

 が、後日になって思い返してみれば隙がなく殺気の量が尋常ではなかった。明らかに殺人術に通じているとわかる。

 武術家にとって相手がどういう技を使うのかわからないのはとても恐ろしい。だがその恐怖に負けたら武術家などやっていられない。

 だから老人は闘うな、いや想像も出来ないほど凄い技を持ってるということだろうか。だが恐怖心はもとより相手の技がわからないのはあの男にとっても同じことだろう。

 アズの打撃は簡単に人の命を奪える。だから条件は同じじゃないか。アズがそう考えていると老人が言った。

 「やってみなきゃわからない、と考えているのかもしれないがお前さんのほうが分が悪いんだよ」

 「なんだって?なんでそんなことがわかる」

 すると老人は言いにくそうに言った。

 「まぁ色々と裏の事情があってな」

 「なんだよ、その事情って?」

 老人は喋りすぎてしまったというように首を横に振った。そして後退しながら言った。

 「いいな。とにかくあいつとやるんじゃないぞ」

 老人は雑踏の中に紛れこもうとした。

 「待ってくれ!」

 アズも急いで雑踏の中に追って入った。周囲を見回した。どこにも老人の姿はなかった。通行人が怪訝な表情でアズを見ていく。その時、店からサスケが出てきた。

 「何かあったのか、アズ?」

 アズは路地の先の暗闇に目を向けたまま呟くように言った。

 「わからない。あの爺さんは一体・・・」

 

 サスケが力なく空を見上げた。

 「ああ、ええ天気や・・・」

 雲ひとつない空には燦々と輝く太陽がありサスケの全身に惜しみなく陽光をふりそそいでいた。

 「そだな・・・」

 隣からも力のない声がした。サスケが見るとアズもぐったりしている。二人は真昼間から広場のベンチに座っていた。

 だらしなく腰をずらし背もたれに両腕を大きく広げて寄りかかっている。広場に目を向ければ各所で町人の雑談する姿や物売りの姿、アズらのようにベンチで寛ぐ姿が見受けられた。

 だが多くの町民は広場を忙しげに通り過ぎる。真昼間である。堅気なら仕事中だ。飲み屋でのアズらの勤務はもっぱら夕方から夜中までなので昼間は暇だった。

 いや腹が減って何もできないといったほうが正しいかもしれない。サスケが情け無さそうに言った。

 「日雇いじゃなくなったのはいいけど給金が月末払いだったってのは考えていなかったな。それまでどうやって食い繋いでいく?

 手持ちの金は月末までギリギリ、いや節約したってとても持たないぞ」

 アズも困った様子で頷いた。

 「とても親父を捜している場合じゃねえよな」

 サスケが頷いて言った。

 「まずは食べる算段だ」

 しばらく二人は先行きの不安から溜息ばかりついていた。するとサスケが急に何か思いついた顔になった。

 「そうだ。ベックさんに金借りられねえかな?店主のバッカ親父は顔も懐も渋いがあの人なら優しそうだし」

 するとアズが首を横に振った。

 「頼めばいくらか貸してくれるかもしれない。でもあの人は凄い大食漢で給金は食い物で全部、使い切っちまうらしいんだよ。

 大抵、次の給料まで持たないって笑ってた。あの人もギリギリで生活しているんだよ。だから頼みづらいんだよなぁ」

 「給金、全部飯代って、どんな生活してんだよ、あのおっさんは。そんなんだからあんな風船みたいにぶくぶく太ってんだ」

 「大男は気が優しくて力持ちっていうじゃないか。あまりベックさんの悪口は言うなよ」

 「あのおっさんの場合、気は優しいが大食らいってのが似合っている」

 アズがぷっと吹き出した。

 「大食らいってのは違ぇねぇ」

 二人の、今の一日の食事回数は夜のみであった。手持ちの金がほとんどないので朝昼の食事を我慢するしかないのだ。

 唯一、夕食だけは勤務先の飲み屋の賄いで確保できた。なのでその時はここぞとばかりに三杯も四杯もお代わりする。

 店主や料理人は呆れた顔をしたが最近は何も言わない。給金日までまだ半月以上ある。それまで一日一食、たまに贅沢して二食で我慢するしかない。

 ああ、腹減った。二人はぐーぐー鳴る腹をしきりに擦って嘆いた。

 

 その時、広場で嘆いているのはアズらだけではなかった。二人から少し離れたベンチでも男が一人、しきりに溜息をついて嘆きの言葉を吐いていた。

 その男はアンドレ・ホンタム子爵だった。傍らには従者ローボックが呆れ顔で主人を見ている。ホンタムはああ!ああ!と切なそうに嘆いては溜息をつく。

 「神よ、我を憐れみたまえ。笑いたまえ。泣いてくれたまえ・・・」

 広場は昼時に近くなったせいで町人が多くなってきた。広場の屋台で昼食を取ろうというのである。

 広場は闘技場ほどの規模があるため様々な屋台が軒を連ねていた。だがホンタムの周囲の屋台だけは客がいない。

 彼が大仰に嘆きながらベンチに座ったり立ったり頭を抱えて叫んだりするので不気味がって人が寄り付かないためだ。

 屋台の店主は苦虫を噛み潰したような表情でホンタムを見ている。同じ町人なら怒鳴りつけてその場から立ち去らせるのだが汚い身なりとはいえ一応、貴族とわかる服装をしている。

 なので苦情が言いづらい。やがてその騒々しさに近くのベンチにいたサスケも気づいた。ホンタムを見て首をかしげる。

 「おい、アズ。変なのいるぞ」

 アズはぐったりと背もたれにもたれかかったまま言った。

 「危険じゃなけりゃ、どうでもいいじゃないか。腹が減って動きたくねぇ・・・」

 サスケはもう一度ホンタムを見た。

 「まぁ。確かに危険という感じではないな。危険というより変態の部類かな、ありゃあ」

 ホンタムはなぜ自分の周囲から人が離れていくのがわからずそれを見てさらに嘆いた。

 「ああ!神よ。あなたはどこまで残酷なのですか。私の魂はこれほどまで孤独だというのに。それに鞭打つかのように人を遠ざける。ああ!あなたの試練はどこまで私を苦しめるのか!」

 サスケが痛ましいそうにホンタムを見て言った。

 「可哀想に。ありゃあ、きっとどこかで頭を打ったんだな」

 するとその声が聞こえたのかホンタムはふと二人のほうを見た。サスケは慌てて目を反らせた。ホンタムは二人に気づくと目を輝かせてすたすたと近づいてきた。

 「やべぇ!?こっちに来る!」

 「何が、だ?」

 アズは背もたれによりかかったまま目も向けない。ホンタムは力強い足取りで歩きながら言った。

 「神は我が嘆きを聞き届けたり!我が心の隙間を埋める友人を遣わしてくださった!」

 サスケは目の前にやってきたホンタムに呆れた様子で訊いた。

 「あんた、何言ってんの?」

 するとホンタムはわかっているというように頷きながら言った。

 「いや謙遜しないで頂きたい。あなた達は我が悩み深き心の声を聞く為にやってこられた神の使いであろう」

 サスケは唖然となって呟いた。

 「・・・身の危険というより精神がヤバくなりそうだな、こりゃ。ちょっと失礼をばさせていただいて・・・」

 サスケはアズの腕を引いてそうっとその場から離れようとした。するとサスケの意図を察したかホンタムは引き止めるように二人の腕を取って言った。

 「待ってくれ!まだ私の嘆きを聞いてくれてないではないか!」

 サスケがうんざりしたように言った。

 「あんたの嘆きよりもこっちは腹の虫の嘆きのほうが問題なんだよ」

 「なんと!?人だけでなく腹の虫まで嘆くようになったか!ああ、世も末だ・・・」

 アズが呆れて言った。

 「あんた、本当に頭、大丈夫?」

 そこで従者の老人が恥ずかしそうに主人の袖を引っ張って言った。

 「ご主人様。よくお聞きになってください。腹の虫が嘆くんじゃなくて鳴っているのです。つまりこの人達は腹が減っているのです」

 「なに?嘆いていない?なんだ、我が仲間ではないのか・・・」

 アズが困ったようにホンタムに言った。

 「あの。そろそろ腕を離してもらっていいかな?俺達、あんたの仲間じゃないんで」

 ホンタムははっとなって自分の腕を見た。二人の腕をしっかりと掴んだままである。ホンタムはすぐ放して言った。

 「まぁ待ちたまえ。ここで知り合ったのも何かの縁だ。ちょうどそこに食べ物屋もある。腹が減っているのなら食べながら歓談しようではないか」

 それを聞いた二人は目を輝かせた。

 「ええっ!?おおお、奢ってくれるの!」

 ホンタムは胸をどんっと叩いて言った。

 「勘定なら心配いらん。ホンタム家の栄光は最早、過去のものとなってしまったが一日の食事に困るほど落ちぶれておらん。さぁ好きな店を選びたまえ」

 二人が目をギラつかせて屋台を見回した時ローボックが主人の袖を引いて囁いた。

 「ご主人様!お忘れですか?滞在が長引いて旅費を使い切りそうなのを」

 ホンタムが天を仰いで言った。

 「そうか!そうだったな!だが家宰に手紙を送ったからすぐ旅費が届くのだろう?」

 「ホギュンとご領地は近いとはいえ後一週間は優にかかります」

 主従が困っていると二人は落胆を隠した笑みを浮かべて言った。

 「持ち合わせがないなら無理しなくていいよ」

 「そうそう。その心意気だけで充分だよ」

 それを聞いたホンタムは表情を引き締めて言った。

 「ホンタム家の当主が一度、請け負ったのだ。約束は必ず守る。もうちょっと待ってもらいたい。今、金策を考える」

 アズが微笑んで言った。

 「いいって無理しなくたって。今の言葉だけで充分だよ。あんた、会ったばかりだけど良い人だよ」

 「良い人・・・」

 ホンタムは、ほろっと来て泣きそうになった。そして二人に見えないように背を向けると懐から短剣をとり出してローボックに渡した。

 「質屋に行ってこれを金に換えてもらってきてくれ」

 ローボックは愕然と主人を見上げた。

 「ですがそれは・・・」

 ホンタムは手で制して最後まで言わせず言った。

 「いいのだ。男と男がわかり合ったのだ。このくらい惜しくはない」

 

 ホンタムはローボックが金を持って戻ってくると意気揚々と二人に好きな店を選ぶよう促した。だが二人は金を用意する時のホンタムらの不審な様子を見て、馳走になるのに躊躇いを憶えていた。

 ホンタムは動こうとしない二人に怪訝な視線を向けた。そして遠慮しているのを察すると自分で屋台を選んでそこの席に座った。

 そして振り返って急かすように二人を手招きする。二人は遠慮がちにホンタムの傍に座った。だが料理が出てくるとそこは腹ペコの二人である。

 さっきの躊躇いなどすっかり忘れて料理を貪った。ホンタムは基本的に人を饗応するのが好きなようだ。にこにこして二人が食べのを眺め、そして自分も食事した。

 <2> 

 それぞれ三人前をたいらげた二人は満足した様子で広場のベンチに戻った。ホンタムも二人の幸福そうな表情を見て満足そうだ。

 そして皆で同じベンチで寛いでいた時アズはふと思い出したようにホンタムに訊いた。

 「さっきさ。聞こえちゃったんだけど。あの短剣、大事なものだったのかい?」

 ホンタムの表情が一瞬、重くなったように見えた。だがすぐに笑って横に手を振った。

 「いや、たいしたものではない。護身用に持っていたものだ。ただ長いこと持っていたんで少し愛着があったのかな。まぁ別のがあればそれでよい」

 アズは不審を感じたがそれは口に出さなかった。そしてホンタムが広場のトイレに向かった時そっとローボックに訊いた。

 「ホンタムさんはあの短剣をたいしたものじゃないと言ってたけど嘘なんだろ?」

 ローボックは困ったような表情になった。話すべきかどうか迷っている。アズは一度トイレのほうを見てから言った。

 「ホンタムさんはもうしばらく戻ってこない。本当のことが知りたいんだ」

 ローボックは少し逡巡していたがアズに重ねて訊かれると溜息をついて答えた。

 「あれはホンタム様のお父君、先代ホンタム様の残された短剣なのです。お父君はそのまたお父君からあの短剣を受け継がれたのだとか。

 それでホンタム様は短剣をお父君の形見のように大事にして片時も離さず持っておられたのです」

 サスケが衝撃を受けたように言った。

 「そんな大事なものを会ったばかりの俺達のために・・・」

 ローボックはトイレのほうに目を向けると微笑んで言った。

 「ホンタム様は人と人との出会いをとても大切にされるお方でして。難儀している方を見ると放ってはおけない性分なのです」

 アズが重く言った。

 「大きな借りができちまったな」

 サスケが頷いた。

 「ああ。こりゃあ簡単には返せないぜ」

 そこにホンタムが戻ってきた。三人が重い雰囲気で沈黙しているのを見て首をかしげた。

 「何かあったか?腹はくちくなったはずだが?」

 アズは微笑んで言った。

 「お陰様で腹は満たされたよ。ありがとう」

 二人に頭を深く下げられたホンタムは当惑して頭を上げさせようとした。

 「止めてくれ。たいしたことはしていない。急にどうしたのだ」

 するとローボックも微笑んで言った。

 「お礼を申し上げたいとおっしゃっているんだからよいではありませんか」

 微笑んで自分を見ている三人にホンタムは首をかしげた。

 

 その後ホンタムは二人の出自や旅の様子を興味深そうに聞いた。父探しで南端の、はるか辺境のアルム村から中原の都市ホギュンまで長い道のりを旅してきたと聞くと大仰に驚いた。

 アズは話しながら貴族に対する認識を改めていた。貴族の、平民に対する態度といえば高慢で偉ぶる。

 だが目の前の貴族はとても気さくで小汚い身なりの二人にでさえ礼儀を忘れない。貴族にもこういう率直な人がいるのだと感心した。

 一通り話し終えると今度はホンタムが今、直面している悩みを聞いてくれ、と話し始めた。一昨年、父が亡くなった。

 急な別れにホンタムは悲しんだが一族郎党が皆で慰めてくれたのでやがて立ち直った。そして父の葬儀も終わり無事、家督を継いだところで親族から結婚相手を探すよう勧められた。

 だが貧乏貴族のホンタム家に嫁いできてくれる姫など中々いない。周囲は頭を悩ませた。実はホンタムは誰にも打ち明けなかったが想いを寄せる姫がいた。

 幼い頃ホンタム城で会ったホーデン家のアンジェラ姫である。その時二人はおままごとながら結婚の誓いを交わした。

 それ以来、会っていない。子供の頃の話なので彼女はもう忘れているかもしれない。そこで会って様子を確かめようとした。

 だが父親のホーデン男爵が会わせてくれない。先代の両家は親密な交流をしていたというのに。やはり凋落したのが原因のなのか。

 ホンタムは届かぬ想いを嘆きながら話し終えた。アズが頷いて言った。

 「するってえとこういうわけかい?城の姫に改めて求婚したいが会わせてくれないし手紙を書いても届けてもくれない?」

 「そうなのだ。ひどい扱いに立腹しているところだ」

 「っていうか、そりゃもう無理ってことなんじゃないの?そこまで拒否されているってことは」

 ホンタムがああ!と嘆息して手で顔を覆った。すると頭の後ろに手を組んだサスケがなんでもないことのように言った。

 「平民も貴族も同じだな。親父が自分の娘に悪い虫がつかないように家の・・・いやこの場合、城か。城の奥に無理に閉じ込めておく。よくある話さ」

 ホンタムはうなだれて言った。

 「そうか。よくある話か。そこで悪い虫の私としては・・・違う!決して私は悪い虫などではない!」

 急に激昂したホンタムにアズは呆れた顔になった。

 「あんた、自分で自分のことを悪い虫とか言ってんじゃん」

 サスケがホンタムに言った。

 「でもいい虫でもないんでしょ?」

 「うっ・・・それで私のあずかり知らぬところでけしからんことに姫の婚約話が進んでいるというではないか」

 「じゃあ完全に駄目ってことだね」

 ホンタムは足を踏み鳴らして怒った。

 「だからなぜ君達は諦める方向に話を持っていこうとするのだ!」

 「だって姫は城の奥にいて、親父さんが娘の相手をもう見つけちまったんだろ?駄目ってことじゃん」

 「だから私という存在がありながら勝手にそうするのは納得いかん、という話だ!」

 アズが呆れた。

 「あんた。諦め悪いなぁ」

 するとサスケが満腹になった腹を擦って言った。

 「ほんとなら放っておくところだけど。飯を食わしてもらった恩があるからな」

 アズがそのことを思い出したように言った。

 「なるほど。力にならないわけにはいかないか」

 ホンタムが期待を込めた表情で二人を見た。

 「なってくれるか!」

 二人は頭を掻いて互いの顔を見た。

 「しょうがねえか・・・」

 「おおっ!?神よ!」

 ホンタムは感激した様子で二人の手を何度も握った。アズは感極まった様子で天に向かって神に語りかけるホンタムを横目で見てボヤいた。

 「なんか変なことに巻き込まれちまったなぁ・・・」

 

 ホンタムの言うことにはアンジェラ姫は恐らく婚約話のことは何も聞かされておらず父親のホーデン男爵が勝手に進めているものだと思われる。

 なので自分が求婚する余地はまだ充分、残されている。だかその前に一度、姫の気持ちも確かめておきたい。

 そこで部屋から出て来られないのならこちらから会いに行くしかない。城に忍び込むのだ。それを手伝って欲しい。

 アズはそれを聞いて呆れた。城に忍び込む?大きな街を統治している貴族の城だ。護衛の騎士は大勢いるだろうし何度も戦場になったというからには敵に侵入された場合の備えも色々あるだろう。

 しかもこの都市の主要産業は武器の製造。これだけで城の警備は整っていると察することができる。

 この目の前の実直そうな貴族はそれがわからないのだろうか。

 「あんた、本当に正気?」

 思わずアズは口走ってしまった。ホンタムは熱病にうかされたような目を宙に向けて言った。

 「いや恋の悩みで半ば狂気に陥っている。だがそれでもいいのだ。この燃えるような情熱を姫に少しでも伝えられるのであれば」

 「恋ってのは変態と紙一重なんだな」

 ホンタムは姫との再会を想像しているのか天に向かって、ああ!とか、おお!とか唸っている。サスケも呆れた様子でホンタムを見ている。

 「紙一重っていうよりこの人の恋愛観が少し変態じみているんじゃないの」

 そして困ったようにアズに言った。

 「手伝うのはもう仕方がないとして問題が一つあるぞ」

 アズは眉をひそめて訊いた。

 「そりゃ何だ?」

 「城に忍び込むのは夜だろ?夜、俺達には仕事がある」

 アズの脳裏にベックの顔が浮かんだ。一晩くらいなら彼一人でなんとかなるだろう。それにあの界隈ではアズが腕の立つ用心棒だとの噂が広まって最近は問題を起こす客が少なくなった。

 サスケは雑用係をしているが手が足りなくて大変というわけではない。一晩くらいなら二人が抜けても大丈夫だろう。

 「まぁ・・・なんとかなるだろ」


 決行前日、二人はホンタムの宿で彼が描いた城の間取りを見せてもらった。幼少の頃、彼は何度もホーデン城に訪れたことがあり、その記憶を頼りに描いたらしい。

 間取りがわかれば侵入成功の可能性はより高いものとなる。だが二人はその地図を見て、う~んと唸った。

 まるでクレヨンで描いた子供の絵だった。だが衛兵の警備する場所や姫の部屋の位置など最低限、知りたいことはわかった。

 そして翌日になった。彼らは夜になるのを待った。忍び込むのはホンタムとアズ、サスケで決行するつもりだった。

 だが主人の身を心配したローボックがついていくと言って聞かなかった。それで四人になった。四人は市街地北端の、とあるビルの陰で待機した。

 そこからだと丘の上に建つ城の威容がよく見える。街から城まで行くのに曲がりくねった一本道が続いていた。

 だが夜間とはいえそこを通るとなると城の衛兵から丸見えだ。そこで城への一本道を行くのではなく一度、街を囲った市壁まで行き、壁沿いに城まで近づくことにした。

 市壁内側は戦争で崩れたものか市壁建設時に余ったものなのか、切り揃えられた岩や木材がゴロゴロしていた。

 それに隠れて近づき城の東側から取り付くことにした。城の南、城門前に二人の衛兵が立っている。

 かがり火のお陰でよく見えた。城門奥の中庭にも衛兵がまだ何人かいそうな気配がする。また城を見上げれば城門上の通路を歩哨が歩いているのが見えた。

 さらに城をぐるりと幅のある水掘りが囲んでいる。月の位置は西にありアズらのいる東側をちょうど隠してくれた。

 この間に外壁に取り付かなければならない。四人は市壁近くに放置してあった細長い板を持ってきて水掘に渡し即製の橋とした。

 まずアズが板を踏んで耐久性を調べた。大きくたわんだが折れる気配はない。アズが振り向いて指でOKサインを作る。

 後ろの三人が頷く。アズは両腕をやや上げてバランスを取りながら進んだ。最初はゆっくりと進んだがすぐに要領を飲み込んですいすいと渡っていく。

 やがて壁際まで着いた。そして向こう岸の三人に渡ってこいと合図をよこす。三人は少し相談して一人づつ渡ることにした。

 次はサスケだ。サスケはアズ以上にバランス感覚が良かった。口笛でも吹きたげな余裕をみせて渡った。

 だが次の二人は時間がかかった。ホンタムは自分よりローボックのほうが時間がかかりそうだと判断して先に渡らせようとした。

 だがあまりにも二人がすいすいと渡ったのでローボックもたいして時間はかかるまいと思った。ローボックは板に片足を置いて体重を乗せた。

 少したわんだ。だがこれなら渡れそうだ。あまり下を見ずにおっかなびっくり進んだ。だが橋の中央辺りまで来た時その足がぴたりと止まった。

 向こうで見ているホンタムにはわからなかったが板が大きくたわんだので肝を潰したのである。板は大きく上下に揺れてそれは中々、収まらなかった。

 ローボックは立っていられずしゃがんで板にしがみ付いた。

 「大丈夫か、ローボック?」

 ホンタムの声がした。衛兵がいるので大きな声は出せない。ローボックは強がって大丈夫と答えようとした。

 その時、下を見た。底の見えない黒々とした闇があった。魂が吸いこまれそうな感覚を憶えて気が遠くなりかけた。

 水面は見えなかった。だが掘はかなり深いのがわかった。堀に落ちても溜まった水で助かるかもしれない。

 だがそこから這い上がるのは非常に困難だろう。いや落下することなど考えてはいけない。その時また主人の声がした。恐怖で声が出ない。やがて搾り出すようにして言った。

 「・・・」

 「え?なんだって?」

 ホンタムが板に身を乗り出して聞き返した。途端に板がさらにたわむ。ローボックは狼狽して言った。

 「だっ、駄目ですって!二人乗ったら絶対、折れますって!」

 「なんだって?もうちょっと大きな声で言ってくれ」

 ホンタムがさらに一歩、進んだ。たわんだ板は限界なのか軋む音まで聞こえた。ローボックがヒステリックに言った。

 「危ないってのがどうしておわかりにならないんですか、この天然ボケ貴族!」

 「えっ?甘辛いのをどうしてもお代わりしたい、コンビーフも混ぜて?お前は一体、何を言っているのだ?」

 「きいいいいいいっ!」

 ホンタムが訝しげにローボックのしゃがむところまで近づこうとした。すると板が耐え切れなくなったのかとうとう折れた。

 「うわっ!?」

 二人は悲鳴を上げた。そしてそのまま水掘に落ちるかと思われた。だがその時、落下する彼らの手を握った手があった。

 ホンタム主従がはっとなって見上げた。するとアズとサスケが呆れた様子で二人の腕を掴んでいた。

 城側から思いっきり手を伸ばして二人の腕を掴んでいる。どうやらホンタム主従は思ったより城側まで近づけていたようだ。アズが呆れた様子で言った。

 「ったく、二人で何やってんだよ?」

 ホンタムが困ったように言った。

 「ローボックが中々、進まないから様子を見に行ったのだ。そうしたら途中でいきなり板が折れたものだから」

 ローボックが目を剥いて言った。

 「あ!?ホンタム様、今すべて私のせいにしましたね!」

 「だってそうじゃないか」

 「御家に仕えて五十余年。粉骨砕身して仕えてまいりました私をまるでゴミのように切り捨てるんですね?

 わかりました。このお仕事が終わり次第、辞めさせていただきます。ええ。もう冷たい主人に仕えるのに疲れました」

 「おいおい。急にどうしたんだ。わかった。わかった。私は悪くないがお前も悪くない。これでどうだ?」

 「なんですか、その言い草は。もういいです。やはり辞めます」

 「困ったなぁ」

 ホンタムが闇の中で頭を掻いた。アズは呆れた様子で呟いた。

 「困ったのはこんなところで喧嘩に付き合わされる俺達のほうだよ・・・」


 城壁を見上げた。暗くて正確とはいかないが目測で通常の建物の五、六階、いやそれ以上の高さがある。

 ホンタムにどうするのか尋ねるとホンタムは城壁の中ほどの高さを指差した。アズとサスケが訝ってそこに目を凝らした。

 すると陰でよく見えなかったがそこの部分だけ闇の色が違って見えた。ローボックが言った。

 「恐らく前の戦争で壊されたんでしょうなぁ。人一人がくぐれるくらいの穴が開いているんです」

 だがそれでもそこまで三、四階くらいの高さがある。どうやって上るのか。ホンタムを見るとホンタムはローボックに袋から鉤爪のついた縄を取り出させた。

 どうやらそれを穴に引っ掛けて上るつもりのようだ。三人が見ている傍でローボックが勇ましく頭上で縄を回し始めた。そして狙いをつけると穴目掛けて投げた。

 「そりゃあ!」

 だが鉤爪はそこに到達する前の壁に当たって跳ね返った。ローボックは頭を掻いて言った。

 「ちょっと手元が狂いました。ははは」

 ローボックは今度は外すまいと目を血走らせて穴を見上げる。

 「そう、りゃっ!」

 縄が放たれた。だがまたもや外れた。ローボックは地団太を踏んで悔しがった。

 「うぬぬぬ!おのれ!」

 ローボックが再びトライした。だが何度やっても頭に血が昇っているせいか外してしまう。そして外すたびにそれでさらに血が昇る。

 アズとサスケの目にはひどく悪循環しているように見えた。だがホンタムは気にしたふうもなく応援している。

 「それ!そこだ!諦めるな、ローボック!挑戦し続ければいつか成功する!」

 アズが呆れ果てて呟いた。

 「諦めないのは大事だけどいつまでやってるつもりだよ」

 そこでアズはローボックに断ってサスケに投げさせた。サスケは飛礫の名手である。一発で鉤爪を穴に引っ掛けさせた。

 四人は縄を伝ってなんとか壁をよじ登った。そして穴に入るとそこは塔の中ほどの位置だとわかった。

 螺旋階段が上下に続いている。ホンタムの誘導で一行は階段を下りて行った。一階につくと戸の無い入り口の陰から外をうかがった。

 城の中庭が見えた。かがり火が各所に焚かれている。だが暗がりも多いので簡単には見つかりそうにない。

 衛兵は確かではないが五人はいるようだ。暇そうにしているか、ぼんやりと私語を交わしている。左手は壁がしばらく続きその先に城門があった。

 右手は小さな倉庫のような建物がいくつか続いている。アズは塔の入り口陰からそられを見てホンタムに訊いた。

 「これからどうする?」

 「城館にある姫の部屋に行く」

 アズは中庭に目を戻した。中庭奥に一際大きな建物が見える。教えられなくてもわかる。そこが城館なのだろう。

 だがそこまで行くのが問題だった。城館の入り口前にも衛兵の姿があった。正面からは入れない。その衛兵を倒して侵入しようとすれば物音が起こる。

 そしてそれを聞きつけて中庭の他の衛兵が駆けつけてくる。そうなればアウトだ。一行は相談した。

 その結果とりあえず移動することにした。城壁沿いの暗がりを利用すれば密かに城館近くまで行ける。後のことはそこからだ。

 <3>

 一行は中庭の壁にへばりつくようにして移動した。城壁内側はすべて暗がりというわけではない。

むしろ所々にかがり火が焚かれている。

 そのため絶えず衛兵の目を気にして進んだり立ち止まったりした。中庭には城館の他、騎士館、貯蔵室、厩舎など様々な大小の建物がある。

 それらがあるため必ずしも壁伝いに進めたわけではなかった。建物の前に回りこまないと進めない場合があった。

 そして使用人用居住館前の暗がりに潜んでいた時だった。城門から犬を連れた衛兵が中庭に戻ってきた。

 どうやら城の外を巡回してきたらしい。それを見てアズは危ないところだったと思った。少し前まで外壁に潜んでいたからだ。

 だがほっとしている暇はなかった。犬の耳がぴくっと動き、犬がこちらを見て鼻を蠢かせたからだ。一行は慌てた。

 犬との距離は三十メートルほど。不審な匂いがあったらすぐわかる。犬がこちらに向かって駆け出そうとする気配をみせた。

 犬を連れた衛兵はこちらの存在にまったく気づいていないので犬の紐を引っ張って落ち着かせようとする。

 一行は焦った。ここに留まっていれば犬はさらに騒ぎ立てる。早く犬から遠ざからねばならない。その時ホンタムが一つ隣の建物を指差した。

 皆がその建物を見ると灯りはついておらず戸も少し開いている。無人で侵入可能ということだ。そこまで行くのに暗がりが少ないのが危ぶまれたが迷っている暇はない。

 発見される危険を犯してその建物内に飛び込んだ。入ると暗闇からブルルッという何か生き物の鼻息のようなものが聞こえた。

 獣臭も濃い。ローボックが震え上がって主人の腰に抱きついた。アズとサスケは油断なく闇の中を透かし見た。

 その生き物の正体はすぐわかった。二人は拍子抜けしたように肩の力を抜く。一行は厩舎に入ったのだ。

 建物の真ん中を通路が奥まで続いている。その両側は仕切りの板が続き、その上から馬が頭を出してぎょろりとした目をこちらに向けている。

 「なぁ~んだ」

 ローボックがほっと息をつくとそれまで一緒になって震えていたホンタムが胸を張って言った。

 「私はとっくに気づいていた。存外恐がりだな。ローボック」

 「!?さっきまで私と一緒に震えておられたではありませんか!」

 「あれは、その・・寒かったのだ」

 「へぇ。壁を登ったり中庭を小走りしたりして体は温まっていたはずですがね。お一人だけ寒いとはおかしい」

 ホンタムが言い返そうとするのを見てアズはうんざりした様子で言った。

 「姫の部屋に忍び込むんだろ。静かにしてくれよ」

 ホンタム主従は黙ったが互いに不満そうな表情を浮かべていた。その時サスケが言った。

 「おい・・・なんか聞こえねえか?」

 アズらは耳をすませた。

 「・・・別に何も聞こえねえが。まぁこの馬達は別だが」

 「違う・・中からじゃない・・・外からだ!」

 皆が戸口を見るのと同時に戸を押しやって踊りこんできた影があった。さっきの犬だ!

 「わわわっ!?」

 犬は戸口で通路の少し先にいる一行を睨むように見た。犬は狩猟犬で熊とでも闘えるような大きさがあった。

 長い手足に鰐のように長い顎。口脇から垂らした舌がグロく長い。犬が血走ったような目を一行にロックオンした。

 「わわっ!?逃げろーっ!」

 サスケの悲鳴と共に一行は奥に向かって走り出した。それがきっかけになったように犬も飛び出した。

 通路の床は干草の屑が散乱しているため走りづらい。一方、犬は飛ぶように走って見る見る間に距離がちじまる。アズは通路両側の仕切り板を見て言った。

 「みんな!お馬ちゃんのところに飛び込め!」

 馬への仕切りは上下に大きな空間があった。皆は下から潜り込んだ。少し遅れて犬も続く。驚いたのは馬である。

 見知らぬ人と犬が突然、入ってきたものだから大混乱になった。厩舎はヒヒィーンという馬のいななきとハッハッハッという犬の息遣い、うわああああっ!?という誰かの悲鳴で大騒ぎとなった。

 その時、厩舎の外では騒ぎを聞きつけた衛兵が集まってきていた。だが真夜中になぜこんな騒がしいのか。

 迷信深い彼らは悪霊か物の怪の出現かと恐れて中々、中に踏み込めなかった。厩舎の中ではホンタムの苦痛の叫び声が聞こえた。

 「ぐわっ!?こ、この無礼者!我が高貴なる尻に噛み付くとは無礼千万!犬とはいえ許せん!おい、ローボック!こ奴を手討ちにしろ!」

 「出来ません。逆に私がこの犬に手討ちにされてしまいます」

 「じゃあ私がどうなってもいいのか!?」

 「ご安心ください。尻を噛まれたぐらいでは人間、死にません」

 「この薄情従者!」

 その時サスケが厩舎横に窓があるのに気づいた。サスケはすかさず皆に言った。

 「表はもう衛兵が集まってきて出られない。あそこの窓から出るんだ!」

 言うや否や彼は窓枠に飛びついて本物の猿のように外に出る。残りの者も順に窓から出ようとする。すると犬に尻を噛まれたままのホンタムが言った。

 「待ってくれ!私はどうなる?この犬も連れて行くのか!」

 ローボックはその時、窓枠に手と足をかけていて意地悪そうに言った。

 「この際、尻の肉の一部をその犬にくれておやりなさい。そうすれば離れるでしょう。ホンタム様は最近、運動不足でお太りになられています」

 「私の尻はトカゲの尻尾じゃないんだぞ!」

 アズはうんざりして戻り犬のケツを蹴っ飛ばしてホンタムを解放してやった。


 中庭にいる衛兵全員が厩舎前に集まったお陰で一行はこっそり城館に入ることができた。後は姫の部屋を探すだけだ。

 そして貴人の部屋は大抵、上階のほうと相場が決まっている。アズが用心しながら先頭で階段を上っていると後方から声が聞こえた。

 「だからさっきから謝っているじゃありませんか」

 「お前の本性を見た気がしたぞ。真面目に仕えているふりをして私を軽んじていたのだな」

 「あれはちょっと言いすぎました。ホンタム様がさっき私を馬鹿にしからですよ」

 「それは謝ろう。だがそれとこれとは話が別だ」

 「どれがあれとこれなんです?」

 「あれというのはな。ええと・・・」

 アズは顔をしかめて口に人差し指を当てて見せた。主従はばつが悪そうに黙った。最上階に着くとサスケはいくつかある扉を見て首をかしげた。

 「う~ん。どれが姫の部屋なんだろう?」

 「一々、中に入って調べるわけにもいかんしな・・・そうだ。同じ貴族が傍にいるじゃないか」

 アズはホンタムにどの部屋が姫のものか調べさせた。ホンタムは注意深く扉を調べていきやがて一つを選び出した。

 ホンタムが静かにドアノブを回した。鍵がかかっていた。ホンタムが従者を見る。 ローボックは心得た様子で頷くと懐から小袋を取り出した。

 そしてその中から短い針金のような道具を取り出して鍵穴に差し込む。アズがホンタムに囁いた。

 「あれで開けられるのか?」

 「まぁ見ていてくれ」

 すると程なくして本当に錠が開いた。細心の注意を払って扉を開けるローボックにサスケが賞賛するように囁いた。

 「凄いな、ローボックさん」

 ローボックが得意げに笑って囁き返した。

 「ホンタム様に仕えるということは非常に苦労するものなのです。なのでこんなことも自然に憶えてしまいました」

 「どんな苦労してきたんだよ」

 ホンタム以外の三人は室内に入るのを遠慮した。身分違いということもあるがホンタムも彼らがいては恋心を吐露しづらかろう。

 ホンタムは薄暗い室内を手探りで進んだ。やがて窓から差す月明かりで天蓋つきの寝台を見つけた。

 そこに眠るのは十代後半の少女でおぼろげに憶えている容貌から間違いなくアンジェラだと思われた。

 すやすやと穏やかに眠るアンジェラを見てホンタムの胸は感動に打ち震えた。苦節二十余年。幼児の頃から憧れ続け夢にまで見た女性が今まさにそこにいるのである。

 「おおっ、なんという愛くるしい寝顔なのだ・・・このまま接吻して・・いかん!就寝中の無防備な女性に対してそんなハレンチな真似をするわけにはいかん。

 しかしなんという可憐さなのだ。あの小うるさいローボックもいないし、ちょっとだけなら・・・いやいかん!」

 ホンタムが悶々としているとアンジェラがう~んと呟いた。

 「まだ寝かせてよ、マヤ・・・ノーザには内緒で・・・」

 「よろしいですとも。好きなだけお休みなさい・・・いや、それでは私の想いを聞いていただけぬな」

 「何言っているのよ、マヤ・・・」

 アンジェラはそう呟いていてふと違和感を覚えた。男の声のような気がした。父か家宰以外の男性が自分の傍に来ることはめったにない。

 今の声、誰!?目を開けて寝台脇を見た。すると見知らぬ若い男が立っている。

 「だっ誰!?」

 その時、室外で待機していたアズがその声を聞いて首をかしげた。

 「変だな。どこかで聞いたことがある声のような・・・?」

 ホンタムは慄くアンジェラを必死に落ち着かせようとした。

 「落ち着いて。落ち着いて」

 むしろホンタムのほうがあたふたしている。

 「私は決して怪しいものではない。いや本当です。大抵の人が私をいい人だと評してくれる。それに神への奉仕も忘れたことはないし貧者への施しだって・・・」

 アンジェラは謎の若い男が必死になって弁解しているのを見て次第に落ち着いてきた。確かに悪人には見えない。

 だがこんな夜中に断りもなく女性の部屋に入るのは悪人ということになる。ホンタムの言い訳は続く。

 「もう亡くなられたが親孝行だってちゃんとしてきた。一日一善、いや二善。三度の飯より善行のほうが好きというくらいだ。

 いや私は何を言っているのだろう?そうだ、とにかく私は悪人ではない。わかっていただけただろうか?」

 アンジェラは警戒するように毛布を胸元まで引き上げて訊いた。

 「悪人かどうかはともかく。、あなたはどなたなんです?」

 ホンタムははっと今、気づいたように頭に手を当てた。

 「こっ、これは失敬を。今まで名乗らなかったとは失礼千万。いや貴族として失格。男子としては合格。いやまた私はおかしなことを・・・」

 アンジェラは少し苛ついて言った。

 「私はお名前をお聞きしているんです!」

 ホンタムは額の汗を拭き、なんとか自分を落ち着かせて言った。

 「何を隠そう・・おっとまた余計なことを・・・その、私は・・・私はホンタム。アンドレ・ホンタムです」

 「えっ!?子爵のホンタム様!」

 アンジェラは驚いた。ホンタム家の治める領地はここホギュンからそう遠くはない。最近は聞かれなくなったがその名は少し前の貴族社会で実直な中堅貴族として通っていた。

 そのホンタム家の人間がなぜここに?いや彼の言っていることは本当だろうか?アンジェラが不審そうな表情で見ているとホンタムはその疑念を察して言った。

 「私が本物のホンタムだというのはこの剣が証明してくれる。当主の剣です」

 ホンタムは剣を鞘ごと抜くとアンジェラに差し出した。アンジェラは恐る恐るそれを受け取ると月明かりに照らした。

 すると確かに剣の柄にホンタム家の紋章があった。鞘から剣は抜かなかったが柄のちりばめられた宝石といい見事な意匠といい貴族のものに間違いはない。

 その時アンジェラはくすっと笑った。ホンタムが訝しげに訊いた。

 「何か?それともまだ信じられないのだろうか」

 「いえ。確かにこれはホンタム様のものだと確信いたしました」

 アンジェラが思わず笑ったのはこの闖入者がなんの躊躇いも無く自分の剣をアンジェラに渡したことだ。

 本物の賊ならばそんなことはしないだろう。ホンタムは安堵した様子で続けた。

 「こうした手段を選ばざるを得なかったのには理由がある。実はこれまで何度もあなたに面会を求めたのだ。

 だがお父君が許してくれん。凋落したホンタム家の人間なぞに会う価値はないとばかりに・・・」

 アンジェラは驚いて聞き返した。そんなこと父からまったく聞いていない。

 「どういうことですの?」

 「い、いや。いいのだ。そんなことより私の話を聞いて欲しい。あなたと私は結ばれる運命にあるのです。十数年前のことを思い出して欲しい」

 「十数年前?随分、昔のことですね」

 「ほら。ホンタム城で。幼い私達は出遭って。そして・・・」

 その時、彼女は眉根を寄せた。

 「十数年前といったら私、三歳くらいじゃないですか。そんな幼児の時のことを憶えているわけないですわ」

 「お、憶えていない・・・」

 ホンタムはがっくりと肩を落とした。だがすぐに顔を上げて言った。

 「でも私の顔くらい覚えているのでは?いや成長して変わってしまったが面影というかなんとなく覚えがあるのでは?」

 アンジェラは必死に自分を指差すホンタムを見た。だが何も思い出せない。

 「ごめんなさい。まったくわかりません」

 「そ、そうか・・・」

 ホンタムは部屋の隅にある椅子に行って力なく座った。アンジェラはそれを見て気の毒に思った。だが事実なのだから仕方ない。

 ホンタムはしばらく落胆の色を露にしていたがやがて気を取り直して言った。

 「よし。わかった。では改めて申し込もう。あの、その・・・」

 ホンタムが何か言いかけた。だがそれは言葉にならず頬を赤らめてもじもじしている。アンジェラはその態度に苛ついた。

 男子なのにはっきり物が言えないなんて情けない。待ちかねて訊いた。

 「なんですの?はっきりおっしゃってください」

 ホンタムは深呼吸した。姫は苛ついている。結婚の申し込みをしても男らしくないのではとても受けてはくれない。アンドレ・ホンタム一世一代の大勝負!

 「アンジェラ姫!」

 ホンタムの真剣な表情にアンジェラははっとなった。ホンタムの熱っぽい心情が心に訴えてくる。何?何を言おうとしているの、この人?

 ホンタムが口を開きかけた。その時、扉から影が飛び込んできて言った。

 「不味いぜ、ホンタムさん!衛兵が巡回して来た!」

 それでホンタムの口が止まった。だがなんとか言い終えようと再度、口を開こうとする。だがその前に影がホンタムの腕を掴んだ。

 「なにやってんだ!今の、聞いただろう!急ぐぜ!」

 ホンタムは無念そうにこちらを見ながら引っ張られていった。アンジェラは突然のことに呆然となったがそれより不審を感じたことがあった。

 「今の声・・・アズじゃないよね!?」

 <4> 

 室外に出るとサスケとローボックが緊張した様子で後方に目を向けていた。サスケがアズに目を向けて言った。

 「ヤバいぜ。確実にこっちにやってくる」

 ローボックが振り向いて主人に訊いた。

 「首尾はいかがでしたか?」

 「想いを遂げる前にアズ君に連れ戻された・・・む、無念」

 肩を落とすホンタムに従者は気にしたふうもなく言った。

 「お気を落とさずに。仕方ありません。曲者が迫っているんですから」

 するとサスケが首をかしげた。

 「この場合、曲者って俺達のほうじゃね?」

 さっき上がってきた階段から足音が聞こえてくる。たまに話し声からすると複数のようだ。ローボックが焦ってアズに訊いた。

 「どうなさいます?捕まれば私どもはともかく、あなた方はただではすみません」

 アズは急いで通路の前後を見た。奥は突き当たりで戻れば衛兵と鉢合わせになってしまう。サスケが念のため近くの扉を開けようと試みた。

 だがやはり錠がかかっている。ローボックが今から他の錠を開けようとしても間に合いそうにない。アズは通路の前後を何度も見ていてふと思いついた。

 錠が開いている部屋が一つだけあった!

 「ホンタムさん。また姫の部屋に入る。今度は全員でだ。彼女には悲鳴を上げないよう頼んでくれ!」

 首をかしげるホンタムの背を押して全員でアンジェラの部屋に入った。アンジェラは入ってきた大勢の人影に驚愕した。ホンタムが前に出て自分の顔を指差した。

 「私です!ホンタムです!」

 アンジェラは彼だとわかって安心したが同時に呆れた。さっき出て行ったばかりではないか。それにこの人達は何?

 暗くて容貌はわからないが安全な人達なんでしょうね。すると急いだ様子でホンタムが事情を説明した。

 そして匿って欲しいと必死に頼む。アンジェラは溜息をついて承知した。その時、扉を叩く音がした。

 「お嬢様。ご就寝のところ申し訳ありません。さきほどお部屋に人影が入るように見えたものですから」

 ホンタムとその人影達は必死に息を潜めて成り行きを見守っている。それを見てアンジェラにいたずら心が湧いた。

 少し慌てさせてあげようかしら?だがそれも気の毒だと思い直した。

 「あなたの見間違いでしょう。誰もこの部屋には来ていませんよ。ああ、そういえば廊下の奥のほうで何か音がしたような・・」

 「音が!?失礼しましたっ」

 衛兵らの気配が遠ざかっていく。少しして人影達が内側から扉を僅かに開けて外をうかがった。老人の声が言った。

 「大丈夫のようです。彼らは行ってしまいました」

 「今の内に移動しよう。それ、急げっ」

 人影らが順に室外に出ていく。ホンタムがアンジェラに向き直って口を開いた。

 「さっきの続きです。こう言いたかった。あなたにけけ、けっこ・・・わわっ!?」

 「何をやっておられるんですかっ!もう愚図なんだから!」

 ホンタムは戻ってきた人影に襟首を捉まれ連れ出された。アンジェラはそれを見て呆然と呟いた。

 「一体・・・何を言いたかったのかしら?」

 そして最後の人影が出て行く前に言った。

 「サンキュー、姫さん」

 アンジェラはそれを聞いて驚いた。やっぱりアズの声としか思えない。


 階段を駆け下りて城館入り口に着いた。扉を小さく開けて中庭をうかがった。特に警戒が厳しくなったようには見えなかった。騒ぎのあった厩舎も今はひっそりとしている。

 「よし、すぐに脱出しよう」

 するとホンタムが苦しげに呟いた。

 「無念だ・・・あそこまでいって想いを遂げられんとは・・・ううう!」

 ローボックが疑わしげに言った。

 「その割には随分長く姫の部屋におられましたよ。何をされていたんですか?」

 ホンタムはドキッとした様子で言った。

 「何をって。決してハレンチな真似などしておらんぞ。無礼者め」

 「ハレンチとは申し上げておりません」

 一行は元来た道を引き返した。

 「犬がまだその辺にうろついているかもしれない。静かにな」

 先頭のアズが皆に注意した。一行は身を低くかがめながらアズ、サスケ、ローボック、ホンタムの順で移動した。するとしばらくしてアズが不意に小声で命じた。

 「止まれ」

 皆が何事かとアズの視線を追うと中庭の真ん中辺りを衛兵が歩いている。トイレにでも行くのか。衛兵が騎士館に消えるとまた歩き出した。

 「静かにな。静かに。行きよりも帰りのほうが難しいんだ」

 そしていくつかの建物を過ぎて厩舎前に差し掛かった時だった。突然、最後尾で、うっひょおおおっ!?という声が聞こえた。

 そこにはホンタムがいるはずである。幸い小声だったので離れたところにいる衛兵には気づかれなかった。皆が迷惑そうに振り返った。

 「なに喚いているんだよ、ホンタムさん?」

 するとホンタムが青ざめた笑みを浮かべて自分の尻を指差している。暗くて何を指しているのかわからない。

 するとホンタムの尻あたりから、ガルルルルッという唸り声が聞こえた。

 「ひょっとして・・・」

 皆が目を凝らすとやがて暗がりから黒い犬の姿が浮かび上がった。犬はガルル、ガルルと唸って頭を振る。

 噛み付かれたホンタムはその度に、あううう!?とか、あっふ~ん!と痛いのか気持ちいいのかわからない声を漏らす。

 「とにかくなんとかしなきゃ」

 アズが回り込んで犬のケツを蹴っ飛ばそうとした。

 「あっ!?」

 すると犬は学習したとみえてその蹴りをかわした。犬は少し距離を取ってこちらを睨む。

 「このっ!」

 今度はサスケが飛礫を放った。すると犬はひらりとそれさえもかわしたではないか。

 「こいつ、強敵だぜ!」

 サスケが身構えた。ホンタムが自分の尻を見るとズボンが破れて生身の尻がむき出しになっている。

 驚愕して、尻がぁ!?私の尻が風邪を引くぅぅぅ!と喚いた。ローボックはそれを見たが助けもせず口を押さえて、ぷぷぷと笑いを堪えている。

 アズはこの状況を見て焦った。こんなんじゃすぐ衛兵に気づかれてしまう。まずこの犬をなんとかしないと。

 犬を見た。すると犬はアズだけを睨んでいるように見える。ぴんっと来た。さっき厩舎で蹴られたことを恨みに思っているのだ。アズは皆に言った。

 「この犬は俺が引き受ける。その隙にみんなは脱出してくれ」

 サスケが心配した様子で訊いた。

 「おめえはどうする?」

 「犬を片付けたらすぐ追うよ」

 サスケは頷いた。アズの腕なら犬一匹、いくら手強かろうがなんとかなる。サスケは皆を促そうとした。

 するとその時、騎士館の扉が開いて衛兵の一人が出てきた。そして犬の唸り声を聞いて一行のほうに目を向ける。

 「どうした、ジョン。何かあったのか・・・ん?誰かそこにいるのか?」

 暗がりに身を潜めて隠れようにも犬の視線がロックオンされている。誤魔化しようが無かった。衛兵は暗がりから浮き上がった一行の影に驚いた。

 「何奴!曲者だ、出会え!出会えおろう!」

 その声に各所にいた衛兵がこちらに集まってきた。アズが他の者を急かした。

 「早く行けって!ここは俺がなんとかする。サスケ!二人を頼む!」

 サスケは頷くと先頭に立ってホンタムとローボックを促した。侵入は露見した。こそこそする必要はない。

 全力で塔まで走った。すると着く前に槍を持った二人の衛兵が立ち塞がった。すかさず飛礫を放つ。

 闇で飛礫は見えづらい。衛兵は容易く昏倒させられた。アズは三人の行動を目の端で見ながら斬りかかり槍で突く衛兵を次から次にさばいた。

 ようやく三人が塔の中に入った。後は階段を上って階段途中の穴から縄を伝って下りれば脱出できるだろう。

 アズはサスケらの後を追わせないよう塔の入り口をその身で塞いだ。何本もの槍が突き出されてくる。

 それらを払いのけ槍のけら首を掴んで引き寄せてバランスを崩させる。そうやって激しく身を動かしていた時、不意に獣気を感じた。

 ぱっと身を翻して見るとちょうど犬がアズの尻に噛み付こうとしていたところだった。

 「この犬、どんな教育されてんだ!?尻ばかり狙いやがって!」

 狙い済ました前蹴りが逃げようとする犬の肛門辺りに炸裂した。犬はきゃんきゃん鳴いて尻尾を丸めて退散した。

 城館や騎士館から次々に武装した人間が出てくる。アズへの半包囲は二重三重になった。アズも早く身を翻して塔の中に飛び込まねばならない。

 だが背を向けた瞬間、突かれそうでとても動けなかった。

 「ここまで、か」

 諦めて両手を上げた。


 サスケらは急いで城壁の穴から縄を伝って下りた。そして地上に着くと水掘を越えて市壁まで走った。

 そこに着くと廃棄された建材の陰に身を隠す。安堵の息をついた。追っ手の気配はない。とりあえず危険から脱せたようだ。

 アズは大丈夫だろうか?建材の陰から城壁の穴を見上げた。だがアズは中々、姿を現さない。サスケがジリジリして言った。

 「どうしたんだよ、アズ!お前の腕ならあんな奴ら、ぶっ倒せるだろう!」

 ローボックが声の大きくなったサスケを宥めた。それからさらに待った。だがとうとうアズは姿を現さなかった。ホンタムが苦しげに言った。

 「ここまで待っても現れないということは・・・」

 「アズ!」

 サスケが蒼白になって戻ろうとした。それを二人が慌てて止めた。ローボックに押さえられたサスケをホンタムが説得した。

 「恐らく彼は捕まった。だがすぐ殺されることはない。尋問に時間が取られるはずだ。まだ救出のチャンスはある」

 そして空を見上げた。白み始めている。

 「まずはここから離れよう。もうすぐ城の周囲は捜索される」

 

 アンジェラはホンタム一行が去った後また寝床についた。だが中々、寝付くことは出来なかった。そしてようやくうとうとし始めた頃には朝になっていた。

 女中らが姿を現して朝の挨拶をする。仕方なく起きた。そして朝を仕度をしていると外が何やら騒がしい。

 訝って女中に何かあったのか訊いた。すると昨晩、賊が侵入したと恐ろしげに話した。ぴんっときた。

 ホンタム様のことだわ!帰る時、発見されてしまったようだ。アンジェラは心配になったが平静を装ってそれで賊はどうなったのか訊いた。

 すると一人を除いて逃げられたという。そして早朝、城中やその周囲を衛兵が総出で捜索したが賊の形跡は見つけられなかったらしい。

 アンジェラは内心でほっとした。恐らくホンタム一行は逃げ切ったのだ。だが逃げ遅れた一人というのが気になる。

 ホンタムが忍び込んだ理由は自分に会うためだ。従者も何人か連れてきたようだ。まさか従者が主人を見捨てて逃亡するはずがない。

 逃げ遅れたのは恐らく従者の一人なのだろう。だがやはり心配になって朝の着替えを済ませると城館担当の衛兵に何気なく捕まえた賊はどうなったか訊いてみた。

 すると地下牢に入れてあるという。地下牢は塔の下にあり以前は問題を起こした衛兵や使用人が入れられたと聞いた。

 やがて朝食の時間になった。その席で賊のことを何気なく話題にしようかと思った。だが両親はいつものように無言で食事したためその機会を逸した。

 朝食が済むと自室に戻った。どうやって従者の状態を知ろうか。賊の正体が自分を慕って来てくれた人間の従者とわかっているのでどうなっているか知りたい。

 ここはやはり自分で調べるしかないようだ。とりあえず仲の良いマヤらにも知らせず地下牢に行ってみることにした。

 城壁に間隔を置いて造られた、いくつもの塔は戦時は望楼の機能を果たすが平時はあまり役に立たない。

 アンジェラはその中の一つに入って地下への螺旋階段を下りた。最近は城の人間が問題を起こしても叱責程度で済まされるため地下牢は久しく使われていなかった。

 階段を下るにつれて冷気が増してきた。雨漏りした跡なのか所々が濡れていてひどく不潔に見える。

 やがて螺旋階段の曲がる先に地下牢のある階が見えてきた。だが入り口付近に衛兵が立っていてこれ以上、進めない。

 恐らく父が誰も通すなと厳命しただろう。どうしようかと階段途中の死角から牢をうかがっていると声が聞こえた。

 耳を澄ますと衛兵と若い男の声だとわかった。衛兵は何者か、どんな目的で城に忍び込んだかと強い調子で尋問している。

 若い男は短く拒否の言葉を発したのみだった。だがその声を聞いてアンジェラは確信した。アズの声に間違いない。

 でもなんで彼が?最近ホンタム家の従者になったのだろうか?でも彼は不服従の性格を持っている。

 貴族の従者になりそうにない。アンジェラが不審に首をかしげていた時、殴打する音が聞こえた。衛兵がアズを叩いている!?

 止めさせなきゃ!でもどういう理由で?彼は城に忍び込んだ犯罪者なのだ。理由がなければかばえない。

 殴打音とアズの呻き声を聞いていられなくて自室に戻った。なんとかして彼を助けなきゃ。方法を考えているうちに昼が過ぎて夜になった。

 そして晩餐の席について父の顔を見た時アズの処罰がどうなったか訊いてみることにした。すると父は答えを渋った。

 若い娘が関心を示すことではないという。だが言い繕ってなんとか答えを聞き出した。縛り首にしようかどうか迷っているという。

 アンジェラは絶句したがその理由を訊いた。城に忍び込んだとはいえ何か盗んだわけでも誰かを傷つけたわけでもない。

 いきなり縛り首とは極刑すぎる。すると男爵は困ったように言った。

 「サベルが縛り首にしてくれといつになく主張してな」

 サベルとは騎士隊長で城の警備責任者を任されている。サベルに訊いてみようかと思った。だがサベルは押しが強く傲然としたところがあるので苦手だった。

 自室に戻ってどうすべきか焦っているとマヤらが心配した様子で見ているのに気づいた。アンジェラは思い余って彼女達に事情を打ち明けた。

 するとオモが珍しくむすっとした顔で言った。

 「サベル隊長は誇りを傷つけられて怒っているんですだ」

 どういうことか訊くと自分の警備する城に賊にまんまと侵入されたばかりか部下数人が手傷を負わされた。

 しかも大半に逃げられている。これでは城主から責任を問われて当然だというのだ。だから賊が許せなく極刑にする。

 アンジェラは納得した。サベルの押しの強さは父さえ辟易することがある。早くしないと翌朝には極刑に処されてしまうかもしれない。アンジェラは焦った。するとマヤが言った。

 「捕まっているのはアズさんなんですよね?なら良いアイデアがあります」

 <5>

 その夜、地下牢の番人は階段を下る足音がしたので階段の上を見上げた。すると城館の女中が三人、袋を持って下りてくる。

 なぜ女中がこんなところに?訝っているとその内の小柄で可愛らしい一人がにっこり笑って言った。

 「恐ろしい賊を見張って大変でしょうと姫様が差し入れを持っていくよう命じられました」

 マヤとオモが袋からワインとグラスを取り出した。もう一人の、頭にスカーフを巻いた女中は俯いている。

 牢番は喜びの声を上げた。だが仕事中であるのにすぐに思い立って残念そうに断った。だがいかにも未練があるようにワインに目を注いでいる。

 マヤらは断られたら私達が叱られる、姫のお心遣いを無駄にする気かと巧みに飲ませ続けた。そして何杯、杯を重ねただろうか。

 牢番の目はうつろになり立っているのがやっとという状態になった。やがて牢番はさすがに飲みすぎたと思ったようで断るようになった。

 彼は女中がいるのにも構わず派手にゲップして壁に寄りかかった。マヤらは後片付けするふりをして盗み見ているとやがて彼らは壁に寄りかかったまま寝てしまった。

 オモがそっと近づいて牢番の状態を確かめた。

 「いいだ。すっかり寝入っちまっただ」

 マヤが感心して言った。

 「あなたのお薬って凄くよく効くのね」

 「おらの村じゃ、盗賊に押し入られた時この薬を酒に混ぜて飲ませたもんだ。すぐ前後不覚になるだ」

 マヤらが振り向いて俯いたままの女中に言った。

 「もう安心です」

 その女中が顔を上げた。なんとアンジェラだった。オモが牢番の腰から鍵束を取り上げて地下階入り口の鉄門錠に鍵を差し込んで開けた。

 一行は恐る恐るそこに入る。地下階は通路が真ん中にあってその両脇にいくつかの牢があった。アズは一番、奥の牢に入れられていると聞いた。

 通路に足を踏み入れるとネズミの糞やら汗のような汚臭がしてオモ以外の二人はひどく顔をしかめた。

 壁の燭台も数が少ないので暗がりが多く普通なら絶対、足を踏み入れたくはない場所だ。三人はハンカチを鼻と口に当て身を寄せ合って進んだ。

 地下の湿っぽい不気味な雰囲気に身をちじこませながら進んでいくとやがて突き当たりが見えてきた。

 一番奥の左の牢は使われていないようだ。鉄格子に錆が浮き、錠がかかっていないようで牢入り口が僅かに開いている。

 右の牢は入り口がしっかり閉まっていて石の床に引っ掻いたような、開閉の跡が見られた。三人はそこから二つほど手前の牢で立ち止まって囁き合った。マヤがアンジェラに注意した。

 「恐らく暗くてアズさんからは見えないでしょうけどお姿を見せてはいけません。なんでこんなところにいるのか不審がられます。一つ手前の牢で足を止めて話しかけるのです」

 アンジェラは頷いた。そして言われたように一つ手前の牢から最奥の牢に話しかけた。

 「もし・・・」

 最奥の牢から身を起こす気配がした。だが声は出さない。本当にアズなのかしら?アンジェラは自分だと、街娘のアンだと悟られぬよう声音を変えて言った。

 「もし・・・泥棒さん」

 気配が鉄格子まで寄って来た。だが向こうからは角度的にこちらは見えない。

 「・・・誰だ?なんで女がここにいる?」

 やはりアズの声だった。

 「私は誰でもいいの。あなた、そこから出たいでしょう?」

 「当たり前だ。こんなところにいたら鼻が曲がっちまうよ」

 思わずアンジェラはクスッと笑った。確かにこんな臭い場所は街でも中々、無いだろう。アンジェラが笑ったのを察したのかいくらかアズの気配も和らいだ。

 「出たいのならこれから言うことをしっかり聞いてちょうだい」

 言ってからアズが牢の中でさぞかし怪訝な表情を浮かべているだろうと思うと笑みが浮かんだ。

 

 男爵が居間で寛いでいるとホテルがやってきた。そしてホテルの伝えた内容を聞くと眉をひそめた。

 「何?あの賊めは図々しくもそんなことを言っているのか」

 ホテルが困ったように頷いた。賊が言うことには城に忍び込んだのは財宝目的ではない。自分は武術家で強者を求めて全国を旅している。

 それでホギュンは大きな街なので立ち寄った。来たからにはホギュン一の強者と闘いたい。一番強い強者といえば恐らくホーデン城の騎士だろう。

 だがどこの馬とも知れぬ武術家が普通に勝負を申し込んでも相手にされぬだけだろう。なので仕方なく忍びこんで一番強そうな騎士を探して勝負を申し込むつもりだった。

 決して城主家族、また関係者に害を及ぼそうと思ったわけではない。またもし許されるのならば願い通り城一の強者と闘わせてもらいたい。

 こちらの望みはただその一点のみ。男爵は吐き捨てるように言った。

 「馬鹿馬鹿しい。確かに無名の武術家がいきなり来ても門前払いするだけだが駄目だからといって忍び込もうとするか?嘘に決まっている」

 ホテルも困惑気味で同意した。

 「やはりサベル隊長の言われる通り縛り首になさいますか?」

 「サベルがそうしたいのならそうしてもかまわん」

 その時アンジェラがやってきた。男爵が意外そうに言った。

 「珍しいな。何か私に頼みごとか?」

 アンジェラは惚けて言った。

 「いえ。たまにはお父様とお話でも、と思いまして」

 男爵の頬が緩んだ。

 「こいつ。嬉しいことを言ってくれるじゃないか」

 「今ホテルと話していたことが少し聞こえてしまったんですけど。なんのお話をしていらしたんですの?」

 そこで男爵は賊の申し出を伝えた。アンジェラは面白がったふりをして手を叩いた。

 「面白そうじゃないですか。ちょうど退屈していたところです。本当の武術家なら騎士といい勝負ができるでしょうし嘘なら簡単に負けてしまうだけ。

 嘘だったらその時はお気の毒ですけど縛り首になさったら?忍び込んで嘘までついたんだから文句は言えないでしょう」

 男爵は少し考えてホテルを見た。

 「ふむ。確かに退屈しのぎにはなるかもしれんな。で、相手は誰にする?」

 「賊は城一番の強者を望んでおります。なら騎士隊長のサベル殿がよろしいかと」

 「サベルか。あの男が相手だと血を見ずにはいられないかもしれんな」

 アンジェラはそれを聞いて蒼白になった。自分が出した解決案とはいえまさか相手が騎士隊長のサベルになるとは予想していなかった。

 今は城で規律正しい仕事ぶりを見せているが戦場に出た時は降伏する敵兵を槍で何人も串刺しにした無慈悲な男と聞いている。

 アンジェラはひどく不安になった。アズはサベルに勝てるだろうか?

 

 その日、城の中庭には大勢の人間が見られた。城館前には男爵とホテルがおり、その二人の周りには護衛の騎士ら数人が見られた。

 またいつもは外側を向いている城門の衛兵がなぜか内側を向いている。他の、各所に配備された衛兵もどこか中庭を気にする素振りが見られた。

 と、ある塔の入り口から騒がしい気配が伝わってきた。中庭の人間の注意が一斉にそこに向けられる。

 するとまず何人かの衛兵が塔から出てきて、その後ろから後ろ手に縛られた若い男が出てきた。アズだ。

 アズは衛兵に引っ立てられる格好で男爵の前に連れてこさせられ地に膝をつかされた。アズが見上げると男爵が口を開いた。

 「若いな。二十歳になったかどうかというところか」

 男爵は少し不憫そうにアズを見ていたが仕方無さそうに言った。

 「急に外に出されてさぞ不安だろう。だが安心するがよい。お前の望み通り城で一番の強者と勝負させてやる。よもや異存はあるまいな?」

 アズもそれまでなぜ急に牢から出されたのか訝っていた。だがそれを聞いて合点した。不敵に笑った。

 「もちろんだ。不満はねえぜ」

 すると護衛の騎士が不快げに眉根を寄せた。

 「こやつ。男爵様に向かってなんて口のききようだ」

 手を上げてアズを打擲しようとした。だが男爵が手を上げてそれを制した。

 「良い。教育を受けていない人間とはこういうものだ。では相手を連れてこさせよう」

 男爵が目配せすると使用人の一人が騎士館に行って扉を開けて何か言った。すると程なくして革の胴衣を着た男が出てきた。

 大男だ。だがかなり肥満している。胴衣で体を締め付けているのでわからないが通常の着衣なら歩くだけで脂肪が波打つのだろう。

 またこちらに歩いてくるのでさえ億劫そうだ。男爵はその男に訝った様子で訊いた。

 「サベル。確か甲冑を身につけてくるのではなかったか?」

 サベルは男爵のほうに歩きながら言った。

 「闘いは騎士の華。そのつもりでしたが聞けば相手をまだ若造。そんな相手に甲冑は不要。それゆえ着てきませんでした」

 サベルは侮ったようにアズを見た。その時、城壁の傍で警備していた衛兵二人が面白そうに囁き合った。

 「隊長はああ言ったが実は男爵の前で闘えるというんで昔の高価な甲冑を着てこようと思っていたらしいんだ。

 だが当日になってとても着られないことがわかった。前より体重が二十キロも増えたからな。急遽、他の騎士の甲冑を借りようとした。

 だが超デブの隊長サイズはない。それで仕方なくああなったんだそうだ」

 「太りすぎが原因かよ。それで俺達の隊長だもんな。情けない」

 サベルがようやく男爵の傍にやってきた。アズはサベルを見て眉をひそめた。必死に息を整えているがアズには誤魔化せない。

 たいして距離を歩いたわけじゃないのにもう息を切らしている。こんなのが俺の相手になるのかよ?するとアズの戸惑いも知らず男爵がサベルを紹介した。

 「騎士隊長のサベルだ。サベルは前の戦争では敵の首級を三十も挙げた剛の者だ。近隣にその名を知らぬ者はいない。そうだな、ホテル?」

 ホテルは頷いて言った。

 「その通りでございます。確かにサベル殿はそうおっしゃっておりました」

 アズはまた愕然となった。今の功績は自己申告か!?男爵が言った。

 「もし勝てれば・・・その可能性はまったくなさそうだが。まぁ少しでも善戦してみせ、なおかつまだ生きておれば武術家というお前の言を信じて罪を許し解放してやってもよい」

 「そりゃありがたい」

 ホテルが顔をしかめた。

 「これっ。御前様になんという口のききようだ」

 男爵が鷹揚にホテルに言った。

 「まぁ良い。では始めろ」

 アズは中庭中央に連れていかれると縄を解かれた。縛めの解かれた手首を擦っているとその前にサベルがのっしのっしとやってきた。

 「ゲヘへヘ。男爵様の前でなけりゃ、たっぷりと可愛がってやるのによ。残念だがみんなが見ている。騎士道に則った、綺麗な闘いをしなくちゃなんねぇ」

 サベルの下品な笑みに変質的なものを感じてアズは身震いした。その時、別の騎士がやってきてアズに得物は何を使うか訊いた。

 「要らねえよ、そんなもん」

 サベルを見れば太く重そうな槍を持っている。サベルが怪訝な表情でアズに訊いた。

 「得物が要らんだと?それじゃあどうやって闘う?」

 アズが自信ありげに己の腕をぽんっと叩いた。

 「これでいつも闘ってきた」

 サベルは槍とアズを交互に見て逡巡した様子になった。体格差があり、さらに自分だけ武器を使うのは体裁が悪いと躊躇している。サベルは少しして槍を騎士に渡した。

 「敵が空手なら私も同じ条件で闘う。それが私の流儀だ」

 男爵はそれを聞いて感心したように頷いた。

 「さすがはサベルだ。潔い」

 城館の三階窓から中庭を覗く影が三つあった。アンジェラらだった。マヤが懸念したように言った。 「アズさん。大丈夫でしょうか。相手はあんなに大きい人です」

 アンジェラも同じ気持ちだったが自らを安心させるように言った。

 「アズは強いもの。きっとやってくれるわ」

 審判役の騎士が開始を合図した。サベルは両手を鉤爪のように曲げて笑った。

 「ゲヘへ。さあて。どう料理してやろうかなぁ?」

 一歩前に足を踏み出した。その時アズの、電光のような下段蹴りがその足をなぎ払った。

 「いでぇ!?」

 サべルは何が起こったかわからなかっただろう。狼狽して膝を痛そうに押さえた。アズは蹴った後すぐ足を引っ込めたため周囲の人間も何が起こったのかわからない。

 アズは追撃をせず首をかしげた。本職の騎士と闘った経験はほとんどない。だが闘った相手はどれも強敵だった。

 だからサベルも間抜けのように見えて実は実力者かもしれないと疑っていたのだ。だがこの痛がりようはどうだ。

 とても強者には見えない。いやこちらを油断させるためにわざと弱そうなふりをしているのか。サベルは、いでででと膝を痛そうに擦っていたがはっと周囲を見回した。

 皆、自分を困惑した様子で見ている。しまった!醜態を見せてしまった!サベルはわざと苦笑してみせた。

 「なんということだ。戦場で斬り捨てた亡霊の仕業か、古傷が急に痛み出したわい。ぬわっはっはっは!」

 アズは彼が古傷のせいにしたことに呆れ、最後になぜ哄笑したのか訝った。男爵はその言葉に納得したようだ。

 「なんと。こんな時に古傷が痛み出すとは。不運な」

 ホテルも言った。

 「歴戦の勇者となると全身、傷だらけですな」

 周囲からサベルに同情する声が多く出た。それでサベルは安堵した表情になった。そして改めてアズに向き直った。

 「何をしたのか知らんがもうその手は通用せんぞ」

 「何をしたかわからないってのにもう通用しない?・・・なんじゃそりゃ」

 だが警戒する気になったのか今度はアズの動きをうかがう。そしてアズが動かないと見るやその周囲をゆっくりと回り始めた。それを見て騎士の一人が感嘆したように言った。

 「ライオンはウサギを狩るのでさえ全力を尽くすという。さすがは隊長だ。若造が相手とはいえまったく油断なさらない」

 サベルはそれを聞いてにんまりと笑みを浮かべた。いいぞ。もっと俺を賞賛しろ・・・。

 「はぐうっ!?」

 いきなり腹部が爆発したような激痛を覚えて息が止まった。

 「にゃ・・にゃ・・にゃにが起こ・・ったの?」

 見下ろせばアズの足刀が自分の腹にめりこんでいる。アズが足を戻して言った。

 「隙だらけなのは誘いかと思ったけど。本当に隙だったんだね」

 サベルは脂汗を流しながら、ぐおおおお・・・と呻き、なんとか倒れまいと足を踏ん張った。だが胃液は逆流してくるし気道が塞がれたようにえらく胸が苦しい。

 今度はアズの攻撃は見えたようだ。周囲がどよめいた。

 「おおっ!賊の蹴りがサベル殿に当たったぞ!」

 「信じられん。ツワモノのサベル殿があんな稚拙な技をくらうとは・・・」

 サベルは周囲を見渡した。まずい。俺がやられたと思っている。サベルは無理に笑顔を作って大きく出た腹を撫でた。

 「なーんちゃって!実はちぃーっとも効いてません!」

 それを聞いた周囲がどっと笑った。

 「かないませんな、サベル殿には」

 「サベル殿は観客をハラハラさせる術をお持ちのようだ」

 アズは呆然となった。サベルは笑みを浮かべて周囲の声援に応えているが額や首筋からは大量の脂汗を流している。

 「凄い痩せ我慢・・・でもそれはそれで凄いことなのかも」

 サベルはアズに向き直るとと凄い形相でアズを睨んだ。

 「この卑怯者め!俺が見てない時に攻撃してきやがって」

 アズはまたしても耳を疑った。

 「それのどこが卑怯なの?っていうか、それって油断っていうんじゃないの?そっちが悪いんじゃないか」

 「ええいっ!屁理屈をこねるな!尻の赤い小僧めが!」

 アズは首を捻った。

 「尻が赤い?」

 「そうとも。この小猿めが!」

 「・・・ねえ。ちょっと訊いていい?」

 「命乞いならもう遅い!」

 「違うって。あんた、さっき未熟だって言いたかったの?」

 「言葉を知らん、無学な小僧め!だから言っただろう。尻の赤い・・あれ?」

 「未熟なのは尻が青いほうじゃなかったっけ?それに小猿って俺はサスケじゃねえし」

 間違いに気づいたのかサベルは頬を恥ずかしげに染めた。が、すぐに激昂して言った。

 「黙れ黙れ黙れ、だまらっしゃわぁーいっ!」

 「えっ?わっしょい?なんか祭りの掛け声みたいだな」

 サベルはよろけそうになった。すると二人の会話が聞こえない周囲がどよめいた。

 「おおっ!何をしたかわからんがサベル殿がよろめいた!」

 サベルは急いで周囲に手を振ってみせた。

 「違うんだって!今のはスッコケだだけなの!攻撃をくらったわけじゃないの!・・・はごおおおっ!?」

 突然、尻に激痛を感じてサベルは飛び上がった。アズは蹴った足を戻して言った。

 「あんた、本当に戦場に出たことあんの?本当ならよっぽど敵さんはのんびりしていたというか、こんな隙だらけの間抜けに何をやっていたんだというか・・・」

 四つん這いになって尻を擦るサベルの姿にさすがに周囲から失笑が漏れた。サベルがはっとなって周囲を見た。

 皆、笑いを堪えている。アズに目を戻した。呆れ返った表情で腰に手を当てている。おっ、おのれぇ~!

 サベルは城壁に駆け寄ると衛兵の槍を奪い取った。周囲は騒然となった。空手の若者に歴戦のツワモノが武器を使うか。

 サベルは槍を頭上でぶんぶん振り回してアズに言った。

 「もう卑怯もヘッタクレもあるかぁ!ここまで恥をさらしたからにはもう城にはおれん!だがお前だけは血祭りに上げる!」

 サベルが脇に槍を挟んで構えた。穂先が陽光を反射してきらりと光る。サベルの全身から濃い殺気がめらめらと立ち上った。

 さきほどは隙だらけの間抜けのように見えた。だが今はそれを微塵にも感じさせない戦士の風貌に変わっている。アズは楽しげに笑った。

 「いいね。そうだよ。そうこなくっちゃ」

 <6>

 サベルは頭上で槍を激しく回した。その勢いは凄まじくまるで小さな竜巻が生じたようだ。あの重そうな槍をここまで操るとは凄い腕力だ。

 アズは感嘆した。だが下半身ががら空きである。再びどてっ腹に足刀をぶちこんでやろうと足を伸ばした。

 すると回転していた槍が不意に上から下に伸びてきた。アズは驚いて飛びのいた。さっきとは違う鋭い反射神経だ。

 サベルを軽んじる気持ちもあったかもしれない。だが彼は追い詰められて変わったのだ。アズは改めて気を引き締めた。

 サベルの周囲を警戒して回った。びゅんびゅんと回転の音がする。回転による風圧がアズの顔を打つ。

 近づけばまた槍が下りてきて突くか体のどこかを薙ぎ払おうとするだろう。向こうのほうが間合いが遠いため中々、近づけなくなった。サベルが近づいてこないアズを見て吠えた。

 「どうしたっ。さっきの威勢はどこに行った!」

 「うるせえやい。さっきの威勢はまだあらぁ!」

 「ならかかってこい」

 「言われなくても!」

 アズは左右にステップを繰り返しながら突っ込んだ。サベルはそのリズムを読みアズが近づいてきたところを槍で薙ぎ払った。だが次の瞬間サベルは驚愕に声を上げた。

 「なにっ!?」

 アズは振られてきた槍の下をかいくぐって突っ込んできたのだ。アズの間合いに入った。

 「もらった!」

 アズが引いた拳を打ち込もうとした。その時、頭上にぞくっと寒気を憶えた。なんだ!?考える暇なく身を引いた。

 すると少し前までいた場所を凄まじい勢いで槍の後ろ、石突きが振り下ろされていった。アズは冷や汗をかいた。

 あのまま突っ込んでいれば頭を石突きで粉砕されていただろう。身を引きながらほっと僅かに気を抜いた。

 それがまずかった。目の前にサベルの腹部が猛然と迫ってきた。

 「なっ!?」

 「我が腹はこういう使い方もあるのだよ!」

 ほんの一秒にも満たない瞬間、気を抜いた。そこを捉えられた。体重差は二倍以上あるだろう。アズはたまらず吹っ飛ばされた。

 二メートルほど宙を飛んだ後どかっと地面に背中を打ち付けた。それて肺の空気がどっと搾り出された。

 「くうううっ!?」

 全身に走った衝撃に呻いた。だが休んでいる暇はなかった。サベルがずんずんと足音を立てて近づいてくる。まだ全身の痺れは取れていない。

 「そのまま寝ておれ!今、楽にしてやる!」

 アズは無理に身を起こそうとせず呼吸に専念した。すると入ってきた新鮮な空気と自然の力が体内のダメージを見る見る間に消去していく。

 だがダメージを完全に消去する前にサベルは来る。そしてアズの足元まで来たサベルは槍を逆手に持ち替えて言った。

 「無謀にも俺に挑戦したこと、あの世で悔いるがいい!」

 「まだこの世からオサラバするつもりはねえさ!」

 アズは両足を胸元まで引き寄せ両手を頭の横の地に付けた。そしてサベル目掛けて足を突き上げた。

 「なんと!?」

 斜めに逆立ちするような格好でアズの足の裏がサベルの顎を捉えた。強く顎を突き上げられたサベルは槍を取り落として数歩よろよろと後退するとペタンと腰を地に付けた。

 そして意識が朦朧としているのか呆然となっている。アズはすくっと立ち上がると大きく息を吐いた。

 サベルを見ると戦闘不能になったのがわかった。アズは検分役の騎士を見た。彼も呆然となっている。

 裁定できそうにない。次に男爵を見た。男爵は正気を保っていた。そしてアズの視線に気づくと一瞬、無念そううな表情になった。

 だがすぐ別の騎士にアズの勝利を告げさせた。城館内ではアンジェラらが抱き合って喜んだ。

 「やった!やった!アズが勝った!」

 アズは中庭を見回した。女はいない。牢にいる時この策を授けてくれた女が気になっていたのだ。だが彼女が誰だか訊き回るわけにもいかない。アズは男爵に言った。

 「じゃあ約束通り帰らせてもらうぜ」

 男爵の返事も待たず背を向けた。そして城門に近づいた時、後方から声がした。

 「まだだ!まだ勝負はついていない!」

 それを背で聞いてアズはすぐに天地自然神海呼吸法を始めた。歩きながら後方から追ってくる足音と自分の距離を測る。

 そして足音の気配が間合いに入った時、自然の力を取り込むのを止めた。いつもより少ないがこのくらいの相手ならこれで充分。

 振り向きざまに強く地を踏んだ。途端に大地の力が跳ね返ってくる。目前に必死の形相で槍を振り上げたサベルの姿があった。

 跳ね返ってくる力を足から腰、背中、肩に回していく。

 「貴様さえいなければ!貴様さえ~っ!」

 アズは心の中で叫んだ。

 (閃光拳!)

 空気を切り裂いて拳が繰り出された。それはサベルの巨体に突き刺さり簡単に宙に舞わせた。威力はそれだけに留まらずサベルを中庭の奥のほうまで運んで行く。

 サベルは男爵らを飛び越えて城館の壁に叩き付けられてようやく止まった。男爵は泡を吹いて倒れたサベルを呆然と眺めていたがやがて我に返った。

 振り向いてアズを見た。アズはもう城門を潜って跳ね橋の中ほどを渡っていた。男爵が急いでアズに声をかけた。

 「待て。待ってくれ!」

 アズが面倒くさそうに振り向いた。

 「そなた。名前は?」

 アズは少し照れたように言った。

 「アズ。アルムのアズ」

 

 ホンタムの宿でホンタム主従とサスケは額をつき合わせるようにしてホーデン城の間取りを見ていた。サスケが顔を上げてホンタムに言った。

 「他に場所はないのか?前回、侵入した穴はもう塞がれているだろうし」

 「穴はないことはないが人がくぐれるほどの大きさのものがない。その穴を広げるという手も考えたが近くに城の人間がいては拡張する音が聞こえてしまう」

 「城門の他に入り口は?」

 「裏門があるはずだが鍵がかかっているだろう」

 「ローボックさんに開けられないかな?」

 「城にとって裏門は重要な場所だ。普通の部屋のようにはいかんだろう」

 三人は城壁の上に鉤爪の縄で上ってそこから侵入する手も考えた。だが少し前に偵察したところ城門上を巡回したり立番したりする衛兵の数が増えていた。

 とても気づかれずに侵入することはできない。

 「じゃあアズが殺されるのを指をくわえて見ているだけしかできねえってことかよ!」

 サスケは思わず声を大きくして言った。ホンタム主従も苦しげに視線を落としている。その時、突然部屋のドアが開いた。

 はっとなって振り返った時、皆の口があんぐりと開いた。アズが怪訝な顔で訊いた。

 「俺がどうしたって?」

 三人はしばらく呆然となっていたがサスケが一早く我に返ってアズに飛びついた。

 「アズ!」

 「心配かけたな」

 少ししてサスケは体を離して訊いた。

 「一体どうやって脱出できたんだ?あの後、捕まったんだろ?」

 ホンタム主従も同じ疑問を持った様子で近づいてきた。アズはそれまでの経緯をかいつまんで説明した。サスケが首をかしげて言った。

 「その、牢でアドバイスしてくれた女って誰なんだ?」

 アズが頷いて言った。

 「俺もそのことがずっと気にかかっててさ」

 ローボックが言った。

 「謎の女性ですな」

 アズが窓の外に目を向けて言った。

 「でも・・・どこかで聞いたことがあるような声だった。どこかで」

 サスケが首をかしげた。

 「どこで、だ?」

 「そいつがわかりゃ苦労はしないよ」

 

 アズが囚われ身の時ホンタムはひどく心を痛めていた。自分が協力を頼まなければアズはあんな目に会わずにすんだのに、と。

 だがアズは解放されて帰ってきた。ほっとした。だがそれは城で想いを遂げられなかった無念さが再び彼を苛むことを意味していた。

 千載一遇のチャンスだった。自分はなぜあの好機を生かせなかったのだろう。自分はいつもそうだった。

 肝心な時に失敗する。その思いは度々彼を苛み、やがて鬱状態で塞ぎこむようになった。アズらは元気を出すよう励ました。ホンタムは暗い顔で答える。

 「君が解放されたのは良かったが返す返すも彼女に想いを伝えられなかったのが悔やまれる。私はいつもそうなのだ。ここぞとい時に駄目なのだ」

 ホンタムはまた十年前ホンタム城でアンジェラと言い交わした約束の光景を懐かしむように語った。

 その話は皆、以前に聞いたことがあった。だがサスケだけは真剣に聞いていなかったらしい。呆れたように言った。

 「それって、おままごとの話じゃねえの?」

 ホンタムは気分を害したように言った。

 「幼いとはいえ私達は至って真剣だった」

 「でもさぁ。本気だったら城で再会した時、姫も感激したんじゃねえの?」

 「それは・・・うむむむ・・・」

 アズがサスケを嗜めた。

 「サスケ、止めろって」

 ホンタムは自分に言い聞かせるように呟いた。

 「いや。彼女は絶対、覚えているはずだ。だが突然のことで狼狽したのだ。きっと思い出してくれる」

 

 アズが解放されて城のドタバタが収まるとアンジェラもホンタムのことを思い出した。どこか懐かしさを感じた。

 だがどうしてもその懐かしさがどこから来るものなのかわからない。本当に彼の言うようなことが自分の過去にあったのだろうか?

 十年前のことを両親に訊いてみようかと考えた。だがそうすると変に勘ぐられて追及でもされたらホンタムが忍び込んできたことをうっかり漏らしてしまいそうだ。

 他に知っている人間がいるか考えた。すぐに浮かんだ。女中頭のノーザだ。彼女の勤続年数は半世紀にも及ぶという。

 城の生き字引だ。ホンタムの侵入を知ればいい顔はしないだろうが必死に頼めば口を噤んでいてくれるかもしれない。

 彼女はアンジェラを自分の娘か孫のように思っているふしがある。そこにつけこむのだ。早速ノーザに訊いてみた。

 「ホンタム家とうちってお付き合いがあったんでしょ?」

 ノーザは訝しげに答えた。

 「ええ。以前はございました。お館様と先代ホンタム子爵様は竹馬の友のようなご関係であらせられました」

 「今は?もうないの?」

 「真に残念ですが先代が亡くなられホンタム家も傾いてからは」

 「変なこと訊くようだけど私って、ホンタム様にお会いしたことある?今の当主にだけど。子供の頃とか?」

 「何度かお目にかかったことがあると存じます」

 「本当!?どこで!いつ!」

 ノーザは急に興味を示し出したアンジェラに当惑しつつ答えた。

 「さぁそこまでは。でも以前は両家とも頻繁に行き来がありましたから」

 アンジェラは落胆した。以前、自分と彼の交流が確かにあったという話が聞きたかった。ノーザが下がった後も肘掛椅子に座ってしばらくホンタムの顔を思い浮かべた。

 その内うとうとしていつの間にか眠ってしまった。アンジェラは夢の中にいた。それはどこかの城の中だった。

 暖炉の前で二人の子供がおままごとをしていた。男の子と女の子だ。一方は自分だとわかった。男の子の顔はぼやけてはっきりしない。

 二人は居間の模型に男女の人形を配置して遊んでいる。男の子がにっこりと笑ってアンジェラに言った。

 (僕が君を守ってあげるよ)

 (えっ?それは私を奥方様にしてくれるってこと?)

 (もちろんさ。君は僕の妻になるんだよ)

 幼いアンジェラの顔が喜びに輝いた。男の子をじっと見つめる。するとそのぼやけた顔が次第に明らかになってきた。

 だが後一歩というところではっきりしない。アンジェラは夢の中でもどかしげに訴えた。

 (誰?あなたは誰なの?)

 (もう知っているじゃないか。君の未来の夫だよ。名前はアンド・・・)

 ついに顔が見えそうになった。だがその姿が不意に遠ざかっていく。ああ、待って!あなたの顔を見せて!

 アンジェラは必死に手を伸ばした。だがその手は届かない。

 「・・・ジェラ様。アンジェラ様」

 ふと薄目を開けた。ぼうっとした様子で目を向けるとマヤが心配した様子で自分を覗き込んでいた。

 「・・・どうかしたの?」

 「ずうっとうわ言を繰り返されていたので心配しましたよぉ」

 「うわ言・・・私はなんて?」

 「待って、とか顔がどうとか。あまり聞き取れませんでしたけど」

 「そう・・・」

 夢を見たのは憶えているが内容はもう忘れてしまった。だがとても大事なことだった。そうとても大事な・・・。アンジェラは気を取り直して訊いた。

 「それでなんの用?」

 するとマヤが青ざめたように言った。

 「大変なんです!ニードル伯がお嬢様に婚約の申し込みをなさいました」

 「ええっ!?」

 <7> 

 どこから漏れたのかニードルからの結婚申し込みはホギュンの街でたちまち噂になった。だがホーデン家から公式発表があったわけではない。

 なので色々、憶測が飛び交った。あちこちの街角で町人がその話題で盛り上がっている。

 「申し込んだのはニードル伯のほうだっていうけど本当のところはホーデン男爵側が裏で色々と画策してこうなったっていう噂だぜ」

 「いや舞踏会で伯に一目惚れした姫が男爵にお願いしたって聞いたけど」

 「本当のところは違う。今まで王側についていたホーデン家だが今度、寝返って公爵側につくんだとよ。伯との婚姻はその布石だとかなんとか」

 元々、町人は噂好きである。街はその話題で持ちきりになった。そこで仰天したのはアンジェラへの淡い恋心を持つホンタムである。

 ホンタムは焦った。そこでローボックに噂の相手のニードル家のことを調べさせた。すると軍人出身で数々の軍功を立てた異色の貴族ということがわかった。

 だがホンタムは腑に落ちなかった。婚姻とは両家の間で行われるものである。そこには貴族間の縁もあるが多くは打算である。

 どの貴族と婚姻を結べば家格が上がるか資産が増えるのか。必ずそういう思惑が絡んでいる。なのでホーデン家の立場に立つとニードル家と婚姻を結ぶメリットが浮かんでこない。

 そこでホンタムは知人の貴族にニードルの個人調査を依頼した。調査といっても大仰なものではなく貴族社会や彼の領地にある噂を集めるといった程度のものだ。

 少しして調査結果が届いた。やはり軍人としての軍功が目立って多かった。さらに調査結果の書状を読んでいくと次第にホンタムの顔色が変わってきた。

 証拠はないがニードルの女癖や放蕩の類いが浮き彫りになってきたのである。かなりの数の町娘に手を出して問題を起こしたようだがそれはいつの間にか立ち消えになっていた。

 恐らくニードル家が権力を使ってもみ消したのだろう。ところがもみ消せないのが貴族令嬢とのものだった。

 他家の姫を傷物にしただとか他家の婦人に手を出してその夫を激怒させただとか多額の賠償を求められている。

 問題になっているのは数件だが水面下ではもっと多いはずだと調査結果では結ばれていた。また賠償金額もさることながらニードルの放蕩が響いて家の台所は火の車になっているとの噂もあった。

 書状を読み終えたホンタムはあまりのひどさに呆然となったがすぐに激昂した。

 「こんな男に姫は絶対、渡せん!」

 ローボックも主人からその書状を渡されて読んだ。そして心配そうに訊いた。

 「しかし結婚申し込みの噂が本物としてホーデン家が断ったという話は聞こえてきません。ということは乗り気なのかもしれません。残念ながら当家に横槍を入れる力はありません」

 ホンタムはしばらく悔しげに唸っていたがふと思いついたように言った。

 「確かお前の調べでは伯はもうこの街に来ているんだったな?」

 「はぁ。舞踏会の後もまだ滞在しているようですが?」

 「どこで何をしているか早急に調べてくれ」

 ローボックは怪訝な表情で頷いた。

 

 ローボックの調べたところニードルは貴族にあるまじき場所に出入りしていた。すなわち歓楽街である。

 ニードルは正体がバレぬよう変装し名前まで変えて遊んでいた。歓楽街ではニードルの無体な振る舞いに苦情が多く寄せられていたが武力を使って威圧する彼らに何も出来ないようだ。

 それを聞いてホンタムはますます激昂した。本来、貴族とは平民の暮らしを守るべき存在なのに逆に荒らしまわっている。

 しかもここは自分の領地でさえないというのに。ホンタムはさらにニードルがよく出没する店を調べさせた。その顔を一度、見てみようと思った。


 その店の看板には「牛と豚の憩いの場」亭とあった。ホンタム主従は少し離れた場所からその店を見張った。

 ニードル主従が既に店内にいることは聞き込みでわかっている。すぐにでも店内に入って彼の本心を問い質したかった。

 だが店の中でそうすれば他の客に聞かれてしまうのではばかりがあった。店の入り口にじっと目を注いでいたが中々、彼らは出てこなかった。

 考えてみればまだ宵の口だ。出てくるのに時間がかかると思われた。だが予想に反してそれから少しして彼らは店から出てきた。

 どうやら別の店に行くようだ。ホンタムは逃がさんとばかりにそこに突撃した。急いでローボックも続く。

 いきなり駆け寄ってきたホンタムにニードルらは驚いた。ニードルはやや眉をひそめた程度だったが彼の従者は警戒して剣に手をかけている。

 ニードルは少し困惑した様子で誰何した。さすがにホンタム主従の服装や様子から貴族の主従だとわかったのだろう。

 ホンタムが胸を張って名乗った。ここら辺の者なら誰でも知っているとばかりに。だがニードルはぴんと来ていない様子だ。

 お互い名のある貴族とはいえず領地も離れているため親交はない。ニードルは訝ったまま訊いた。

 「で、そのホンタム殿が私にどんなご用が?」

 ホンタムはアンジェラへの愛が本物かどうか詰問するように訊いた。ニードルはさらに訝った様子で聞き返した。

 「その件がホンタム殿とどんな関係がおありかな?失礼ながら貴殿はまったくの部外者ではないか」

 ホンタムはぐっと詰まったが再び問うた。

 「部外者ではない。私は・・・私は、姫を真剣に愛している!」

 ニードルはそれを聞いて眉をひそめたがやがて面白そうににやにやと笑った。

 「なるほど。そういうことか」

 その侮ったような笑みにホンタムは激昂した。

 「さぁ答えてもらおう!あんたは本当に姫を愛しているのか!」

 ニードルは薄ら笑いを浮かべていたが不意に不快そうに言った。

 「あの小娘め。私を侮辱したのだ」

 ニードルの従者が慌てて主人を諌めようとした。するとニードルは従者に首を横に振ってみせた。

 「本音を喋ったって構わないさ こんな飲み屋街に城の関係者などいないだろう」

 ニードルがホンタムを見て言った。

 「今まで私になびかなかった女は一人もいなかった。それがあの小娘は私とのダンスに嫌そうな素振りを見せた。

 優しく、それこそ深窓のご令嬢のように接してやったのに。田舎娘がお高く止まりやがって。お陰で私の自尊心はズダズタだ。

 だから結婚して女中のようにこき使ってやることにしたのだ」

 ホンタムは怒りで顔を朱に染めた。

 「貴殿はなんという曲がった根性の持ち主か。姫はそれを見抜いたがゆえ嫌がる素振りをみせたのだ。姫のせいにするな!」

 「黙れ、この弱小貴族が!大体、貴様はなんなのだ?金や権力はあるのか?それとも実力で戦場を生き抜いてきたとでもいうのか!」

 「そんなもの、必要ない!姫への愛があればそれでいい」

 「ふん!金や権力がなくて貴族がどう生きる?青臭い若造め!」

 「あなたの、姫への気持ちはわかった。この縁談、絶対認められん!」

 「貴様に認めてもらう必要などどこにあるか!」

 「なにを!」

 ホンタムが身構えた。ニードルも吠えるように言った。

 「やるか!」

 その時、店の奥から小太りの男が出てきた。店主のバッカだ。

 「おい、あんたら。ここは静かに酒を楽しむ場所だ。騒ぐなら他でやってくれ」

 ニードルはバッカを睨みつけた。

 「無礼な町人めが」

 「町人だろうが貴族様だろうが飲むのは同じ酒だ。ここで騒がれるのは迷惑なんだ。とっとと帰ってくれ」

 ニードルの従者が剣に手をかけてバッカのほうを向いた。すると店の中から大男が出てきてバッカの横に並んだ。

 用心棒のベックだ。ベックは太い腕を組んで梃子でも動かないような仁王立ちになった。往来の人々が足を止めて遠巻きにニードルらを見始めた。

 ニードルはそれに気づくと舌打ちしてホンタムに言った。

 「ここでは人目につく。静かなところで話をつけようじゃないか」

 ホンタムは頷いて憤然と先を歩くニードルらについていった。バッカはそれを見送るとベックに言った。

 「大変だ。あのニードルってのはかなりの悪党だぞ。ホンタムって人はただじゃすまない」

 ベックは頷いて店の入り口から恐々と外を覗く小僧に言った。

 「あのホンタムって人は確かアズの友達のはずだ。アズを呼んできてくれ」

 小僧は頷くと闇の中に駆け出していった。

 

 ニードルは貧民街のほうに行き、適当な空き地を見つけるとそこに入った。空き地入り口には騒ぎを遠巻きに見ていた町人達がいた。

 どうやら成り行きを見ようとしている。ニードルは彼らを見て舌打ちしたが特に追い払おうとはしなかった。

 ベックが少し遅れてその場に到着した。そして町人らの後ろから空き地を見た。空き地、中央ではニードルとホンタムが対峙している。

 互いの従者は後ろに下がって見ているようだ。ベックはホンタムを見て危ぶんだ。表情が緊張でかちかちで足が見てわかるほどブルブル震えている。

 ニードルはさすがに場慣れした様子で緊張の色などまったく見えない。どう見てもあの人に勝ち目はない。

 このままだとあの人は大怪我を負うか殺されてしまうだろう。アズが到着するまでもう少し時間がかかるだろう。

 ベックは止めに入るかどうか迷った。すると二人はすぐには闘わず口論を始めた。いや口論といってもホンタムが一方的に激昂してニードルが余裕の態で受け答えしているだけなのだが。

 ベックは思った。いいぞ。そのまま時間を稼いでくれ。やがて口論が終わった。いや文句があるのならさっさとかかってこいとでも言ったのか。

 ホンタムの手が剣にかかった。だがその手は剣を抜かず、いや震えるあまり抜けないといったほうが正解か。

 そのまま動けないでいる。ニードルはそれを見て嘲笑し一歩足を踏み出した。もう間に合わないか!

 仕方なくベックも前に出ようとした。その時、後ろから声がかかった。

 「ベックさん!」

 ベックが振り向くと路地の向こうからアズとサスケが駆けつけてくるのが見えた。良かった。間に合った!

 到着したアズにベックは空き地を指差した。アズは一瞬で状況を把握したようだ。そこに飛び出していった。

 サスケはベックの隣でそれを見守った。ニードルはアズに気づくと驚きの表情を浮かべたがすぐに苦々しく言った。

 「また貴様か!」

 ホンタムはほっとした様子で言った。

 「アズ君」

 アズはホンタムの横に並んで言った。

 「ホンタムさん。下がっていてくれ。この男と俺は少なからず因縁があるんだ」

 ニードルは鼻に皺を寄せて言った。

 「因縁だと?図に乗るなよ!あの時あのまま続けていれば貴様など小指一本で片付けてやったわ!」

 「面白ぇ!やれるもんならやってもらおうじゃねえか!」

 ニードルとアズが睨み合った。するとその時ニードルの後ろから声がかかった。

 「お待ちください、ニードル様。なにもニードル様ご自身がこんな最下層のゴミとおやりになる必要はありません。御名前が汚れます」

 ニードルがちらっと振り返って言った。

 「ジャニスか」

 ジャニスと呼ばれた若い従者はニードルの少し後ろまで来て言った。

 「ご主人様がおやりになることはありません。ゴミ掃除は私にお任せください」

 ニードルは考えた。このアズという若造の実力は未知数だ。だが生死を賭けて闘ったことがあるのは確かだ。

 濃い闘気がそれを証明している。ここはジャニスと闘わせてその実力を測るのもいいだろう。ジャニスは先日のアズとの小競り合いの後、新しく雇った従者だった。

 酒場で喧嘩していたのをニードルがスカウトしたのだ。前の従者はサスケやベックに簡単にやられたので首にした。

 ニードルが薄笑いを浮かべてアズにジャニスを紹介した。

 「この男は強いぞ。大男を三人も相手にして一歩も引かなかった」

 「ニードル様。それは違います。引く必要が無かったので単に私は前に出続けただけです」

 ニードルが苦笑した。アズはジャニスを見た。長身だが細身だ。だが目の光がギラついていた。相当、気持ちが強そうだ。するとそこに声がかかった。

 「二人がかりか?そりゃ卑怯だぞ」

 ニードルらの視線が横に行った。人だかりの中から熊のような大男が出てきた。もちろんベックだ。

 「二人がかりなら俺もアズに手を貸す」

 サスケも何か言いたげな様子だった。だがベックに先を越されたようだ。ニードルが目を剥いてベックに言った。

 「おい、このウドの大木。私を見くびるなよ。こんなゴミ相手に二人がかりでやると思うか」

 「ウドの大木とは聞き捨てならんな。やっぱりあんたの相手は俺がやろう」

 「愚かなウドめ。切り倒されて薪にされたくなかったら大人しく引っ込んでろ」

 ベックが激昂した。

 「なんだと!」

 ベックとニードルが対峙した。アズはベックを止めようと動いた。だがジャニスがその前に立ち塞がった。ジャニスが唇を歪めて言った。

 「おいおい。言ったろう。お前の相手はこの俺だって」

 

 ジャニスはアズの全身を見て言った。

 「どうやら得物は持っていないようだな。無用心な。素人はこれだから簡単に命を失う。まぁいい。なんなら何か貸してやろうか?」

 ジャニスがもう一人の従者に声をかけようとした。だがそれより早くアズが言った。

 「いらん!このままで充分だ」

 ジャニスは嘲笑って言った。

 「いいのか?俺は剣を抜くぜ。酒が入るとひどく残忍な気分になるんだ」

 ジャニスが腰の鞘から剣を抜いた。それを見てアズが構える。ジャニスはアズの構えを見て眉をひそめた。

 「お前・・・武術の心得があるのか?」

 「あったらなんだっていうんだ?」

 ジャニスは楽しげに言った。

 「拳闘の選手だった男と喧嘩になったことがある。俺をただの、街の喧嘩屋だと舐めていたんだろうなぁ。無警戒でかかってきやがった」

 「それでどうした?」

 「どうしたもこうしたもない。睾丸を蹴り潰して首の骨を叩き折ってやったさ。卑怯だ、なんだとか喚いていたが殺される前になって遅ぇんだよって話だ」

 アズの体に緊張が走った。この男の顔に騙されてはいけない。体が細く優男に見えるが根は相当、残忍なようだ。

 何をされようとすぐ対応できるよう警戒した。ジャニスはそれを見て笑った。

 「おう、おう。緊張しちゃって。だが心配するな。すぐには殺さん」

 「なんだと?」

 「言ったろう!今夜は残忍な気分なんだってな!」

 言うや否や剣を振りかぶって襲い掛かってきた。飢狼のような鋭い動きだった。アズは急いでジャニスの右横に飛んで避けた。

 そして剣を振り下ろした後のジャニスの右横っ腹に前蹴りをぶち込もうとした。

 「くらえ!」

 するとそれに合わせるようにジャニスが右に半回転して水平に剣を振ってきた。鋭い!蹴ろうと前に出た瞬間を狙った絶妙の斬撃だった。

 「ちいいいいっ!?」

 アズは瞬間、蹴りを中断し前に出た勢いを左斜め前方に変更して飛んで難を逃れた。地面で一回転して起き上がる。ジャニスはアズに向き直り少し驚いたように言った。

 「結構やるじゃないか。どうやら楽しませてくれそうだ」

 アズは油断なくジャニスの動きを見ていたがベックのほうを気にせずにはいられなかった。ベックさん。相手は強い。気をつけてくれ。

 <8> 

 ベックは拳を低く構えてニードルと対峙した。そしてタイミングも間合いも気にせず大股で近づくと拳をぶんぶん振り回した。

 ニードルはそれを余裕の態でかわそうとした。だが顔のすぐ前を走り抜けるベックの重い拳圧に顔色を変えた。

 ベックはかわされても諦めず拳を振り回し続ける。そしてそれが少し続いた後ニードルは思った。非常に重い拳だがもう見切った!

 そしてカウンターを決めてやろうと機会を待った。だがベックの拳は二発三発では終わらずそれ以降もずっと続いた。

 この男、中々のスタミナだ。だがそれは喧嘩殺法の域を出なかったようだ。相手の状態も確かめず一息ついた。

 それをニードルは見逃さなかった。殴り終わった腕が引き戻されるのと同時にニードルも前に出た。

 そしてシャープな拳をベックの顔面に叩きつけた。ガツンッという重い感触が跳ね返ってきた。固い。

 まるで巨牛か巨猪を殴ったような感触だ。ベックは少しよろめいたものの、しっかりと踏みとどまった。ニードルがやや驚いて言った。

 「こいつ。私の打撃を耐えたのか」

 ベックが口の中の血をぺっと吐き出して言った。

 「何を驚いていやがんだ。これくらいの拳、街じゃ普通だ」

 ニードルのこめかみに血管が浮いた。

 「なにぃ~。私の打撃が普通だと?面白い。ならもっとくらわしてやろう」

 「それは遠慮しとく。たいしたことないもんをいくらくらっても意味が無いからな」

 「ぬかせっ!」

 両者が同時に前に出て手を出した。ベックのほうが大柄なのでニードルよりリーチが長い。だが先に当たったのはニードルの拳のほうだった。

 身寄りと腕を振る速度はニードルが格段、上だった。ガキッという重い手ごたえ。だがそこで止めず振り抜いた。

 ベックは脳が揺さぶられて腰が砕けるはず。これならどうだ!だが次の瞬間、目を剥いた。ベックは向こうを向いた顔をすぐ戻して拳を振ってきたのだ。

 この男、どこまでタフなのだ!?ニードルは仕方なく身を沈めてベックの胴にしがみついた。ベックの声が上から振って来た。

 「あんた、男に抱きつく趣味があるのかい?」

 おのれ!ベックの足に自分の足をかけて倒そうとした。だがそれよりも早くベックの太い腕がニードルの胴に回され、そのまま抱え上げられて投げ飛ばされた。

 「うおっ!?」

 長身のニードルがまるで木の葉のように吹っ飛ばされた。宙高く放り投げられたニードルはその後、強く地に叩き付けられ血反吐を吐いて悶絶するかと思われた。

 だがニードルは慌てなかった。宙にいる間に体を捻り丸めて落下速度を落とし背中から落ちるよう姿勢を調整した。

 そして地に落ちた時は腕で地を強く叩いて衝撃を和らげた。少ししてニードルはなんでもないように立ち上がった。

 その姿にダメージを負った様子はない。ベックがそれを見て唖然となった。

 「なんと・・・猫みたいな男だな」

 ニードルは怒って言った。

 「下郎が!やってくれるではないか!」

 ベックもすぐに言い返した。

 「もっとやってやるよ!」

 ベックが襲い掛かった。また拳の連打だ。ニードルはもう彼の拳の軌道を把握していた。なのでかいくぐって今度はこちらが連打してやろうと思った。

 だがすぐにそれができないことがわかった。ベックは大振りを止めてコンパクトな振りに変えてきたからだ。

 これでは簡単にかいくぐれない。体も丸めて反撃を予想した構えになっている。小振りな連打が襲ってきた。

 ベックの拳はとても重い。なので小振りとはいえ一発でもくらうと息がつまり意識が霞んだ。ニードルはうかつに近づけない状況に苛突いた。

 「こ、このぉ・・・」

 ニードルはなす術もなく後退しているように見えた。そしていつの間にか板塀に追い込まれたことがわかった。それを見た町人達は口々にニードルをからかった。

 「どうしたんだよ、貴族さん!さっきのでかい口は!」

 「貴族様が平民相手に押されちゃって恥ずかしくないのかい!」

 ニードルがきっとなって町人達を睨んだ。その隙をベックは見逃さなかった。

 「もらった!」

 ベックが大きく踏み込んで右拳を振るった。それを目の片隅に捉えたニードルの目がキラリと光った。

 ニードルはやや後退してベックの拳をやりすごすとベックの右腕と頭を掴んで倒れるように引きずり倒した。

 「なにっ!?」

 ニードルは仰向けでその上にベックが四つん這いの格好になっている。ベックはすぐ起き上がろうとした。

 だがニードルはベックの右腕と頭を下から掴んだまま放さない。

 「野郎!」

 ベックが空いた左腕で下のニードルを殴ろうとした。するとその瞬間ニードルは両手を放し今度はベックの右腕を両足で挟み込んだ。

 そして力を入れてベックを仰向けに倒した。その時アズはジャニスの斬撃から逃れているところだった。

 だが町人の不審の声にベックのほうを見た。驚いた。どんな技かわからないがニードルは関節を極めようとしている。急いでベックに言った。

 「いけない!逃げろ、ベックさん!」

 ニードルは仰向けでベックの右腕を両足と両腕で抱え込んでいた。その体勢だとベックの右肩と肘関節が極められることになる。

 ベックはよほど痛いのか脂汗を流して唸り声を上げていた。ニードルはそれを見て嘲笑った。

 「貴族に逆らうとどうなるか。今、教えてやろう・・・こうだ!」

 ニードルが腕に力を入れた。空き地にバキッという嫌な音が響いた。


 ベックが四つん這いで右腕を押さえて呻き声を上げていた。それを傲然とニードルが見下ろしていた。ニードルが唇を歪めて言った。

 「まぁ命を取るまでもあるまい。私の恐ろしさがこれでわかっただろう」

 アズはジャニスの斬撃を避けながら言った。

 「ベックさん!?」

 アズは愕然となった。なんだ、あの寝たまま関節を折る技は!?ジャニスが斬撃の手を止めてニードルに顔を向けた。

 「さすがニードル様。こちらもすぐに片付けますのでもう少々お待ちください」

 ニードルは鷹揚に頷いて二人の闘いに目を向けた。ジャニスに助力するつもりはないようだ。ニードルがベックから離れたのでサスケが急いでベックに駆け寄った。アズがサスケに言った。

 「ベックさんを頼むぞ!」

 ジャニスはアズに向き直ると猛然と剣を振るってきた。アズはニードルの技の衝撃からまだ立ち直っていなかった。

 「ボケっとしている暇があるのか!」

 ジャニスが動きの鈍ったアズに剣を真っ向から振り下ろした。アズは呆然とそれを見た。空き地入り口の町人らは思わず目を背けた。

 避けようとしてももう間に合わない!剣がアズを両断した。いやそうじゃない。剣の先端が地に突き刺さっている。

 町人らは目を疑った。ニードルの眉がぴくっと少し驚いたように動いた。改めてよく見ればいつの間にかアズはジャニスの右側にいる。

 ということは剣が当たる瞬間、左に身を開いてかわしたということだ。アズはすかさず剣を振り下ろした格好で呆然となっているジャニスの手首を蹴り上げた。

 バキッと音がして剣が宙に吹っ飛んだ。ジャニスは不思議なものでも見るかのように飛んでいく剣を見送った。

 そして次に自分の手首を見下ろした。すると曲がるはずのない方向に曲がっている。

 「おっ、俺の手がぁ!?手が曲がっているうううっ!」

 アズはのけぞって絶叫するジャニスの懐に入ると突きをジャニスのどてっ腹にぶち込んだ。

 「はううううっ!?」

 閃光拳ではない通常の突きだがそれでも簡単に大男を昏倒させる威力がある。ジャニスは身を二つにして後方に吹っ飛ぶと板壁にぶつかって倒れた。

 

 町人らはしばらく呆然と倒れたジャニスを見つめていたがやがて我に返ると、おおっ!と歓声を上げた。

 その時、偶然アンジェラの一行が飲み屋街からやってきた。人だかりを見て何事かと彼らの後ろから空き地を覗こうとする。

 「なにかしら?」

 だがアンジェラとマヤの身長では男達越しに空き地内を見ることができない。だがオモは並みの男以上に上背があったのですぐに状況が見て取れた。

 オモの口からが珍しく、おっ!?という驚きの声が上がる。アンジェラらはじれったそうにオモに訊いた。

 「何が起こってるの?早く教えて」

 するとオモは空き地のほうを見たまま言った。

 「アズとニードル伯が闘おうとしているだ」

 「ええっ!?」

 

 アズはジャニスを倒した後ニードルの動向を警戒しながらベックとサスケのもとに駆け寄った。ベックは腕を押さえて脂汗を浮かべている。

 アズがサスケに目で問うとサスケが厳しい表情で首を横に振った。骨が完全に折れたということか。

 その間にニードルもジャニスに目を向けた。倒れてぴくりとも動かない。そんな従者を見て吐き捨てるように言った。

 「ふん。愚か者め。ちっとも役に立たんで」

 アズがベックの腕を注意深く触った。途端にベックの呻き声が大きくなる。アズはさらに力を緩めて触っていった。

 そして愕然となった。肘だけでなく肩の骨まで破壊されている。なんという荒業だ。一瞬でベックほどの強者を戦闘不能にしてしまった。

 振り返ってニードルを見た。余裕の笑みを浮かべてこちらを見ている。

 「そろそろ死ぬ覚悟ができたか?それとも土下座して命乞いするか?」

 「誰がするか!」

 アズは憤然と立ち上がってニードルを睨んだ。

 「アズ・・・」

 サスケが懸念したようにアズを見上げた。アズはニードルを睨んだまま言った。

 「大丈夫だ。いつだってギリギリの闘いをしてきたんだ。今回だって同じだ。殺るか殺られるか、だ」

 アズが一歩、踏み出した。その時なぜか最果て小路の医者崩れという老人の顔が頭に浮かんだ。イメージの中の老人が諭すように言った。

 (いいか。あいつとやるんじゃないぞ)

 その表情にはなんの利害もなくただアズを心配している様子が見てとれた。アズは頭を振った。ベックさんがやられたんだ。仕返しせずにいられるかよ。アズがニードルに言った。

 「・・・前の続きをしようぜ」

 「ふふふ。いいとも」

 二人は再び対峙した。だが前回と様子が違った。アズは間合いから遠く離れているのに早くも構えている。

 また緊張した様子も見てとれた。一方のニードルは腕を組むなどして余裕が見られる。サスケは両者を見比べて不審を覚えた。

 アズ、どうしちまったんだ?これまでの彼は闘う前に緊張することはあったがいざ闘う段階に入ると力がきれいに抜けていた。

 腹をくくったせいだろう。それでいつもの動きができるようになっていた。だが今回はガチガチに緊張しているように見える。

 こめかみや首筋から脂汗が絶えず流れ落ち緊張を緩めるように拳を握ったり開いたりしている。サスケは心配になってアズの背に声をかけた。

 「落ち着け。アズ、落ち着けって」

 だがニードルに気を取られたアズには聞こえなかったようだ。そして一方のニードルといえば薄笑いを浮かべていたが決して油断はしていなかった。

 全神経でもってアズの一挙手一投足を視野に収めていた。どんな動きも表情も見逃さない。そんな凄まじい集中力を使っていた。

 だが未だ侮ったように組んだ腕を解かない。アズはじりじりと近づきながら内心、困惑を覚えていた。

 腕組は解かないし腰の位置も高い。そんな状態で俺の攻撃を受ける気なのか?いや何か策があるのか?

 迷いが生じた。だが迷ったまま手を出さないのは自分らしくない。アズは迷いを断ち切るように鋭く気合をかけて突進した。


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