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<1> それから少ししてハヤト族の宿営地に見慣れぬ部族の使者が訪れた。使者は最初に会ったハヤトの民に族長への取次ぎを頼んだ。 宿営地内にいる他の民は仕事の手を止めて見慣れぬ衣服の使者を見ている。そして天幕で取次ぎの報告を受けたエンガイは眉を潜めた。 「なんだと。タイガード族の使者?」 妻のホリーが訊いた。 「タイガード族って、あの南の?」 「うむ。何用だろう?」 取次ぎの者に使者を天幕まで連れてくるよう命じた。そしてその間にムロクら重臣を呼ぶよう従者に命じる。 やがてエンガイの天幕に使者がやってきた。そこには族長以下ハヤト族の重臣が揃っている。使者が素性を述べるのを聞くとエンガイは頷いて言った。 「口上を聞こう」 使者は居住まいを正して言った。近年、草原では降雨量が少なく草の生育が懸念されるようになった。 そして今年、草はやはり例年より伸びず家畜の命を脅かすようになった。家畜が痩せ衰えればそれを糧とする我々の生活に支障が出る。 諸部族は良質の牧地を求めて他者の縄張りまで侵すようになり争いが絶えなくなった・・・。ここまで聞いてハヤト族の面々は暗い気持ちで思った。 少ない雨による悪影響はもちろんハヤト族とて免れない。だが支配領域の中でなんとか家畜を養えるだけの草地は確保できた。 他の部族に比べてハヤトはまだラッキーなほうだった。そう重臣らが考えている中、使者の口上は続いた。 ・・・このままでは争いが争いを呼び草原は大混乱に陥ってしまう。そうなる前に有力部族の間で何か手を打たなければならない。 当領域と貴領域は境界が接していてその部分は決して小さいとは言えない。他族の争いが飛び火して、もしかすると平穏を保ってきた両者も争ってしまいかねない。 ここはそうなる前に同盟を結んではどうか、というのが当族長の考えです。使者の口上が終わってエンガイは重臣らの表情を見た。 賛成している者もあればまだ検討している者もいる。エンガイはとりあえず使者に二三日ここに逗留してもらってその間に答えを出すと告げた。 使者が天幕を出た後すぐ討議に入った。降雨量の少なさはどの部族でも問題になっていたことである。 そしてそれがもたらす悪影響のことも。なので問題解決のため各部族で力を合わせてこの窮地を乗り切るという考えに関しては賛成だった。 だが少しひっかかるのはそれをまず結ぶのがタイガード族ということか。タイガード族とは距離が離れているということもありあまり交流がない。 戦闘的な部族であるという評判を聞く。だがそれはしょっちゅうメギルと小競り合いをしているハヤト族も同じだ。 尤もこちらは好戦的というわけではなく向こうから仕掛けられて行う戦なのだが。そしてその翌日には重臣らの意見もまとまり始めた。 するとそれを傍聴していたホリーが重臣に聞こえぬようエンガイに言った。 「なんだか嫌な予感がする。この話、断れないかしら?」 「使者に答えはまだ伝えていない。今なら断ることもできるが・・・」 エンガイは迷った。重臣の多くが乗り気になっている。族長の妻が反対したからと重臣達の意見をないがしろにすれば部族としてまとまりがつかない。 だが妻の意見も無視できない理由があった。勘が鋭いのである。悪天候や家畜の出産日をぴたりと当てるなど驚かされることがたびたびあった。 そして重臣会議に口を出したことのない妻が口を出した。慎み深い妻が我慢できなくなったように、だ。 そこは女の出る幕ではないと配慮のできる妻が。エンガイは迷った。するとそこに妻の援護射撃をする者が出てきた。 「恐れながら私も奥様と同意見でございます」 ムロクだ。彼の席はエンガイの隣のため夫婦の会話が聞こえたようだ。エンガイが意外そうにムロクを見ると彼は躊躇いがちに言った。 「昨晩、占ってみたところハヤト族の星回りがひどく悪いのです。いいえ。それだけではありません。南は今、最も方角が悪いのです」 その頃には三者の会話は重臣にも聞こえていた。すると誰かが呟いた。タイガード族は南部に住んでいる・・・。 重臣の何人かが少し不満げに言った。ムロク殿はこれまで占いで数々の重要なアドバイスを与えてくださった。 だが今回の降雨量の少なさは実際問題で占いの介入する余地は少ないと存ずる。またハヤト族の星回りが悪いとおっしゃるが雨の危機だってなんとか切り抜けられたし族長は今が一番の男盛り。 多少の運の悪さなど族長は屁でもござらん。重臣達はほとんどが同盟に賛成のようだった。だがホリーとムロクは依然、懸念した色を浮かべている。 そこでエンガイは折衷案を出した。盟約を結ぶとなれば向こうの長と面談しなければならない。また使者も一度、我が宿営地に来ていただきたいと言っていた。 この際、向こうに行って彼の部族の様子や長の面構えを見てから決めるというのはどうだろう?それを聞いた重臣達は尤もだと頷いた。 だが反対した二人は浮かぬ顔をしていた。数日後、留守はムロクに任せ心配する妻を残してエンガイ一行はタイガード族の宿営地目指して旅立った。
それからエンガイら一行がハヤト族の宿営地に帰営したのは約一ヵ月後だった。一行は向こうに着くなり熱烈な歓迎を受けた。 ほとんど交流がないにも関らず草原で音に聞こえた勇者エンガイが会いに来てくれた。大変、光栄だなどと向こうの族長グレート・トールから褒めちぎられた。 応接会場の天幕に案内されると豪勢な料理が溢れるほど並べられ席につけば両側の美女が杯に酒を注ぎ続ける。 両部族の座の向こうには舞台が設えられ、そこで何人もの美女がしなやかで官能的な踊りを披露し旅芸人と思われる一座がとっておきの芸を演じる。 夜遅くになって宴はようやく終わった。と、思えば翌日、起きて少し経つとすぐにまた新しい宴が始まる。 エンガイはまずトールと腹を割って話がしたかった。だがなし崩し的に宴会が続けられて中々その機会がなかった。 宴会は終始、向こうのペースで進められ、ようやく会談に漕ぎつけられたのは帰営する前日という有様であった。 連日のもてなしにさすがにエンガイも疲れていた。トールらタイガード族の重臣はその疲れに付け込みエンガイ一行を褒めちぎるものだから正常な思考などできず盟約の話はとんとん拍子で進んだ。 エンガイが正常な状態ならなぜ交流の無いタイガード族から熱烈なもてなしを受け、急ぐように同盟を結びたがるのが不審に思ったことだろう。 だが強い酒で酩酊し、美女の舞踏は催眠効果でもあるように目が回った。そして帰る頃には盟約の礼と称して大量の進物まで贈られた。 帰途エンガイはともかく重臣らは大喜びで南はこれで安心だと話し合った。そしてハヤト族の宿営地ではエンガイ一行帰営の報告を受けたホリーやムロクが迎えに出た。 ホリーはそれまでずっと一行の身を心配していたが帰営の報にほっとした。だが一ヶ月ぶりに見た夫の顔を見てホリーは眉根を寄せた。 いつも溌剌としていたエンガイの表情に精気がなく目の下に隈までこさえている。だが会談は上首尾だったようで笑顔が浮かんでいた。 ホリーは懸念を隠し笑顔で夫を迎えた。エンガイは族長らしく留守中、異変はなかったか妻とムロクに訊く。 彼女は夫を早く休ませようと天幕に促した。茶の用意などは従者に任せホリーは天幕の外でムロクを呼び止めた。 「ムロク。あの人の疲れようをどう思う?笑顔を浮かべてはいたけれど・・・」 ムロクは考え込む様子で言った。 「言いづらいことですが悪い兆候です。族長がまとっていた覇気がほとんど失われております。私は心配です」 「やはりあなたもそう見たのね・・・」 二人は宿営地を吹き抜ける冷風に身を震わせ、懸念した様子で曇り空を見上げた。
エンガイは休んでくれと頼むホリーの言に耳を貸さなかった。天幕に入ってからも上機嫌で会談の様子を話した。 族長のグレート・トールは容貌魁偉だが気持ちの良い男で武人として通じるものがあった。向こうの生活はこちらと同じで質実剛健で浮ついたところがない。 また商取引も月に何度かすることになり互いに納得する交換比率になった。いい取引ができそうだ、とエンガイはホリーとムロクに語った。 エンガイはいつもは言葉少ない。必要最低限のことしか喋らない。だがこの時は違った。饒舌といえるほどよく喋った。 もちろん伝えるべきことがあるのは確かだがそれにしてもよく喋った。やがてホリーにはその理由がわかった。 ホリーとムロクは勘や占いという理由からタイガード族の宿営地に行くのを反対していた。だがエンガイが行く決定を下したのでやむなく従った。 だがそれでも出発直前までエンガイの身を心配していた。だから帰営後のエンガイは彼らの心配は杞憂だったと伝えたくてあえて饒舌に語っているのだ。 夫の気持ちはわかったがその表情には疲れの色が濃く残っている。額や首筋に嫌な汗も浮かんでいる。 口にこそ出さないが体調が明らかに悪いのがわかる。ホリーが嫁いでからこれほど夫の悪い姿を見たことが無かった。 エンガイは常に若者に負けないほど頑健だったのだ。喋るのを止めて早く休んで欲しかった。ホリーは夫に気づかれぬようムロクに目配せした。 ムロクはすぐにホリーの考えを察しエンガイを休ませるため仕事が残っていると言って天幕を出た。 そうしてホリーはまだ話し足りない様子のエンガイをいつもより大分、早い時刻から寝かせた。灯りを消してもエンガイは中々、寝付けないようだった。 寝返りを繰り返す。ホリーはそれを感じて気が休まらなかった。そして横になったまま夫が回復するよう天に祈った。だがホリーの祈りも虚しく異変は深夜に起こった。
ホリーは夫と同じように中々、寝付けなかった。だが目を閉じていたことでいつの間にか眠ってしまった。 そしてどのくらい時間が経ったのだろうか。深夜ふと低い唸り声を聞いたような気がした。ぼんやりした頭の中で思った。 外にいる番犬が狼か何かに唸ってでもいるのだろうか・・・。また唸り声が聞こえた。その時はっとなった。 外からじゃない。声は天幕の中から聞こえたのだ。意識が急速に覚醒して目を開けて横を見た。暗闇の中エンガイが胸元を苦しげに押さえているのが透かし見えた。 ホリーは驚愕して上体を起こした。 「あなた!」 その声に息子達も目を覚ましたようだ。あちこちで身を起こす気配がする。ホリーは急いで夫に近づき、その背を摩った。 「どうしたの、あなた?胸が苦しいの?」 エンガイは答えなかった。いや意識がないのかもしれない。その時ぱっと天幕内に灯りがついた。テムが気をきかせて点けたらしい。テンとサールも父の傍に近寄る。 「父上!?どうされたのです!」 だがエンガイは苦しむだけで何も答えられなかった。ホリーが息子達にムロクを呼んでくるよう命じようとした。 ムロクは部族の補佐役であり占い師であり薬師なのだ。だがその時にはテムがもう外に駆け出していた。 家族でエンガイを摩っているとやがてムロクがやってきた。そしてエンガイを見るとその目はやはり・・・と語っていた。 ムロクの目に絶望的な色が浮かんでいたがそれでも頼まずにはいられなかった。 「ムロク!夫を助けて!」 ムロクは厳しい表情で頷くと早速エンガイの診察に入った。
族長の天幕で起こった騒ぎはすぐに部族民の知るところとなった。元々、草の民は耳がいい。草原の向こうからやってくる敵の馬蹄に一刻も早く気づかなければならないからだ。 ムロクが治療したり薬を用意するため慌しく天幕を出たり入ったりしたせいもある。そして今、族長の天幕にはエンガイ夫妻とムロク、従者しかいなかった。 テンら息子達は治療の邪魔になるからといって追い出されたのである。だが三兄弟は不安そうな表情で天幕の傍を離れようとしなかった。 エンガイが急病とのことで部族民も遠巻きにして天幕を眺めている。アズらも騒ぎを聞きつけて客人用天幕から出てきた。 そして緊張状態にある宿営地を見て驚き、近くの部族民に何事か訊いた。アズは話を聞き終えると自分の天幕をじっと見つめる三兄弟を見た。 父が急病なのだ。ひどく心配なのだろう。何か声をかけてやりたかった。だが何も思いつかなかった。 それにアズはテンに嫌われている。声をかけたら逆効果のような気がした。天幕の中では今もムロクの治療が続けられているらしい。 アズらも心配して寒い中、彼らと一緒にそこに立ってエンガイの回復を祈った。そしてそれから一時間ほど経っただろうか。 疲れた様子でムロクが出てきた。それを見て兄弟や部族民らが駆け寄った。 「ムロク!父は!父は回復しそうなのか!」 「ムロク様、族長のご容態は!」 するとムロクは手を上げて部族民を制した。 「静まれ!族長の体に障る」 そして兄弟に目を向けた。 「お父上が呼んでおられます」 兄弟は急いで天幕の中に入った。天幕の中は炉の勢いが無くなって大分、薄暗くなっていた。その傍らでエンガイが目を閉じて横になっている。 エンガイは少し前まで苦しげに喘いでいたのに今はとても静かな、いや静か過ぎるほどのか細い呼吸になっていた。 また頭のところにはホリーがいてエンガイの額や首に浮いた汗を拭いている。テンは母の顔を見てはっとなった。 労わるようであり、どこか諦めたような表情をしていた。弟達も何か感じたらしく入り口で立ち尽くした。 ホリーがテンらの様子に気づくと表情を引き締めて言った。 「お父様から、いえ族長からお話があります」 父からではない。一族の長として話があるのだ。兄弟は母の隣に居住まいを正して座った。ホリーがエンガイの耳元に囁くように言った。 「来ましたよ」 するとエンガイが薄目を開けた。 「来たか・・・」 その声はいつもの、何キロに渡って響き渡るような威のある声ではなかった。 「テン。サール。テム。わしはもう逝かねばならなくなったようだ」 兄弟が愕然となった。予想していたことではあったが実際、耳にすると衝撃が走った。サールが言った。 「何を弱気な。少し体調を崩されただけではありませんか。何日か休めばきっと以前のようになられます」 エンガイが少し顔を歪めた。笑ったようだった。 「わしの体のことはわしが一番わかっている。どうやら天命がつきたらしい」 サールがなおも何か言おうとした。するとその腕が強く掴まれた。見るとテンが無言で顔を小さく横に振っていた。エンガイの弱弱しい声が聞こえた。 「・・・テムよ」 テムがエンガイを見た。彼はどんなことにも落ち着いて対処してきたが今回ばかりはそうはいかなかった。泣き出すのを必死に堪えている。 「テムよ。お前は三男だ。わし無き後よく兄達を助けてやってくれ。お前と違って二人はあまり考えず行動してしまうきらいがある。 若者らしいといえばそれまでだが性急さで命を失うことがある。助けてやってくれ」 テムが涙ながらに頷いた。 「次に・・・サール」 サールはもう嗚咽を漏らしていた。エンガイがそれに気づいて苦笑する。 「たわけ。親の死に目に会えて喜びこそすれ取り乱す奴があるか」 「ちっ、父上ぇぇぇ!」 「良いか、サール。お前は息子の中で一番、血気盛んだ。草の民は勇猛な者を好む。だが勇猛さを逆手に取られ姦計にかかって命を落とした勇者も多い。 お前には思慮深い兄と弟がいる。よく兄弟の言うことを聞くのだぞ」 サールが号泣して頷いた。 「最後に・・・テン」 テンが父の顔を覗き込んだ。 「お前は・・嫡男だ。わしが・・わしが死んだら・・一族をお前が・・束ね・・導かねば・・ならん。それが・・できるか」 テンはうろたえた。確かにいずれ自分が族長の座を引き継ぐものだと思っていた。だがそれはまだ五年十年は先のことだと思っていた。 それがまだ二十歳になったばかりの自分の双肩にいきなりのしかかってきたのだ。荷は重い。重すぎる。またエンガイの声が聞こえた。 「どう・・なのだ?」 ホリーがエンガイの声を聞いてはっとなった。そしてこれまで見たことのないほど表情を厳しくしてテンに言う。 「族長が問うておられるのです!すぐ答えなさい!」 テンもその時、気づいた。父から急速に命の火が消えようとしていることを。テンは涙を堪えて叫ぶように言った。 「ハヤト族はきっと俺が守り通します!族長におかれましては安心してお休みください!」 「よくぞ・・よくぞ・・言った」 エンガイは必死に意識を保とうとしているようだった。エンガイがホリーに目配せした。ホリーは頷いて息子達に言った。 「話は終わりです。あなた達は部族をまとめる責任があります。今すぐ外にいる民に安心するよう言ってきなさい」 兄弟は出て行けと言われたが躊躇った。今、去っては親の死に目に会えない。だがホリーに命じられ仕方なく外に出た。 すると少し遅れて従者が出てきてアズを呼んだ。テンは訝った。なぜ一族ではない余所者が呼ばれる? アズもその時、戸惑っていた。だが愚図愚図していられない。天幕から出てきた者の様子からエンガイの命が永くないことがうかがえたからだ。 すぐ天幕の中に入った。ホリーはアズを見ると天井を見たままのエンガイに何か囁いた。だがエンガイは答えない。 意識が混濁しているのがわかった。命の火が消えようとしている。アズは痛ましい想いでエンガイを見た。 だがエンガイの魂は現世でやり残したことがあるらしく再び舞い戻ってきた。 「・・アズ・・・アズよ」 ホリーに手招きされて彼女の隣に座った。アズは小声だが腹に力を込めて言った。 「ここにいるぜ、エンガイさん」 エンガイの声はか細く、恐らく常人には聞き取れなかっただろう。だがアズには一言一句はっきりと聞こえた。 「アズよ。我がハヤト族の客人よ。そなたとは奇妙な縁があった。そなたが来る前、卦が出たのだ・・・」 そりゃ、なんだい?と訊こうとしたがエンガイが続けたので口を差し挟めなかった。 「・・・卦は我が部族に良き人間の到来を告げるものだった・・・そしてその占いの通り、そなたが現れた。 占いの通りならきっとそなたは一族の役に立ってくれるはず・・・」 何を言っているんだ?アズは困惑してホリーに目を向けた。だが彼女にも夫が何を言いたいのかわからぬようだった。 「・・・あの日、我らは狩りをしに草原に出た。雲一つない絶好の狩り日和だった。それがどうしたことか灰色の雲がどこからともなく現れて空を覆い、骨の芯まで凍えさせる突風が吹き抜けて我らを馬から突き落とそうとした。 草原の草は何か良くないことが起こるのではと恐怖に慄いたように身を倒す。あの時、確かに草原は恐怖に打ち震えていた。 だが天を覆った厚い雲に一筋の切れ目ができた。そこから日の光が差し込むのを見た時、希望はまだ失われていないことを悟った。 そんな時だ。メギルに襲われていた、そなた達を見たのは」 アズは頷いた。何が言いたいのかまだ見えないが確かにあの時の天候は不順だった。 「わしはそなたを見た時、背筋に電流が走った。この男だ!この若者こそ我が一族の、いやテンの助けとなる!とな」 アズは戸惑った。どうしてそうなる?だがエンガイの直感はそう告げたのだ。それは彼にしかわからない。 「アズよ。外の民の旅人よ。あの時わしらはそなた達を助けた。その礼にとは言わん。が、ここに留まって我が息子、テンを補佐してもらえまいか」 アズは驚いた。恩返しするのはいい。手助けするのもいい。勇者の族長を失ったハヤト族はこの後、大変だろうから。 色々あるが一番の懸念は敵対部族が好機とばかりに襲ってくることだ。腕に覚えのあるアズらは戦力になるだろう。 だが自分がテンの補佐をするというのは困惑を隠せない。テンは農耕民族の自分を嫌っているからだ。 戦士としての協力はいいとして他のことへの助言に彼が耳を貸すだろうか。いやとてもそうは思えない。アズの躊躇いを感じたのかエンガイは必死に言った。 「あれの補佐を長いことしてくれとは言わん・・ガーンになるまで・・いや一人前の・・族長になるまでで・・いいのだ。 あれのことだ。きっと長くはかからぬ。頼んだぞ・・ア・・ズ・・」 ホリーがはっとなってエンガイの目を覗き込んだ。テンの補佐のことで頭が一杯になっていたアズはエンガイの様子に気がつかなかった。 だが彼の気配がいつの間にか消えているのを感じて愕然となった。二人は必死に彼に声をかけた。だがその時にはエンガイの魂は天に召された後だった。
ハヤト族の宿営地にひっきりなしに人の出入りがあった。草の民のようだ。ハヤト族と似た様な衣服を着ている。 が、同じ部族ではない。それもいくつもの部族が来たようで様々な特徴ある衣服が見られた。彼らは喪服に身を包んでエンガイの葬儀に訪れたのだった。 僧による読経は早朝に済んだ。後はしばらくして出棺するだけだった。族長の天幕の中に棺が置かれていた。 中にはもちろんエンガイの遺体が安置されている。またその傍には故エンガイの家族他重臣が沈痛な面持ちでいる。 そこに弔問客が痛ましげな表情で訪れて彼らに悔やみの言葉を述べる。弔問客は次々に訪れた。 まるで草原中の族長か、その代理がやってきているのではないかというほどの数だった。その長蛇の列を見ればエンガイが生前、草原で多くの信望を集めていたことがわかる。 だがその中には招かれざる客も含まれていた。宿敵メギル族である。さすがに族長のラッダは来なかったが代理をよこした。 その弔意が本心からならいい。だが代理は厳粛な表情でいたものの、宿敵エンガイの死に喜びを隠しきれない様子が垣間見えるようだった。 テンらはその代理を斬り殺してやりたいと思ったが、もちろん葬儀中にそんな非礼は許されない。俯き歯を食いしばって耐えた。 またテンら兄弟とは違ってホリーを激怒させる代理も訪れていた。タイガード族の者である。エンガイはタイガード族との会合の後、急に苦しみ逝った。 これは毒を盛られたとしか考えられない。だが証拠が無い。それに自分が毒殺説を諸部族に訴えても未亡人で女のため相手にされないかもしれない。 いやハヤト族の力が弱まっている今、証拠も無しに騒ぎ立てるのは得策ではない。それを口実にタイガード族が襲ってくるかもしれない。 ここは自分の胸一つにしまっておくしかない。その時、知らずに歯をギリギリと噛み締めていたようだ。 隣のムロクがその音を聞いてホリーに目を向けた。そして彼女の視線がタイガード族に向けられているのを見る。 ムロクは弔問客に気づかれぬようホリーの袖を引っ張り囁くように言った。 「奥方様。取り乱してはいけません。彼らが毒を盛ったという証拠はないのですから」 ホリーははっとなってムロクに顔を向けそうになったがかろうじて堪えた。そして囁き返した。 「あなたもそう思うのですか?」 「十中八九そうであろうと。ですがそれを口に出してはいけません。出せば血気盛んな若様達は必ず復讐に出ます。 もちろん今の若様達では狡猾なトールやラッダ、私はラッダもこの件に噛んでいると疑っております、には勝てません。どうか抑えて機をお待ちください」 ホリーは尤もなことだと自重することにした。やがて弔問が済んだので出棺となった。遺体は僧侶によって野に置かれ鳥葬になる。 父の出棺を見送りながらテンはムロクに訊いた。 「人は死んだらどうなる?」 ムロクは重々しく言った。 「天になるのです」 「天に?俺の名と一緒だな」 テンは空虚な笑みを浮かべた。するとムロクが厳しい表情で言った。 「笑い事ではありません。若様のお名前。どうして天と同じ響なのか。その意味を考えられたことはありますか?」 テンは訝しげな表情になった。やがてはっとなって言った。 「まさか・・まさか父上は天と同じ意味を込めて・・・」 「その通りです。偉大なお父上は騒乱が収まらない草原を見て嘆き、これは天の力を借りるしかないとお考えになられました。 そして天のご加護を受けて諸部族を治めるべき人間になられるよう、若様をテンと名づけられたのです」 「父がそんなことを願って・・・」 その時テンの両目から初めて涙がこぼれた。それまで次期族長として涙を見せず最後まで毅然として葬儀を執り行うと気を張っていたのだ。 だがムロクの話を聞いて堰が決壊したように涙を止められなくなった。俯いて我慢しようとしても次から次へと涙が溢れてくる。 いけない。まだ弔問客は帰りきっていない。すると彼の涙を隠すように前に誰かが出た。サールとテムだった。二人は前を向いたまま言った。 「俺達は父上が亡くなられた時、取り乱してすぐ泣いた。族長の息子だっていうのに本当に情けない。 そこにいくと兄者はさすがだった。最後まで取り乱さず葬儀を取り仕切った。もういいんじゃないか。もう泣いたって父上は許してくれるだろう」 テンは俯いたまま静かに泣いた。もうあの大きな手で頭を撫でられることも背中をどやされることもない。 もうあの絶対的な存在感の父に頼ることもできない。大きな喪失感があった。心細かった。悲しみが大きすぎて胸が引き裂かれてしまいそうだった。 だが彼には母も弟達も、そして部族民がいた。父は何も残していかなかったわけではないのだ。父上、どうか天より俺達を見守ってください。 どこまでやれるかわかりませんが父上の願ったように草原を鎮められるよう務めます。
長かった葬儀もようやく終わった。弔問客が全員、帰ったので後片付けを始めることにした。といっても葬儀は鳥葬なので遺体を墓に収めるわけではない。 墓も造られるわけでもない。その遺体も僧侶がどこか安置できる場所に運び去ってしまった。葬儀用道具を元の場所にしまうだけでよかった。 テンらが部族民を労い、後片付けの指示を出しているとアズらの姿が目に入った。アズらは今や部族民にすっかり打ち解けてその仕事を手伝っている。 テンは未だここに留まる彼らに不快感を持った。だが亡き父が留まることを許可したのだ。ただ目障りというわけでは追い出せない。 その時ふと父の今際の際のことを思い出した。なぜ父は最期を看取るべき息子達を天幕から追い出して余所者のあいつ、アズを呼んだのだろう? あの時の不審と不満が甦った。そして忘れる前にそれを母に訊いておこうと思った。母は父の最期を看取った。 父がアズを呼んだ意図も知っているだろう。父が逝ってその後すぐ葬儀の準備や実行で静かに母と話をする時間はなかった。 また母もここしばらく表情を硬くしてとても質問できる雰囲気ではなかった。だがもういいだろう。そういえば葬儀の半ばから、なぜか不機嫌のままでいる。 表情こそいつもと変わらないが息子であるテンにはわかった。母に何があったのか。まだしばらくデリケートな質問をぶつけるべきではないのかもしれない。 仕方なく後日にするかと目を転じた時ムロクの姿が目に入った。そうだ。ムロクならこの不審を解いてくれるかもしれない。 彼は前族長の補佐役で知恵者だ。問題が起こった場合、彼のところに持ち込めば大抵は解決してくれる。 早速、彼にこの疑問をぶつけてみた。するとムロクはアズを見て次に遺体が運び去られた方向に目を向けた。 そしてそのまま考え込むように黙った。テンはしばらく待った。だが中々、口を開かない。それで仕方なく催促した。するとムロクは遠くを見たまま言った。 「・・・私も同席したわけではないので。これはあくまでも推測ですが・・・」 「推測でもなんでもいい。教えてくれ」 「少し前、前族長は私に部族の未来を占わせました。その時ある人物の到来を告げる卦が出たのです」 勘の良いテンはそれを聞いて察した。 「ひょっとしてその人物というのは・・・」 ムロクが頷いて言った。 「さよう。アズのことです」 するとテンが不審そうに言った。 「ちょっと待った。どういう卦でアズだとわかったんだ?卦はいつも漠然としていて具体的なことは何一つわからないじゃないか。 専門家のあんたを疑うわけじゃないが根拠を聞きたい」 ムロクは記憶を探るように目を閉じて言った。 「占いにはこう出ました。ハヤト族は次の世代になっても無事、存続する。その代の族長も立派な人物になれる。 ですがエンガイ様が望まれた、諸部族をまとめる人間になるには補佐役が必要になる、と」 「補佐役?あんたのことだろう」 「違います。私ではありません」 テンは顔をしかめ気に入らない様子でアズを見た。 「本当にあいつなのか?」 「その通りです。彼のことです」 「なんで余所者のあいつが」 「卦にはこう出ました。その者は目に炎あり、顔に輝きあり。そして彼は東南からやってくるだろう、と」 テンは考え込みながら言った。 「・・・確かにあいつは東南から来たと言った。だが目に炎?顔に輝き?強壮な者なら大抵そんな顔をしているぞ」 「違います。強壮な者のことではありません。若様にはまだおわかりにならないのです。経験を積み苦労されれば心の奥底から発する光、インナーライトが見えるようになります」 「インナーライト?そんなもの見えなくても人を見る目はあるつもりだ」 テンは気分を害したようにムロクから離れた。そしてまたアズを見たがすぐに目を逸らした。何が補佐役だ。 俺には兄弟がいる。母だってまだ健在だ。余所者の助けなど要らん。 次に族長の引継ぎ儀式が行われた。先祖に族長が代わったことを報告するのである。族長への就任は重臣らの支持が必要だ。 明確な支持数は決まっていないが有力な重臣の支持は不可欠である。それがないとたとえ族長の嫡男でも認可されない。 だがテンの場合、父のエンガイがあまりにも偉大すぎた。エンガイは部族民に気を配ることはもちろん、他族にまで保護援助してやることがあった。 なのでほとんどの重臣はエンガイに恩義がある。そのためその息子であるテンが族長としてふさわしくないと思ってもそれを胸にしまいこんだのである。 そうやって無事、儀式は終わった。テンは儀式中、偉大な族長の後を襲うということで強い緊張感を憶えた。 たがそれが終わるとほっと崩れるように肩の力を抜いた。重臣らが族長就任の祝いを次々に述べた。 テンは笑顔で頷き重臣らを労った。族長の天幕に戻って家族だけになると兄弟の間で安堵の笑みが交わされた。 するとそこに冷水を浴びせるような声がかかった。 「テン。いやテン族長。気を抜いてはいけないよ」 母ホリーだった。テンら兄弟がどういうことか尋ねるとホリーは厳しい表情で言った。 「バタバタしてたから言う機会がなかったけど。この間ムロクから報告があったんだ。葬儀中にメギルの使者が隣り合わせた人や帰り際、近くにいた人に目立たぬよう言って回っていたんだってね」 サールが訝しげに訊いた。 「メギルは何を言って回ったんだ?」 その時テムがはっとなって言った。 「メギルはハヤトの宿敵。そしてこれまでは父上のせいで随分、痛い目に会ってきた。その障害が取り除かれた。となると次に打つ手は・・・」 テンもようやく気づいて言った。 「俺達は前の族長を失ったばかりで動揺している。討つなら今、と他の部族を唆したわけか」 ホリーが表情を引き締めて言った。 「外の部族にだけじゃないよ。メギルはうちの部族民にも悪意を吹き込んでいった」 兄弟が見るとホリーはテンだけを見て言った。 「テン族長に部族をまとめる力はないってね」 テンが激昂した。 「ふざけやがって!面白い。俺に力がないかどうか見せてやろうじゃないか!」 サールも興奮した様子でテンに言った。 「やるのか、兄者!いや族長。メギルを討つのか?」 テンが強く頷いた。するとホリーが叱るように言った。 「馬鹿だね、この子は!」 だがすぐに今のテンが族長になったことを思い出して、ばつが悪い表情になった。そんな母の心情に気づいてテンは言った。 「いいんだ。母さん。俺はまだ族長としては未熟だ。言いたいことを言ってくれ」 「わかったよ。家族のみの時は馴れ馴れしい言葉で言わせてもらうよ。今あんたがやるべきことは戦うことじゃない。 部族をまとめること。固く団結させること。族長の世代交代はいつも部族民の心が動揺する。これまでは安心だったが新しい族長は大丈夫だろうか。 やっていけるのだろうか、とね。だからあんたはまず部族民を安心させねばならない。あんたがとても頼りになることを印象付けるんだよ」 テンは緊張した面持ちで頷いたがすぐに不安そうに呟いた。 「でも・・どうやったらいいんだ?俺が頼りになるって」 サールが母を気にしながら言った。 「やっぱり戦しかねえんじゃねえかな?」 テムが首を横に振った。 「確かにそうだけど、まずはテン族長に皆が心から従うか確かめなきゃ」 テンは末弟を頼もしく思いながら訊いた。 「弟よ。どうしたらいいと思う?」 「民と触れ合うこと。そして腹を割って話し合い、彼らの声に真摯に耳を傾けること。提言があったら放置せずその後ちゃんと回答してみせる。それが信頼に繋がると思う」 テンは大きく頷いて言った。 「よくわかった。弟よ」 それで家族の雰囲気が和んだ。その時テンらは気づかなかったが天幕、外側の入り口で何者かが佇んでいた。 ムロクだ。彼は天幕に入ろうとした時、室内の緊張した雰囲気に足が止まった。そして意図せず室内の会話を聞いた。 一家の話が終わるとその場を後にした。その表情には微笑が浮かんでいた。 「・・・一言、族長の気構えや部族の運営など助言しようと思って来たが・・・あれなら大丈夫だ。私の出る幕はない」
次の日からテンは弟達を引き連れて部族民の天幕を一つづつ回った。何か困ったことはないか。私に対して何か言いたいことはあるか。 部族には序列がある。族長一家をトップに重臣、戦士、工人、従属というようにだ。基本、族長が意見を求めるのは重臣達だ。 その下の身分に重要な問題を諮ることはない。だが今は部族民全員にテンが頼りになる族長と認めさせねばならない。 なので下層民にも積極的に声をかけ意志の疎通を図った。族長自らの訪問に下層民は恐縮したが同時に感激した。 新しい族長も自分達、下層民のことをちゃんと考えてくれるようだ、と。尤もこれはエンガイも行っていた部族掌握の方法で親に倣っただけとも言える。 だがテンは勇者エンガイとは違う。父以上に民を気遣う必要があった。だがやはりというか、もしくはメギルに唆されたというべきか表では従うふりをして裏ではテンを頼りないと見る者も少なくなかった。 そういう意見の者は密かに集まり囁き合った。先代の頃は安心だった。草原でも音に聞こえた勇者だったからだ。 どんな敵が襲ってきても恐れることはなかった。だが今の族長で本当にやっていけるのか。ハヤト族は草原でも指折りの強族だ。 族長が代替わりしたとはいえ、その強族を倒せば名が上がる。もし他の強族が襲ってきたら今のハヤト族は持ちこたえられるだろうか。 もちろん新族長になったとはいえ剽悍な部族民はそのままだ。新族長を抜きにしてもある程度、戦えるだろう。 だが戦というものは率いる者の力量で違ってくるものなのだ。いくら強者の集団とはいえ、その首領が無能では格下に敗れることもある。 テン族長はまだ二十歳。部族をまとめるには心許ない。一族を率いて戦った経験もない。東には宿敵メギル族を抱えたままだ。 先日、同盟を結んだ南のタイガード族を当てにしたいところだが盟約は一代限りのもの。つまりそれはグレート・トールとエンガイ、二人が存命すれば活きる盟約。 どちらかがいなくなれば盟約の効力は失われる。なので救援を求めても応じてくれないかもしれない。 それどころかハヤト族が弱体化したのを見て逆に襲ってくる可能性さえある。ハヤト族は本当にやっていけるのか・・・。 テンらはそんな一部の者の不安も知らず毎日、部族民を鼓舞して回った。だがそういう不安な気持ちが部族民の心に澱のように溜まっているのは空気で察せられた。 部族民は族長の自分に完全な信頼を置いていない。そう感じたテンは部族民を慰撫すべく巡回を多くした。 だが若さやまだ実績がないという理由から中々、思うようにはいかなかった。テンは少し前、弱り果ててムロクに助言を求めようとしたことがあった。 だがホリーに止められた。部族民をまとめるのは族長の仕事。その他の問題ならいいがこの問題だけは己の力だけで解決しなければならない。 それにこの問題でムロクに協力を求めたことが部族民に知られればやはり族長に力はないと思われる。 テンは自力でなんとかするしかなかった。そしてその時、彼の窮状を見て、助けになりたいと思った者がいた。 アズだ。だがテンはアズから助力を申し出られても決して受けないだろう。アズは嫌われている。それに何をすればテンの助けになるのかアズ自身もわからない。 だが見ていられなくなってテンに助力を申し出た。結果はやはり予想したものだった。それどころかテンは自らの弱さを余所者に見られた恥辱でかっとなった。 「助力など必要ない!同情も必要ない!それより悪いがもう出ていってくれないか。見ての通り、俺達はあんた達をもてないしている状況じゃないんだ」 テンは激情にかられて叫ぶように言った。だがすぐ後悔した。自分を心配してくれる者に言うべき言葉じゃなかった。 だが謝る気にもなれず、きまりの悪さから背を向けた。すると後ろでミーシャの声が聞こえた。 「おい、アズ。族長は要らぬお節介は迷惑だと言っているんだよ。止めとけ」 「しかし・・・」 するとサスケの声もした。 「いいからこっち来いよ、アズ。族長の邪魔をしちゃ悪いってよ」 彼らの冷たい視線がテンの背中に突き刺さるようだった。テンは居たたまれなくなってその場を後にした。
そこは草原の北東にある、メギル族の宿営地。族長のラッダはその時、間者の報告を受けていた。間者はエンガイの葬儀後、精神的物理的支柱を失ったハヤト族がどうなるのか。 彼の部族の宿営地近くに潜んで動向を見張っていた。 「ほう。ハヤト族はまだ離散しとらんのか。部族民は早々にエンガイの息子を見限って出て行くと思ったが・・・存外しぶといな」 ラッダは思案するように山羊髭をしごいた。だがすぐにまた間者に質問した。 「それで部族民の雰囲気はどうだった?テンめは何をしている?」 「ハヤトの民は将来に対して不安を隠しきれないようです。表面的には落ち着いて見えますが何かあると動揺が垣間見られます。 それをテン族長が必死に慰撫しています。新族長に最後までついていくと表明した者もおりますが答えを保留している者やどちらともとれる発言をする者も少なくありません」 ラッダは満足げに頷いた。 「さもありなん。テンめの力は未知数だからな。うかつに未来は託せんといったところかの」 すると傍聴していた近臣の一人が強く進言した。 「族長!好機です。未だ離散していないとはいえ、それは形だけ。奴らの心はもうバラバラです。この機に襲撃して奴らを殺戮し家財を略奪しつくしてやりましょう!」 そうだ、そうしましょう!と他の重臣もその意見に賛同した。メギル族はこれまでハヤト族には散々、苦汁を舐めさせられてきた。 それが弱体化し、とうとう反撃の機会が訪れたのだ。いきり立たないはずがない。興奮して族長に詰め寄る気配を見せた。それをラッダが両手を広げて制した。 「待て待て!静まれいっ!愚か者どもが!」 ラッダの一喝に重臣らは黙った。ラッダは彼らに言い聞かせるように言った。 「良いか。これは確かに好機だ。襲撃すれば殺戮や略奪は容易に成し遂げられるだろう。だが衰えたとて奴らは草原で音に聞こえた剽悍のハヤト族だ。 指揮する族長が無能でも殺されるとなれば必死に抵抗する。それではこちらも少なくない損害が出る。 ハヤト族のそれはさらに大きいだろう。それでは困る。わしは根こそぎハヤト族を吸収したいのだ。エンガイがいなくなったハヤト族は強い族長を求めておる。 わしらが手を下さんともハヤト族は自然に瓦解する。そこにわしが出て行って保護を約束してやれば奴らは一も二もなくメギル族についてくるだろう。これがわしの狙いだ」 すると彼の補佐役が冷静に付け加えた。 「それにトール殿への礼も考えねばなりません。あの時の密約ではハヤト族吸収後、彼らの家畜の多くをタイガードにくれてやることになっていました」 ラッダが頷いた。 「その通り。無理に襲撃すれば少なくない数の家畜が失われるかもしれん」 多くの重臣は納得した顔つきになったが一人だけそうではない者がいた。 「族長のお考えはわかりました。では当分、何もしないおつもりなんで?さっきの報告ではテンめは必死に部族を掌握しようとしているようですが」 すると補佐役も思案する顔つきになってラッダに顔を向けた。 「尤もな意見です。どうされますか、族長?」 ラッダは虚空に目を向けて山羊髭をしごいた。 「そうよな・・・」
ハヤト族の宿営地にメギル族の使者がやってきた。テンはその頃も変わらず部族民の掌握に心血を注いでいた。 だが部族民の信頼を完全に勝ち取れたとは言いがたい。彼の悩みは深かった。そんな時に使者がやってきたのだ。 それも長年、争ってきた宿敵だ。テンは気が立った。こんな時になんの用だ?戦ならこちらも望むところだ。 だが草原の戦は申し合わせてやるものではなく大抵、一方の突然の襲撃から始まる。尤も部族連合を組んだ大がかりなものは例外だが。 そのため使者は別の用件で来たものと思われた。部族民の好奇の視線が集まる中、使者を天幕に入れて口上を聞いた。 内容はこうだった。まずはテン殿の新族長就任、お祝いを申し上げる。これでハヤト族も安泰と諸部族は安堵したことだろう。 だが最近の風の便りによるとハヤト族内はあまりうまくいっていないとのこと。新族長の威令は民に届かず民は将来への不安で心休まる時がない。 民の心が一つになっていない部族はどうなるか?言わずともおわかりでしょう。離散するか、その噂を聞きつけた敵に早晩、壊滅させられる。そこでサールが疑い深い顔で口を挟んだ。 「虎視眈々と狙っているのはメギルだろう」 すると使者は残念そうに首を横に振った。確かにこれまで当部族と貴部族の仲は悪かった。誤解による戦が何度もあった。 だが本来、両族は同じ祖先を持つ身。争うのは愚かというもの。そこでラッダ族長は考えました。草原では弱き者を討っても良しとされる。 だが相手は同じ祖を持つ隣人。それでいいのか。そんな戦友が他族に蹂躙されるのを黙視してよいのか。 いやいけない。隣人に手をさしのべるは武人の務め。テンらは意外な方向に持っていかれる話に眉を潜めた。 そして最後に使者の述べた言葉にとうとう驚きの声を上げた。 「ラッダ族長は決断しました。同じ祖から別れた両族はこの機に恩讐を越えて合流すべきだ、と。これは祖先が作った機会なのだ、と」 「なんだって!?」 サールが激昂して立ち上がった。 「ふざけるな!これまでさんざん襲撃、略奪を繰り返しておいて何が恩讐を忘れて合流しろ、だ!勝手なこと言ってんじゃねえ!」 テムが頷いた。 「同感。これまでの戦、こちらは守るだけで討って出たことはない。こちらは一方的な被害者だ」 テンも弟達以上にこれまでのメギルの横暴を咎めてやりたかった。だが族長としての責任感が彼の激情を抑えつけた。 族長となったからには取り乱してはいけない。熟慮して冷静な意見を吐かねばならない。すると弟達だけでなく重臣達もメギルの非を咎めた。 使者はラッダが心を入れ替え、誠意を持ってハヤトを迎えると必死に説明した。しばらく言い争いが続いた後、一瞬間が空いた。その機を逃さずテンが言った。 「そちらが我が部族を受け入れて、いや両者が合流して差別なくこれまで通りの暮らしをしようというのはわかった。だが問題が一つある」 使者が怪訝な顔になった。 「それはなんです?」 「族長をどうするのかという問題だ」 すると使者は笑みを浮かべて言った。 「しばらくはラッダ族長とテン族長の二頭体制ということになりましょう。部族に問題が起こった場合、重臣達で討議するのはこれまで通りとして最終的な判断はお二方のご相談ということで」 テムが首を横に振った。 「まったく信じられない。これまでのラッダ族長のやり方を見れば一目瞭然だ。一例を挙げればそちらの族長就任時、謀略で兄弟を追い落として族長になった。 またうちとの戦でも姦計をめぐらせたりしてきた。このまま合流すればハヤト族はどんなひどい扱いになるかわかったもんじゃない」 「その通りだ!」 サールが賛同した。重臣らも疑念を露にした者が多い。しばらく弟や家臣らの反応を見ていたテンは頷いて使者に言った。 「聞いた通りだ。折角の申し出だがこちらは気が進まない者が多いようだ」 使者は粘るように言った。 「本当にそれでいいのですか?瓦解してからでは、他族に襲われてからでは遅いのですぞ」 すると重臣の中に不安そうな表情を浮かべる者がいるのにテンは気がついた。やはり自分への信頼は確たるものになっていないのか・・・。だがテンは気を取り直して使者に言った。 「もしそうなってもそれはこちらの問題。メギル族の気にするところではない」 使者はそれ以上、何も言わず一礼すると天幕を出て行った。 メギル族の使者が去った後も重臣達は族長の天幕に残った。そして皆で話し合った。メギルは殊勝そうに元は同根の一族だとか、こちらが心配だとか言っていたが真の狙いは何なのか。 いや合流と言っておきながらメギル族のハヤト吸収合併なのは間違いない。合流後、少しの間はハヤトの民を差別なく遇するだろうが徐々に取り込んでいって最終的には隷属民に仕立て上げる気なんじゃないのか。 それとも安心させた後、女子供以外は皆殺しにする意図でもあるのではないか。重臣達の不審は根深いものだった。 だが一部ではメギルを信じる意見もあった。メギルは祖先が同根だという説を固く信じていると聞く。 案外、心配してるというのは本当かもしれない。それに罠に嵌めて皆殺しにするという意見があるが果たしてそうだろうか。 我々は戦力になる。天候不順が続く今後、草原では牧草地を求めて争乱はさらに広がると見られている。 だから彼らも戦力は喉から出るほど欲しいはずだ。我々を粗略に扱えまい。メギル信用派が諄々と説くと考えを変える者が出てきた。 テンの見るところメギル信用派は明らかにテンの族長としての力量を危ぶむ者達である。またメギル懐疑派の中にもそういう者がいるのを感じる。 この際、自分を信用していない重臣を見定めてやろうとテンは口を出さず会議を見守った。だがその前に邪魔が入った。 天幕の中に若い部族民が急いだ様子で駆け込んできた。重臣の一人が額に血管を浮かべてその若者を叱った。 「会議中だぞ!時と場所をわきまえんか!」 だが若者は後方を指差して言った。 「大変なんです!メギルの野郎が、あの使者が皆を集めて演説しているんです!」 「なんだと?」 テンらが急いで天幕を出て若者に案内させるとさっきの使者は宿営地の端で十数人を相手になにやら熱っぽく語りかけていた。 「あの野郎!人の土地でふざけたことしやがって!」 サールが怒って止めに行こうとした。するとそれをテンが止めた。 「族長、なぜ止める!?」 テンは冷静に言った。 「奴が何を言うのか。それでメギルの狙いがわかるかもしれない」 サールはなるほどと納得した。向こうでは使者が演説を続けている。 「・・・故エンガイ族長は他に類を見ない勇者であられた。エンガイ殿の威光は草原の隅々にまで行き渡り彼を恐れ敬わない者は一人もいなかった。 だが残念ながら彼はなくなられた。ハヤト族は今後どうすればいいのだろう?」 するとハヤト族の一人が声を上げた。 「俺達は族長が変わってもずっとこのままだ。草原一の強族だ!」 使者は頷いた。 「確かに一人一人のハヤト兵は変わっていないだろう。だが族長はどうかな?新族長のテン殿を辱める気はないが諸部族はエンガイ殿と比べるのではないか?」 さっきの部族民は口ごもった。 「それはまだテン族長はお若いから・・・」 「草原は甘くない。いやこれからもっと牧草地争いで過酷になっていくだろう。お若いからと成長を待つ余裕が果たしてハヤト族にあるのだろうか?」 聴衆の顔に不安の色が広がった。それを確認した使者は安心させるように言った。 「だから我がラッダ族長はハヤト族のことを心配してこの試練の時を共に乗り越えようと提案したのだ」 聴衆の中に納得した様子の者が出てきた。使者は続ける。 「ハヤト族は良い牧草地を持っている。これを虎視眈々と狙う部族がいる。おっと。勘違いしないで欲しい。 メギルにだって良い牧草地はある。ハヤトの牧草地が急いで必要な他族とは違う」 頷く者がさらに増えた。 「近年、我らメギル族とハヤト族は心ならずも不和の関係に陥った。だが祖は同根という伝承がある。 そして何よりも隣同士だ。なのになぜ戦い合う間柄になってしまったのか?いつから?どんな理由で? 仲違いの原因を明確に説明できる者がいようか。いや一人もいまい。だったら仲直りの道を模索すべきだ。 そしてそれは草原の荒れた今がその機会なのではないか。今こそ両族、力を一つに合わせ敵の侵略を打ち払う時ではないのか!」 サールは話の途中から怒りでぷるぷる震えていた。そしてもう我慢できないといった様子で走り出した。 「ふざけやがって!」
部族民は不意に後方から聞こえた怒声にびっくりした。振り返った。するとサールが猛然と駆け寄ってくるではないか。皆はばつが悪そうに下を向いた。 「おい、お前ら!敵の演説をありがたそうに聞いているんじゃねえ!」 使者は悪びれず胸を張って言った。 「何もハヤト族に害のある話をしていたわけではないのです。皆様方が少し不安そうにされていたのでラッダ族長の提案を聞けば少しはそれが解消できるかと思いまして」 「それはまず重臣達で検討すべきことだ。勝手なことすんじゃねえ!」 使者はサールに一喝されたが肩をすくめて去った。テンは部族民の様子を見た。皆、不安そうに考え込んでいる。 それを見て危ぶんだ。メギルの提案は間違いなくこちらの結束を揺さぶるものだ。固く団結しようとしているところに不安を煽ってまとまらせないようにしてきたのだ。 テンはすぐに民に呼びかけた。 「みんな、聞いてくれ!メギルの提案を聞いたと思うが大変、危険な話だ。俺達は自力でもうやっていけない、自分達の身さえ守れないと侮っているんだ。 俺達をいかにも心配しているよう見せかけているが奴らの腹など見え透いている。俺達のものをすべて略奪しようとしているんだ。 人も家畜も牧草地もすべてだ。騙されてはいけない。こういう時こそ団結を強化しなければならない。皆、俺を信じてくれ!」 部族民達は力なく頷いた。その表情からは不安や疑念は消えていなかった。メギルの植えつけた不安と疑念の種は間違いなく彼らの心に根付いた。 テンはその根を取り除く作業をじっくりとやって逆に自分への信頼に変えてやろうと思った。だがその芽の成長はテンの予想を上回っていた。 テンはそれからも部族民との対話を心がけ彼らの希望を聞きハヤト族の展望を熱っぽく語った。だがメギル族使者の来訪後、宿営地から姿を消す部族民が続出した。 最初それはほとんど目立たない数だった。だが日を追うにつれて確実に増えていった。さらに草原の各地で戦が聞こえてくるとその離脱数は加速した。 そしてふと気づいた時にはハヤト族の宿営地にはテンら一家とその従者家族、アズらの天幕だけになっていた。 テンらは人気のなくなった宿営地に呆然と立ち尽くした。少し前までは数え切れないほどの天幕が張ってあったのに今では十にも満たない。 意気盛んなサールもその寂しい光景を見てさすがに肩を落とした。 「ほとんどいなくなっちまった。ムロクでさえ・・・」 部族の補佐役ムロクは故エンガイが最も頼りにしていた重臣だった。テンが若くともムロクが補佐すればまだハヤト族はやっていける。 そう期待していた民が多かった。だが離脱民が加速して勢力が衰えるとそのムロクもいつの間にか消えてしまった。 テンらは言葉もなく立ち尽くした。アズはそんなテンらを慰めたくなった。テンは部族をまとめるのに必死でそこに励ましの言葉を言っても逆に煩がられるだけだろう。 そう思ってこれまでは心の中だけで応援してきた。だがこうなってしまったからにはもう遠慮は要らない。 この苦境に耐えるテンに精一杯、励ましの言葉を贈った。だがテンは頑なに耳を貸さなかった。それどころか激情にかられたように拒否された。 「もう放っておいてくれ!一々、煩いんだよ!なんでそんなに俺を苦しめる?お前はメギルの回し者か!」 するとテムが急いで兄を諌めた。 「族長。アズは族長を心配して最後まで残ってくれているんだ。いくらなんでもそれは言いすぎだよ」 だがテンは頑なに前言撤回しようとはせず向こうを向いたままだ。アズは困ったように立ち尽くした。 「テン・・・」 するとサスケが険悪な顔をテンに向けたままアズの腕を引いた。 「もうわかったろ、アズ。いくら言ってもこいつには届かねえよ。こいつは族長として誰の話でも耳を傾けるとかなんとか調子のいいこと言ってたけど所詮その器じゃねえんだよ。 心配して残ってやっているのに逆に邪魔者扱いだ。もうそんな奴を心配してやる必要はねえよ」 それを聞いてテンははっとなった。誰の話でも聞く。確かに自分はそう言った。だが実際はどうだったか。 民の真摯な意見は耳から耳に抜けてしまっていたのではないか。結局、自分のやりたいようにしかしてこなかったのではないか。 それに部族民は絶望して出て行ってしまったのではないか。愕然と考えているとアズの躊躇いがちな声が聞こえた。 「だけどさ。今テン達は困っているんだ・・・」 ミーシャが呆れたようにアズに言った。 「前々から思っていたがてめえは馬鹿なのか超がつくほどのお人よしなのかわからねえ。今サスケにも言われたろ。何を言ったって邪魔臭がられるだけだって」 アヒムも困ったように言った。 「お前の気持ちはわかるが今は逆効果のように思える。残念だが」 アズは三人に説得されてようやく宿営地を出る気になった。このままテン一家の傍にいても逆にお荷物になるかもしれない。 戦でもあれば別だが草原での生活に自分達はあまり役に立てない。だがそれでもエンガイとの約束が気になった。 彼は言った。テンを助けてやってくれ、と。だがサスケらの言う通り今の腐っているテンの傍にいても逆効果かもしれない。 サールやテムはアズらに対して何か言いたげな表情を見せた。だが族長の兄がアズらを拒絶したのだ。 引き止めることはできなかった。アズは後ろ髪引かれる思いで宿営地を後にした。
その頃タイガード族、族長の天幕では二人の男が酒を酌み交わしていた。大柄で顔中髭面の男、タイガード族族長のグレート・トールが満面の笑みを浮かべた。 「悪いのう。約束したこととはいえハヤト族の家畜のほとんどをこちらによこしてもらって」 山羊髭の男、メギル族族長のラッダが首を横に振った。 「何を言われる。憎きエンガイを葬れたのはお主のお陰。当然のことだ」 「まぁお主も離散したハヤトの民を追いかけてほとんど吸収したというし・・・お互様ということかのう」 二人はうまそうに酒を飲んで笑う。しばらく最近の戦や草原の勢力関係について話し合った。そして酒に強い二人の頬が大分、赤らんできた頃トールが話題を変えるように言った。 「ところで・・・なぜエンガイの遺児達を殺さない?もうハヤト族の宿営地に残っているのはあの一家だけなのだろう?」 「わしも一時それを考えた。そこで重臣達に諮ったところ、それは得策ではないという結論に落ち着いた」 「ほう。どういうことかな?」 「わしの目的はハヤト族の吸収合併にあった。それはほぼ達成した。エンガイの家族は始めから除外していた。 エンガイの家族は脅威でないものの、多少の求心力がある。あの者達をを引き込めばいずれエンガイ並の影響力を持たないとも限らん。 だがかといってすぐ殺すのも躊躇われた。そんなことをすれば吸収したばかりのハヤトの民が離反する恐れがある。 テンを見限って部族を離れたがエンガイへの恩義をすぐには忘れられまい。後味の悪い思いをしている者は少なくないだろうからな。 まぁお主が気にかけるのはわかるが心配なかろう。あ奴らは部族民から見放された。たった数人で何ができる。いずれ野垂れ死にするさ」 ラッダが愉快そうに酒を煽った。だがトールは懸念した表情を崩さなかった。 「果たしてそうかな?あの勇者エンガイの息子だぞ。虎の子は虎だ。それに証拠はないはずだがエンガイの死を不審に思って我らを疑い、我らを襲ってこないとも限らん」 ラッダが侮ったように言った。 「あの兄弟はまだ子供だ。長男のテンがようやく二十歳といったところ。子供に何ができる。それにそれまで生きておればの話だ。 一家族となった奴らはこれから草原の飢狼どもに襲われることになるだろう。運良く生き残れたとしてもやつ等が大人になる頃には旧ハヤトの民は完全に我が一族と化しておる。 その時になって復讐を叫んでも旧ハヤトの民は応えまい。証拠もない」 「うむ・・・」 トールはラッダの見通しに頷きはしたものの、なお懸念の色を顔に浮かべていた。ラッダはそれを見て少し気分を害した。 「そんなに気になるのなら勝手にするがよかろう。タイガード族が遺児達を襲ってもメギル族は関知しない」
テンら家族と従者家族は部族民が去った後、生活に窮した。生活の糧となる家畜は部族民にほとんど持ち去られてしまった。 そのため今は約十頭ほどしかいない。テンら二世帯を養うのには少なすぎる数だ。草原の民の生活に家畜は欠かせない。 羊や牛は飲み物になる乳を絞り出せ、羊の毛は紡いで衣服にする。またその肉は常食するので蓄えもなければいけない。 テンは部族を再結集させるという目的以前に生活の問題をなんとかしなければならなかった。立ち去った部族民のほとんどが今、メギル族の宿営地にいることが風の噂でわかっている。 ならば家畜もそこに運び込まれたことになる。メギルに所有権を主張しても返してはくれないだろう。 力ずくで取り返そうにも今の孤立した、小勢力にもならないテンらでは不可能だ。家族や従者達は口にこそ出さないがテンを頼りにしていた。 まだ若いが何しろあの勇者エンガイの息子だ。経験がなくてもエンガイに負けない、大きな器量がいずれ現れるだろう。 そう期待していた。そしてテンはそんな皆の期待をひしひしと感じていた。そんなある時それに耐え切れなくなって天幕から飛び出た。 このまま彼らの視線に晒されたら責任感に押し潰されて気がおかしくなってしまいそうだ。天幕から少し離れたところで座り込んだ。 そして弱り果てた様子で草原を眺める。すると少ししてホリーがやってきた。生活問題、解決の催促かと思ってうんざりした。 自分だってなんとかしたい。だがなんの解決策も浮かばないのだ。少し身構えてホリーを迎えると彼女が何かを差し出した。弓だ。ホリーが懐かしむように言った。 「家畜が痩せ衰えて食べ物が減った時あの人はよく部族民を連れて狩りに行ったもんだよ。ハヤト族は弓の達者が多かったからね。いつも狐や兎をたくさん捕ってきてくれたもんさ」 それを聞いてテンは目の前の濃い霧が晴れたような気がした。そうか!狩り!自分も父について何度も狩りに出て獲物を仕留めた。 その時は大抵、戦がない時で軍事訓練の代わりだった。だが狩り本来の目的は食糧確保にあった。 いつも軍事訓練で狩りを行っていたのでそのことをすっかり失念していた。テンの表情が明るくなったのを見てホリーは北を見た。 北には宿営地からそう遠くないところに低い山脈が連なっている。 「私もそういう時あの人だけに苦労させたくなくて考えたもんさ。女だって狩りくらいできる。でもね。ハヤト族の傍には山があったのさ。 山には木の実が落ちている。運が良ければ小動物だって捕れる。そうやって父さんと母さんはピンチの時をしのいできたのさ」 テンは力強く頷いた。 「わかったよ、母さん。男を集めて早速、狩りに行ってくる」 食糧不足は家族、従者全員の努力でなんとか見通しはついた。降雨量が減ったため草原の獲物はかなり減っていた。 また山の木の実も小動物が食べてしまって中々、見つからなかった。だがその日その日の少ない成果を皆で分け合ってなんとかしのいだ。 家畜も短い草を食べてなんとか露命を繋いでいる。食糧は少ないながら安定してきて生活全般を見る余裕ができた。 そして検討した結果この人数でもなんとかやっていけるような気がした。だがそこにまたしても悪運がテンらを襲った。 草原には部族からはみ出した者や追放された者が少なからずいる。彼らは生きるために必死で弱者を見れば容赦なく略奪する。 そしてこの時はテンらがターゲットになった。以前のハヤト族なら強大でそんな者達の標的になることなどありえなかったが今や凋落した身である。 ハゲタカどもは遠くからテンらの隙を狙っていたというわけだ。だがその時はまだ運が良かった。テンら男衆が狩りに出かけたのを見計らってハゲタカ達は宿営地に残った女衆を襲った。 だが彼女達は男顔負けの弓使いでもある。抵抗などあるはずがないとたかをくくっていたところ迎撃されたのでハゲタカ達は驚いた。 だが所詮、女であり数はこちらのほうが多い。じっくり攻めれば勝てる。そして狩りのため少ない武器を男達に持っていかれた女達は次第に劣勢となっていった。 その頃、草原では久しぶりに雨が降っていた。最初は小雨だった。それが続いたのなら狩りを止めなかっただろう。 だが次第に本降りとなりそのカーテンに遮られて周囲が見えづらくなった。空を見上げれば灰褐色の厚い雲が重く立ち込めている。 これでは狩りにならない。テン達は帰営することにした。これが女達を救った。テンらはゆっくりと馬を進ませた。 やがて宿営地に近づいたところで勘の鋭い彼らは異変を嗅ぎ取った。宿営地のある方向に荒々しい戦いの気配を感じる。 最初は敵対部族の襲撃かと愕然となった。だが遠くから敵をよく見定めると二三人から五六人の小集団が所々から連携もせずバラバラに攻撃している。 彼らの衣服を見ればみすぼらしく一目でハゲタカの浮浪民だとわかった。あれなら今の戦力でも充分、撃退できる。 安堵したテンは男衆を二手に分け、時を見計らい側面と後方から一気に襲い掛かった。ハゲタカ達は奇襲に腰を抜かさんばかりに驚愕し武器を放り出して逃げた。 うまくハゲタカを撃退できた。だが損害も出た。急いで逃がしたのに家畜を数匹、盗られ商取引に使おうと思っていた毛皮なども無くなっていた。 ようやく生活のメドが立ったと思ったらこれだ。テンらは暗然となった。だが族長としての責任感がテンの気を取り直させた。 皆を鼓舞して宿営地の再建に取り掛かった。天幕は破られ家財はそこらに散乱していた。家畜も北の山のほうに逃げさせたものはすぐ見つかったが北以外に逃げたものは探し出すのに苦労した。 サールは不機嫌な様子で倒れた天幕の傍に落ちている家財道具を拾い集めた。しばらくして彼と同じようにしている兄に言った。 「今更だけど。やっぱりアズ達にいてもらったほうが良かったんじゃないかな?」 テンは答えなかったがその背は強い後悔を現していた。サールは作業に戻ると声のトーンを落として独り言のように言った。 「・・・ハヤト族を復活させるにもまず自分達の身を守らなきゃならないんだからな」 するとテンが何か言ったように聞こえた。だがその声は小さくて聞き取れなかった。サールが兄に訊いた。 「今なんて言ったんだ?」 テンは作業を続けながらサールを見ずに言った。 「・・・俺もあいつらに取った冷たい態度は悪かったと思ってる。部族民が次々に去っていく中であいつらだけは俺達を心配して最後まで残ってくれていたのに。 余所者なのにさ。でもさ。あの時はあいつがうっとおしくてしょうがなかったんだ。部族への責任感で押し潰されそうだった。どうかしてたんだよ、あの時は」 後悔した声だった。耳をそばだてなければ聞き取れないほど小さな声だった。サールは兄の苦しい心情を思いやってその横顔から目を逸らした。
生活はまた苦しくなったがこれも天から与えられた試練だと気を入れ替えた。これまで自分は族長の息子として勇者の子供として安全な立場でぬくぬくと安逸な日々を送ってきた。 このぬるま湯に浸かった生活がずっと続くものだと思っていた。父に従って戦に出たことはある。実際に敵とも刃を交えた。 だがそこには常に父の保護があった。間違ってテンが殺されないよう父の旗本衆が弓で援護していた。 自分の力でやってきたんじゃない。すべて大人達のフォローがあったのだ。それに気づいても気づかぬふりをしていた。 フォローなんかなくても自分一人の力でできる。だが一人で何かに挑戦することはなかった。実は自信がなかったのだ。 恐かったのだ。虚勢を張っていたのだ。大人に甘えていたのだ。今の窮状はそのツケが回ってきたのだ。 だから弱音は吐けない。すべて自分で蒔いた種なのだから。テンは部族民から信頼を得ようとした。 だがうまくいかなかった。力量がなかったせいだ。人徳がなかったせいだ。それがようやくわかってきた。 無いのに有るように振る舞うのはもうよそう。無いのを正直に打ち明けて、ついてきてくれるよう頼むのだ。 テンはまず家族や従者から信頼される男になろうと決意した。
厳しい生活を送っていた時、一人の男がやってきた。最初はまたハゲタカの襲撃かと身構えたが一人なのと敵ではないことを示すように手を振ってやってきた。 男が近づいてくるにつれてその容貌がはっきりしてきた。するとホリーが首をかしげて言った。 「あれは・・・ムロクの従者じゃないの」 テンらは驚いて男を見た。そして男はテンらの前に来ると懐かしげに表情を和らげた。 「お久しぶりでございます。テン族長。皆様方」 テンらはどう判断していいものか困惑した。部族の補佐役だったムロクは他の部族民と同じようにテンら一家を見捨てて出て行った。 ムロクの罪を叱責したいところだが彼はただの従者なのでそうするのはお門違いだ。また主人の犯した罪に悪びれてもよさそうなものなのに、なぜか笑顔を見せている。 一体、何をしにやってきたのか。テンは不審そうに訊いた。 「何しに来たのだ?ムロクはどうした?」 すると従者は表情を引き締めて言った。 「主人から伝言があります」 一同は従者に注目した。伝言は短いものだった。 「タイガード族に気をつけてください。以上です」 一同は困惑した。タイガードといえばエンガイが同盟を結んだ相手。だが盟約は一代限りが常識なのでエンガイ亡き後、同盟は解かれたはず。 それに気をつけろとはどういうことなのか。明らかに良い意味ではない。テンはそのことを彼に訊いた。 だが従者はムロクからそれ以上のことは言付かっていないと首を横に振る。仕方なく今度はムロクの行方を訊いた。 従者はハヤト族の宿営地を出る前の状況から語った。ムロクはどんなことがあろうとも新族長を支える気でいたという。 だがテンを見限って離脱する計画を立てていた部族民から密かに打診を受けた。部族を離れた後のリーダーになってくれないか、と。 ムロクは考えた。彼らの要請を断るのは簡単だ。だがそれでも彼らは部族を離れるだろう。その頃には部族民の離脱は加速していて勢力低下は最早、避けられないものになっていた。 自分の願いは強いハヤト族の復活。その基盤となる部族民がいないのでは話にならない。ならテンが再起して離散した部族民に再結集を呼びかけた時、彼らを率いて戻れるよう、ここは彼らと行動を共にすべきだ。 そう考えた。そういうわけでムロクは多くの民と旅立っていったのだ。途中、運悪くメギル族に捕まってしまったが。 メギルはその時ムロクに迫った。ここで死ぬかメギルの民になるかの二者択一を。いずれはハヤト族に戻るつもりでいる。 なら生きねばならない。本心を隠してメギル族になることを受け入れた。また共にハヤトを離脱した民は自分達を率いるムロクがエンガイの補佐役だったこともあり、いくらか厚遇されるという打算もあった。 だがメギル族の宿営地ではそんなことお構いなしに旧ハヤト族という立場で冷遇された。従者が涙ながらに語り終えるとテンは納得した。 「そうか。ムロクはいつでも再結集できるよう、みんなと行動を共にしたのか・・・」 ホリーが嬉しそうに言った。 「やっぱりムロクはあの人から受けた恩義を忘れていなかったんだね」 サールが後悔したように呟いた。 「ムロク。疑ってすまなかった」 皆がムロクの思い出に浸っているとホリーが言った。 「それはそうとタイガードのことだよ。あのムロクが意味もなく伝言をよこすはずがない。しかも敵地にいるというのに。よっぽどのことに違いないよ」 テンが訝しげに言った。 「でも俺達、こんなに落ちぶれてんだぜ?襲ってくるかな?」 サールも困惑した様子で言った。 「略奪するものもほんの少ししかないしな」 皆が顔を見合わせて困惑したがホリーだけは別の考えを持っていた。あの人はタイガード族との会合から帰った夜に急に苦しんで死んだ。 証拠はないが明らかに毒殺の疑いがある。もしかしたら向こうはこの子達が復讐に立ち上がるのを恐れて先に手を打つつもりなのかもしれない。テンが皆に言った。 「とにかく仕掛けてくる可能性があるなら準備をしとかなきゃな。浮浪民に襲われた前例もある。防衛体制をしっかりと作っておくんだ」 テンらは早速、計画を作った。宿営地傍の高台に必ず見張りを順番制にして一人、置くこと。襲撃されれば逃げることになるだろう。 襲撃者がまさかテンらより少ないということは考えづらい。安全に逃げ込む場所はどこにするか。各対策を細かく詰めた。
そして数日後、高台に立てた見張りが早くも役に立った。その日、見張りに立っていたのはサールだった。 サールは勇猛なだけでなく遠くのものが見え遠くの音が聞こえる。良い戦士の条件だ。そのサールが南から舞い上がる砂埃を発見した。 まだ遠いから確かじゃないが砂埃の規模からして百人は下らない集団だと思われた。またその正体不明の集団は友好目的などではないだろう。 それなら疾駆してくるはずがない。サールは急いで高台から下りて宿営地に急を告げに走った。そしてそれを知ったテンは南のほうを見た。 まだ遠くで小さな砂埃が巻き上がっている程度のことしかわからない。もしかしたら敵じゃないかもしれない。 狩りに来ていた他族がたまたまハヤト領に迷い込んだだけかもしれないし、ひょっとしたらゆっくり走っているのにそこが乾燥地帯のため予想以上に砂埃が上がっているだけかもしれない。 テンは注意して砂埃を見た。その時、父の言葉が甦った。姿形を見るのではない。感じるのだ。危険かどうかを肌で感じるのだ。 テンは謎の集団に焦点を合わせず感じようとした。彼らの発する気を感じようとした。すると曖昧だった感じが次第にはっきりとしてきた。 伝わってきたのは明らかに戦気だった。敵だ!すぐ皆に防御態勢を取るよう命じた。女達が家財をまとめる間、男達は家畜を集めた。 そして皆で北の山に向かう。山にはいつ逃げ込んでもいいようにハヤト族にしかわからない間道が開発されてあった。 騎馬民族なので男だけでなく女も馬に乗れる。嵩む荷物は従者が牛車で牽いている。皆で急いで山に向かった。 テンは一行の周りを馬で走り回って皆を元気付けた。そして振り返っては敵の様子を逐一チェックする。 やはり向こうは襲撃目的のようだ。速い。見る見る間に距離が詰められてくる。対してこちらは牛車があり家畜も追い立てなければならない。 男に比べると女の馬術はやや劣る。それらの理由から彼我の距離はどんどん詰められていった。テンが危ぶんでいるとホリーが言った。 「牛車はともかく家畜はもう諦めるしかないよ!」 テンもそれを考えていた。家畜は中々、急いではくれない。だが前述したように大切な食糧になる。 だがそれで命を落としてしまっては元も子もない。家畜を追い立てていたテムと従者に放棄するよう命じた。 まだ遅い牛車があるがそれでも全体の速度は上がった。だが目測で彼我の距離を測ると山に逃げ込むのと追いつかれるのはほぼ同時のようにも見えた。 テンは焦って荒っぽく皆を急かした。後方から馬蹄の音が迫ってくる。それはまさに恐怖だった。 「急げ!とにかく急ぐんだ!ええいっ!落とした荷物なんか拾おうとするな!命のほうが大事だろ!」 やがて牛車も放棄せざるを得なくなった。財産のほとんどを捨てた一行はさらに身軽になって速くなった。 すると少しして後方で騒々しい気配が起こった。見ると放棄した家財や家畜に敵の一部が群がっている。 テンはそれを見て思った。そうか。撤退中、追いつかれそうになった時は価値有る物を捨てれば敵の追撃速度を遅らせられる。 一つ策ができたと喜んだのも束の間、敵の首領が怒鳴ってそれを止めさせ追撃に専念させた。テンはそれを見て危ぶんだ。 草の民の戦は大抵、略奪が目的になる。だからそれが達成されれば敵の命までは奪わない。だがこの敵は部下に家財の収拾をさせず、ひたすらテンらを追撃させている。 命を奪おうとしている証拠だ。その後なんとか敵が追いつく前に山麓に着いた。だがその時、入り口を間違えたのに気づいた。 秘密の間道に入る場所はさらに東にずれなければならない。そこまで百メートル以上、離れている。 だがそこまで行く時間がない。距離はもう大分ちじまっている。もうここから登山するしかない。一行は木々の間を縫って馬で行けるところまで行った。 そして次第に斜面が急になってきたので下馬した。そのまま馬を連れて登山する。自分が調教した愛馬だ。 行けるところまで連れていきたい。やがて後方から荒々しい声が聞こえた。麓のほうからだ。敵は山中の闇を透かしてこちらを探している。 距離はまだあまり稼げていないが密生した木々と急斜面ですぐには追いつけない。その時、敵の様子を見ていたサールが呟くように言った。 「敵の旗印が見える・・・黒地に虎の印。どこの部族だ?」 彼の声を聞いたテムが登山に喘ぎながら言った。 「父さんからその旗印を聞いたことがある。タイガード族だよ」 テンは頷いた。ムロクの言った通りだ。
その頃グレート・トールらタイガード族の軍勢は山麓から山中を見上げていた。思ったより木々が密生していて見通しがきかない。 それに木々の隙間から勾配が急激にきつくなっているのが見てとれた。奴らはどこに行った?暗がりを透かし見ているとやや遠くの闇が微かに動くのが見えた。 どうやら敵とはあまり離れていないようだ。だが傾斜が急なので馬では登れないだろう。また不案内な山なので敵の奇襲を食らう危惧も有る。 敵は少人数だ。なのに攻撃を受けて損害を出すのは割に合わない。ここは諦めて引き返すべきか・・・。部下も迷った様子で訊いた。 「族長。どうしますか?」 トールは考えた。少ないが戦果はあった。テンらが放棄していった家財だ。だが少し悔しさもあった。 急襲して一気に宿営地を焼き払い、後の災いとなるかもしれないテンら一家を殺戮する計画だった。 それが充分に近づかない内に察知され素早く逃亡された。だが女子供、家畜を連れた身だ。やがて追いつくと見ていた。 だが思い切りの良さを見せて家財をすべて捨てて身軽になった。そしてとうとうここに逃げ込まれた。 敵の襲撃を見越して予め準備していた。テンや残った家臣の能力の高さがうかがえる。将来、災いの元になる可能性が高い。 やはりここで捕まえおかねば枕を高くして眠れない。トールは全軍に命じた。 「敵の奇襲に注意してゆっくり進め!」 テンは自ら先頭に立って、立ち塞がる枝葉を切り払って道を造った。愛馬も宥めながら誘導するとなんとかついてきてくれた。 その細く険しい道を部族の一行が縦一列になって登ってくる。そして殿にはサールがいて絶えず敵の動向を確かめていた。 テンが進行を遮るように両側から横に突き出た枝を切り払っているとサールの毒づく声が聞こえた。 「くそっ。しつけぇ奴らだ。まだ追ってきやがる」 騎馬民族は普通、馬で進めないところまでは追ってこない。だが敵はこちらと同じように下馬して徒歩で追ってくるという。 これは尋常ではない。テムが困ったように言った。 「敵は俺達の足跡を探し俺達の作った道を進んでくる。だから登るのは俺達より容易だ。ちょっと分が悪くなってきたな」 テンは胸の中で付け加えた。それにこっちは女子供を連れている。だがそれを口に出せば女達が足手まといを気にする。 女子供といっても男と同じように騎馬民族の矜持を持っている。荷物になっていると感じれば死を選びかねない。 急いで道なき道を登っているとやがてホリーが遅れがちになった。彼女は列、中ほどにいたので彼女が停滞すると後列の速度が鈍る。 ホリーはまだ高齢というわけではないが他の者に比べればやはり消耗が早かった。テンらがホリーを気遣いながら登っていくと後方の敵の声が大分、近づいてきたように感じられた。 こちらは女子供を連れている。また一々、枝葉を切り払わねば進めない。対して敵はこちらが切り開いた道を登ればいいだけだから楽だ。 一行の気持ちに焦りが濃くなり始めた。ホリーはなんとか足手まどいになるまいと頑張っていたがしばらくして不意に立ち止まった。 それに気づいた、すぐ後ろのテムが言った。 「どうしたんだ、母さん?」 テンも振り返って母を見た。ホリーはテンを見て決意したように言った。 「あたしはもう登れない。だからここに残る」 テンは驚いて言った。 「何言ってんだ、母さん!?残して行けるはずがないだろう!」 「いいや。あんた達はあたしを残して行かなきゃならない。戦えなくなった者を無理に助けようとしちゃいけないよ、テン。 そんなことをすれば他の者まで敵の刃にかかる。冷徹におなり。あんたは族長なんだよ。部族を守る義務が有るんだよ。 あたしはいい。あたしは戦えなくなった。だから残る」 テンは麓のほうを見た。多くの枝葉に遮られて敵の姿は見えない。だが戦気が着々と近づいてくるのはわかる。テンが躊躇っているとサールが言った。 「族長。母者は俺に任せてくれ。母者一人くらい背負って登れる」 するとテムがサールに言った。 「サール兄者。何を言っている。目と耳の一番きく兄者がしんがりを務めなくてどうする。俺がやるよ」 「馬鹿野郎。ひょろひょろのお前が母者を背負ってこの急斜面を登れるか」 「馬鹿にするな。俺だって男だ。やる時はやる」 そこにホリーが厳しい声で言った。 「あんた達、あたしの話を聞いていなかったのかい。あたしがいちゃ荷物になっちまうんだよ」 テムも負けずと言った。 「だから俺が背負うって言ってんじゃないか」 「馬鹿だね、この子は!そんなことしてたらあんたまでやられちまうじゃないか!」 テンはどうしていいかわからず母と弟達の言い争いを見ていた。少ししてホリーは息子二人を説得できないとわかると溜息をついて言った。 「わかったよ。でもこれだけは約束しておくれ。もう駄目だとわかったら躊躇わず、あたしを置いていくことを」 サールとテムは渋々、頷いた。ホリーが憂いを帯びた顔で付け加えた。 「それとあたしは列の一番後ろにしておくれ。いつでも置いていけるようにね」 とりあえずテムがホリーを背負った。そして最後尾のサールの前に回る。サールの目と耳は必要なのでやはり彼には最後尾で警戒してもらいたい。 準備が整うとサールが先頭のテンに言った。 「さぁ行ってくれ、兄者。母者は俺達が守る」 テンは厳しい表情で部族民に出発を命じた。一行は険しい、道なき道を登る。時には不意に足元が崩れ落下しそうになる。 時には木々の密生度が高く大きく迂回しなければならなくなる。馬はもう随分前に放棄せざるを得なくなった。 その時は下から登ってくる敵の邪魔になるよう道を塞ぐよう置いた。テムは険しい道を母を背負って黙々と登った。 尋常ではない量の汗が彼の額から首筋から流れていた。ホリーはやや太っている。彼女を背負って急傾斜を登るのはかなりきついはずだ。 だが弱音、愚痴を一言も吐かず彼は頑張った。だがやはり体力の限界が来たようだ。ある地点で地面に手をつき激しく喘いで足が進まなくなった。 それを見てテンは足を止めた。するとサールが有無を言わさずテムから母を奪って背負った。テムほどではないがサールも登りながら絶えず後方に注意を向けていたのでテンらよりは消耗している。 サールもテムと同じように潰れるのは時間の問題なのだ。あるいはまだ余力を残している自分が背負うべきか・・・。 テンが考えているとホリーが短剣を出していきなり自分の喉を突こうとした。だがすぐ前にいたテムが気づき間一髪でそれを止めた。 「何をするんだ、母さん!?」 「死なせておくれ!あたしがいたら皆が死ぬ。お願いだよ、テム!死なせておくれ!」 ホリーが必死に訴えた。テンは強いプレッシャーで頭がどうにかなりそうだった。母を自殺させるわけにはいかない。 だがこれ以上、母を背負っていけば他の者が潰れる。敵の気配もさらに濃くなっている。あまり考える時間は無い。 だがどうしていいかわからない。近くの木に頭をぶつけたくなった。どうしたらいいんだ、どうしたら!その時テムがいきなり言った。 「族長、俺達を残して先に行ってくれ!」 テンがはっとして見るとテムは言った。 「やっぱり母者を残しては行けない。残せばまたきっと自殺しようとする。だが確かに母者を背負って登るのはもう無理だ。そこで俺達は別のルートに行く」 テンが訝るとテムが右手を指差した。 「今まで上に登っていたが俺達は横に行ってみようと思う。それならなんとか動ける」 テンは考えた。確かに二人だけなら見つかりずらいし敵は大勢の気配のするこちらを追うだろう。この策はいけるか!?考えたがすぐ決断した。 「母者。自殺は無しだぞ。テム。母者を頼んだ」 テンは情を振り切るように二人から目を離すと部族に出発を告げた。
二人から離れてどのくらい時間が経っただろうか。ふとサールが足を止めて振り返った。少ししてテンがそれに気づいて訊いた。 「どうした、サール」 「今、母者の叫び声を聞いたような・・・」 「なんだって!?」 「待ってくれ。気のせいかもしれない・・・だが気になるな。少し戻って見て来る。先に行っててくれ」 「おい、勝手な行動はよせ!おい!」 止めようとしたがサールの姿はすぐに周囲の木立の中に紛れて見えなくなった。テンは溜息をついた。 仕方がない。留まっているのは危険だ。進むことにした。だが母の叫びを聞いたというのが胸に引っかかった。 だが今更、引き返すわけにはいかない。敵は迫っている。自分の指揮に一族の命運がかかっているのだ。 テンの一家と従者家族は最後まで自分を信じて行動を共にしてくれた。彼らの期待を裏切ることはできない。 そう考えて無心に立ちはだかる枝葉を切り開いていった。そして汗まみれになって息が切れてきた時ふと気づいた。 サールが未だ帰っていない。もう一時間は経っているはず。なのに帰ってくる気配すらない。敵はもうすぐそこまで来ているかもしれないのに。 おかしい。まさか捕まってしまったのか!?愕然と下方を見た。いやサールの耳目は敏感だ。そんな失敗は犯さないはずだ。 気を鎮め後方の気配を探った。だがサールの気配はまったく感じられなかった。その時、別のことで不審を覚えた。 さっきまで迫りつつあった敵の気配まで消えている。どこに行った!?切り開いた道は一本のみ。ここを追ってくれば必ず気配が感じられるはずなのに。 だがそこで胸に希望が湧いた。敵は諦めたのか。従者らも同じ考えらしく明るい表情をテンに向けた。 「族長。敵は引き返したのでは?」 「まだわからんが・・・」 一行に安堵の息が漏れた。だが次の従者の言葉に冷水を浴びせられた気分になった。 「ですがサール様はどうされたのでしょう?」 そうだ、サール!それに横道に行った母者とテム。三人の安否が気になった。テンが懸念した表情で考えていると従者の一人が言った。 「私が見てきましょうか?」 テンは少し考えて首を横に振った。 「いや。これ以上、皆がバラバラになるのは避けたい」 テンはどうすべきか迷った。ここでサールを待つか、少し下りてみるか。いや危機が去ったと確かめたわけではない。 このまま登るか。考えて周囲を見回していると左斜め上に数本の木々が倒れてそこだけ山肌が露出している場所を見つけた。 あそこなら木々に邪魔されず麓の様子を遠望できる。急傾斜は変わりないが倒木に座れば皆に一息つけさせられる。 早速そこに向かうことにした。そして枝葉を切り開いてなんとかそこに着くとまず従者家族を休ませた。 自分は麓を眺める。すると麓付近に一塊の影を認めた。タイガード族だ!テンはサールほど目がきかないが人かものかぐらいは判別できる。 やはり敵は引き返していたのだ。だがそこで不審に思った。なら偵察しに行ったサールが戻って来ないのはなぜだ? ホリーとテムを捜し出すのに手間取っているのだろうか。恐らく彼らは敵の下山に気づいていないだろう。 だがサールは母の叫びを聞いたと言った。不安と期待がごちゃ混ぜになったまま麓を眺めていると山の静寂を切り裂くような大声が聞こえた。 「聞いているか、エンガイの小童!」 一行がはっとなって腰を浮かせた。声は麓のほうからだ。 「エンガイの妻とその息子二人は預かっている。まだ無事だ。だが貴様が下りてこなければどうなるかわからん」 その時、別の声もした。 「下りてきちゃ駄目だよ、テン!」 ホリーの声だ。捕まっていたのか。すると鋭い声が聞こえた。 「止めろ!」 「母さんに手を出すな!」 テンは暗然となった。弟達の声だ。三人が捕まったというのはハッタリではない。それよりさっきの声は何かあったのか。再びタイガード族の男の声が聞こえた。 「さすが勇者エンガイの妻だ。勇ましいな。だが聞こえただろう。言うことを聞かなければ女子供とて容赦はせん。 五分だけ考える時間をやろう。それを過ぎれば貴様は家族を失うことになる」 テンは今にも麓まで駆けていきそうに見えた。従者がそれを危ぶんで引き止めた。 「これは罠です。行ってはいけません」 「だが母さん達が・・・」 「奴らは母君や弟君を助けるとは一言も言いませんでした。族長がその場に行かれればご一家を処刑するかもしれません。そうなればハヤト族、族長の家系は絶えてしまいます」 テンは絶望の呻き声を漏らした。ホリーには時には厳しく叱られたこともあったが概ね温かく育ててもらった。 弟達とは意見の相違や気分でよく喧嘩した。だが心は常に一つだった。一緒にハヤト族を盛り上げていこう、と。 そんな家族を失うかもしれないのだ。落ち着いていられなかった。従者もテン達の温かい親子関係を傍で見てきた。 テンの気持ちは痛いほどわかるはずだ。だがそれでも彼らは言った。 「テン様。どうあっても見捨てることはできないと下山するとします。それをエンガイ様がご覧になったらどう思われるか。お考えになられたことはございますか?」 テンがはっとなって従者の顔を見た。従者は頷いて言った。 「テン様がハヤト族の命運を背負っていなければ最後まで肉親を見捨てなかったと美談になるでしょう。 ですがあなた様はハヤト族の族長なのです。そしてまだ嫡子もおられません。ここで討たれればハヤト族の血を絶えさせた愚か者として後世に汚名を残すことになるのです」 テンが愕然となった。従者が表情を和らげ優しく言った。 「このような難しい場面に遭ったらエンガイ様でも冷静でおられたとは思えません。ですが最後にはハヤトの血を守ること。 これを優先させたはずです。それが族長としての務めなのですから」 テンはそれでも迷った。まだ父を失ったばかりだ。それは突然のことだった。そしてこれから母と弟を失うことになる。 果たしてそれに耐えられるのか。どうなんだ、テン!その時、敵の声が聞こえた。 「時間だ!そろそろ答えを聞かせてもらおう!」 テンがぎゅっと目を瞑り、断りの返事をしようとした。だが瞼の裏に母の顔が、弟の顔が浮かんだ。 「駄目だ!すまん、皆!」 「テン様!」 テンは従者の制止を振り切って道を下っていった。
アズら一行は東に向かって草原を歩いていた。草原に入る前、彼らは荒野を西に向かった。そして迷いに迷ってここに入った。 なので今度は逆方向に向かって草原を出ようとしているのだ。だが少しして早くも失敗したことに気づいた。 彼らは荒野を迷いに迷って草原に入ったのだ。同じ道を辿って荒野に戻れば迷子に逆戻りするだけである。 だがあの時、アズとテンが決裂した時だ。あの時は皆、正常な精神状態じゃなかった。一行はハヤト部族民が離散する中、心配して残ったのにテンに邪魔者扱いされてひどく腹を立てた。 それで旅立つ決心がついた。帰り道を訊く暇なぞなかったのだ。また旅をするための水や食糧を準備することも失念していた。 一行は再び行き倒れ寸前にまで落ちぶれた。このまま草原を出ればもっとひどい状態になる。そうならないためには意地を張らず宿営地に戻って旅の必需品を分けてもらうのが賢明だ。 だが一行は皆、意地っぱりで強情だ。そんな意見はまったく出なかった。だが愚痴だけはよく出た。 「う~。畜生め。水場もねえのになんでこんなに草が生えていやがんだ・・・」 これはサスケだ。 「それはたぶん草の奴がお前に嫌がらせしてんだよ。地中の水分を飲めるんだったら飲んでみやがれってな」 答えたのはアヒムだ。 「てやんでぇ、べらぼうめぇ。いざとなったら土の中にド頭、突っ込んで水を探してやらぁ」 アズが呆れて言った。 「馬鹿なこと言ってんなよ。余計、水が飲みたくなるじゃないか」 ミーシャが冷たく言った。 「馬鹿は死ななきゃなおらないっていうが。死んでからなおっても遅ぇんだよな」 するとどんよりした顔のサスケがぷっと噴出した。 「ちげぇねぇ。死んでからじゃ遅すぎる」 またアズが呆れた。 「お前のことを言ってんの」 一行は水~、食い物~と呪文のように呟きながらとうとう草原の端までやってきた。こうなったら逆ルートを辿ってチュードに繋がる支道まで戻るしかない。 そう力なく相談しながら歩いていた時だった。ふとサスケはアズが何か考え事をしてるのに気づいた。 ひどく懸念した様子だ。食糧や水のことではない。すぐにぴんと来た。 「やっぱり気になるのか。テン達が?」 アズは暗い表情で頷いた。 「ああ。エンガイさんという一族の大黒柱を失ってハヤト族はガタガタだったからな。敵対部族の謀略や襲撃もあるだろうし」 アズが振り返った。その目はもう見えなくなったハヤト族の宿営地を見ているように思えた。サスケも振り返って草原の向こうを見た。 「確かにな。テン達、これからが大変だろうな」 するとミーシャが地面に唾を吐いて言った。 「ケッ。てめえ、あいつからひでぇこと言われたのをもう忘れやがったのかよ」 アズが取り成すように言った。 「だが彼の父は偉大な人だった。あの人から受けた恩義を忘れちゃいけない」 アヒムも頷いて言った。 「忘恩は人の道に外れる」 ミーシャが気に入らない様子で言った。 「ケッ。てめえらには付き合っちゃいられねえよ」 サスケがアズを気遣うように言った。 「今ならまだ間に合う。戻るか?」 ミーシャがとんでもないというように口を挟んだ。 「おいおい!」 サスケが構わずアズに言った。 「おめえの気が晴れるんなら俺っちは戻ってもいいぞ」 アズは迷った様子でハヤト族の宿営地のほうを見た。アヒムが優しくアズに言った。 「お前が迷うのもわかる。テンから出て行けと冷たく言われたばかりだからな。だがこのままじゃ気になって仕方ないのだろう?」 「あいつ、危なっかしく見えてさ。どうも気になるんだよ。あいつの母さんや弟達があいつをフォローしてくれるんだろうけど」 アヒムは微笑して言った。 「なら戻ろうぜ。要は彼らが安全だとわかればいいんだろ?遠くから宿営地を見るとか、行き会った人に彼らの無事を聞くとか。直接、接触しない方法はある」 アズの表情が明るくなった。サスケが言った。 「決まりだな」 ミーシャがうんざりしたように言った。 「てめえらのお人好しぶりには呆れてものも言えねえ」 アヒムが笑って言った。 「ま、そう言うなって」 一行は草原端まで来たが引き返すことにした。草原に道などないが一度、通った方向なので迷うことはない。 気が楽になり足取りは軽かった。そして数日経った頃、前方に何頭もの騎影が見えた。アズらは緊張した。 何しろ初めて出会った騎馬民族はメギル族で彼らはいきなり問答無用で襲ってきたのだ。なので油断はできない。 一行は素早く草原に身を伏せて騎馬の様子をうかがった。するとどうやら狩りをしているのだとわかった。 馬の鞍には獲った兎やキツネなどが括り付けられている。アズは騎手の衣服を見た。草原の民はどこも同じようなものを身につけているように見える。 青や緑色の、足首まである丈夫な上着だ。それを腰紐で縛っている。だがこの部族は明るい色の衣服を好み、装飾品もこれまで見てきたどの部族よりも多く付けている。 どこの部族なのかわからなかった。ハヤトと交流のある部族なら味方だがメギルなら敵だ。アズは判断がつかず困ったように仲間に言った。 「どこの部族かな?姿を見せても大丈夫かな?」 サスケも困ったように言った。 「わかんねえ。俺っち、騎馬民族は全然、見分けがつかねえ」 アヒムも肩をすくめただけだ。するとミーシャがぼそっと言った。 「ありゃあオン族とかいう奴らだ。たぶん」 アズらが驚いてミーシャを見た。ミーシャはぶっきら棒に言った。 「ハヤト族の宿営地にいる時。爺さんから、あの爺さん、なんていったか?そう、ムロクとかいう爺さんだ。 その爺さんから周辺部族の旗印とか特徴を聞いただろ?」 アズらは困惑して顔を見合わせた。サスケが首をかしげた。 「聞いたことあるような、ないような・・・」 アヒムが頭を掻いて言った。 「確かに聞いたような気がするけど。全然、頭に入っていなかった」 ミーシャが大きく溜息をついた。 「ったく、てめえらときたら。ほん~っとに使えねえな」 アズらがしゅんとなっているとアヒムが合点したように言った。 「そうか。元々お前さんは砂漠の民だもんな。砂漠と草原の違いはあるが同じ騎馬民族だ。頭に入りやすいはずだよ」 アズが気を取り直して訊いた。 「で、そのオン族ってのは安全なのか?」 ミーシャが頷いて言った。 「ハヤトと交流があって商取引をよくやっているらしい。闘争的な騎馬民族の中でオン族は珍しく他部族と争わない温厚な部族だって言ってた」 一行はひとまず安心した。そして相談して彼らに身を晒してみようということになった。向こうの数はこちらと同じくらいだ。 予想に反して戦いになったとしても充分、戦える。以前メギルに襲われた時は行き倒れ寸前だったが今はまだ余力も有る。 そしてアズらに気がつくと向こうはすぐに臨戦態勢を取った。アズは大声でハヤト族に関係のある者だと言って戦いの意志がないように両手を上げた。 オン族はしばらく警戒していたがアズらがいつまでも手を上げたままなのでやがて弓をこちらに向けたまま近づいてきた。 そこでアズはエンガイに助けられ、しばらくハヤト族の宿営地にいたことを打ち明けた。オン族はそれでようやく警戒を解いてくれたが不審な顔つきでなぜここにいるのか訊いてきた。 彼らの話ではここはジャドー族とオン族の境界近くだという。そのジャドー族というのはメギルのように危険なのかと危ぶむとミーシャが後ろからそっと教えてくれた。 「その部族も爺さんから聞いたことがある。一応ハヤトと交流があるそうだ」 アズはほっとして話を続けた。故郷に帰る途中なのだがハヤト族のテンのその後が気になっていて様子を知っていたら教えて欲しい。 するとオン族は困ったような顔つきになった。その表情からテンらに何かあったのを察した。アズが重ねてテンらの安否を訊くと彼らは教えてくれた。 ハヤト族長の一家はタイガード族に捕まった、と。アヒムが首をかしげた。 「タイガードって確か少し前にハヤト族と同盟を結んだ部族じゃなかったか?」 アズが驚愕から醒めて答えた。 「それはわからないけど捕まったってことは何かあったんだろうよ」 アズはオン族にハヤト族がどうなるのか訊いた。するとわからないという。だが略奪された形になるので一家は戦利品になる。 良くて彼らの奴隷で悪ければ処刑か売り飛ばされる。それを聞いたアズは狼狽しすぐ仲間に言った。 「これは危ないぞ!すぐにテン達を助けに行かなくっちゃ!」 するとサスケが困ったように言った。 「でもそのタイガード族ってどこにいるんだ?」 すると話を聞いていたオン族の一人が警告するように言った。 「タイガード族は好戦的な部族だ。迂闊に接触するのは危険だぞ」 アズはオン族に訴えかけるように言った。 「エンガイ族長には恩義があるんだ。だから危険でもテン達を助けてやりたい」 するとオン族は仲間同士で話し合った。やがて結論が出たのか一人がアズに顔を向けて言った。 「話はわかった。俺達がそこまで案内してやろう」 「あんた達が?そんなことしたらオン族がタイガード族と揉めるんじゃないのか」 「確かにうちは基本、中立なんだが。実はうちの族長の娘がハヤト族の悲運、というかテン殿の窮状をひどく気にしていてね。助けられるものなら助けたいそうなんだ」 囚われた場所がわかれば手の打ちようもある。アズは彼らに頼んだ。 「よし。案内してくれ」
ミーシャがムロクから聞いた通りオン族は温和で親切だった。アズらは彼らの先導で歩いてタイガード族の宿営地まで行くつもりだった。 だがそれでは時間がかかるということで彼らはアズらを馬の後ろに乗せてくれた。オン族とアズらの一行は東から草原を斜めに横切って南部に向かった。 そして南部奥深くまで馬を進めるとオン族の男達が緊張し始めたのがわかった。うっかりタイガード族に出遭おうものなら大変なことになるといわんばかりに。 ここはもう彼らの領域なのだ。彼らは馬の速度を落とし周囲に絶えず警戒の目を向けた。そして運良くタイガード族に出遭わず彼らの宿営地まで後十キロというところまで近づいた。 オン族の男達はそこでアズらに申し訳無さそうに協力できるのはここまでだ、と言った。やはり部族間の衝突を恐れているらしい。 まだ十キロほどあるらしいがそのくらいなら充分、歩いていける。馬を下りて彼らに礼を言った。オン族の男達はアズらの幸運を祈って去っていった。 アズらは手を振って彼らを見送ると緊張した顔つきで南に向かった。そこはもうタイガード族の領域深くだ。 敵がうようよしていると見ていい。発見されれば逃亡は困難だ。こちらは徒歩で向こうは馬なのだから。 陽が大分、西の空に傾いた。だがまだ見通しはいい。急がず周囲に注意を払っていつでも伏せられるよう進んだ。 そして陽が地平線の縁に到達した頃、一行は前方にある高台を登りきったところだった。また中々、現れない敵影にやや気が緩んだ時でもあった。 その時ミーシャが不意に鋭い声を発した。 「伏せろ!」 一行は驚き慌てて身を伏せた。皆がミーシャを見ると彼は視線を前方に向けたまま前を指差した。すると二百メートルほど先だろうか。 宿営地が見えるではないか。なぜ今まで気がつかなかった!?先に向こうに見つけられたらアウトだった。 背中に冷や汗を流しているとミーシャが声を潜めて言った。 「俺達は高台を進んできたんで低地にいる奴らが見えなかった。奴らが俺達に気づかなかったのはラッキーだった。暮れてきて見通しも悪かったしな」 サスケが唾をごくりと飲み込んだ。そのまま伏せて宿営地の様子を観察した。遠いが生活を営む小さな人影の姿がなんとか見える。 男達は武器の手入れに余念がない。戦を目前に控えているのだろうか?宿営地全体の雰囲気を探った。 いや戦気は感じられない。ということはルーティーンなのだろう。その他を見ると軍馬の調練や武器での組手があちこちで行われている。 生活のための生産的な行為は行われていない。アヒムが納得したように言った。 「こりゃ確かに好戦的な部族のようだ」 サスケがアズに顔を向けた。 「で、どうする、アズ?」 アズは西の空を見た。陽はもう半分以上、地に身を沈めている。夜の帳が下りるのはすぐだ。 「夜を待とう。それからもう少し近づいて様子を見る」
闇が草原を覆った。だが何一つ遮るものの無い草原では夜でも見通しは良い。夜目がきくのならなおさらだ。 晴れていれば星明りで数十、いや百メートル以上先でも見えた。だが草地に身を沈めて近づけば発見される可能性は低い。 一行は這うようにして宿営地に近づいていった。そしてそこまで後百メートルほどまで近づいた時、足が止まった。 宿営地の端に見張りがいる。視線を横にずらしていくとその先にも人影があった。どうやら間隔を置いて何人か見張りが立っているらしい。アズが皆に囁いた。 「これ以上、近づくのは危険だ」 ミーシャが頷いた。 「当然、目の良い奴が見張りをやってんだろうしな。たとえ夜間でも相当、遠くが見えると思ったほうがいい。それと・・・」 ミーシャがアヒムに顔を向けて呆れたように言った。 「それとお前。もっと身を低くできねえのか?」 アヒムが不満そうに言った。 「ちゃんと伏せているじゃないか」 「そのデカ尻をもっと低くできねえのかって言ってんだよ」 「ひどいこと言うなぁ」 アズが同意して言った。 「確かにアヒムは大きいから目立つ。俺達はもう少し行けるがアヒムはもう無理だ」 アヒムは不満そうに唸った。アズが宿営地を観察して言った。 「テン達はどこに囚われているんだろう?」 タイガード族の宿営地の規模は以前のハヤト族のそれに引けをとらないほど広い。なので天幕の数も無数にあるように見えた。 この場所からでは幽閉場所を特定するのは難しい。もっと近づかなければ部族民の天幕なのか捕虜のものかわからない。どう探そうか考えているとサスケが言った。 「よし俺っちが行ってこよう」 皆がサスケに顔を向ける。サスケが言った。 「俺っちは小柄だから潜入しやすい。それに敏捷だから敵に見つかっても逃げ切れる。俺っちに任せろ」 確かに幽閉場所の探索という任務はサスケが一番、適任かもしれない。すると意外な人物からも立候補があった。 「俺も行くぜ」 ミーシャだった。アズらは不審そうに彼を見た。ミーシャは気分を害したように言った。 「なんだよ。俺じゃ危ねえってのかよ?」 アズは口ごもった。 「いや。そうじゃないけど・・・」 ミーシャは小柄ではないが痩身でサスケに負けぬほど速く動ける。隠密行動ならサスケに次いで適任といえる。 ミーシャはアズがテン一家の安否を確かめるため戻ろうというのに反対した。それなのに彼らの幽閉場所を探す危険な任務を自らしたがるのか。 アズがどこか腑に落ちない感じでもぞもぞしているとアヒムが微笑んでミーシャを指差した。 「ミーシャはお前らと同じようにちゃんとエンガイさんに恩義を感じていたんだよ。こう見えて義理人情を気にするたちなんだ、こいつも。 だけど大抵の奴はこいつの冷徹な顔だけで判断する。冷酷、薄情者そうだってね。するとこいつは拗ねて薄情なふりをする。本当は義理堅い人間なのにね」 アズとサスケは彼を意外そうに見た。 「へぇ~。案外いいとこあんじゃん、お前」 ミーシャは仏頂面になった。 「てめえら、何見てやがる。この面がそんなに珍しいのかよ」 サスケがからかうように肘でミーシャを小突いた。 「照れちゃって。可愛いところあんじゃねえか。これからはミーシャちゃんって呼んで・・・いてえっ!?」 アズは暗闇の中ミーシャの拳が舞うのを見た。そして頭を押さえて呻くサスケに言った。 「ふざけすぎだって」 「うう~。ちきしょうめ。いつか仕返ししてやる」 するとアヒムが怪訝な様子でサスケに言った。 「っていうか、お前。ミーシャと一緒に行かなくていいのか?あいつ、もう先に行っているぞ」 サスケが驚いて宿営地のほうを見た。すると少し先に匍匐前進で進む黒い影があった。 「あんの野郎!待て、この野郎!」 サスケが身を伏せて移動していく。やがてその影は前の影に追いついた。だがそこでも悶着を起こしているように見えた。アズは心配した様子で呟いた。 「あいつら、大丈夫かな。あれで」
サスケとミーシャは小声で罵り合いながら草むらに隠れてゆっくりと敵の宿営地に近づいていった。 そして宿営地まで後十数メートルまで来た時、右手のほうから草を踏む足音が近づいてきた。 「おい。誰か来たぞ」 ミーシャが警告するとすぐ後ろのサスケも動きを止めた。 「・・・見つかったか?」 「いや。ただの見回りだろう」 二人が草むらに身を隠して右手を見ているとやがて屈強な男二人が現れた。それぞれ松明を持ち弓を背負っている。 そして宿営地の端に沿って歩いていく。彼らは二人に気づくことなくその前方を通り過ぎ、やがて左手に消えていくように見えた。 二人がほっと安堵して身じろぎした。その時だった。見回りの一人が、ん?と足を止めて振り返った。 草むらに潜んでいる二人は緊張して身を固くした。足を止めた男は訝しげに松明を草原に向けて二人の潜んだ辺りを見ている。もう一方の男が眠たげに訊いた。 「どうした?兎でも飛び跳ねたか」 「何か動いた気がしたんだが・・・」 「だから兎か狐だろ」 足を止めた男はしばらく二人の周辺を見ていた。そしてこちらに歩いてこようとする気配を見せた。サスケがそれを見て懐に手を入れた。 その肩をミーシャの手が押さえる。サスケが見るとミーシャが首を横に振った。足を止めた男がこちらにやってきた。 相棒の男も仕方無さそうについてくる。二人は決して動こうとはしなかった。やがて見回りの男達は足を止めた。 二人との距離は五メートルも離れていなかった。最初の男が緊張を解いて言った。 「・・・気のせいだったようだ」 「だから言ったろ。兎か狐だって」 見回りの男達は戻って再び宿営地の端に沿っていった。二人はそれを見送ると大きく息をついた。サスケが安堵した様子で言った。 「奴ら。結構、鼻がききやがるな。一時はもう戦うしかないと思ったぞ」 ミーシャが表情を引き締めて言った。 「それだけじゃない。奴らの身のこなしを見たか?よく訓練されている」 サスケがうんざりして言った。 「末端の警備兵でさえこれじゃ先が思いやられるな」 ミーシャが頷いて言った。 「確かにな。一層、注意を払おう」 本文3へ |